朝食後、部屋に戻った私は、それからずっとベッドに横になっていました。眠って全てを忘れてしまいたいのに、時々目が覚めてしまうせいで断続的に意識を途切れさせることが出来ません。
数時間に一度目覚めては、水を飲み、トイレに立つというのを繰り返して、気がつけば時計の針は21時を指していました。いつもならば、夜時間になる前に監房に帰ろうと移動する皆さんの足音が聞こえる頃です。
しかし‥‥廊下はとても静かでした。きっと皆さん、私と同じように今日は始めから部屋で過ごしているのでしょう。
水をひとくち飲んだ私は、再び横になって目を閉じます。静かに深呼吸をする自分の息遣いと、わずかに擦れるシーツの音以外、何も聞こえません。あまりにも静か過ぎるせいで、しまいにはキーンと耳鳴りが聞こえ始めました。
思わず両手で耳を覆ってみますが、それでも耳鳴りは消えません。キーンという音が頭というより、耳に響いている感触です。
寝返りを打って音を立ててみたり、壁を足で蹴ってみたりしても、音が止むことはありません。強く蹴ったせいで足の左側面が痛くなってしまいました。じんじんと軽く熱を帯びているのを感じます。
部屋にはヒナタさんがなぜかいません。どこかに出払っているようです。その事実が‥‥私を余計に苦しめました。
もう、誰もいなくならないでほしい。誰も死んでほしくない。側に‥‥いてほしい。
私がそうやって孤独に怯えていると、廊下の奥から足音が聞こえてきました。カツカツと高い靴音はゆっくりとこちらに近づいてきて、やがて私たちの監房の前で止まりました。
キィと扉が軋む音と共にヒナタさんが帰ってきました。弾かれたように、私はベッドから起き上がります。
【南雲 ヒナタ】
「‥‥どうしたんだい、篠宮さん?」
入室と同時に跳ねるように起き上がった私を見て、ヒナタさんが困惑しながらも尋ねてきます。囚人服の帽子を小脇に抱えていて、頭からほんの少し湯気が上がっているのが、廊下から漏れた灯りのおかげで見えました。どうやら、シャワーを浴びてきたようです。
思わず立ち上がった私は、ヒナタさんの方に駆け寄ると、彼女の左手を握りました。ヒナタさんもゆっくりと握り返してくれます。
【南雲 ヒナタ】
「‥‥こうしていると、安心するかい?」
【篠宮 マコト】
「‥‥ええ、とっても」
シャワーを浴びてきて体が火照っているのか、手を通じて感じるヒナタさんの脈拍はいつもより少し早いような気がします。じっくりと、その手で体温を、脈を感じ取ります。
安心して体の力が抜けたのか、私はヒナタさんの肩にゆっくりと頭を預けました。彼女は何も言わずにそれを受け止めてくれます。
【篠宮 マコト】
「‥‥ごめんなさい。今日は事あるごとに、ヒナタさんの手を握ってしまっています」
謝罪の言葉が口を突いて出ました。文句1つ言わずに、ヒナタさんは私の事を受け入れてくれます。そんな彼女のことを利用しているような気がして、何だか申し訳なく思えてきました。
【南雲 ヒナタ】
「‥‥大丈夫。今朝も言ったけど、僕自身もまだ事件から立ち直れていないんだ。こうして手を繋いでくれると、僕も落ち着く」
ヒナタさんは、私のもう片方の手を取ります。しっかりと握り込むのではなく、そっと包み込むように。それだけでも、私は確かにヒナタさんとの繋がりを感じます。手を取って握り返してくれます。
彼女は、生きています。それだけで、私は十分でした。
気がフッと緩み、眠気がやってきました。ヒナタさんの熱が移って、体温がほんの僅かに上がったような気がします。頭の頂点から少しずつ溶けていくように、緩やかに意識がまどろんでいきます。
そろそろベッドに戻ったほうが良さそうだと、私は思いました。けれども、この手を離したくないとも同時に思っています。
同じく私の眠気を感じ取ったのか、ヒナタさんはゆっくりと繋いだ手を離そうとします。
無意識下でそれを嫌がったのか‥‥私は離れかけたヒナタさんの手を、もう一度深く、強く握り直します。指の1本1本に軽く力を入れて、逃さないようにして。
【篠宮 マコト】
「私が眠れるまででいいので‥‥。その‥‥もう少し、手を握っていてくれませんか」
考えることなく、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま彼女に向けて吐き出します。
出会って数日の仲で言うセリフでないことは分かっていましたが、それでも私は‥‥今は、誰かと繋がっていたいと。そう思ってしまったのです。
突然の申し出にヒナタさんは、ぎくしゃくしています。誰だって、こんな事を準備もなしに唐突に言われたら、困惑するに決まっています。
目を白黒とさせていたヒナタさんでしたが、何も言わずに静かに頷くと、私をベッドの方へと導きます。
手を繋いだまま、ヒナタさんは視線で横になるように促します。ゆっくりとベッドに腰掛けると、私はそのまま寝転びました。
その動きに合わせて、ヒナタさんはベッドの端に腰掛けました。その後、逡巡した様子を見せたかと思うと‥‥
【南雲 ヒナタ】
「‥‥ごめん、失礼するよ」
ヒナタさんは小声で何か呟くと、そのまま私のベッドに横たわりました。狭いベッドですが、私が壁側によることでなんとか2人で寝そべることが出来ました。
【篠宮 マコト】
「そ、そこまでしてとは、言っていないのですが‥‥」
突然の出来事に驚いて、ほんの少し目が覚めてしまいました。何もかもが色々と近くて、今度は私がぎくしゃくしてしまいます。
【南雲 ヒナタ】
「‥‥ごめん、強引だったね。でも‥‥こうしていたほうが、手を繋ぎやすいだろう?」
ヒナタさんは先ほどと違って、少し強めに私の手を握ります。僕も逃さない、という意思表示だと直感しました。
【南雲 ヒナタ】
「‥‥嫌だったかい?」
探るように、小さな声でヒナタさんは尋ねてきました。返事をするのが恥ずかしくて‥‥私はさっきと同じように、ヒナタさんの肩の辺りに頭を預けます。
そこから先は、お互いに無言でした。お互いの体温と脈拍を少しでも感じられるように軽く指を絡め合って‥‥ようやく安心感を得られました。
こうしている内に思い出されるのは‥‥昨日の事件で検視をした時の、リクアさんの“手”です。
検視の最中もリクアさんの体温は少しずつ、着実に失われていきました。それにつれて、人間の肌が、合成樹脂で作られた精巧な偽物のように変化していく感覚がしました。
‥‥その変化をこの身で実感したのが、昨日の事件で、何よりも恐ろしい体験だったかもしれません。
けれども、私が今握っているヒナタさんの手は温かいです。それどころか、むしろさっきよりも熱くなっているようにさえ感じられます。
じんわりと上がっていく体温が。緊張か何かで、じんわりと汗ばんでいくお互いの手が‥‥私たちが共に生きていることを示す何よりの“証拠”として、確かにそこに存在しています。
トクトクと、一定のリズムを刻むお互いの心臓の音が聞こえます。単調なリズムのそれも、今の私には極上の子守唄のように感じられます。
私は目を閉じます。‥‥この命を、失いたくない。失わせるわけにはいかない。
まだ、昨日の事件を‥‥リクアさんとシヅハさんの事を、私は引きずり続けるでしょう。
ですが、それでもきっと前に進んでみせます。2人の死を乗り越えるよりも、それはきっと険しい道かもしれません。
けれど‥‥引きずるのもまた前に進む方法です。ヒナタさんは、それを肯定してくれました。
意識がゆっくりと落ちていきます。前に進むために。仲間の皆さんと共に生きていくために。今は‥‥眠って、ゆっくりと休みましょう。
眠りに落ちる前。最後にヒナタさんの存在をもう一度確かめようと、僅かに体を彼女の方へとゆっくりと寄せて‥‥そこで、私の意識は途切れました。
ふたりきりの監房。狭いベッドの上で、2つの寝息が静かに音を立てます。不快な耳鳴りは、もうすっかり止んでいました。