夜の浜辺をわたしは歩いていた。
ざくざくとした細かい砂を踏み締めながら、足元を濡らす海水にはっとなる。暖かくも、冷たくもないのに、なんとなくその海の先に行ってはいけない気がした。
ふと、背後で空気が変化した気がしてつい振り向くと、そこには見たことのない女の子が立っていた。
静かな佇まいでその子はわたしの方へと振り返る。金色の長い髪が風もないのにわずかに揺れた。白い空間の中でその輪郭だけが不思議とくっきりしている様な錯覚に、ついわたしは反射みたいに口を開いた。
「こんちにわ! はじめまして!」
言い切ったあと、その子は少しだけ目を細めた。驚きではなく何かを確認するような、あるいは既に知っているものをなぞるような仕草だった。
「……はじめまして、か。その挨拶は何度目だろうか」
その子の言葉に、わたしはきょとんとする。
「え? わたしたち、どこかで会ったっけ?」
「そうだよ、サトウ。君はこの場所で幾度となく私と出会っている」
あまりにも自然に言われて、考えるまでもなくすぐに答えに至る。
「そっか……わたし、あなたのことも忘れたんだね」
私の結論にその子は静かに頷いた。
「その認識で正しい。ここでの出来事は、君の中に爪痕一つ付ける事すら叶わない。だから私たちは数えるのも億劫になる程の初対面を経験し、
なるほど、ともう一度頷く。
どうしようもない事だけど、忘れてしまった事が申し訳なくて、寂しくて、悲しかった。なんとか次に持ち越せないものかと色々と試したけど、結局はどうしようもなかった。
「やっぱりそうなんだ。そっか……えっと、ごめんね。あなたの名前、もう一回教えてくれる……?」
「百合園セイア。好きに呼んでくれて構わない」
「えっと……じゃあ、セイアちゃん!」
セイアちゃんは一瞬だけ言葉を止め、それから小さく息を吐くように目を閉じた。
「……ああ、好きにするといい」
その言い方が何だか少しだけ優しくて、わたしは笑った。笑うことができた。
二人で横並びに砂浜を歩く。不思議と足音一つもしなくて、足元も曖昧だった。それでも進んでいる感覚だけが確かにあるのは、徐々にセイアちゃんが遠ざかっていったからかな。
「ねえセイアちゃん、ここってなに?」
問いかけると、セイアちゃんは少しだけ視線を遠くに向けた。
「夢の層、とでも言おうか。現実の君は今頃ぐっすり寝ている事だろうね」
「夢……ふわふわしてるとこ?」
「概ね正しい」
わたしがそう言うとセイアちゃんはわずかに頷いた。褒められた気がして少しうれしい。
そのまま、わたしたちは取り留めのない会話を続ける。
たぶん今日のこと。転んだことや、新しく友達とのお茶会での出来事や、セイアちゃんにとってはどうでもいいことばかりだったのに、遮らずに聞いてくれた。その間の取り方が静かで急かされる事もなく、わたしだけが喋り過ぎていないかと心配になるほどだったけど、セイアちゃんはその一つ一つに優しく相槌を打ってくれた。
やがてセイアちゃんが口を開いた。
「ある船がある。その船の部品を一つずつ新しいものに交換していくとする。やがてすべての部品が入れ替わった時、それは元の船と同一と言えるのか」
セイアちゃんは静かに言う。
わたしはその言葉を頭の中でなぞりながら、ぼんやりと船の形を思い浮かべる。でも本物の船なんて見たことがないから、浮かんできたのは小さな木の小舟だった。薄い板で組まれていて、少し波が立っただけでもすぐに揺れて、今にも壊れてしまいそうな、頼りない船。そんな小舟じゃ、大きな海なんて越えられない。どこかでひっくり返って、沈んでしまう気がする。それでも、その小舟はちゃんと船の形をしていて、そこにあるものとして見える。
「同じ……じゃないかな」
そう言いながら、小舟を見つめる。形が同じなら、それは同じものだと思ったから。でもその瞬間、頭の中の小舟が少し揺れる。板が一枚ずつ新しくなって、気づかないうちに全部入れ替わっていく。その様子を見ていると、なんだかそれが自分みたいだと思った。昨日のことが少しずつ分からなくなって、その前のことはもっと分からなくなって、知らないうちに中身がどんどん変わっていく。それでも名前は同じで、見た目もたぶん同じで、わたしはわたしとしてここにいる。
でも、それって本当に同じなのかなって、少しだけ思う。ノートの中にいる昨日のわたしと、今ここにいるわたし。どっちが本当なのか、よく分からなくなる。
「なぜそう思う?」
セイアちゃんの声が静かに返ってくる。
さっきまでは簡単だと思っていたのに、小舟が自分と重なった途端に、うまく答えられなくなる。胸の奥が少しだけざわついて言葉が引っかかるみたいに上手く出てこない。
「だって……見た目は同じだし……きっと、中身だって」
そう答えながらもその言葉は少し頼りなくて、波の上に浮かぶ小舟みたいにぐらぐらと揺れている気がした。
セイアちゃんの方を見ると、ほんの少しだけ楽しそうに目を細めていた。
「では、その取り外された古い部品を使って、もう一つ船を組み立てたとしよう。その場合、本物はどちらになると思う?」
頭の中で新しい船と古い船が並ぶ。同じ形をしていて、どちらもそれっぽくて、でもどちらも違う気もする。考えようとすればするほど分からなくなっていく。言葉を探そうとして、でも何も浮かばなくて、ただ二つの船がゆらゆら揺れているだけだった。
「……わかんない」
正直にそう言うと、セイアちゃんは小さく笑った。
「実はこの問いに明確な正解はない。君の意見を聞いてみたかったんだ」
そう言われて、少しだけ肩の力が抜ける。でも同時に、胸の奥に残っていたざわざわした奇妙な感覚は消えなかった。答えがないって言われたのに、なんだか終わった感じがしない。
セイアちゃんは少しだけ声を落とす。
「この話の根本は、“同じであること”とは何か、というものなんだ」
形か。材料か。記憶か。連続性か。セイアちゃんによって一つずつ、丁寧に言葉が置かれていく。そのどれを本質とするかで答えは変わる、と。
わたしはその言葉を聞きながら、頭の中の船を見る。さっきの小舟がまだ揺れている。
昨日のわたしと、今のわたし。ノートの中にいるわたしと、ここにいるわたし。どれが本当なのか、どれが同じなのか、考えれば考えるほど少しずつ輪郭がぼやけていく気がした。
頭の中の小舟がまだゆらゆら揺れていてうまく言葉にできないのに、胸のどこかに引っかかっていた。
「ねえ、セイアちゃん」
「なんだい」
「わたしって、どれ?」
気づいたら、そう聞いていた。自分でもびっくりするくらいすっと出てきた言葉だった。
セイアちゃんは、すぐには答えなかった。ただ、まっすぐにわたしを見る。その視線は、さっきまでより少しだけやわらかくて、逃げなくていいよって言われてるみたいだった。
「君は、君だよ」
静かな声だった。
「少なくとも今、この瞬間においては。記憶が変わろうと、形が変わろうと。君が君だと思う限り、その定義は誰にも否定できない」
難しい言葉なのに、不思議と怖くはなかった。ゆっくり落ちてきて、ちゃんと届く様な気がした。
「じゃあ、忘れても、わたしはわたし?」
自分でも少しだけ確かめるみたいに聞く。ずっと誰かに聞きたかった。怖くて鏡に映った自分にさえ聞けなかった。
セイアちゃんは真っ直ぐとわたしを見つめる。
「……私はそう信じている。ただし、それをどう捉えるかは、君自身に委ねられるべきだ」
わたしは、小さく頷く。全部は分からない。でも、たぶん大事なことなんだと思う。胸の中に残った感じだけはちゃんと覚えておきたいと思った。
「ねえ、セイアちゃん。また会える?」
そう聞くと、セイアちゃんはわずかに目を細めた。その表情はやわらかくて、でもどこか遠くを見ているみたいだった。
「ああ、君が夢を見る限りはね」
その言葉は約束みたいで、わたしは深く考えずに頷いた。
セイアちゃんは小さく笑う。
「サトウ、君のそういうところは変わらないね。純粋で真っ直ぐで、躊躇がない所。私はそれが好きだった」
過去を写したような言葉が、少しだけ苦い色を残した。その意味を考えるより前に、言葉の温度が先に胸に落ちてくる。静かで、やわらかくて、温かい毛布みたいに包み込んでくる。わたしは理由も分からないまま、少しだけうれしくなる。
「えへへ」
笑うと、胸の奥がほんの少しだけあたたかくなった。何を言われたのか全部は分かってないのに、その気持ちだけは受け取るべき素敵な贈り物のような気がしたから。
空間が、ゆっくりとほどけていく。
輪郭がぼやけて、音が遠くなる。足元の感触も、さっきまで確かにあったはずなのに、少しずつ薄れていく。
「また会おう、サトウ」
セイアちゃんの声がやわらかく響く。その約束が果たされることなんてないのに、それでもセイアちゃんは笑って見送ってくれる。わたしは何度、この約束を裏切ってしまうんだろう。
胸の奥に少しだけ引っかかるものがある。理由は分からない。分からないまま、爽やかとも言えない覚醒に近付く。
消える間際、セイアちゃんの笑顔が歪んでいくのが見えた。そんな顔をしないで。セイアちゃんにはずっと笑っていてほしいのに、どうしてわたしは、こんな簡単な約束さえできないんだろう。
――朝、目が覚める。
今日も爽快な朝。カーテンの隙間から差し込む陽光が、部屋の中に細い線を引いて、ゆっくりと広がっていく。空気は静かで、なにも変わらないはずなのに、なにかが少しだけ違う気がした。
ふと、頬に生ぬるい感触が伝う。指で触れてみると、それは涙だった。
「……あれ?」
どうして泣いているのか分からない。悲しい夢を見たのかもしれない。でも、その内容は思い出せない。ただ何かを話していた気がする。誰かと向かい合って、大事なことを聞いた気がするのに、その何かだけがぽっかり抜け落ちている。
胸の奥に煙のような余韻だけが残っている。言葉にならないまま消えきらずにそこにあるそれは、わたしをじっと見つめている。
視線を落とすと、枕元にノートが一冊置かれていた。昨日のわたしが残したもの。いつものようにそこにある。
ベッドから体を起こす。シーツが少しだけ乱れていて、さっきまでの温度をわずかに残している。胸の奥に理由の分からないあたたかさだけが残っていた。それが何なのかは分からないまま、それでもきっと悪いものじゃないと思った。
涙を袖で拭って、ノートに手を伸ばした。
❖
その層は彼女が去ったあとも形を崩さない。サトウという一点が抜け落ちても、この領域は何事もなかったかのように静かに保たれていた。ただ、そこに残っているのは微かな痕跡だけだ。
砂浜に残った二つ分の足跡の片方が、波にさらわれて消えていく。
「……どうか、忘れないでくれ」
セイアは祈るように呟く。答える者はいない。それでも言葉にしなければならないような気がした。
彼女――罧原サトウは、ここに来るたびに同じ挨拶をする。初めて会うように笑い、何も知らない顔で名前を名乗る。その度にセイアは同じ説明を繰り返した。
「記録されない対話は、果たして存在したと言えるのか」
思考実験の延長のように静かに言葉を落とす。その問いに意味があるかどうかは既に分かりきっていた。
彼女は、確かにここにいた。
記録されなくても。たとえ翌朝には忘れられてしまって、セイアの事をノートに書き留められなくとも。夢で出会うその瞬間だけは確かにあった事だから。
「……だが」
セイアの視線が、わずかに揺れる。この領域では珍しい、ほんの小さな乱れ。
彼女は遠くを眺め、その果てを視る。
可能性の枝分かれ。時間の流れの重なり。未確定の未来の、幾重にも重なる様々な輪郭。その中を、静かに辿っていく。
そして、そのどこにも存在しない、罧原サトウの姿を探す。
いくつもの分岐を辿っても、彼女の名前はどこにも残らない。記録にも、記憶にも、痕跡にも。まるで最初から、そこに居なかったかのように。
記憶の欠損。連続性の断絶。自己同一性の希薄化。それらが時間の中でどのような結末へ至るのか。理論としては、いくつかの仮説が立てられる。しかし――
セイアは小さく目を閉じる。何故なら未来とは、必ず起き得る事象であるからだ。
「……それを彼女に伝える意味はない、か」
純粋で、真っ直ぐで。自分を失う事にすら慣れてしまった彼女に、その結末を伝えたとしてもきっと同じように笑うだろう。
ただ、ひとつだけ。この夢の中で、彼女が彼女である瞬間だけは確かに存在していた。それらは否定しようのない事実として、セイアの心に残っている。
「たとえ失われても、点としての存在は残る」
ならばその点を、何度でも拾い上げるしかない。たとえそれがどこにも繋がらないとしても。たとえ未来に残らないとしても。
セイアは静かに目を開ける。誰もいない空間に、わずかに視線を向ける。そこに、もう彼女はいない。
それでも。
「どうか――」
祈る様に膝を付いてその場に蹲る。
「君が君のままでいられますように」
❖
中庭は書かれていた通りに静かだった。白いテーブルと椅子が置かれており、テーブルの上にはお菓子がたくさん置かれていた。
その中心に桐藤ナギサちゃんがいた。
姿勢は整っていて指先の動きまで無駄がない。カップを持つ仕草がひとつひとつ丁寧で、見ていると少しだけ時間の流れがゆっくりになる。
「ナギサちゃーん!」
わたしは手を振りながら駆け寄る。
ナギサちゃんは顔を上げて、わたしを認めると、ほんのわずかに表情を緩めた。
「おはようございます、サトウさん。今日も元気そうですね」
「うん!」
元気に頷いて、促される様に席に座る。
椅子の位置がノートに書かれた位置とほとんど同じなのに気づいて、なんだかちょっとほっとした。
「今日は、何を飲まれますか」
「えっと……ナギサちゃんと同じやつ!」
少し考えたあと、そう答えると、ナギサちゃんはわずかに目を細める。
「では、同じものを用意しますね」
ポットを持ち上げる手付きは、やっぱりきれいで。紅茶の香りがゆっくりと広がる。
それからナギサちゃんは小さな箱を開けた。中に並んでいたのは、細長いチョコレートに包まれたオレンジ。
「宜しければこちらもどうぞ、オランジェットです」
「おらん……?」
「オレンジの皮を砂糖で煮て、チョコレートでコーティングしたものです」
ひとつ取って、口に入れる。
「……!」
甘くて、少し苦くて、あとからオレンジの味が広がる。
「おいしい!」
思わず声が出る。
「前回、柑橘の風味を好まれていたので、お口に合うかと思いまして」
「……そうだったっけ?」
自分でも、よく分からないまま首を傾げる。そんな事はノートには書いてなかった気がする。
ナギサちゃんはほんのわずかに視線を落とし、それから穏やかに言葉を続けた。
「ええ、何気ない会話の中で触れていらっしゃいました。些細なことですので、気にされなくても構いません」
「そっか」
すぐに納得して、もう一つ食べる。おいしい。
そのまま、ゆるゆると時間が流れていく。わたしが話して、ナギサちゃんが静かに相槌を打って、また話して、少し笑って。
同じ話を何回か言った気もするけど。ナギサちゃんは、そのたびに同じように頷いてくれる。訂正もしないし、止めもしない。ただ静かに聞いてくれる。
わたしはこの光景をどこかで見た気がしたのに、何も思い出せない。
「サトウさん」
ふと、ナギサちゃんが呼ぶ。
「んー?」
わたしはオランジェットを口に入れたまま、顔を上げる。甘さとほんの少しの苦味が舌に残っていて、それがなんだか心地いい。
「あなたは、本当に楽しそうに話しますね」
ナギサちゃんの声は、いつも通り落ち着いていて、丁寧で、少しだけ遠くから響いてくるみたいだった。
「うん! だって楽しいし!」
わたしはすぐにそう答える。考えるより先に出た言葉。今ここにいることも、ナギサちゃんと話してることも、全部ちゃんと楽しいから。
ナギサちゃんはほんの少しだけ視線を落とす。カップの縁に触れる指先が、わずかに止まった。
「……そうですか」
その声はやわらかいのに、どこか寂しそうだった。
わたしはその違いにうまく名前をつけられない。ただ、さっきまでと同じはずの時間の中に、ほんの少しだけ違う温度が混ざった気がした。風が止まったみたいに、空気が一瞬だけ静かになる。
それでも、ナギサちゃんはすぐに顔を上げて、いつもの調子で紅茶を口に運ぶ。
わたしはもう一つオランジェットをつまむ。甘さが戻ってきて、その違和感をやさしく包み込む。
「ナギサちゃんも楽しい?」
そう聞くと、ナギサちゃんは一拍だけ間を置いてから、わずかに微笑んだ。
「ええ、それだけは絶対に」
その答えはきちんとしていて、嘘じゃないように聞こえた。でも、言葉の奥に、わたしの知らない何かがある気がして少しだけ気になった。きっと触れてはいけない人の柔らかい部分。
「ナギサちゃんって、すごいよね」
ぽつりと、言う。
「どういう意味でしょうか」
「なんか、こう……ちゃんとしてる!」
「曖昧ですが、意図は理解しました」
少しだけ、息を吐くみたいに笑う。
「サトウさん」
「んー?」
オランジェットを齧った時に話しかけられたから、ついそのまま返事をしてしまう。
「あなたは、そのままでいてください」
急に祈るみたいにそう言われてしまった。
「え?」
思わず聞き返してしまう。ナギサちゃんはほんの一瞬だけ視線を外して、それからいつもの落ち着いた表情に戻った。
「独り言のようなものです」
そう言ってカップを持ち上げる。その動きはさっきまでと変わらない。丁寧で、最初からなにもなかったみたいに。
わたしは首を傾げる。今の言葉の意味を考えようとするけど、うまく掴めない。胸の奥に少しだけ引っかかるのに、形にならないまま、するっと抜けていく。
「そっか」
それだけ言って、オランジェットをもう一つ食べる。甘さが広がって、さっきの引っかかりも少しだけぼやける。深くは考えない。たぶん、そういうものなんだと思う。
そうやって、またいつも通りの時間に戻っていった。
やがてカップの中身がなくなって、お菓子も全部食べ終わる。テーブルの上には、さっきまでの時間の名残みたいに空になった皿と、少しだけ残った甘い香りだけが残っていた。
「そろそろ、時間ですね」
ナギサちゃんが言う。
「また来てもいい?」
「もちろんです」
わたしがそう聞くと、ナギサちゃんはすぐに頷いた。それからほんの少しだけ間を置いて、言葉を続ける。
「それではまた明日、お会いしましょう」
その言葉に、わたしは笑う。
「うん!」
心の奥でほんの少しだけ考える。
きっと寝て起きた後にまた忘れちゃうんだろうな。それでいいと思うのに、明日のわたしに対して少しだけずるいとつい思ってしまう。
「じゃあね、ナギサちゃん!」
わたしは力いっぱい手を振る。
「ええ、お気をつけて」
ナギサちゃんは静かにそう言って、わずかに微笑んだ。
その表情をもう少し見ていたいと思ったけど、足は自然と前に進んでいく。わたしの心と体はいつだって別々だった。
わたしは振り返らないまま、中庭を離れる。
部屋に戻ると、少しだけ静かすぎる気がした。さっきまで耳にあった声や、紅茶の匂いが、急に遠くへ押しやられたみたいに薄くなる。
理由は分からない。
でも、なんだか落ち着かない。
とりあえずノートを手に取る。今日のことを書こうと思って、ページをめくる。ぱら、ぱら、と紙の音がやけに大きく響く。そのまま前のページも少しだけ見返してみる。
昨日のわたし。
一昨日のわたし。
同じような文字。似たような言葉。
なのに、どれも少しだけ違う。
「……あれ?」
手が止まる。
ノートの番号が、一冊分飛んでいる。
手元にあるのは322冊目のノート。320冊目のノートなら、何度も開いた跡が残っていて、端が少しだけ柔らかくなっている。でも、その間にあるはずの321冊目だけがどこにも見当たらない。
「……んー?」
小さく首を傾げる。
失くしたのかな。
机の上や床、積み上げたノートの隙間もざっと見る。でもやっぱり見つからない。表紙の日付を一つずつ追いかけても、その一冊だけがぽっかり抜けている。
すぐに探すのをやめる。
元々、無造作に置いてるし。
どこかにはあるでしょ、たぶん。
そう思うことにする。
ノートを開いて、ペンを持つ。
今日のことを書く。
ナギサちゃんのこと。
オランジェットが美味しかったこと。柑橘が好きだったこと、紅茶の匂いと、白いテーブルと椅子、風の静けさ。
「よし」
書き終えて、そっとノートを閉じる。
少しだけ、胸の奥がざわついている気がした。なくなった一冊のことかもしれないし、違う何かかもしれない。
でもその理由を考える前に、抗い難い眠気がゆっくりと降りてくる。
「おやすみ、今日のわたし」
小さく呟いて、ベッドに体を預ける。
天井を見上げると、光はもう消えていて、部屋は暗くなっていた。わたしはいつ電源を切ったんだろう。
目を閉じる。
わたしの一日は、そうして静かに終わった。