深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第六話「曲解される門」

二十四

 

 帝国暦四八七年三月二五日。「門の日」から十一日目。

 

 オーディン、ブラウンシュヴァイク公爵邸。

 

 門閥貴族の居城は、ワームホールが出現する前と寸分変わらぬ豪奢さで来客を迎え入れていた。磨き上げられた大理石の床、壁面を覆う金箔の装飾、天井画、そして——テーブルに並ぶ帝国各地から取り寄せた美酒と珍味。帝都の目前に未知の脅威が出現して十一日、この邸宅の中だけは帝国の最良の時代が続いていた。

 

 ブラウンシュヴァイク公の居城に集ったのは、帝国の門閥貴族の主だった面々だった。リッテンハイム侯、フレーゲル男爵、その他の高位貴族。そして、招かれてはいたが招かれたくはなかった一人——ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将が、末席に近い位置に座っていた。

 

 「ローエングラム伯がまたしても権限を拡大しておる」

 

 ブラウンシュヴァイク公の声には、十一日分の怒りが圧縮されていた。

 

 「帝都防衛部隊は宮廷の直属だ。副司令長官ごときが指揮権を主張するなど、越権も甚だしい。宮廷の秩序を無視する行為を、なぜ陛下は放置されるのか」

 

 リッテンハイム侯が、ワインのグラスを傾けながら言った。

 

 「そもそも、あの穴一つを塞ぐだけのことに、なぜ元帥の権杖が必要なのだ。我が帝国には難攻不落のイゼルローン要塞がある。背後は完全に守られておるのだ。目の前の穴を監視する程度のことは、上級大将の権限で十分ではないか」

 

 メルカッツは、リッテンハイム侯の発言を聞きながら、グラスに口をつけなかった。イゼルローンが「背後の守り」であるという認識は、ワームホール出現前の地図に基づいている。その地図はもう古い。しかし、それを指摘しても、この部屋の人間には伝わるまい。

 

 フレーゲル男爵が、いつもの調子で口を挟んだ。

 

 「そもそもあの空間異常は、ローエングラムの陰謀ではないのですか。出現のタイミングがアスターテ直後というのは、あまりに好都合すぎる」

 

 ブラウンシュヴァイク公でさえ、この荒唐無稽な説には眉をひそめた。宇宙空間に直径一万二〇〇〇キロメートルの穴を開ける技術が人類に存在するなら、戦争はとうに終わっている。

 

 メルカッツは口を開いた。

 

 「恐れながら一言申し上げます。ワームホールの管理権について議論されるのは結構ですが、管理の実務を誰が行うかという問題は避けて通れません。現状、ワームホール周辺宙域の防衛を実際に行っているのはローエングラム伯の艦隊です。管理権を宮廷に移管するとして、防衛の実務を代わりに行える指揮官は——」

 

 メルカッツは言葉を切った。「我々の中にはいない」と言いかけて、飲み込んだのだ。

 

 ブラウンシュヴァイク公の顔が紅潮した。しかし反論はできなかった。

 

 会合の結論は、予想通りのものだった。元帥昇進の阻止工作と、ワームホール管理権の宮廷委員会への移管請願。いずれも軍事的対案を伴わない政治工作であった。

 

 メルカッツは、帰途の車中で目を閉じた。帝国の伝統と秩序を守る——その信念は変わらない。しかし、守るべき秩序の内部に能力がないとき、忠誠は何に向けられるべきなのか。その問いに対する答えを、メルカッツはまだ持っていなかった。

 

---

 

二十五

 

 宇宙暦七九六年三月二七日。「門の日」から十三日目。

 

 ハイネセン、統合作戦本部。

 

 アンドリュー・フォーク准将は、壇上に立っていた。

 

 統合作戦本部の中会議室。出席者はシトレ元帥、ロボス元帥、クブルスリー中将、ビュコック中将、ヤン少将、その他の幕僚たち。フォークは全員の顔を見渡してから、手元のデータパッドを操作し、スクリーンに資料を映し出した。

 

 「ワームホール出現後の戦略環境に関する提言」——タイトルはそう銘打たれていた。

 

 フォークの提言は、ヤン・ウェンリーの報告書を土台にしていた。ただし、その読み方は原著者の意図とは別物だった。

 

 「ヤン少将の報告書は、イゼルローンの戦略的価値が変容したことを明確に指摘しています」

 

 フォークの声は明瞭で、自信に満ちていた。

 

 「帝国はワームホールとイゼルローンの二経路を保持しており、同盟はワームホールの一経路のみ。この非対称を解消しない限り、同盟は常に不利な立場に置かれます。——ここまでは、ヤン少将の報告書の通りです」

 

 ヤンは椅子の背にもたれ、紅茶のカップを手に、自分の報告書の言葉が別人の口から発せられるのを聞いていた。ここまでは、確かに報告書の通りだった。問題は、ここからだった。

 

 「したがって、我が同盟が採るべき戦略は明らかです」

 

 フォークは芝居がかった手ぶりで、卓上のデータパッド——ヤンの報告書——を指し示した。

 

 「ヤン少将の優れた報告書が指摘する通り、イゼルローン要塞の戦略的価値は増大しました。この報告書は、我が軍の今後の戦略を考える上で不可欠の基礎文書であり、私の提言もまたこの報告書の分析に全面的に依拠しています」

 

 ヤンは紅茶のカップに目を落とした。「全面的に依拠」。その言葉の響きに、嫌な予感が走った。

 

 「しかし、私はヤン少将の結論の一部に異を唱えます。少将の報告書は『寡兵でしか実行できない』と記していますが、これは現状への過度の追従です」

 

 「ワームホールを通じた帝国の侵攻は——ヤン少将自身が報告書で指摘している通り——現時点の技術では自殺行為です。大艦隊は通過できない。つまり、ワームホール防衛に主力全てを貼り付けておく必要はない。必要なのは監視と最低限の警戒兵力であり、残る主力はイゼルローン攻略に投入できます」

 

 ヤンは口を開きかけたが、フォークは演説を止めなかった。

 

 「そもそも、ハイネセンの防衛をなぜ主力艦隊に頼らねばならないのか。我が首都には『アルテミスの首飾り』があります。一二基の軍事衛星が、ハイネセンを完全に防衛している。その存在こそが、ハイネセンを難攻不落たらしめている根拠です。万が一、帝国が技術的飛躍を遂げてワームホールから侵攻してきたとしても、首飾りの火力で迎撃できる。主力を首都に貼り付けるのは、首飾りという最強の防衛設備を信頼しないということではないのですか」

 

 ヤンの目が、ほんの少しだけ細くなった。フォークは前回の会議——あの文官の発言——を聞いていたのだ。そして、それを自分の論理に取り込んでいた。

 

 「そしてイゼルローンを攻略した後——我々はイゼルローン回廊とワームホールの二経路を確保し、帝国を二方面から圧迫することが可能になります。これこそが、ワームホールが同盟に与えた歴史的好機の本質です」

 

 ビュコック中将が、低い声で独り言のように呟いた。隣に座るクブルスリーにだけ聞こえる声だった。

 

 「原文とは似ても似つかない結論を導いておったが、今回は前提すら読んでおらんようだ」

 

 クブルスリーは無言で頷いた。

 

 フォークの提言が終わった後、シトレ元帥がヤンに発言を求めた。

 

 ヤンは立ち上がった。紅茶のカップをテーブルに置いた。

 

 「フォーク准将の提言には、致命的な前提誤認があります。私の報告書は、現時点で大艦隊通過が不可能であることを指摘しました。しかし同時に、帝国がワームホール内技術を開発した場合にその前提が崩壊することも指摘しています。その開発が成功したかどうかを事前に知る手段がない以上、『現時点で不可能だから防衛は最低限でよい』という結論は導けません。不可能が可能になった瞬間に対応できなければ、首都が陥落します」

 

 ヤンは一拍置いた。

 

 「アルテミスの首飾りについて触れます。先日の会議で文官の方からも同じ問いが出ました。技術論については、その時申し上げた通りです。火力の飽和、機動限界、相互補完関係の必要性——首都防衛体制の制度設計として、首飾り単独では不十分であると申し上げました。今日は、それとは別の角度から申し上げたい」

 

 ヤンは紅茶のカップに視線を落としかけて、やめた。フォークを正面から見た。

 

 「まず、私は首飾りの能力を否定しません。八〇万キロは首飾りの射程内であり、迎撃自体は技術的に可能です。フォーク准将のご指摘は、その点については正しい」

 

 会議室の何人かが顔を上げた。ヤンが首飾りの能力を全否定するものと予想していた者にとって、この前置きは予想外だった。フォーク自身も一瞬、虚を突かれた顔をした。

 

 「しかし、フォーク准将の主張には、戦史と政治の観点から、二つの致命的な見落としがあります」

 

 ヤンの声がわずかに低くなった。

 

 「第一に——これが最も重要ですが——首飾りそのものが攻撃目標になり得るということです」

 

 ヤンは指を一本立てた。

 

 「フォーク准将は首飾りを『最強の防衛設備』とおっしゃいました。確かに強力な設備です。しかし強力であるがゆえに、敵にとって最優先の攻撃目標になります。先制攻撃で一二基のうち何基かを集中破壊されれば、首飾りの防衛網にはたちまち穴が開く。穴の開いた首飾りは、もはや首飾りではない。一二基あるからこそ機能する設計を、攻撃側は熟知しているはずです」

 

 ヤンは一拍置いて、フォークを見据えた。

 

 「戦史を振り返れば、単一の強力な固定防御施設に依存した戦略は、その施設が無力化された瞬間に崩壊してきました。『首飾りに全てを賭ける戦略』は、『首飾りが破壊された瞬間に全てを失う戦略』でもあります。主力艦隊が首飾りを守り、首飾りが首都を守る——この二段構えがなければ、防衛体系全体が一つの先制攻撃で崩壊する」

 

 フォークは口を開きかけたが、ヤンは止めなかった。

 

 「第二の見落としは、政治の問題です」

 

 ヤンは紅茶のカップに目を落とした。

 

 「フォーク准将の主張では、敵主力がワームホールから出現した場合、首飾りで迎撃して撃退すればよい、ということになります。確かに、軍事的にはそれで撃退できるかもしれない。しかし、その時点で何が起きているかを——」

 

 ヤンは、そこで言葉を切った。続ける必要はなかった。会議室の隅に座っていた国防委員会の文官の一人が、わずかに眉を寄せ、それから視線を卓上に落としていた。彼は最後まで言葉にされる前に、ヤンが何を言おうとしているかを察していた。別の文官が、ペンを止めて、隣の同僚と短く視線を交わした。

 

 ヤンは、その反応を見届けてから、短く続けた。

 

 「ご想像の通りです。『敵主力がハイネセン首都圏に到達した』という事実は、たとえ次の瞬間に撃滅されても残ります。市民の動揺、政権の動揺、首都への信頼の揺らぎ——これらは、軍事的勝敗とは別の次元で起きる崩壊です。民主主義国家の正統性は、市民の信頼によって支えられている。首都が脅かされたという事実そのものが、政治を蝕みます」

 

 ヤンは視線をフォークに戻した。

 

 「主力艦隊の役割は、市民が敵を視認する前に、戦闘を終わらせることにあります。これは軍事的合理性だけでなく、政治的安定性のためにも必要なのです」

 

 会議室は静まっていた。

 

 フォークの顔に血が昇った。

 

 「ヤン少将、それは仮定に仮定を重ねた議論です。帝国が技術を開発する可能性は——」

 

 「否定できない。否定できないから問題なんです」

 

 ヤンの声は静かだったが、明確だった。

 

 「仮にイゼルローン攻略を行うとしても——それは私の報告書が記した通り、主力をワームホール防衛から外せない制約の下で行わなければならない。寡兵での攻略という条件は、好みの問題ではなく、構造的な制約です」

 

 ヤンは一拍置いて、付け加えた。

 

 「もう一つ。仮に——あくまで仮にですが——主力を動かせたとしても、大艦隊によるイゼルローン正面攻略が成功した前例は歴史上ない。第五次、第六次のイゼルローン攻略戦では、同盟は主力を投入して大敗北を喫しています。兵力の多寡ではなく、あの要塞の構造そのものが正面攻略を拒んでいる。主力を動かす必要がないのではなく——動かしたところで、解が出ません」

 

 ヤンはそこで言葉を切った。続けるべきかどうかを、半秒ほど迷った。しかし、続けないわけにはいかなかった。

 

 「そして——これは結果的に、これまでの計画と同じです」

 

 言ってしまってから、ヤンは紅茶のカップに手を伸ばしかけて、止めた。少し言いすぎたかもしれない、と思った。本当はこの一言を、別の言い方で——もう少し婉曲に——表現するべきだったかもしれない。しかし、もう口に出してしまった言葉は取り戻せなかった。

 

 会議室の隅で、誰かが椅子の背でわずかに身じろぎした。

 

 最初に動いた視線は、シトレのものではなかった。クブルスリー中将の目が、ヤンの方に一瞬だけ向けられ、それから卓上のデータパッドに戻った。表情は変わらなかったが、そのわずかな動きには、何かを察した者の落ち着きがあった。

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。ヤンの言葉の意味を、出席者たちはそれぞれの位置から考えていた。シトレ元帥の視線がヤンに向けられたが、その表情からは何も読み取れなかった。

 

 最初に言葉を発したのは、フォークだった。蒼白な顔のまま、しかしその声には、自分の論点を見つけたという確信があった。

 

 「ヤン少将のおっしゃる通り、こちらも首都防衛に縛られている。その政治的損害のことも、私は理解しています。先ほどの少将のお話は、その通りです。しかし——だからこそ、なのです。双方が同じ制約を負っている以上、この均衡は、今だけは我々に有利に傾いているのではありませんか。帝国も主力を動かせない。我々も主力を動かせない。互いに動けない時期だからこそ、我々が先に動ける一手——たとえ寡兵であろうとも——が、決定的な意味を持つはずです。少将は『主力正面攻略は成立しない』とおっしゃる。それは認めましょう。しかし、寡兵による攻略を『慎重に練り上げる』だけでは、この一時的な均衡の優位を活かしきれない。今こそ、規模を問わず、可能な手段を全て投入する時ではありませんか」

 

 会議室の空気が、もう一度動いた。今度の動きは、先ほどとは方向が違った。フォークの主張は、軍事的には依然として無理があった。しかし政治的には、ある種の説得力を持っていた。「今だけ均衡が有利」という認識それ自体は、間違っていなかった。

 

 ヤンは紅茶のカップに目を落とした。フォークの論点は、半分は正しかった。半分は正しいからこそ、厄介だった。

 

 「准将のおっしゃる『今だけ均衡が有利』という認識は——認めます。それは事実です。同盟議会が同じことを考え始めれば、同じ方向の圧力が生まれるでしょう。それは時間の問題です」

 

 ヤンは一拍置いた。

 

 「ただ、『有利な均衡』の解釈には、二つの方向があります。一つは、准将がおっしゃるように『今動くべき』という方向。もう一つは、『この均衡が崩れる時期を、こちらの都合のいい時期に持っていくべき』という方向です。後者を選ぶ場合、性急な動きは逆効果になります。準備が整わないうちに動けば、相手にも『今動くべき』という認識を与えてしまう。互いに『今だけ』と思い始めた瞬間、均衡は崩れます」

 

 ヤンは紅茶のカップから顔を上げた。

 

 「私の主張は、『動かない』ではなく『動く時期を選ぶ』です。准将の主張は、『今動く』です。この差は、主張の規模ではなく、時期の問題です」

 

 フォークは、その返答に対して、すぐには反応できなかった。ヤンの反論は、フォークの論点を完全には否定していなかった。「今だけ均衡が有利」という前提を認めた上で、結論だけを差し替えていた。それは反論というより、解釈の競合だった。フォークは唇を噛んだ。シトレ元帥が裁定を下した。

 

 「フォーク准将の提言は記録にとどめる。ただし、現時点での方針変更は行わない。ワームホール防衛を第一優先とする基本方針は維持する」

 

 フォークは蒼白な顔でヤンを見た。自らの壮大な歴史的構想が、一介の少将の現実論によって退けられたという屈辱が、彼の自尊心に暗い火を灯していた。しかしフォークという人物の本質的な危険は、この種の屈辱を忘れるのではなく、別の形で回収しようとするところにあった。

 

 「記録にとどめる」——シトレ元帥のその言葉は、フォーク案を退けたように見えて、実は政治的な延命装置を与えていた。記録に残った提言は、次の機会に再提出できる。次はもっと有利な状況で。次はもっと多くの支持者を集めて。フォークは着席しながら、既にその計算を始めていた。

 

 ヤンは窓の外を見た。ハイネセンの空は曇っていた。

 

---

 

二十六

 

 帝国暦四八七年三月二八日。「門の日」から十四日目。

 

 オーディン、旗艦《ブリュンヒルト》。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは、キルヒアイスと二人きりだった。

 

 帝都防衛の再編はほぼ完了し、ワームホール周辺の三重防衛線は安定した運用に入っていた。技術研究部門が新設され、オーベルシュタインの進言に基づく情報収集体制も動き始めている。ラインハルトは、混乱の収拾から次の段階——長期構想——に思考を移していた。

 

 「短期。ワームホール戦線で、暫定的な不交戦合意を成立させる。合意の対象はワームホールを介した軍事行動に限る。従来の戦線——イゼルローン回廊を含む——はこの合意の外に置く。ワームホール戦線だけを止めて、ワームホール防衛を安定させ、技術研究を開始し、同盟の動向を探る体制を構築する。イゼルローンの防衛再編も急ぐ」

 

 ラインハルトは指を折りながら語った。キルヒアイスは黙って聞いていた。

 

 「中期。門閥貴族を排除する。連中はワームホール管理権を宮廷に移管しようと画策しているが、管理の実務を行える人間が彼らの中にいない以上、その請願は自分たちの無能を世に示すだけだ。時間が経てば経つほど、連中と私の力の差は開く」

 

 「長期」——ラインハルトは一瞬だけ言葉を切った。

 

 「帝国を統一する。門閥貴族を一掃し、ゴールデンバウム朝の腐敗を清算する。その後に——」

 

 「その後に?」

 

 キルヒアイスが問うた。

 

 「同盟との決着をつける」

 

 沈黙が落ちた。キルヒアイスは友の横顔を見た。

 

 「ラインハルト様。ワームホール戦線の不交戦合意は——単なる時間稼ぎですか」

 

 ラインハルトは振り向いた。蒼氷色の瞳がキルヒアイスを正面から見つめた。

 

 「そうだ」

 

 一言だった。それから、ラインハルトは少しだけ視線を逸らし、もう一言、付け加えた。

 

 「リッテンハイム侯爵が、先週、皇帝陛下に面会した。ワームホール管理権の宮廷移管を、彼らは諦めていない。今、ワームホール戦線を止めておく合意がなければ、帝国軍はワームホール戦線と門閥貴族との内部抗争の二正面に引き裂かれる。私には、後者だけに集中する時間が必要だ」

 

 ラインハルトの声は、先ほどより低くなっていた。それは思想の声ではなく、実務の声だった。

 

 キルヒアイスは視線を逸らさなかった。しかし、その目の奥に何かが揺れたことを、ラインハルトは見なかった——あるいは、見ないことを選んだ。

 

 「ラインハルト様が帝国を統一されることを、私は望んでいます。門閥貴族の支配が終わることを。しかし——」

 

 キルヒアイスは言葉を選んでいた。

 

 「不交戦合意は、それを結ぶ相手がいます。合意を結び、その合意を前提に相手が行動を組み立てた後で——その合意を破棄するのであれば、それは——」

 

 「裏切りだ、と言いたいのか」

 

 「……合意は、約束です」

 

 キルヒアイスは、そこで一度言葉を切った。続きの言葉が、すぐには出てこなかった。彼の中で、その先をどう言うべきかが、まだ整理されていなかったのかもしれない。

 

 「約束を、手段として使うことは——その、約束そのものを殺すことになるのではないでしょうか」

 

 言い終えた後で、キルヒアイスは少しだけ目を伏せた。自分の言葉が、自分でも完全には納得できる形で出ていないと感じているようだった。それでも、言わずにはいられなかった——その感じが、彼の声の最後の部分に残っていた。

 

 ラインハルトは一瞬の間を置いて答えた。しかしその答えは、キルヒアイスの言葉を受けたものではなかった。

 

 「合意が維持されている間に、帝国の内部を固める。門閥貴族を排し、腐敗を清算し、帝国を我々の手で作り直す。それができれば、合意が終わった後の戦争は——旧い帝国の延長ではなく、新しい帝国の始まりになる」

 

 キルヒアイスは黙った。ラインハルトは「約束を殺す」という問いに答えていない。代わりに「合意の後に何を作るか」を語っている。キルヒアイスが問うたのは手段の誠実さであり、ラインハルトが語ったのは目的の正当性だった。二人は同じ言葉を交わしているようで、違うものを見ていた。

 

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二十七

 

 宇宙暦七九六年三月二八日、深夜。

 

 ハイネセン、ヤン・ウェンリーの官舎。

 

 ヤンは書斎でブランデーのグラスを傾けていた。フレデリカが退勤した後の静かな時間だった。

 

 この日の会議でフォークの提言を退けた。しかしヤンは、それが勝利だとは思っていなかった。フォークの提言は「記録にとどめ」られた。消えたのではなく、眠っているだけだ。眠っている提言は、目を覚ます機会を待つ。

 

 そしてフォークが引用した報告書の第四の柱——イゼルローンの戦略的価値の変容——は、ヤン自身が書いたものだった。フォークの結論は間違っている。しかしフォークが出発点にした問題意識——非対称な均衡を解消するためにイゼルローンが必要だという論理——は、ヤン自身の論理だった。

 

 ヤンは目を閉じた。眠れそうもなかった。明日も会議だ。その次の日も。

 

 ブランデーを一口含んだ。机の上に、フレデリカが退勤前に整理した書類の束があった。明日の会議の議題一覧。ヤンはそれに手を伸ばしかけて、やめた。

 

 書類の束の下から、別の書類が一冊だけ覗いていた。古い戦史資料——「第五次イゼルローン要塞攻略戦・戦闘詳報」と表紙に印字されていた。ヤンが何日か前に書庫から借り出したもので、まだ読み始めていなかった。フレデリカはそれを書類の山の一番下に置いていた。明日の議題一覧の邪魔にならないように、しかし手の届く場所に。

 

 ヤンはその表紙を、しばらく見つめていた。

 

 書庫から借り出した時には、明日の会議のためというより、いつか必要になるかもしれない——という程度の気持ちだった。今日の会議の前までは。

 

 ヤンは戦史資料の表紙に手を伸ばしかけて、やめた。今夜はまだ、開く気力がなかった。

 

 窓の外は暗かった。

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