深淵の門—銀河英雄伝説異聞   作:でてこ@子(dc1394)

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第七話「捕虜たちの声」

二十八

 

 宇宙暦七九六年三月二九日。「門の日」から十五日目。

 

 ハイネセン、同盟軍首都防衛司令部付属収容施設。

 

 ゼーフェルトは、看守から新聞を渡された。

 

 同盟公用語の新聞を読めるほどの語学力は彼にはなかったが、看守が要点を帝国語に訳してくれた。この看守——フェルナンデスという名前であることを、ゼーフェルトは知っていた——は、ゼーフェルトに対して好意的とまでは言わないが、少なくとも敵意のない態度を取る数少ない人間だった。

 

 「大佐、また記事になっていますよ」

 

 フェルナンデスの声には、気まずさがあった。

 

 新聞記事の見出しを、フェルナンデスは訳した。

 

 「『帝国軍高級将校、同盟の軍事的優位を事実上承認——ワームホールが帝国の攻撃能力を無力化したと証言』」

 

 ゼーフェルトの顎が、わずかに引き締まった。数秒間、黙った。あの夜——窓の外のハイネセンの夜景を見ながら、ほとんど無意識に漏らした一言。あの程度のことが、こうなるのか。

 

 自分が言ったのは「首都同士が直結しているなら、戦争はやりにくくなるかもしれんな」だった。独り言だった。夜景を見ながらの感想だった。「同盟の軍事的優位」という言葉は使っていない。「帝国の攻撃能力を無力化した」とも言っていない。「事実上承認」に至っては、何をどう捻じ曲げればそうなるのか、理解に苦しむ。

 

 しかしそれが「報道」であった。言葉は発した者の口を離れた瞬間に、発した者の意図とは無関係に生き始める。引用される際に文脈は消え、都合のよい意味だけが残る。そしてその引用が更に引用されるとき、原文との距離はさらに広がる。

 

 「フェルナンデス」

 

 ゼーフェルトは静かに言った。

 

 「私はそんなことを言っていない。君は知っているはずだ」

 

 「ええ、知っています。大佐がおっしゃったのは『戦争はやりにくくなるかもしれない』だけです。それが——こんなふうになるとは思いませんでした。すみません」

 

 フェルナンデスは本当に申し訳なさそうだった。最初に看守仲間に話したのが自分であることを、彼は自覚していた。

 

 ゼーフェルトは新聞を返した。

 

 怒りは——不思議なほど薄かった。代わりにあったのは、ある種の諦念に似た認識だった。言葉を発するという行為は取り返しがつかない。弾丸は発射されれば戻ってこない。言葉も同じだ。そしてこの弾丸は、発射した者の意図とは全く異なる標的に命中していた。

 

 ゼーフェルトは窓に目を向けた。ハイネセンの街並みは、もう見慣れた景色だった。そのことが、二週間前の自分には想像もできなかった。

 

 記事はさらに波紋を広げていた。

 

 講和派の論客が、テレビジョンの討論番組でゼーフェルトの「証言」を引用した。「帝国軍の大佐ですら、ワームホールが戦争の構造を変えたことを認めています。帝国との暫定合意に向けた外交努力を開始すべきです」。

 

 同じ日の別の番組で、強硬派の論客がまったく同じ「証言」を引用した。「帝国軍の高級将校が首都防衛の脆弱性を認めたということは、帝国もまた我が同盟のワームホール防衛能力を恐れているということです。今こそ、この優位を活かしてイゼルローン攻略に踏み切るべきです」。

 

 同じ言葉が、正反対の結論の根拠になる。ゼーフェルトが見たのは、ハイネセンの夜景だけだった。しかしその夜景から発した独り言は、同盟の政治的議論の中で、講和の根拠にも攻勢の根拠にもなっていた。

 

 「大佐」

 

 フェルナンデスが、ためらいがちに言った。

 

 「何か、コメントを出されますか。誤りを正すための——」

 

 「出さない」

 

 ゼーフェルトは即答した。

 

 「否定すれば『帝国軍人が前言を撤回した』という新しい記事になるだけだ。訂正は新たな曲解を生む。沈黙する以外にない」

 

 しかし、沈黙もまた解釈される。「帝国軍将校は報道内容を否定しなかった」——それが次の記事になることを、ゼーフェルトは予感していた。

 

---

 

二十九

 

 帝国暦四八七年四月一日。「門の日」から十八日目。

 

 オーディン、帝国軍憲兵隊中央拘置施設。

 

 グリシャムの日課は、壁越しの観察だった。

 

 十八日間の蓄積は、断片的ではあるが、帝国社会の輪郭を浮かび上がらせ始めていた。

 

 看守たちの会話から得られる情報は、一見すると些末なものばかりだった。給料の不満、食堂のメニューの愚痴、上官の悪口。しかしグリシャムは、その「些末さ」の中に帝国社会の構造を読んでいた。

 

 問題は、帝国語が分かりすぎることだった。

 

 聞こえてくるのは政治の気配だけではない。看守が妻への不満を同僚にこぼす声、若い兵士が故郷の母親に出した手紙の内容を別の兵士に読み聞かせる声、夜勤明けの看守が子供の病気を心配する声——理解できる単語が、理解したくない感情まで運んでくる。敵の日常が、フィルターなしに流れ込んでくる。

 

 グリシャムは時折、耳を塞ぎたくなった。しかし塞がなかった。聞こえてしまうものの中に、いつか祖国の役に立つ断片が混ざっているかもしれないからだ。その判断が正しいことは分かっていた。分かっていたが、疲弊した。

 

 この数日、看守たちの会話に新しいトピックが加わっていた。

 

 「ワームホール管理権をめぐって、宮廷で揉めているらしい」

 

 「ローエングラム伯と貴族連中の対立が表面化してきたな。防衛部隊の指揮権を返せとか何とか——」

 

 「返したところで、代わりに指揮できる奴がいるのか?」

 

 「いないから揉めてるんだろう」

 

 看守たちは笑った。庶民の嗅覚は鋭い。宮廷政治の詳細は知らなくても、「偉い人たちが縄張り争いをしている」ことは、末端の兵士にまで伝わっていた。

 

 グリシャムは、これらの断片を日々選別し、記憶の中に整理していた。帰還の日が来たとき——それがいつかは分からないが——同盟の情報分析官に報告すべき内容と、報告しても意味のない内容を、彼女は毎日仕分けていた。

 

 この日、数日来の断片がようやく一つの像を結んだ。

 

 三日前、廊下で将校が「シュトックハウゼン」という名を口にしたのを聞いた。文脈は不明だった。翌日、別の看守が「要塞の連中は呑気なもんだ」と愚痴った。そしてこの日の朝、若い中尉が同僚に言った。「あの報告を読んだか? 脅威ではない、とさ。要塞にいると首都の空気は分からんのだろう」

 

 三つの断片を繋げたとき、像が浮かんだ。イゼルローン要塞の司令官シュトックハウゼンが、ワームホールの脅威を否定する楽観的な報告を宮廷に提出した。要塞の火力を過信し、ワームホールがもたらした戦略的変化を理解していない。

 

 確証はない。三つの断片から組み立てた推測にすぎない。しかしグリシャムの直感は、この推測が正しいと告げていた。帰還後に同盟の分析官の耳に届ければ、イゼルローンの防衛態勢に楽観があるという判断材料になる。

 

 グリシャムは自分が何をしているかを自覚していた。帝国の看守や将校たちは、壁の向こうに帝国語を完全に理解する同盟の士官がいることを、忘れているか、気にしていなかった。彼らにとってグリシャムは「捕虜」であり、捕虜は聞いても分からない存在であるはずだった。

 

 しかしグリシャムは分かっていた。そして分かっていることを、いつか誰かに伝える。

 

 帝国語ができるということは、聞きたくないことまで聞こえてしまうということだった。そしてその能力は、本人の意志とは関係なく、彼女を情報の結節点にしていた。

 

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三十

 

 宇宙暦七九六年四月一日。

 

 フェザーン自治領、ルビンスキーの私邸。

 

 ルビンスキーは、二つの報告書を並べて読んでいた。

 

 一つは、フェザーンの商人たちが帝国領内から拾い上げた情報の集約。もう一つは、同盟領内の情報源から得た断片の集約。どちらも正式な諜報報告ではない。商取引の副産物として、自然に流れてくる情報を整理したものだ。

 

 帝国側:ラインハルトがワームホール防衛を再編し、技術研究部門を新設。門閥貴族がワームホール管理権の移管を請願したが実効性なし。

 

 同盟側:ヤン・ウェンリーの報告書が政策議論の起点文書に。講和派と主戦派が同じ報告書の異なる章を引用して対立。帝国軍捕虜の発言が歪んで政治利用されている。

 

 ルビンスキーは二つの報告書を並べ、その隙間——双方が知りたがっているが知ることができない空白——に指を置いた。そして、笑った。

 

 商人の笑いだった。空白に値札を貼る笑い。

 

 ルビンスキーはペンを取り、二枚のメモを書いた。帝国向けと同盟向け。書き終えるのに三分とかからなかった。

 

 帝国向け:「同盟のハイネセン工科大学において、ワームホール内部の電磁波伝播に関する基礎研究が開始されたとの情報あり。研究規模は現時点では小さいが、軍の予算が投入されている模様」

 

 同盟向け:「帝国軍の技術部門が、ワームホール内部のセンサー動作に関する実験を開始した模様。規模と進捗は不明」

 

 どちらも嘘ではない。どちらも真実でもない。帝国が研究部門を作ったのは事実だし、同盟の大学がワームホールを研究し始めたのも当然だろう。ルビンスキーがしたのは、事実の隣に「模様」の二文字を添えただけだった。しかしその二文字が、安全保障の文脈では「ありうる脅威」に化ける。

 

 ルビンスキーは二枚のメモをそれぞれの担当者に渡した。フェザーンの商人たちが、商談の席で何気なく口にする噂——それだけで十分だった。

 

 コストはほぼゼロ。得られるのは、双方の不安の維持。不安が続く限り、双方はフェザーンの情報網を必要とし続ける。

 

 経済的仲介者としてのフェザーンは死にかけている。しかし情報のブローカーとしてのフェザーンは、この瞬間、最初の商品を市場に出した。

 

---

 

三十一

 

 宇宙暦七九六年四月二日。「門の日」から十九日目。

 

 ハイネセン、ヤン・ウェンリーの官舎。

 

 ユリアンが学校から帰ってきたとき、ヤンは珍しくソファに座っていた。普段は帰宅が遅いか、帰宅しても書斎に直行する保護者が、居間にいる。

 

 「今日は早いんですね」

 

 「会議が早く終わった。……というより、会議の内容が不毛すぎて、早く終わらせたかった」

 

 ユリアンは紅茶を淹れながら、学校での出来事を話した。

 

 「今日、社会科の授業でワームホールの話になりました。先生が『ワームホールは戦争を終わらせる可能性がある』と言ったら、クラスが真っ二つに割れました」

 

 「どんなふうに?」

 

 「講和すべきだという子と、今が好機だからイゼルローンを攻めるべきだという子です。あと、『ワームホールなんか怖いから塞いでしまえ』という子もいました。……帰りに寄った市場でも同じでした。商人の人たちが、ワームホールを通じた直接貿易が始まれば物価が下がると期待する声と、帝国が攻めてきたら真っ先に店が焼かれると怯える声で、喧嘩みたいになっていて」

 

 「……それで、ユリアンはどう思った?」

 

 「僕は……分かりませんでした。どの意見も、間違っていないような気がしたんです。でも、全部正しいということもないだろうと思って」

 

 「それが一番正しい答えだよ」

 

 ヤンは紅茶を受け取り、一口飲んだ。ソファの背に頭を預けた。

 

 「本部の会議室と全く同じだ。……いや、市場の声の方が、政治家の建前がない分、最も正しいのかもしれないね」

 

 ユリアンの学校の教室も、市場の商人たちの言い合いも、ヤンの報告書が引き起こした波紋の末端だった。報告書の言葉は、安全保障部会から国防委員会へ、国防委員会から報道へ、報道から市民社会へと浸透し、学校の教室と市場の店先にまで到達していた。

 

 ヤンが書いたのは戦略分析だった。しかしその戦略分析は、ユリアンの級友を二つに割り、市場の商人たちを言い合わせている。

 

 「ユリアン」

 

 「はい」

 

 「……いい紅茶だ」

 

 ユリアンは何か言いかけた。口を開き、やめ、もう一度開いた。

 

 「ヤン提督。僕の級友が言い合っていたのは、提督の報告書のせいなんですか」

 

 ヤンの手が、カップの上で止まった。一四歳の少年は、時に大人が避ける質問を正面から投げてくる。

 

 「……たぶん、そうだ」

 

 ユリアンは頷いた。それ以上は聞かなかった。ヤンもそれ以上は言わなかった。紅茶が冷めていくのを、二人とも黙って見ていた。

 

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