三十二
帝国暦四八七年四月四日。「門の日」から二十一日目。
オーディン、旗艦《ブリュンヒルト》。
報告は、地味な書類の束として届いた。
カストロプ公領で、また新たな動きがある——という、辺境管区の情報将校からの追加報告だった。
マクシミリアン・フォン・カストロプ公爵による独立画策の動きそのものは、新しい話ではなかった。今年の一月から続いている問題だった。一月初め、公爵は反帝国の姿勢を明確にし、公領内で兵を集め始めた。帝国中央は当初、これを単なる門閥貴族の内部抗争と見なしていた。最初の鎮圧艦隊が編成されたのは二月の初め。しかしその第一次討伐は、二月の終わり頃に、カストロプ公爵が私財を投じて建造してきた私設艦隊と公領の防衛網に阻まれて失敗した。
第二次討伐の編成が検討されていた矢先に、ワームホールが出現した。アスターテ会戦の直後だった。帝国中央の関心はすべてワームホール問題に集中し、カストロプ問題は——優先順位が下がったというより——むしろ忘れられた。
そして今、カストロプ公爵が、帝国中央のこの忘却を最大限に利用しようとしている兆候が、新たに掴まれた。私設艦隊のさらなる増強。武器調達の本格化。動員に近い人員配置。第一次討伐の失敗以降、一ヶ月以上にわたって放置されてきた問題が、取り返しのつかない方向へ加速し始めていた。
ラインハルトは、報告書を二度読み返した。
「動きはどこまで進んだ」
「直近の一週間で、私設艦隊の規模がさらに膨らんでいます。武器の購入経路も、これまでの内密なものから、公然のものに変わりつつある。第一次討伐を撃退した経験が、公爵に明らかな自信を与えました」
オーベルシュタインは無表情だった。
「対処は」
「第二次討伐艦隊を編成して送る、という選択肢があります。しかし、艦隊主力はオーディン前面のワームホール防衛に拘束されています。ワームホール出現以前であれば、第一次の失敗を受けて即座に第二次を編成していたところですが——今は、それができません」
ラインハルトは無言で椅子の肘掛けを指で叩いた。
「ワームホール防衛の兵力の一部を抽出するという選択肢は」
「政治的・軍事的に困難です。首都防衛の優先度を一度でも下げれば、次に下げる時の心理的閾値が下がります。そして辺境のために首都を手薄にしたという事実は、ワームホール防衛の論理そのものを掘り崩します」
オーベルシュタインは一拍置いて、続けた。
「進言申し上げます。これまでの方針——当面の不作為——を、しばらく継続すべきです」
キルヒアイスが顔を上げた。
「不作為を、続けるのですか。第一次討伐の失敗から、もう一ヶ月以上経ちます」
「一ヶ月以上経ったからこそ、続けるべきなのです」
オーベルシュタインの返答は即座だった。
「カストロプ公領は門閥貴族の支配下にあります。あの地域の統治は、形式的にはブラウンシュヴァイク公の影響下にある。今、ローエングラム伯がカストロプを鎮圧すれば、それは『門閥貴族が統治できない地域を、ローエングラム伯が代わりに統治した』という形で世に伝わります。しかし放置を続ければ、別の構図が生まれます」
「別の構図とは何だ」
「門閥貴族がカストロプを統治できない、という事実が、彼ら自身の責任において露見します。第一次討伐の失敗は、門閥貴族の統治能力の欠如を示す最初の証拠になりました。一ヶ月以上、誰も第二次を組織できなかったという事実は、その証拠を補強しています。彼らの支配の正統性が、自らの無能によって否定されつつある。ローエングラム伯が手を下すまでもなく、世論が彼らから離れます」
オーベルシュタインの義眼に光はなかった。しかしその論理は冷徹に正確だった。
「ただし——」
オーベルシュタインは付け加えた。視線は手元の別の書類——カストロプ公領の人口統計——に落としたまま、声色を変えずに続けた。
「カストロプの民衆に対して、相応の犠牲が出ます。独立を画策する公爵の支配下で、武器が動き、軍が動員されれば、戦闘が起きないとは限りません。鎮圧されないということは、公爵の暴走が続くということです」
「相応の犠牲」という言葉を、オーベルシュタインは「物資の調達」や「兵員の配置」と同じ口調で発した。彼にとってそれは情緒の問題ではなく、計算項の一つだった。
部屋の空気が変わった。キルヒアイスの視線が、ラインハルトの横顔に向けられた。
ラインハルトは沈黙していた。
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三十三
オーベルシュタインが退室した後、ラインハルトとキルヒアイスは二人になった。
「あの男の進言は、論理として正しいです」
キルヒアイスは静かに切り出した。
「しかし——」
「分かっている」
ラインハルトは答えた。しかし、その答えはキルヒアイスが言いかけた「しかし」を受けたものではなかった。
「あの男の進言は、政治的に最も効果的だ。門閥貴族の自滅を待つ。第一次討伐の失敗を、彼ら自身の無能の証拠として残しておく。私が手を出さないことで、彼らの正統性が内側から崩れる。時間が経てば経つほど、私と連中の力の差は開く」
キルヒアイスは一瞬、言葉を選んだ。
「ラインハルト様。カストロプ公領には、八〇〇万人が住んでいます。子供も、老人もいます。彼らは公爵の独立画策の道具として動員されつつある。流血が起きないとは限らない」
「分かっている」
ラインハルトは繰り返した。今度の声は、わずかに硬かった。
「だからこそ、放置することの意味がある。門閥貴族が統治できないという事実が、彼ら自身の手で証明される。それが帝国全土に伝われば、貴族支配の正統性は内側から崩れる。私が一人の貴族を倒すよりも、貴族制度そのものを終わらせる方が、最終的には多くの民衆を救う」
キルヒアイスは黙った。
ラインハルトは「八〇〇万人」に答えていない。「子供も、老人も」に答えていない。代わりに「貴族制度そのものを終わらせる」と語っている。比べられる位置から物事を見ている人間の言葉だった。
その正しさを、キルヒアイスは理解してしまっていた。理解できるからこそ、反論ができない。論理で負けたわけではない。反論すれば、ラインハルトの目指す未来そのものを否定することになる。そしてキルヒアイスは、その未来を望んでもいた。
別の話題が、二人の間に置かれた。
帝国の技術陣からの報告。ワームホール内の長距離把握手段の開発について、「数年単位の課題」という見立て。短期的なブレイクスルーは期待できない。同時に、オーベルシュタインの情報収集体制も動き始めている。同盟の研究進捗を探るための諜報網の整備。
ワームホール出現以前、帝国と同盟の諜報網は、互いの存在を確認する程度のものだった。両陣営の高級将校の名前すら、相手方には正確に伝わっていないことが多かった。一五〇年戦争の長い慣性が、両陣営の情報収集を「最低限」に固定していたのである。攻める手段が限られている戦争では、相手の細部を知る必要もなかった。しかしワームホール出現以降、その慣性は急速に崩れた。両陣営とも諜報予算を倍増させ、長期潜入のスパイを活性化させ、フェザーンの商人たちを情報の仲介者として利用し始めていた。フェザーンにとってもこれは新しい商売だった。両陣営の情報を双方に売ることで、彼らは「通路の仲介者」から「情報の仲介者」へと、密かに役割を変えつつあった。三週間の間に、両陣営の情報網は、ワームホール出現以前の数倍の解像度を持つようになっていた。
「技術競争もまた、和平ではなく戦争の一形態です」
キルヒアイスは独り言のように呟いた。
「そしてスパイ活動は——和平を装いながら戦争を続ける行為です」
ラインハルトは窓の外を見ていた。
「相手の意図を知らなければ、和平すら維持できない」
二つの台詞は、同じ会話の中にあった。しかし噛み合っていなかった。キルヒアイスは「行為の倫理」を語り、ラインハルトは「実務の必然」を語っていた。同じ言葉を交わしているように見えて、二人は違うことを話していた。
キルヒアイスはそれ以上、何も言わなかった。
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三十四
宇宙暦七九六年四月五日。「門の日」から二十二日目。
ハイネセン、統合作戦本部、長官執務室。
ヤン・ウェンリー少将は、ビュコック中将に呼ばれていた。
ビュコックの執務室は質素だった。机の上には書類の山、壁には古い宇宙艦隊の写真が一枚。ヤンが入室すると、ビュコックは老眼鏡を外して、彼を椅子に座らせた。
「ヤン少将。一つ聞きたいことがある」
「はい」
「帝国のあの若い提督が、いつまで攻めずにいると思う」
ヤンは一拍置いた。
「問題は『今は』の後です」
ビュコックは目を細めた。
「『今は』の後、か」
「はい。今は、双方ともワームホール防衛に主力を縛られている。攻めることができない状況だから、攻めない。しかしその状況は永遠ではありません」
ヤンは紅茶のカップ——ビュコックが用意してくれたもの——に目を落とした。冷めかけていた。
「軍拡競争の新しい形か」
ビュコックは独り言のように呟いた。
「宇宙は広いが、人間のやることは変わらんな」
ヤンは答えなかった。答える必要がなかった。老提督の直感は、ヤンが報告書に書いた長い分析の全てを、二つの短い文で言い当てていた。
ビュコックは紅茶を一口飲んでから、机の端に置いた老眼鏡を手に取り、また置いた。意味のない仕草だった。何かを言う前の、間を取るための仕草。
「ヤン、お前さんの報告書は読んだ。正確だった。だが——」
ビュコックは一拍置いた。
「正確すぎる報告書というのは、時に厄介だな」
「……はい」
「フォークの提言が記録に残っている。あの男は諦めん。次の機会を待っているはずだ」
ヤンは頷いた。それも分かっていた。
「気をつけろ。お前さんが書いた言葉は、お前さんの手を離れた後も、この本部の中で生きている」
ビュコックの声は静かだったが、ヤンの胸の奥に重く落ちた。
ビュコックは紅茶を一口飲んでから、机の上に置いた書類の一枚に目を落とした。何かを思い出したような、しかしそれを確認するためというよりは、話題を変えるための仕草だった。
「ところで——お前さんの第一三艦隊の編成は、どうなっとる」
ヤンは紅茶のカップに目を落とした。
「ほとんど停止しています」
短い答えだった。
「私が戦略分析に駆り出されている以上、副官と参謀たちでは限界があって。本格的な編成は、ワームホール出現以来、ずっと止まったままです」
ビュコックは黙って頷いた。何も言わなかったが、その沈黙には、別の言葉では言えないものが含まれていた。第一三艦隊が何のために編成されつつあったのか——イゼルローン要塞攻略のために——ビュコックは知っている。シトレ元帥が三月十五日に「一時中断」と告げたあの言葉も、ビュコックは知っている。そして、その「一時中断」がいつ解除されるか分からないまま今日まで来ていることも、知っている。
老提督は紅茶のカップに目を落とした。
「一時中断、か」
その一言は、ヤンに向けられたものではなかった。むしろ、ビュコック自身に向けられた呟きのようだった。
ヤンは答えなかった。答える必要がなかった。
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三十五
帝国暦四八七年四月六日。「門の日」から二十三日目。
オーディン側ワームホール出口宙域、帝国第三防衛艦隊。
事態は、誰の悪意でもない場所から始まった。
同盟軍が、ワームホール出口の帝国側に向けて、自律帰還式の無人探査機を放った。目的は、帝国側の艦隊配置の変化を把握すること。技術的疑念——相手がどこまで進んでいるかが分からないという恐怖——が、双方に同じ行動を取らせていた。同盟も帝国の動向を知りたがっていた。知らなければ、最悪の想定で備え続けなければならない。
無人探査機は、ワームホールを通過し、帝国側の出口宙域に出現した。二十数分間、静かに観測を行い、来た道を引き返す予定だった。
しかし、帝国側の警戒線がそれを発見した。
第三防衛艦隊の哨戒艇——艦長はコンラート・ヴェルナー少佐。叩き上げの実務型で、年齢のわりに早く佐官に到達した有能な男だったが、艦長としての経験はまだ浅い——が、未確認の小型物体を捕捉した。レーダー上には小さな点が一つ。サイズは艦艇より遥かに小さい。
「サイズから見て、無人機の可能性があります」
オペレーターの報告に、ヴェルナーは一瞬迷った。無人機なら、撃つ前に警告を送る選択肢がある。しかし——「ワームホールから出現する未確認物体」というだけで、警戒線の規定は迎撃を求めていた。
「警告信号を送ってから——」
幕僚の一人が言いかけた。
「時間がない」
ヴェルナーは遮った。短距離センサーの探知範囲内で確認できたということは、既に接近しているということだ。警告→反応→こちらの判断、という手順を踏む余裕はない。そして万が一、この物体が小型ながら攻撃能力を持つものだった場合、警告を送って待っている間に首都圏への侵入を許せば——その責任はヴェルナー一人では負いきれない。
ヴェルナーの背中を押したのは、規定でも論理でもなく、撃たなかった場合の責任の重さだった。
「迎撃」
命令の復唱には、わずかな遅れがあった。しかしそれだけだった。
無人探査機は撃墜された。残骸の一部が、再度ワームホールに吸い込まれて消えた。残りは、帝国側の防衛艦が回収した。
ヴェルナーは迎撃命令を下した直後、計器を見つめていた。残骸からの反応は、武装の痕跡を示さなかった。観測機材だけ——明らかに偵察用の無人機だった。ヴェルナーの手のひらは、わずかに汗ばんでいた。
現場指揮官の報告は、即座にラインハルトのもとへ届けられた。報告書の指揮官名の欄には、コンラート・ヴェルナー少佐の名前が記されていた。彼の名前が、後の歴史書にどう記録されるかは、この時点ではまだ決まっていなかった。
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三十六
ラインハルトは、報告書を読み終えてから、キルヒアイスに発言を求めた。
「現場の判断は、妥当だったか」
キルヒアイスは慎重に答えた。
「妥当です。何が出てくるか分からない不確実性が、過剰反応を招くことはあります。しかし今回は過剰反応ではありません。回収された残骸を分析した結果、相手はこちらの艦隊配置情報を持ち帰ろうとしていました。明らかな軍事偵察です」
「無人機だな」
「はい。乗員はいません。同盟側の人的損害はゼロです」
ラインハルトは指で机を叩いた。
「無人かどうかは、本質的な問題ではない。軍事偵察機を敵国の防衛宙域に送り込むことは、それ自体が敵対行為だ。同盟がワームホール経由で軍事行動を取る意思があることを、行動で示したことになる」
ラインハルトは続けた。
「ワームホール出現以来、双方は『攻めない』という暗黙の了解の上で動いてきた。攻める手段がないから攻めない、という消極的な不戦だが、それでも不戦は不戦だった。今回の偵察機は、その了解を一方的に破ったことになる。同盟は、ワームホールを軍事的に使う意思を持っている——少なくとも、こちらはそう解釈せざるを得ない」
「同盟側にもまだ、その認識が共有されているとは限りません」
キルヒアイスが慎重に挟んだ。
「ヤン・ウェンリーの報告書は、ワームホールに限った不交戦合意を提案していたと聞いています。同盟内部にも、ワームホール戦線を軍事化しないという立場はあるはずです。今回の偵察機派遣が、同盟全体の意思を代表しているとは——」
「そうかもしれない。だが、こちらから見える同盟は一つだ。内部の派閥がどうであろうと、撃たれた側にとっては『同盟が偵察機を送ってきた』という事実だけが残る。そして次に偵察機が来たら、こちらは同じように撃つ。撃たれた側はそれを敵対行動と受け取る。三度目はもう、無人機では済まなくなる」
キルヒアイスは黙った。
「悪意ではなく、構造から——と言いたいんだろう」
ラインハルトは静かに言った。
「だがな、キルヒアイス。構造から起きた事故であっても、撃たれた側はそれを悪意として処理する。そして処理した結果は、悪意で起きた事故と区別がつかない。事態の本質が何であれ、結果は戦争に近づく」
ラインハルトは窓の外を見た。
「次は、もっと大きな事故が起きる。次の偵察機は無人ではないかもしれない。あるいは、撃たれるのは敵の偵察機ではなく、味方の偵察機かもしれない。一度起きた事故は、二度目を呼ぶ」
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三十七
同じ報告は、数時間後に同盟側にも届いた。
無人探査機の通信途絶。最後の信号位置から見て、帝国側の出口宙域で消失した可能性が高い。帝国側からの正式な通告はないが、状況証拠は揃っていた。
ヤンは、報告を受けたとき、紅茶のカップを口に運ぼうとしていた手を止めた。
無人探査機の派遣計画は、三日前に情報部門から提案されたものだった。技術的疑念——帝国がワームホール内技術をどこまで開発しているかが分からない——という不安が、情報部門に偵察の必要性を主張させていた。ヤンは反対した。「無人とはいえ、軍事偵察機を敵国の防衛宙域に送り込むことは、それ自体が敵対行為です。帝国側はこれを『同盟がワームホール経由で軍事行動を取る意思がある』という宣言として受け取る。実質的に、ワームホール側でも宣戦を布告したことに等しい」——ヤンの懸念は、ほぼそのままの言葉で記録に残っているはずだった。
しかし情報部門は、ヤンの懸念を「過剰な慎重論」として処理した。「無人機一機を送るだけで宣戦布告と取られるはずがない」「外交的には、ワームホール内を探索していた無人観測機が、計器の異常により意図せずしてワームホール外に出てしまった『事故』として処理可能だ」「相手の研究進捗を知らなければ、こちらは最悪の想定で備え続けなければならない。それは長期的に見れば、より大きな軍事費負担を意味する」——情報部門の論理にも一片の理はあった。シトレ元帥も、戦略分析責任者であるヤンの権限がワームホール政策の全領域に及ぶわけではないことを、暗黙のうちに示した。情報部門の管轄に属する偵察行動は、情報部門の判断で実行された。ヤンには事後に通知された——派遣が決定された後で。
そして三日後、ヤンの懸念はそのまま現実になった。
ハイネセンの統合作戦本部で、緊急の会合が持たれた。出席者はワームホール政策に関わる軍人と文官——シトレ元帥、クブルスリー中将、ビュコック中将、戦略立案部門の准将級将校たち、国防委員会の文官数名、そしてヤンも出席していた。フォーク准将も、戦略立案部門の所属として末席に座っていた。前回の会議で攻勢論を退けられた屈辱を、彼はまだ忘れていないように見えた。
「帝国が無人機を撃墜した、と見るべきか」
誰かが問うた。
「断定はできません。しかし可能性は高い」
別の誰かが答えた。
「これは、帝国の挑発と見るべきか」
ヤンが口を開いた。
「帝国の挑発ではありません。むしろ逆です。挑発したのは、こちら側です」
会議室の視線がヤンに集まった。空気が変わった。
「軍事偵察機を敵国の防衛宙域に送り込むことは、無人であろうと有人であろうと、明確な敵対行為です。今回の派遣は、帝国側から見れば『同盟がワームホールを軍事的に使う意思を持っている』という宣言に等しい。実質的に、ワームホール側でもこちらが宣戦を布告したのと同じことになります」
ヤンは紅茶のカップを置いた。
「ワームホール出現以来、双方は『攻めない』という暗黙の了解の上で動いてきました。攻める手段がないから攻めないという消極的な不戦ですが、それでも不戦は不戦だった。今回の偵察機派遣は、その了解を一方的に破ったことになる。帝国側は当然、こちらが軍事行動の意思を持ったと解釈します。そして次に何かが起きたとき——たとえば次の偵察機が送られたり、あるいは帝国側が報復的な偵察を試みたとき——双方とも、相手は『もう不戦の段階を過ぎた』と認識した上で行動します」
会議室は沈黙した。
「もちろん、情報部門の動機は分かります。帝国の研究進捗を知りたい。知らなければ最悪の想定で備え続けなければならない。その不安は理解できます。しかし、その不安を解消するために選んだ手段が、結果として双方の不戦の前提を壊してしまった。情報部門が悪意で動いたとは思いません。彼らもまた、技術的疑念という構造に押されていたんです」
ヤンは「彼らもまた構造に押されていた」と言った。情報部門の判断を擁護したわけではない。しかし、責任を個人に帰属させることもしなかった。誰も悪意で動いたわけではないが、結果は重大だった——その認識を、ヤンは会議室に共有させようとしていた。
誰かが、低い声で言った。
「……つまり、こちらが宣戦布告に近いことをやってしまった、ということか」
「はい」
「対策は」
ヤンは答えるのに数秒を要した。
「二つあります。第一に、不交戦合意を、暫定的にでも結ぶ必要があります。今回の偵察機派遣で壊れた暗黙の了解を、明示的な合意として結び直さなければなりません。第二に——そしてこちらがより急務ですが——帝国側の現場指揮官と直接通信できる回線を確立しなければなりません。今回の事件について『これは情報部門の独断であり、同盟政府の意思ではない』と伝える手段がなければ、帝国側は『同盟は本気でワームホール戦争を始めた』と認識したまま、対抗措置を取ることになります」
ここでフォーク准将が、低い声で口を挟んだ。
「ヤン少将。確認させていただきたい。その『不交戦合意』というのは、戦争全体の停戦を意味するのですか。それとも——」
「ワームホールを介した軍事行動のみを対象とする合意です」
ヤンは即答した。フォークの質問の意図は、最初の十文字で見えていた。フォークが恐れているのは、合意がイゼルローン回廊にも及ぶこと——つまり、彼の攻勢構想が永久に封じられることだった。
「従来のイゼルローン回廊を含む他の戦線における軍事行動は、この合意の対象外とする。そう明示的に書き込みます。当然です。我々としても、従来の戦線における軍の自由を縛るつもりはありません。それに、合意の範囲を広げすぎれば、帝国側がそもそも合意のテーブルに着きません。狭い範囲の合意でなければ、合意そのものが成立しない」
フォークの肩が、わずかに緩んだ。彼にとっては許容できる答えだった——少なくとも、この瞬間は。
ヤンは、自分が口にした言葉の論理的な正しさを認めた上で、わずかな違和感を覚えた。広すぎる合意は通らない。狭い合意でなければ成立しない。そのことは事実として正しい。しかしその事実を自分の口で説明し、フォークの肩が緩むのを見る——その手順全体に、何か釈然としないものがあった。違和感の正体を、ヤンはこの場では言語化しなかった。今、口にすべきことではなかった。
ビュコックがヤンの方を見ていた。ビュコックには、ヤンが何を呑み込んだかが見えていたかもしれない。しかし老提督も、それを口にはしなかった。
ヤンは紅茶のカップに目を落とした。
「次は、こちらが撃つ側になるかもしれない。そうなる前に、対話の経路を作る必要があります。それも、外交ルートを介したものではなく、現場と現場が直接つながる回線を。……どれくらいの時間で構築できるか、私には正確なところは分かりません。ただ、遅ければ遅いほど、間に合わなくなる可能性が高い」
会議室は沈黙した。誰かが——軍人ではなく、文官の一人が——ようやく口を開いた。
「一週間。それが、おそらく我々に残された最大の猶予だ」
ヤンは答えなかった。同意も否定もしなかった。彼自身、その期限が正しいかどうかは分からなかった。短すぎるかもしれないし、長すぎるかもしれない。ただ、会議室の誰かが期限を口にしたという事実だけが、事態の重さを示していた。
そして、会議室の沈黙の質が変わった。
卓の奥に座るシトレ元帥の、そしてクブルスリー中将の視線が、ヤンに集まっていた。先ほどまでの「事態への困惑」とは異なる種類の沈黙だった。「事態をここまで正確に見通している人物がいるなら、その人物に交渉を任せるのが最も合理的だ」——口に出されないまま、その判断が会議室の空気を動かしつつあった。
ヤンは内心で、ひどく深く溜息をついた。自分が貧乏くじを引かされる構図が、目の前で組み立てられていく。しかも今回は、断る理由が見つからない。事態を最も正確に把握しているのは自分であり、その自分が交渉の必要性を会議室で説いた以上、「ではあなたが」と言われたら、引き受ける以外にない。
ビュコックがヤンの方を見ていた。その目には、何かを察した者の重さがあった。「『今は』の後」が、思っていたより早く来た——その認識を、二人は無言で共有していた。そしてビュコックの目には、もう一つ別の重さも宿っていた。これからヤンが背負うことになるものへの、老提督の同情のような何かが。
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三十八
同日、帝国暦四八七年四月六日、深夜。
オーディンと、ハイネセン。
二つの首都で、ほぼ同じ時刻に、同じ判断が下されつつあった。
暫定不交戦合意が急務である——その認識は、両陣営の冷静な側で共有されていた。しかしその「冷静な側」が、いつまで主導権を保ち続けられるかは、誰にも保証できなかった。
そしてカストロプ公領では——帝国中央がワームホールに釘付けになっている隙に、第一次討伐の失敗から一ヶ月以上にわたる不作為の隙に——マクシミリアン・フォン・カストロプ公爵が、独立に向けた動きをさらに加速させていた。
帝国の辺境は、今、誰にも見られていなかった。
マクシミリアン・フォン・カストロプは伯爵ではなく公爵でした。ご指摘ありがとうございます。原作のカストロプ動乱の時系列を把握するのが大変でした…。