罧原サトウという少女を初めて認識したのは、入学して間もない頃だった。
もっとも認識というほど大仰なものではない。同じ教室に机を並べていれば興味の有無とは無関係に他人についての些細な情報は目に入る、程度のものでしかない。
緑色の髪をした、年齢にしては少々小柄な女の子。制服の袖から覗く腕や膝にはいつも絆創膏が貼られていて、名前を呼ばれれば妙に張りのある返事をする。休み時間には近くの席の生徒とよく話し、時折、廊下を隔てても彼女だと分かるほど朗らかな笑い声が聞こえてくる。
罧原サトウ。
名前と顔、それから多少賑やかな性格。その程度の情報だけが私の中で「同じクラスの生徒」という大雑把な分類に収められていた。
当時の私は人付き合いというものにさほど積極的ではなかった。別段誰かを嫌っていたわけではないし、必要があればちょっとした日常会話や協力もする。ただ、人が2人いれば互いの思惑が生じ、3人になればそこへ関係性まで加わる。何気ない一言にも受け取り方一つで幾重にも様相を変えてしまう有り様が。沈黙にさえ意味を見出そうと思えば見出せてしまうし、そういう曖昧なものを読み合う時間が嫌いというより、単純に疲れてしまうという単純なお話。
だから昼休みになると、いつも私は真っ先に教室を離れ、1人きりの時間を作った。
賑やかな廊下を抜け、校舎の裏手へ回り、古い煉瓦敷きの小径を歩く。低い生垣に囲われた先には白いテーブルと数脚の椅子があり、校舎からそう離れていないわりに訪れる生徒は少ないような、そんな閑散とした空間。周囲の木々は人目を遮る程度に枝葉を茂らせているから、少し離れれば誰かが座っていることさえ分からない。
そこで一人、紅茶を飲む。
私にとってそれはお茶会ですらない。誰かを招くために茶器を並べるのではなく、むしろ誰も招かずに済む時間を確保するための習慣だった。
その日もティーポットから紅茶を注ぎ、細い湯気の向こうに庭を眺めていた。葉擦れの音に遠い校舎から届く生徒たちの声が薄く混じっている。角砂糖を一つ落とせば、琥珀色の底へ沈みながら、白い輪郭がゆっくりと崩れていった。
変化に乏しい時間だったが、私はそれを気に入っていた。
「桐藤さんだ」
だから、その声はひどく鮮明に聞こえた。
カップの縁が受け皿へ触れ、小さく鳴る。振り返ると生垣の向こうから緑色の頭が覗いていた。
「……罧原さん?」
「うん。こんにちは」
サトウは生垣を回り込み、何を警戒する様子もなく片手を上げた。その手には絆創膏がある。昨日まではなかったものだ。
またどこかで転んだのだろうか。そう考えてから、昨日の彼女の怪我の度合いを覚えていたことに少し驚いた。
「こんにちは。……このような場所で、どうされたのですか?」
「うーん……散歩してた、のかな」
「散歩?」
「たぶん、そう。道があったから歩いてきたら、桐藤さんがいたの」
それだけ、とでも言うように笑う。
どうにも目的の見えない答えだった。私を探していたわけでも、何か用があるわけでもないらしい。ただ道があったので歩いてきて、その先に見知った顔があったから声をかけた。
人の行動には何かしら理由があるものだと思っていたけれど、この少女の場合、理由を探す方が余計なのかもしれない。
「お茶してるの?」
「えぇ、まぁ。そうですね」
「うん?」
何処に引っ掛かる要素があったのだろうか。
「それは質問というより、確認ではありませんか?」
「あ、そっか」
指摘すれば、あっさり納得してしまった。
少々、調子が狂う。
彼女の視線が私から外れ、テーブルへ落ちる。白磁のティーポット。その傍らに置いた焼き菓子。視線がそこで止まり、ほんの僅かに目元が明るくなった。
「食べたいのですか?」
「え?」
「先ほどから見ているでしょう」
罧原さんは小皿を見、それから私を見た。どうやら自分が見ていたことにすら気付いていなかったらしい。
「おいしそうだなーとは思ってた」
「でしたら、一つくらい――」
「あ、いいよいいよ」
予想していなかった所で言葉を遮られた。
「桐藤さん、一人でゆっくりしてたんでしょ? 邪魔しちゃってごめんね。じゃあまた教室で!」
言い終えるや否や、本当に踵を返す。
遠慮深い、というのとは少し違った。食べたいものは食べたいと顔に出す癖に、こちらが一人でいたいのだと分かればそこには踏み込まない気遣いの様なものを感じた。親しくなろうと会話を引き延ばすこともなければ、せっかく来たのだからと居座ることもしない。
人懐こいのに、妙なところで掴めない様な人だ。
緑色の髪が木漏れ日を受け、そのまま生垣の向こうへ消えようとしたのを見て、目が眩む様な衝撃を受けた。掴めない日溜まりの様な光に触れてみたい、なんて。
「……罧原さん」
呼び止めてから、らしくないなと自分でも思った。
「ん?」
罧原さんが振り返る。
用件はない。
帰ってくれるのなら、私は数分前までの静かな時間へ戻れるのに。それを望んでこの場所まで来ているのだから、本来なら何の問題もない筈だった。それでも一度呼び止めてしまった以上、今さら何でもありませんとも言いづらい。
「紅茶は、お嫌いですか?」
「好きだよ」
「そうですか」
「うん」
そこで一度会話が終わった。
罧原さんが首を傾げる。
「…………?」
どうやら察してはくれないらしい。
思わず小さく息を吐いた。
「一杯程度でしたら、お出ししますよ。いつも絶妙に余らせてしまうのが少し、心苦しかったので」
「いいの?」
今度こそ伝わったのか、ぱっと顔が明るくなる。
「私から申し出ておいて駄目だと言うほど、意地悪ではありません」
「やった。ありがとう、桐藤さん!」
先ほどまで帰ろうとしていた人間とは思えないほど迷いなく、向かいの椅子へ座った。
慎ましいのか図々しいのか、よく分からない。
けれど彼女の中ではきっと、凡ゆる物事がもっと単純なのだろう。招かれていないなら帰る。招かれたのなら座る。余計な推量を挟まない分、むしろ一貫しているのかもしれなかった。
その日、何を話したのかは後になっても殆ど思い出せなかった。授業の事だったかもしれないし、昼休みの前に廊下で転んだ話だったかもしれない。けれど妙なことばかり覚えているのは意外だった。
見た目の印象に反して紅茶を随分ゆっくり飲むこと。焼き菓子を口へ運ぶたび、律儀においしいと何度も呟くこと。帰り際には空になったカップをきちんと受け皿へ戻し。
「ごちそうさま。またね」
と、まるで次があることを疑っていないように笑ったこと。
翌朝、教室へ入ると、彼女は笑顔で挨拶して来た。
「桐藤さん、おはよー」
一瞬、自分が呼ばれたことに気付かなかった。視線を向ければ、席に座った彼女がこちらへ手を振っている。
「……おはようございます、罧原さん」
それだけで、罧原さんは満足したように前へ向き直った。
昼休みになった。
結論を言えば、彼女は来なかった。
別段おかしな事ではない。昨日は偶然出会い、成り行きで紅茶を一杯振る舞ったに過ぎない。去り際のあの言葉も、教室でまた会おうといった意味とも受け取れる。約束をした訳でもないのだから、今日も来ると考える方がおかしい。
翌日も来なかった。
そして、その次の日。何処となく憂鬱な気分で紅茶を一口飲んだ所で、生垣の葉が擦れた。
「桐藤さん、またここにいる」
顔を上げると、見覚えのある緑色が覗いていた。
「また来たのですか」
声が弾んではいないかと、努めてトーンを落とす。
「うん」
「なぜ?」
「散歩」
「前回もそう言ってましたね」
「好きなんだ、散歩」
特に疑ってない顔だった。どうやら本人の中ではこれ以上なく正確な回答らしい。
「そうですか」
諦めて紅茶へ口をつけると、彼女は前回と同じようにテーブルを眺めた。それから、こちらの邪魔をしないようにとでも思ったのだろう、すぐに身を翻した。
「じゃあ、また――」
「飲みますか?」
つい前回より早く、言葉が出た。
「いいの?」
彼女は何処か意外そうに振り返る。奇しくも以前と同じ言葉が吐かれる。
「一杯程度でしたら。いつも絶妙に余らせてしまうのが少し心苦しかったので」
私もそれに倣う様に同じような言葉が流れた。
「ありがとう!」
白磁は割れ物なのだから一つ余分に持っていて困ることはないと、基本的に二つ購入していたのが幸いしたようだ。
その後から、彼女が来る日は次第に増えていった。
「今日もいい?」
「逆に、私が駄目だと言ったことがありましたか?」
「ない、かなぁ」
「でしたら、いちいち確認しなくても結構ですよ」
「じゃあ明日からは勝手に座るね」
「それはそれで少々腹が立ちますね」
「えー、難しいなぁ」
罧原さんが困ったように眉を下げる。
思わず笑ってしまった。それを見ても彼女は何も言わなかった。ただ焼き菓子を一つ摘まみ、満足そうに齧った。
そうした日々を重ねる内に、いつの間にか向かいの椅子は彼女の席になっていた。
紅茶は渋みの強いものより、香りの柔らかなもの。角砂糖は一つ。ミルクはいらない。焼き菓子なら柑橘を使ったものを好む。
努めて覚えようとした訳ではない。何度も見ていればその程度くらい自然と頭へ入ってしまうだけだ。
「ナギサちゃん、これおいしい!」
だから、最初は呼び方が変わったことより、菓子の方に意識が向いた。
「それはオランジェットといって――……待ってください」
「ん?」
「今、何と呼びました?」
「ナギサちゃん?」
あまりにも当然のように返されて、一瞬こちらの方が間違っているような気分になった。
「なぜ急に名前で呼ぶのですか」
「え?」
罧原さんは少し考えた。
「友達だから?」
その答えに、私は黙ってしまう。
友達。
いつから、と考える。
そんな約束を交わした覚えはない。けれど、そもそも友人というものは契約のように成立した日時を特定するものでもない。何度も同じ場所で紅茶を飲み、くだらない話をして、沈黙していても対して気不味くもならない。
それを友人と呼ぶのなら、恐らくは何も間違ってはいないのだろうと。
「えっと、……嫌だった?」
「……いえ。別に、構いません」
「よかった。じゃあナギサちゃんだね。わたしのことも、サトウって呼んでよ」
彼女は何でもない事のように、あっさりと笑ってみせた。
それだけの事なのに、その日から自分の名前を呼ばれるたび、ほんの少しだけ底に何かが沈澱していくようだった。
例えるならば、眩しくて堪らない太陽が、荒れ果てた地面に堕ちて来たような。
それから何日かして、サトウさんが来なかった。
いつもの時間に庭へ入り、お気に入りのティーポットを置き、菓子を並べる。カップを二つ置いてから、手が止まった。
今日は来るとは聞いていない。
少し経ってから、一つを片付けた。
翌日も来なかった。
教室にはいる。休み時間には他の生徒と話していたし、昼前には廊下を走って水色の髪の生徒に叱られていた。見る限り、体調が悪いわけでもなさそうだった。
なら、別に構わないだろう。そう思って今更変えられない習慣の様に庭へ来た。
静かだった。
以前ならそれだけで満足できた筈なのに、本を開いても文章が頭へ入ってこない。一頁を読み終え、何が書いてあったのか思い返して、また同じ頁へと戻る。その繰り返し。
数行読むと、どうにも景色が気になり、生垣へ視線が流れる。
当然誰もいない。
また本へ戻るも、しばらくしてもう一度視線が手元から外れる。
そこでようやく、本を閉じた。
どうやら私は、待っているらしい。その事実を認めた途端、妙に馬鹿らしくなった。
同じ教室に居るのだから顔なら朝から見ている。それなのにこの場所へ来るか来ないかが気になっているらしかった。
理由までは考えなかった。
何となく、考える必要がないような気もした。
3日目。
「ナギサちゃん!」
聞こえた瞬間、顔を上げていた。
サトウさんが生垣の向こうから走ってくる。緑色の髪が跳ね、石畳を蹴る足が、その途中で僅かな段差に引っ掛かった。
「わっ」
「さ、サトウさん!?」
椅子を引くことすら忘れて立ち上がる。彼女は両腕を大きく振り、どうにか転倒を免れていた。
「……ぁ、危なかったー」
笑っている場合だろうか。私は大きく息を吐いた。
「あまり心配させないでください……それから、もうお気付きかと思いますが、そこは僅かに段差があるのですからあまり走らないでください。貴女はただでさえよく転ぶのですから」
「ごめんごめん。昨日と一昨日もごめんね。ちょっと来られなくて」
「……いえ、それは別に。私も、貴女が来ることを前提にしているわけではありませんから」
「そっか」
素直に頷かれて、少しだけ困った。
サトウさんの視線が向かいの席へ落ちる。
そこには、まだ一つ分だけのカップが置いてあった。昨日は片付けたものを、バケットから出してやらねばならない。
「断りはいれなくて良いんだよね?」
「それはそれで腹が立ちますね」
「えー……難しいなぁ」
サトウはそれ以上、何も言わなかった。
ティーポットを傾け、あらかじめ用意しておいたカップへ紅茶を注いでいく。白磁の上に小さな花々を散らした、普段の私ならあまり選ばない意匠のものだった。
以前、似た柄を見かけたサトウさんが「かわいい」と眺めていた。それを覚えていたから選んだのだが、わざわざ本人へ伝える程の事でもない。何食わぬ顔で紅茶を注ぎ終えると、カップを彼女の前へ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう、ナギサちゃん」
サトウさんは両手でカップを受け取った。すぐに口をつけるかと思ったが、ふと手元へ視線を落とし、そのまま数秒、花柄を眺めている。取っ手を摘まんで僅かに角度を変え、側面へ散った小さな花を目で追ってから、ほんの少し頬を緩めた。
かわいいでしょう、と尋ねるのも違う気がしたし、貴女が好きそうだったから選んだのだと明かすつもりもなかった。ただ、自分のカップを手に取りながら、知らず口元が緩みそうになるのを紅茶で誤魔化す。
どうやら、気に入ったらしい。
それが分かっただけで十分だった。
ほんの少し長く眺めただけ。たったそれだけの反応なのに、店先でいくつもの茶器を見比べた時間まで報われたような気がするのだから、我ながら随分と単純なものだ。
昨日まで落ち着かなかった庭が、彼女が居るだけで元の形へ戻ったように思えた。
おかしな話だった。元の形というなら、一人でいた頃の方が長い筈なのに。
それからも特別なことは何も起こらなかった。サトウさんが来て、私が紅茶を淹れる。菓子を食べながら授業の話をし、廊下で転んだ話を聞き、昨日見つけた猫が可愛かったという話を聞く。私が本を読み、彼女が隣で黙って菓子を食べているだけの日もあった。
そんな日々の中で、気付けば私は朝一番に緑色の髪を探すようになっていた。
居れば、それでいい。
居なければ気になる、程度の。
新しい絆創膏が増えていれば理由を聞き、菓子を選ぶ瞬間には彼女が喜びそうなものへ視線が流れる様になった。
一つ一つなら、何もおかしくない。
友人なのだから。
けれどある日、珍しく別の生徒が中庭へ迷い込んで来た事があり、私は自分でも驚くほどその存在を煩わしく感じてしまった。別にここは公共の場である筈なのに、まるで縄張りに入られた様な不快感で息が詰まってしまう。
以前なら、人が来ること自体が嫌だったのに。あるいは、彼女と2人でいる所へ、誰かが入ってくることが嫌だったのか。
友人と2人で過ごす時間を好ましく思うことくらい、別に珍しくはないけれど。何だか知らず知らずの内に、あまり宜しくない感情へと育ってしまっていたらしい。
「ナギサちゃん?」
顔を上げる。
サトウさんがこちらを覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「……すみません、少し考え事をしていただけです」
「それは、難しいこと?」
「えぇ、少し」
「じゃあ、邪魔しない方がいい?」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。この少女は、近付くことには躊躇がない癖に、離れる時には驚くほどあっさりしている。私が一人でいたいのだと思えば、何も求めず帰ろうとしたあの日の様に。
今だって、邪魔だと言えばきっと帰るのだろう。そして明日から、本当に来なくなるかもしれない。
「いえ」
考えるより先に否定していた。
サトウさんが瞬きをする。私は空になりかけた彼女のカップへ断りもせずに紅茶を注いだ。
「いてください」
「ここに?」
「……他にどこがあるのですか」
「そっか。わかった」
サトウさんは笑った。あまりにも簡単な返事に、何処か救われた様な気持ちになる。
最初は一人になるための場所だったのに、今では向かいの椅子が空いている方が落ち着かない。
明日も来るだろうか。
では明後日は。
その次は。そこまで考えて、何だか馬鹿馬鹿しくなった。
同じクラスなのだ。明日になれば会える。卒業するわけでも、どこか遠くへ行くわけでもない。
彼女は友人だ。それで十分だろうと。
「ナギサちゃん」
「何ですか?」
「また来ていい?」
顔を上げる。彼女はいつものように笑っていた。
「……えぇ、もちろんです」
「よかった」
その笑顔を見て、私も笑った。友情と呼ぶことに何の間違いはなかったと思う。
ただ、もし誰かに、それは本当に友情だけなのかと問われたなら。少しだけ、答えに困ったかもしれない。
来なければ寂しく、つい姿を目で追ってしまう。
怪我をすれば心配になり、いつも私の向かいで笑っていてほしい。
明日も会いたい。
明後日だって、その先も。
「ナギサちゃん」と呼んでほしい。どれも、それ一つなら些細な願いだった。しかしそれらを全て集めたものを何と呼ぶのか。
当時の私は、既に何となく分かっていたのかもしれない。
そして、しばらく後。
私はふと、廊下の先に彼女を見かけた。
土日祝日を挟んでいたから、顔を合わせるのは実に数日ぶりだった。行き交う生徒たちの向こう、見慣れた緑色の髪を認めた瞬間には、もう足がそちらへ向いている。
ようやく会えた。胸中に浮かんだのは、そんなひどく素直な言葉だった。たかが数日なのだから大袈裟な、と自分で自分を窘めるより早く、サトウさんもこちらに気付いたようだった。
目が合う。私は当然のように、いつもの声を待った。
けれど、彼女は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ首を傾げただけで。
「…………?」
つい、足が止まる。
何かがおかしい。
そう思った時にはもう、先ほどまでの浮ついた気分など跡形もなく消えていた。
人懐っこい表情も、僅かに跳ねた緑色の髪も、腕や膝に貼られた絆創膏も、何一つ変わってはいない。見間違えようもなくサトウさんだ。けれど、私を捉えた黄緑色の瞳だけが、酷くよそよそしく見えた。
嫌われている訳ではない。
警戒されているのでもなさそうだ。
むしろ、その逆だった。
驚くほどに、何の感情も浮かんでいない。
親しい相手を見つけた時の僅かな緩みも、私の名を呼ぼうとする気配もない。廊下ですれ違った程度の、顔も名前も知らない生徒を見るのと何ら変わらない眼差しで、彼女は私を見ていた。
そして、いつものように笑う。
「こんにちは、はじめまして!」
明るい声だった。
何度も聞いた、彼女の声。
だからこそ、その言葉だけが現実から切り離されたように、ひどく遠く聞こえるようだった。
一瞬、理解が追いつかなかった。
何かの冗談だろうか。あるいは、からかっているのだろうか。
そう考えて、すぐに否定する。違う。私の知っている罧原サトウという少女は、こんな冗談は決して言わない。誰かとの間に積み重ねたものを、相手の反応を見るためだけに無かったことにするような人ではない。
ならば。目の前の彼女は、本当に私の事を知らないのだ。
「…………」
つい数日前まで同じテーブルを囲んでいた、彼女が友達だと呼んだ、私のことを。私が紅茶を淹れてサトウさんがそれを飲む。焼き菓子を口に運ぶたび嬉しそうにして、花柄のカップをしばらく眺めていたことも。
友達だと。ナギサちゃん、と呼び、またねと笑ったそれらは今、目の前にいるサトウさんのどこにも存在しない。
何があったのですか。私たちは同じクラスでしょう。
何度も一緒にお茶をしたでしょう。
貴女が私を友達だと言ったのでしょう。
私のことを、ナギサちゃんと呼んでいたでしょう。
喉元まで押し寄せた言葉を、寸前で呑み込む。
何が起きているのかは分からない。どうして私を覚えていないのかも分からない。ただ一つ確かなのは、目の前の彼女にとって、私は今この瞬間に初めて出会った人間だという事実だけだった。
ならばここで私だけが知っている過去を並べ立てた所で、彼女を困惑させるだけだ。
そう考えた。
あるいは、そう考えた事にした。
「……初めまして」
自分でも驚くほど平静な声が出た。
胸の内側では、先ほどから理解の追いつかない何かが静かに軋み続けている。それでも表情だけは崩さず、いつものように微笑む。
「桐藤ナギサです」
その名を聞いて、サトウさんの顔がぱっと明るくなった。
「よろしくね、桐藤さん!」
その呼び方を、私は知っていた。知っているからこそ、胸の奥が僅かに痛んだ。
まだ友達になる前の温度。彼女が私の好きな紅茶も知らず、私も彼女が柑橘の菓子を好むことを知らなかった頃。本当に初めて出会ったあの日、サトウさんは確かに私をそう呼んでいた。
随分と遠い所まで戻されてしまった気がした。
「……ええ。よろしくお願いします、罧原さん」
だから私も、同じ所まで戻ることにした。
ナギサちゃん、と呼んでいた彼女へ、どうして忘れたのかとは尋ねられない。
サトウさん、と呼ぶことも出来ない。
まだ何も知らなかった頃と同じように、こうして私たちは、2度目の対面を果たした。
彼女にとっては、何の変哲もない初対面として。
私だけが、その前にあった全てを覚えたまま。
◇
それを拾ったのは偶然だった。
放課後、教室へ忘れ物を取りに戻った帰りのことだった。
夕刻の校舎は、昼間とは別の建物のように静かになる。部活動へ向かう生徒たちの声も遠ざかり、長く伸びた西日が廊下を斜めに横切っていた。窓枠の影が床へ等間隔に落ち、その上を踏んで歩く度に私の靴音だけがやけに明瞭に響いてしまう。
私はそれが堪らなく鬱陶しく思いながらも、急いで帰る理由もなかったので、いつもより幾分ゆっくり歩いていた。
だから気付いたのだと思う。
階段へ差しかかる少し手前。廊下の壁際に、何かが落ちていたのに。
「……?」
一度はそのまま通り過ぎかけて、足を止める。
それは一冊のノートだった。
それほど珍しいものではない。生徒の多いトリニティであれば筆記具や教本の落とし物など不思議な事でもないだろう。拾得物として届けてしまえば、それで終わる様な話だ。
私は腰を屈め、それを拾い上げた。
思っていたより厚い。一般的な学習用ノートとは少し違っていた。長く持ち歩かれていたのか、表紙の角は柔らかく潰れ、頁の側面にも細かな傷みがある。けれど雑に扱われていた印象は受けない。むしろ何度も開かれ、何度も閉じられ、持ち主の手に馴染んだ結果として古びているようにさえ見える。
教科名はない。代わりに表紙には、日付が書かれていた。
それから。
「……これは」
見覚えのある字だった。
几帳面とは言い難い。文字の大きさはところどころ揃っておらず、少し急いで書けば右上がりになる癖がある。
何度か見たことがある。
奇しくも私たちの席は隣同士だったから。授業中、私のノートの端へ勝手に落書きをされた時『あとで消しておいてくださいね』と私が返事を書くと『えー、かわいいのに』と不満そうにしていた。
思い出した途端、筆跡と一緒に声まで蘇った。
「……サトウさん」
思わず、そう呟いてしまう。
今の彼女の前では、どうにも呼べなくなってしまった字の響き。一人になると以前の呼び方が口をついて出てしまう。それが少しだけ可笑しかった。
笑えるようなことではない筈なのに。
「こんな大切そうなものを……」
落とすなんて、と続けかけて、口を閉じる。彼女なら落としかねないと、むしろ納得してしまう自分がいた。
転ぶ。ぶつかる。忘れる。何かに気を取られて別の何かを疎かにする。以前一緒にお茶をしていた時にも、教室へ筆箱を忘れてきたことに昼休みが終わる直前まで気付かなかったくらいだ。
そういう所は何も変わっていない。
そう思うと、ほんの僅かに安堵した。
ノートは明日返せばいい。同じクラスなのだから、わざわざ拾得物として届ける必要もないだろう。朝、彼女の席へ行って、落ちていましたよ、と渡す。それで済む話だ。
済む筈だった。
「…………」
しかし、何故だろう。どうしてかすぐに鞄へ入れる気になれなかった。
表紙を眺める。
日付や名前。使い込まれた跡。どう見ても、ただの授業用ノートではない。
日記、だろうか。そう思った瞬間、反射的に指を離しかけた。
他人の日記。それならば尚更中を見るべきではないのに。
持ち主の許可なく読むなど、褒められた行為ではない。たとえ知人のものであっても、友人のものであっても――今の彼女が私を友人と認識していないのなら、尚更。
私は閉じたままのノートを見下ろした。
明日返せばいい。ただ、それだけだ。
それだけの筈なのに。
頭の隅で、ひどく小さな欲望が生まれた。
この中には、私の知らないサトウさんが居るのだろうか。
その考えをすぐに恥じた。
何を考えているのだろう。彼女が私を忘れている事と、このノートとは何の因果関係もない。偶然拾った私物にこちらの都合で意味を見出すべきではない。
けれど、一度生まれた疑問はなかなか消えてくれなかった。
彼女は、何を考えているのだろう。
何を見て、何を覚えて。
何を――忘れているのだろう。
そこまで考えて、私は眉を寄せた。
今までの出来事を、何かの行き違いだと思うことも出来た。けれどあの日の彼女の目を思い出す度、その可能性が酷く浅慮の様な気もしている。
あれは知らないふりではなかった。本当に知らない様な反応だったから。その答えが、もしかしたらここに記されているかもしれない。
「…………」
親指が、無意識に表紙の端へ掛かっていた。
開こうと思えば、簡単に開ける。
一頁だけ。名前を確認するだけなら。何のノートなのか、それだけ確かめれば。
そうやって理由を作ろうとした自分に気付き、私は小さく息を吐いた。
「……いけませんね」
誰もいない廊下で呟く。
こういう時、人は実に都合がいい。先に欲求があり、その後から理由を用意する。自分の行いを正当化する理屈など探そうと思えばいくらでも見つけられるのだろう。
私は知りたいのだ。
サトウさんのことを。
そして、おそらくそれ以上に――私が忘れられた理由を。
けれどそれは、このノートを勝手に読む理由にはならない。結局、私は表紙から指を外した。
明日、返そう。ようやくそう決める事が出来て、今度こそ鞄を開いた。
その時だった。
傾けたノートの頁の間から、何かがするりと抜け落ちた。
「あ……」
最初は何かの紙片だと思った。栞代わりに挟んでいたものかもしれない。床へ伏せるように落ちたそれを拾い上げ、それを何気なく裏返す。
それは、一枚の診断書だった。
「…………」
見てはいけない。
そう思った時には、もう遅かった。
罧原サトウ。
まず目に入ったのは、見慣れた名前だった。そこで視線を逸らせばよかった。彼女のものだと分かった時点で、それ以上を読む理由など何処にもなかったのだから。
けれど、文字を読むという行為は、時として意識よりもずっと速く、名前を認識した視線は直ぐに下へ滑っていた。
病名と、その下に並ぶ、いくつかの所見。
難解な医学用語の全てを理解できた訳ではない。ただ、その中に混じっていた幾つかの平易な言葉だけは、嫌でも理解できた。
「…………あぁ」
声とも吐息ともつかないものが、喉の奥からぽつりと零れた。
頭の中でいくつもの出来事が音もなく繋がっていく。数日ぶりに会った私を見て、首を傾げたこと。
あの黄緑色の瞳に、私を知っている人間の色が何一つなかったこと。
「はじめまして」と笑ったこと。
桐藤さん、と呼んだこと。
私だけが覚えていた、あの日々のこと。彼女はそれらを忘れたのではない。少なくとも、私が考えていたような意味では。
彼女は――。
そこから先を考えることが、ひどく恐ろしかった。
私は慌てて診断書を伏せた。今さら何をしているのだろうと思う。既に目へ入ってしまった文字は、紙を裏返した所で消えてはくれない。
もう、知らなかった頃には戻れない。
そこに書かれていた平坦な文字から彼女の「はじめまして」の意味を理解してしまったことよりも、その事実を知った事で、目の前にある一冊のノートがもう単なる落とし物には見えなくなってしまった事を、だ。
もしもあの時、何も見なかったことにして診断書を挟み直し、そのままサトウさんへ返してしまえば、もしかしたら私は。
「…………ごめんなさい」
けれど、私はそうしなかった。
とうとう耐えきれなくなって、ノートを開いてしまった時のことを、今でも酷く、後悔している。