百五十七
宇宙暦七九六年十月三日 テルヌーゼン
士官学校の創立記念式典は、退屈なものだった。
ヤン・ウェンリー中将は、来賓席で何度目かのあくびを噛み殺していた。隣で、ダスティ・アッテンボローが小声で言った。
「先輩、寝てましたよ、今」
「起きてるよ。目を閉じて、式辞を集中して聞いていただけだ」
「それを寝てると言うんです」
壇上では、母校の校長が、卒業生の戦功を読み上げていた。その筆頭が、イゼルローン要塞の主砲を沈黙させた「魔術師」、ヤン・ウェンリーだった。式典は、半ば、彼を見せ物にするために組まれていた。中将に昇進したばかりの英雄を、母校が放っておくはずもなかった。
ユリアンは、後ろの席で背筋を伸ばして座っている。十四歳の少年にとって、士官学校は憧れの場所だった。
式典のあと、ヤンは校庭で、見覚えのない男たちに囲まれた。揃いの襟章。胸には候補者の名を記した札。
「ヤン提督! ぜひ、握手を」
「テルヌーゼンの未来のために、一枚」
補欠選挙の主戦派候補の支援者たちだった。支援者たちに押し出されるように、当の候補者が進み出て、ヤンの隣に並んだ。ヤンが応じる間もなく、撮影の光が焚かれた。英雄と候補者が並ぶ構図が、選挙のために切り取られていく。ヤンは曖昧に微笑むしかなかった。軍人は、政治に利用される。それを拒む権利を、彼はあまり持っていなかった。
「相変わらず、断るのが下手ね」
声がした。
ヤンは振り返った。
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百五十八
ジェシカ・エドワーズが、そこに立っていた。
学生時代と、ほとんど変わっていなかった。きりりとした眉。まっすぐな目。ただ、その目の奥に、学生の頃にはなかった何かが宿っていた。怒りとも、悲しみとも、決意ともつかない、静かな熱のようなもの。
「ジェシカ」
ヤンは、それだけ言った。
主戦派の候補者と取り巻きが、二人の間に割って入ろうとした。だが、今度は別の一団が、ヤンを囲む輪の外側から声を上げた。反戦市民連合——ジェシカの側の、選挙運動員たちだった。
「あんた、主戦派に魂を売ったのか」
「英雄様は、次の戦争がそんなに待ち遠しいのか」
若い運動員の一人が、ヤンの軍服の袖に手を伸ばしかけた。ユリアンが駆け寄ろうとした。アッテンボローが前に出ようとした。
「およしなさい!」
ジェシカの声が、校庭に響いた。
運動員たちの動きが止まった。
「この人は、利用されただけよ。さっきの写真も、向こうが勝手に撮ったもの。この人に、断る術はなかった。軍人とは、そういうものよ。あなたたちも、知っているでしょう」
運動員たちは、決まり悪そうに手を引いた。その輪の後ろから、初老の男が、ゆっくりと歩み出た。細身で、白いものの混じった髪を短く刈っていた。
「うちの若い者が、失礼をしました」
男は、深く頭を下げた。
「ジェイムズ・ソーンダイクと申します。この選挙区から、立候補している者です」
ヤンは、その名を知っていた。反戦市民連合の候補。ジェシカが支援している人物。
「息子が、アスターテにおりました」
ソーンダイクは、静かに言った。恨みの色は、声になかった。
「あなたを責める気はありません、提督。あなたはあの日、多くの若者を家に帰した。うちの息子は、帰れなかった側にいた。それだけのことです」
ヤンは、何も言えなかった。アスターテ。彼が艦隊の半数を救った戦い。救えなかった半数の中に、この人の息子がいて、そして、ラップがいた。
「私が変えたいのは、人ではありません。仕組みです」
ソーンダイクは、ヤンの目を見た。
「若い者が、数字として死んでいく。この仕組みを、変えたいのです。それだけを言いに、出てまいりました」
男は、もう一度、頭を下げて、運動員たちを連れて去っていった。
「立派な人よ」
ジェシカが、その背中を見ながら言った。
「ねえ、ヤン。少し、歩かない? 昔みたいに」
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百五十九
夕方、ヤンとジェシカは、士官学校の中庭を歩いた。
学生の頃、三人でよく歩いた道だった。ヤンと、ラップと、ジェシカと。古い校舎の影が、石畳に長く伸びていた。
「私ね、自惚れていたの。学生の頃」
ジェシカが、ふいに言った。
「え」
「もう一度、あなたが、誘ってくれるって。ダンスに。でも、あなたは、誘ってくれなかった」
ヤンは、言葉に詰まった。あの頃のことが、胸の奥でうずいた。ジェシカに惹かれていたこと。だが、ラップもまた、ジェシカを想っていたこと。だから、自分は、身を引いたこと。鈍感を装って、何も気づかないふりをして。
「……ラップが、いたから」
ヤンは、ようやく、それだけ言った。
「知ってる」
ジェシカは、静かに言った。
「あなたが、ラップのために、引いたこと。ずっと、知ってた」
風が、中庭を渡った。古い校舎の窓が、夕日を映していた。
「彼は、いい男だった」
「ええ。いい男だった」
ジェシカは、繰り返した。その声が、わずかに、震えた。
アスターテで、ラップは死んだ。ヤンが、かろうじて艦隊の半数を救った、あの戦いで。
「あなたを、責めてはいないのよ」
ジェシカが、ヤンの心を読んだように言った。
「あなたは、できる限りのことをした。私が許せないのは、あなたじゃない。ラップを、ソーンダイクさんの息子さんを、何の重みもなく、数字みたいに死なせた——そういう仕組みなの。だから私、決めたの。権力を持つ人たちに、問い続けるって」
ジェシカは、足を止めて、ヤンを見た。
「あなたは、今、どこにいるのか、って。人を戦場へ送るとき、その人は、どこにいるのか。安全な場所から、勇ましい言葉を語ってはいないか、って」
ヤンは、その問いを、自分が問われているように聞いた。
彼は、軍服の襟を、意識した。ジェシカの問いは、政治家たちに向けられている。だが、その問いの射程に、自分も入っている。彼は、もうじき、次の作戦の命令を受ける身だった。
「ごめんなさい。あなたを責める言い方に、なってしまった」
「いや」
ヤンは、首を振った。
「いい問いだと、思うよ。誰かが、問い続けないといけない問いだ」
夕日が、二人の影を、長く伸ばしていた。
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百六十
宇宙暦七九六年十月四日 テルヌーゼン
翌朝、ヤンは、アッテンボローに揺り起こされた。
「先輩。起きてください。まずいことになった」
端末の画面に、速報が流れていた。昨夜遅く、反戦市民連合の選挙事務所が爆破された。死者一名。ジェイムズ・ソーンダイク、五十八歳。候補者本人だった。
ヤンは、画面を見つめた。昨日、頭を下げて去っていった、あの細身の背中を思った。仕組みを変えたい、とだけ言いに来た人だった。その人が、一夜で、いなくなった。
犯行声明はなかった。ただ、報道各社に、短い文面が届いていた。売国奴に鉄槌を——差出人の名は、なかった。愛国、という言葉だけが、文面のどこかにあったという。
「ジェシカは」
「無事だそうです。昨夜は、事務所にいなかった」
ヤンは、外套をつかんだ。
反戦市民連合の集会所で、ジェシカは、支援者たちの中にいた。泣いている者。呆然と座り込んでいる者。怒鳴っている者。その中心で、ジェシカだけが、立っていた。顔は蒼白だった。だが、目は、乾いていた。
「ヤン」
ジェシカは、ヤンを見ると、まっすぐに歩いてきた。
「私、立候補するわ。ソーンダイクさんの、代わりに」
ヤンは、息を呑んだ。
「危険だ。次は、君が狙われる」
「知ってる」
ジェシカの声は、静かだった。
「でも、ここで退いたら、暴力が勝つの。爆弾が、目的を達成してしまう。あの人の声を消すために爆弾を仕掛けた誰かが、望んだ通りになってしまう。それだけは、させない。させては、いけないの」
集会所の奥では、数人の事務局員が、後継候補の届出に必要な書類を揃えていた。手続きはまだ終わっていない。だが、彼らはもう、ソーンダイクの名が消えた欄の下に、ジェシカ・エドワーズの名を書く準備を始めていた。
「あなたは、今日、発つのでしょう」
ジェシカが言った。
「ああ。ハイネセンに、戻る」
「気をつけて」
「……君も」
互いに、それ以上は言わなかった。ヤンの向かう先には戦場があり、ジェシカの立つ場所には、昨夜、爆弾が落ちた。どちらも、それを知っていた。
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百六十一
宇宙暦七九六年十月七日 テルヌーゼン・中央広場
壇の上から見ると、広場は、人で埋まっていた。
ジェシカ・エドワーズは、マイクの前に立った。喪章が、胸で揺れた。三日前まで、自分は、この壇の下にいた。ビラを配り、声を嗄らし、壇上の人を支える側にいた。今、その壇の上に、自分が立っている。
膝が、震えそうになった。ジェシカは、息を吸った。
「ジェイムズ・ソーンダイクは、アスターテ会戦で、息子さんを失いました」
声は、思ったより、遠くまで届いた。
「それでも、あの人は、憎しみを選びませんでした。問いを、選びました。若い人たちが数字として死んでいく仕組みを、変えようとしました。そして、三日前の夜、その声を、爆弾が奪いました」
広場は、静まり返っていた。
「わたしは、テロを憎みます」
ジェシカは、一語一語を、置くように言った。
「理不尽な暴力を、憎みます。そして——その最たるものが、戦争です」
ざわめきが、波のように広がって、消えた。
「わたしは、戦場に立つ人たちを憎むのではありません。軍服を着ている人たちを憎むのでもありません。わたしが憎むのは、人をそこへ送り続ける仕組みです。人の命を、数字に変えてしまう仕組みです」
ジェシカは、広場を見渡した。
「爆弾は、ソーンダイクさんの命を、あの人の物語ごと奪いました。戦場もまた、誰かの息子の、誰かの恋人の命を、その人の物語ごと奪っていきます。規模は違います。制度も、名目も違います。けれど、その根にあるものは同じです。人が人を、遠くから、言葉で、命令で、送り出し、帰ってこないものにしてしまうということです」
誰かが、拍手をした。それは、すぐに、広場全体に広がった。
「先日、政府は、こう言いました。『政府は、軍の専門的判断を尊重し、市民の安全と恒久的な平和のため、必要な支援を惜しまない』——順番を、聞いてください。軍の判断が、先です。市民の平和は、その後です」
ジェシカは、言葉を切った。
「言葉の順番は、責任の順番です。平和が、戦争のついでに語られてよいはずがありません」
彼女は、壇の縁に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「わたしは、権力を持つ人たちに、問い続けます。あなたは、今、どこにいるのか、と。人を戦場へ送るとき、あなたは、どこにいるのか。安全な場所から、勇ましい言葉を、語ってはいないか、と」
拍手が、大きくなった。
「わたしは、この場所に立ちます」
ジェシカは、壇の床を、靴の先で、確かめるように踏んだ。
「逃げません。隠れません。問い続けるために、ここに立ちます」
広場が、揺れた。
壇の上で、ジェシカは、拍手の中に立っていた。ラップ、とジェシカは心の中で呼んだ。ソーンダイクさん。私は、ここに立ったわ。そして、なぜか最後に、もう一人の顔が浮かんだ。
——ヤン。あなたは、今、どこにいるの。
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百六十二
宇宙暦七九六年十月九日 ハイネセン・ヤンの官舎
「提督、ジェシカさんが」
ユリアンの声で、ヤンは居間に出た。画面に、開票速報が流れていた。テルヌーゼン選挙区、補欠選挙。当選確実——ジェシカ・エドワーズ。得票は、有効投票の八割に迫る勢いだと、画面の隅の数字が告げていた。
中継が、当選の弁を映した。喪章を付けたままのジェシカが、マイクの前に立っていた。音声は絞ってあったが、口の動きで、分かる言葉があった。
問い続けます。
ヤンは、ソファに腰を下ろした。
声を消すために放たれた爆弾が、その声を、議会に送り込んだ。ソーンダイク一人を沈黙させた暴力は、ジェシカという、より若く、より強い声を、壇の上に立たせた。暴力は、時に、狙ったものと、逆のものを撃ち抜く。
ジェシカは、自分の場所を見つけた。宣言した。わたしは、この場所に立ちます、と。
では、自分は。
あなたは、今、どこにいるのか。
中庭で聞いたあの問いに、ヤンは、まだ答えを持っていなかった。彼は軍人で、民主主義を守るために戦っていて、そして、もうじき、次の戦争の命令を受ける。ジェシカが憎むと言った、その戦争の。彼女と同じものを憎みながら、彼は、それを実行する側の椅子に、座っている。
まっすぐな人だ、と、ヤンは思った。学生の頃から、まっすぐすぎる人だった。そのまっすぐさが、まぶしく、そして、少し、恐ろしかった。固い信念は、人を支える。だが、固い信念は、時に、人を、危うい場所へ連れて行く。爆弾の落ちた壇の上に、彼女は、自分から立った。政治という場所は、これから彼女を、どこへ連れて行くのだろう。
「提督。お茶、淹れますね」
ユリアンが、台所へ立った。
卓の上の端末に、通信の着信が残っていた。統合作戦本部。明朝の出頭を求める、事務的な文面だった。
ジェシカの問いに、答えを出すより先に——命令が、彼を待っていた。