二十
帝国暦四八七年三月二二日。「門の日」から八日目。
オーディン、旗艦《ブリュンヒルト》。
パウル・フォン・オーベルシュタインは、約束の時刻の三分前に、正確に姿を現した。
義眼の奥に光のない瞳を持つ痩身の大佐は、帝国軍の中で最も嫌われている人物の一人であった。上官に対する忠誠よりも合理性を優先し、感情よりも計算を信じ、そのことを隠す努力すらしない。統帥本部情報処理課という地味な部署に閉じ込められていた参謀が、ワームホール出現の混乱に乗じてラインハルトへの接触を求めてきた——という経緯自体が、この男の嗅覚の鋭さを示していた。
ラインハルトは、キルヒアイスとともにオーベルシュタインを迎えた。
オーベルシュタインは前置きなしに本題に入った。彼の言葉遣いには、通常の軍人が上級大将に対して見せるべき儀礼的な柔らかさがなかった。しかしラインハルトは、それを不快とは感じなかった。虚飾のない言葉は、虚飾のある言葉より速く核心に到達する。
「閣下。ワームホールの物理的制約については、我が方の偵察でも同じ結論が出ていると承っております。大艦隊の通過は、現時点では不可能。ここまでは閣下もすでに御承知の通りです」
「その通りだ。前置きはいい」
「問題は、同盟が同じ結論に達しているかどうかです」
ラインハルトの目が細くなった。オーベルシュタインは続けた。
「我が方が知っているのは、我が方の偵察結果だけです。同盟も偵察を行ったはずですが、彼らが何を発見し、何を結論づけたかは分かりません。さらに重要なのは——」
オーベルシュタインの義眼が、わずかに光を反射した。
「——同盟がこの制約を克服する技術を、開発しているかどうかです。もし同盟が先にワームホール内長距離センサーを完成させれば——我が方はそれを知らないまま、突如として大艦隊の強襲を受ける可能性があります」
沈黙が落ちた。キルヒアイスがラインハルトの横顔を見た。
「同盟の技術開発状況を探ることが急務です」
オーベルシュタインの結論は明快だった。研究部門の強化、諜報網の整備、そしてイゼルローン防衛体制の再評価——この三つをセットで進めるべきだと、彼は提案した。
ラインハルトは腕を組んだ。
「スパイか」
一言だった。オーベルシュタインは頷いた。
「情報なくして戦略は立てられません」
キルヒアイスが口を開いた。彼の声は静かだったが、オーベルシュタインの冷徹さとは異なる温度を帯びていた。
「スパイ活動もまた、和平とは相容れないものです」
オーベルシュタインはキルヒアイスを見た。義眼の瞳には表情がなかった。
「和平を維持するために相手の意図を知る必要がある、という論理は、矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし矛盾しているからこそ、現実に必要なのです。相手が何を考え、何を開発しているか分からない状況で、和平を信じることは——希望であって、戦略ではありません」
キルヒアイスは答えなかった。反論できなかったのではない。反論の言葉はあった。しかしそれを口にすれば、ラインハルトの判断を否定することになる。そしてラインハルトは、既にオーベルシュタインの提案を受け入れる方向に傾いていた——キルヒアイスにはそれが見えていた。
ラインハルトが結論を出した。
「技術研究部門を新設する。ワームホール内部での長距離把握手段の開発を第一優先とせよ。同時に、同盟の研究動向を把握するための情報収集体制を構築する。——キルヒアイス、お前が全体を統括しろ」
「……了解しました」
キルヒアイスの声は、わずかに硬かった。
ラインハルトは、視線をオーベルシュタインに戻した。
「当面は、キルヒアイスが全体を握る。お前には分析と設計を担当させる。研究部門の立ち上げ、諜報網の構造、優先順位の決定——そうした骨格の部分だ。実行と統括はキルヒアイスの側にある。元帥府の開設まで、この役割分担でいく」
オーベルシュタインは、一瞬の間もなく頷いた。
「承知しました。分析と設計に専念いたします」
オーベルシュタインは退室する前に、もう一つ用件を残した。机の上に一通の辞令を置いたのだ。
「閣下にお願いがあります」
「言ってみろ」
「これは、本来であれば閣下の元帥叙任式で発令されるはずだった、私の転属命令です。統帥本部情報処理課より、イゼルローン要塞駐留艦隊幕僚への転属。しかしご承知の通り、ワームホール出現の混乱で閣下の元帥叙任そのものが宙に浮き、この転属命令もまた発令されないままになっています」
ラインハルトは辞令を一瞥した。
「シュトックハウゼンのもとに行け、ということだったか」
「形式上は」
「形式上は、というのは」
「私がイゼルローンに着任することに意味があるとは思えません。要塞司令部はワームホールの戦略的変化を理解していない。シュトックハウゼン提督は『要塞の火力があれば何が来ても問題ない』と考えておられる。あの環境で参謀職を務めることは、能力の浪費以外の何物でもありません」
ラインハルトは辞令を指で弾いた。
「では、どうしたい」
「閣下のもとで働かせていただきたい」
短い沈黙があった。ラインハルトはオーベルシュタインを正面から見た。
「お前は、私のために働きたいのではないだろう。お前が働きたいのは、帝国の腐敗を清算する者のためだ。今のところ、その役割を担う可能性がある人物が、私であるにすぎない」
「その通りです」
オーベルシュタインは即答した。
「閣下が腐敗を清算する道から外れた瞬間、私は閣下のもとを離れます。それを承知の上で、雇っていただきたい」
ラインハルトの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「面白い男だ。たいていの人間は、忠誠を売り込むときに条件を隠す。お前は最初から条件を見せている」
「隠したところで、いずれ露見します。隠す手間が惜しい」
ラインハルトは辞令を取り上げ、机の引き出しに無造作に放り込んだ。
「イゼルローンへの転属は止めさせる。ただし、私の一存でできることではない。要塞勤務の辞令は軍務省の人事系統を経て出ているものだ。これを覆すには、リヒテンラーデ公への根回しが必要になる。幸い、ワームホール出現以降、リヒテンラーデ公は私の言うことにある程度耳を傾けるようになっている。門閥貴族の中で唯一、事態の深刻さを理解している老人だ。今日中に私から直接書状を送る。『現在の戦略環境下では、オーベルシュタイン大佐の能力は辺境の要塞勤務より、首都近傍の分析業務に投入されるべきである』——そう書けば、おそらく通る。リヒテンラーデ公は形式主義者だが、実務の判断はできる男だ」
ラインハルトは、引き出しを閉めた。
「ただし、書状が通るまでに二、三日はかかる。その間、お前の身柄は宙に浮く。今日からお前は事実上、私の私的な幕僚だ。公式の辞令が出るまでは、非公式に動いてもらう。階級は大佐のまま据え置く——元帥府が開設されたら正式に格上げする。それでよいか」
「結構です」
オーベルシュタインは一礼して退室した。
オーベルシュタインが退室した後、キルヒアイスはラインハルトに言った。
「あの男は有能です。しかし——」
「信用できないか」
「信用の問題ではありません。あの男の論理は、常に正しい。しかし正しさの中に、人間が不在です」
ラインハルトは窓の外のオーディンの星空を見た。
「人間が不在の正しさは脆い——と言いたいのか」
「いいえ。人間が不在の正しさは、人間を道具にすることを躊躇しません。それが怖いのです」
ラインハルトは友の言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
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二十一
宇宙暦七九六年三月二三日。「門の日」から九日目。
ハイネセン、統合作戦本部。
ヤン・ウェンリーの報告書は、提出から二日で同盟の政治地図を塗り替え始めていた。
この日の安全保障部会は、報告書の内容をめぐる議論に費やされた。ヤン自身は末席に座り、紅茶のカップを手に、自分の文章が他人の口から引用されるのを聞いていた。
最初に動いたのは、ヨブ・トリューニヒト国防委員長だった。
トリューニヒトは壇上に立ち、報告書の「暫定的な不交戦合意の提案」を引用した。彼の弁舌は流麗であり、報告書の結論を「同盟市民の安全を最優先とする平和的対応」と読み替えてみせた。講和が正しいのではなく、講和を主張する自分が正しいのだ——トリューニヒトの言葉には、常にその転倒が含まれていた。
「ヤン少将の報告書が示す通り、ワームホールを通じた軍事的対決は双方にとって破滅的です。我々は平和を希求する国民の声に応え、帝国との暫定的合意に向けた外交努力を開始すべきです」
拍手が起きた。ヤンは拍手しなかった。紅茶を一口飲んだ。
しかし同じ報告書の別の章は、全く異なる方向に読まれていた。
情報部門の代表が、報告書の「技術的疑念と諜報の必然」の章を引用し、ワームホール関連の情報収集予算の大幅増額を要求した。「帝国がワームホール内技術を先に開発する可能性を否定できない以上、我が方も技術開発と情報収集を急がねばならない」——ヤンが書いた言葉が、ほぼそのまま予算要求の論拠になっていた。
ヤンは紅茶のカップに目を落とした。自分の報告書が二つの異なる欲望——平和の演出と、諜報の拡大——に同時に食われていく光景を、彼は黙って見ていた。
しかし、ヤンが最も気にしていたのは、引用された部分ではなかった。引用されなかった部分だった。
報告書の第四の柱——「イゼルローンの戦略的価値の変容と非対称均衡」——については、この日の部会で誰一人として触れなかった。講和派にとっては都合が悪く、情報部門にとっては管轄外であり、主戦派にとっては——まだ、使うべき時機ではないのかもしれなかった。
臭い物に蓋をするように黙殺されている。あるいは、誰かが自らの野心のために、都合よく利用する機会を窺っているだけかもしれない。ヤンには、どちらなのか判別がつかなかった。どちらであっても、結果は同じだろうが。
クブルスリー中将が、ヤンに向かって質問を投げた。
「ヤン少将、一つ確認したい。君の報告書では、ワームホール防衛のために艦隊主力をハイネセンに拘束する必要があると書いているが——そもそも偵察結果では、大艦隊のワームホール通過は現時点で不可能なのだろう? ならば、なぜ主力をハイネセンに貼り付けておく必要がある」
会議室が静まった。合理的な疑問だった。ヤンは紅茶のカップを置いた。
「クブルスリー中将のご質問はもっともです。現時点では、大艦隊のワームホール通過は自殺行為です。指揮系統が保てません。——しかし」
ヤンは一拍置いた。
「これは『現時点の技術では』という留保つきの結論です。帝国がワームホール内長距離センサーを開発した瞬間、この前提は崩壊します。そしてその開発が成功したかどうかを、我々が事前に知る手段はありません。存在しないかもしれない脅威に対して、存在する場合と同等の備えをしなければならない——それが安全保障の本質です」
クブルスリーは眉を寄せたが、反論はしなかった。
ビュコック中将が口を挟んだ。
「百歩譲って、主力の一部を他方面に抽出することは考えられんかね。予備を残して——」
ヤンは首を振った。
「出現位置と時間余裕の両方が、それを許しません。ワームホールは円盤型で、敵が円盤のどこから出てくるかは分からない。しかも通過時間は約四〇分。他方面から主力を呼び戻す時間はありません」
ビュコックは黙って頷いた。短い答えで十分だった。
会議室の一角から、別の声が上がった。フォークの同調者の一人——名前は出ないが、国防委員会の文官だった。
「ヤン少将、ハイネセンには『アルテミスの首飾り』があります。一二基の軍事衛星が首都圏を完全に防衛している。たとえ敵主力がワームホールから出現しても、首飾りの火力で迎撃できる。主力艦隊を首都前面に貼り付ける必要は、本当にあるのですか」
ヤンは一拍置いた。アルテミスの首飾りは、確かに同盟軍の最終防衛ラインとして長年機能してきた。しかし——
「アルテミスの首飾りは、惑星ハイネセン周回軌道上に展開された一二基の軍事衛星です。確かに、ワームホール出現位置——ハイネセンから約八〇万キロメートル——は、首飾りの射程内に含まれます。出現した敵艦隊を首飾りで迎撃すること自体は、技術的には可能でしょう。私もそれは認めます」
会議室の何人かが、意外そうな顔をした。ヤンが首飾りの能力を否定するものと予想していた者にとって、この前置きは肩透かしだった。
「しかし、ここで議論しているのは、首飾りの個別の能力ではありません。首都防衛体制を、制度としてどう組むかという話です。そしてその観点から見ると、首飾りだけでは体制が成立しない理由があります」
ヤンは紅茶のカップを置いた。会議室全体に向けて、制度設計者として語る姿勢に切り替わっていた。
「第一に、首飾りの戦力は一個艦隊規模に匹敵すると言われています。これは事実でしょう。しかし問題は、その『一個艦隊規模』という上限です。制度として首都防衛を考えるとき、防衛体制の上限は防衛施設の上限で決まります。首飾りに全てを任せるということは、首都防衛体制の上限が一個艦隊規模で固定されるということです」
「ワームホール内技術が完成し、数個艦隊規模が一斉に出現する事態を考えれば——その場合、首飾りの火力では飽和します。一二基の衛星が同時に処理できる目標数には、物理的な上限がある。一個艦隊規模の防衛力に対して、二倍三倍の敵が同時に出現すれば、その時点で防衛は破綻します。これは制度設計上、致命的な欠陥です」
ヤンは続けた。
「第二に、首飾りの一二基という数についてです。一二基の衛星は、ハイネセンを取り囲む球面配置として最適化されています。これは『敵がどの方向から来ても対応できる』という設計思想に基づいています。素晴らしい設計です。しかし——」
ヤンは指を一本立てた。
「『どの方向からでも一つずつ』の対応と、『複数方向から同時に』の対応は、別の問題です。一二基の衛星は、同時に十二方向以下しかカバーできません。敵主力が円盤面に沿って広く展開し、十二方向を超える複数地点から同時にハイネセンを狙えば——首飾りの設計思想そのものが破綻します。これも制度設計上の問題で、首飾りという施設の物理的な構造から導かれる限界です」
「これに対処するには、機動できる戦力——主力艦隊——が必要です。主力艦隊が機動して敵の展開そのものを阻止する。展開を許さなければ、首飾りは本来の設計思想通りに機能できる。両者が互いを補完する形で初めて、首都防衛は制度として成立します」
会議室の何人かが頷いていた。文官は何か言いたそうな顔をしたが、口を開かなかった。
「他にも論点はあります。首飾りそのものが攻撃目標になり得ること。固定防御施設に依存した戦略の戦史上の脆弱性。これらも重要な問題ですが、今日の本題は制度設計です。制度として首都防衛を組むという観点から、私は首飾り単独の防衛体制を支持しません」
ヤンは視線を会議室全体に向けた。
「主力艦隊と首飾りの両方を、補完的に運用する。これが私の提案する首都防衛体制です。首飾りは『最後の砦』であって、『唯一の砦』ではありません。最後の砦に全てを賭ける制度設計は、その手前の備えを諦めることと同じです」
ヤンの声は静かだったが、明確だった。文官はそれ以上反論しなかった。
ビュコックは数秒の沈黙の後、低い声で言った。
「……要するに、見えない敵に備えて、見える戦力を縛り付けておかねばならん、ということか」
「はい。見えない敵——正確には、存在するかどうかすら分からない脅威です。しかしその脅威を無視した瞬間に、無視したこと自体が脆弱性になる」
クブルスリーが、もう一度口を開いた。今度の声には、先ほどとは異なる重さがあった。
「ヤン少将、君の論理は筋が通っている。しかし一つだけ確認しておきたい。主力を首都に縛り付けるということは、辺境の防衛から兵力を引き剥がすということでもある。辺境星系の住民は、ハイネセンの安全のために自分たちが見捨てられたと感じるだろう。それもまた、政治的崩壊を別の経路で招かないか」
ヤンは一瞬、答えに詰まった。クブルスリーの指摘は正しかった。首都を守るために辺境を犠牲にする——その構造は、同盟の民主主義的正統性を内側から蝕む。しかし——
「……おっしゃる通りです。しかし首都が陥落した場合の損害と、辺境が手薄になった場合の損害は、質が異なります。辺境の不安は政治で対処できますが、首都の陥落は政治そのものの終わりです」
完璧な答えではなかった。ヤン自身がそれを分かっていた。辺境の不安が「政治で対処できる」というのは、トリューニヒトのような政治家がまともに機能していればの話だ。しかしそれ以上の答えは、この場では出せなかった。
ヤンは着席した。会議室は重苦しい沈黙に覆われた。
報告書を書くたびに、自分が望まない方向に利用される——ヤンはその思いを、冷めた紅茶とともに飲み下した。
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二十二
同日。
フェザーン自治領、自治領主府。
アドリアン・ルビンスキーは、卓上に置かれた一枚の報告の前に座っていた。
ヤン・ウェンリーの報告書の概要——フェザーンの情報網が非公式に入手したもの。ワームホール戦略分析責任者として同盟軍内部で提出されたこの文書の要点は、いくつかの経路を経て、ルビンスキーの手元に届いていた。全文ではない。概要だった。しかし概要でも、この文書の核心は読み取れた。
「諜報活動は不可避である」
ルビンスキーは、その一文を指でなぞった。
数日前、彼はワームホール出現の報告を初めて受け取った時に、一つの方針を決めていた。フェザーンは「通路の仲介者」から「情報の仲介者」へ役割を変える。その決定は既に下されていた。決定は下されていたが、最初に売るべき商品は、まだ定まっていなかった。
今、その商品が目の前にあった。
ヤン・ウェンリーという同盟の士官は、ルビンスキーの知らない名前だった。アスターテ会戦の撤退戦を指揮した戦術家、という程度の情報は入ってきていたが、それ以上の深いところまでは把握していなかった。しかしこの報告書の概要を読んで、ルビンスキーは一つのことを理解した。この男は、自分の議論が自分の陣営にとって何を意味するかを、分かった上で書いている。「諜報活動は不可避」と書くことは、同盟政府に対して「諜報予算を倍増せよ」と告げているのと同じだった。本人がそれを望んでいたかどうかは別として、文書はそう読まれる。そして、そう読まれた瞬間に、諜報予算は倍増する。
ルビンスキーの隣に座る補佐官——ルパート・ケッセルリンクが、冷静な声で口を挟んだ。
「閣下。この文書を、帝国側にも流されるおつもりですか」
「当然だろう」
ルビンスキーは即答した。
「同盟側が『諜報活動は不可避』と結論したことを、帝国側は知るべきだ。知った帝国は、同じ結論に到達する。自陣営が後れを取らないために、自陣営の諜報活動も拡大する。双方の諜報網が同時に拡大すれば、両者とも相手の情報を欲しがる。欲しがる相手が二人いれば、商品の値段は上がる」
「しかし、あまりに露骨に両陣営に売れば、いずれ双方から敵視されます」
「露骨に売らなければよい」
ルビンスキーはケッセルリンクを見た。
「双方に同じ情報を売るのではない。同盟には同盟が欲しがる形で、帝国には帝国が欲しがる形で、同じ素材を違う配合で出す。その配合の比率は、買い手と局面によって変える。それが商売の基本だ。お前もそろそろ覚えた方がいい」
ケッセルリンクは何も答えなかった。彼の沈黙は、同意の沈黙ではなく、判断保留の沈黙だった。彼は、ルビンスキーのやり方を完全には信頼していなかった。若さゆえの慎重さと、若さゆえの野心の両方を、彼は同時に持っていた。
ルビンスキーはそれ以上、補佐官を説得しようとしなかった。補佐官は補佐官の速度で学ぶ。それが彼自身の速度であり、無理に加速させても良いことはない。
卓上の報告書の概要に、ルビンスキーは再び視線を落とした。指の先で、紙の端を二度だけ撫でた。
「この男には、長く書かせておく方がいい」
ルビンスキーは、自分自身に向けて呟いた。値踏みの声に近かった。書き手の良し悪しを見る商人の声だった。この男は書く。書く手を止めない。止めないうちは、こちらの商売は続く。止まった瞬間に、別の商品を探せばいい。それだけのことだった。
ルビンスキーは、紙の端から指を離した。
地球教との関係も、再考する必要があった。あの宗教団体は独自の情報網を持っている。帝国にも同盟にも、地球教の信者は浸透している。利用できるものは利用する——ただし、利用しているつもりの相手に利用されないよう、細心の注意を払いながら。
ルビンスキーの目は、既にフェザーンの街並みではなく、銀河の地図を見ていた。
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二十三
宇宙暦七九六年三月二四日。「門の日」から十日目。
ハイネセン。同盟軍首都防衛司令部付属収容施設。
ゼーフェルトのもとに、面会者が訪れた。
同盟軍の文官——国防委員会の政策顧問と名乗る男だった。尋問官ではない。態度は丁重で、むしろ学者に近い雰囲気を持っていた。面会の目的は、ゼーフェルトの「意見」を聞くことだと言った。
「大佐のご発言が、我が国の報道で引用されたことはご存知ですか」
ゼーフェルトは頷いた。看守から聞いていた。
「『首都同士が直結しているなら、戦争はやりにくくなるかもしれない』——この発言は、我が国において大きな反響を呼んでいます。帝国軍の高級将校が、ワームホールによる戦略的変化を認めたものとして」
「私は帝国軍の公式見解を述べたわけではない。個人的な感想にすぎない」
「もちろんです。しかし、大佐のような経験豊富な将校の見解は、個人的なものであっても重みを持ちます」
ゼーフェルトは、この男の意図を理解した。彼は「帝国軍人の講和的発言」を、もっと引き出しに来たのだ。国防委員会の内部で——おそらくトリューニヒトの周辺で——講和論を補強する材料として。
ゼーフェルトは口を閉じた。
「これ以上の発言は控える。私は帝国軍の捕虜であり、敵国の政策議論に関与する立場にはない」
政策顧問は引き下がった。しかしゼーフェルトは、自分の言葉が既に独り歩きしていることを改めて理解した。今後は沈黙しても、既に発せられた言葉は消えない。
彼は窓の外のハイネセンの街を見た。もう見慣れた光景だった。そしてそのことが、ゼーフェルトを不安にさせた。敵国の首都が「見慣れた光景」になるということは、自分の中の何かが変わりつつあるということだ。
同じ日、オーディン。
グリシャムのもとにも、変化が訪れていた。
帝国軍の情報将校が、二度目の面会に来た。前回の尋問とは異なり、今回は丁寧な態度で「同盟軍の組織についての一般的な質問」をしたいと言った。
グリシャムは警戒した。一般的な質問の形を取りながら、実は特定の情報を引き出そうとしている——そういう手法を、彼女自身が同盟軍の訓練で学んでいた。前回の高圧的な尋問官より、この丁寧な情報将校の方がかえって嫌だった。丁寧であるぶん、こちらも丁寧に応じなければならない。帝国語で、帝国式の敬語を選びながら。十日間、壁越しに聞こえてくる帝国語を処理し続けた脳が、重かった。
「同盟軍では、ワームホールに関する研究はどの部門が担当していますか」
「私は哨戒部隊の副長です。研究部門の組織編制については知りません」
嘘ではなかった。しかし全てでもなかった。グリシャムは同盟軍の組織構造を熟知していたが、それを帝国側に伝える理由はない。
情報将校は去った。グリシャムは寝台に腰を下ろし、こめかみを押さえた。帝国語で考え、帝国語で答え、帝国語の雑談を壁越しに聞き続ける——その疲労が、十日目にして身体に出始めていた。
しかしグリシャムは、この質問の背後にある意図を読み取っていた。帝国は、同盟のワームホール研究体制を探ろうとしている。技術的疑念——相手がどこまで進んでいるか分からないという恐怖——が、帝国側でも動き始めている。
自分がこの施設で聞いた断片——ラインハルトと門閥貴族の対立、帝都防衛の指揮権問題、技術開発への焦り——を、いつか同盟に持ち帰る日が来るだろう。しかしその日がいつなのかは、グリシャムには分からなかった。
ゼーフェルトは「和平論の材料」にされかけていた。グリシャムは「帝国内部の不安定さを示す証言者」にされかけていた。二人とも、自分が誰かの議論の札になりつつあることに気づいていた。
グリシャムは、寝台に背を預けたまま、しばらく動かなかった。こめかみから指を離すこともしなかった。外の廊下では、また看守の交代の足音が聞こえていた。帝国語の挨拶。短い笑い声。聞こえるが、意味を追う気力が、今日はなかった。
同じ時刻、ハイネセンの収容所の独房で、ゼーフェルトもまた、壁に背を預けたまま窓の外を見ていた。ハイネセンの夜景は、昨夜と同じだった。昨夜と同じであることが、今夜は重かった。
オーベルシュタインの「史実」との整合性を取るのが大変でした…。