機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
重い。
あまりにも、重すぎる。
肺の中に鉛を流し込まれたような感覚。
1Gの重力に守られた地球の人間には、一生理解できないだろう。
ここ、木星圏で生きるということは、常に3倍の重力という見えない巨大な足に踏みつけられ、内臓を押し潰されながら呼吸を繋ぐということだ。
「……見てごらん、ベルナデット。これがかつて木星が産み落とした、最高の天才だ」
父、クラックス・ドゥガチの枯れ木のような指が、モニターを指し示す。
車椅子に固定された父の身体は、すでに腐敗した独裁者のそれだ。だが、その瞳に宿る熱量だけは、絶対零度の宇宙を焼き尽くさんばかりにぎらついていた。
モニターに映るのは、数10年前に戦死した男、パプテマス・シロッコ。
絹のように滑らかな金髪。他者を慈しむようでいて、その実、すべてを見下しているような、吐き気がするほど端正な顔立ち。
彼は木星帰りのプレッシャーをその身に纏い、地球圏という名の温室を、たった1隻の輸送船で蹂躙した。
「彼は惜しかった。女性を立て、女性が支配する世界を説きながら、結局は自分自身の天才という殻を破れなかった。私欲のために木星を利用したに過ぎん」
父が歪んだ笑みを浮かべる。
「だが、私は違う。私は、木星で死んでいった数100万の民の怨念を、そのすべてを背負って地球を焼く。ベルナデット、お前はそのための、私の最後の良心なのだよ」
良心。
その言葉が、私の喉元までせり上がった胃液を逆流させる。
父様が求めているのは、娘の幸せではない。
自分という醜悪な欠片を、高貴な王女という殻に詰め込み、地球という楽園へ送り込むための、単なる象徴に過ぎない。
執務室を出ると、そこは窓のない、無機質な灰色の通路が続いていた。
リニアトレインの駆動音が足の裏から骨を伝って響く。
ここはジュピトリス級万能輸送船の心臓部。
一歩外に出れば、そこには地面など存在しない。
ただ、巨大なガス惑星が、その猛烈な重力と大赤斑という名の顎を開けて、私たちをいつでも噛み砕こうと待ち構えている。
私は自室に戻り、隠し持っていた古い、あまりにも古い磁気ディスクを、震える手で読み取り機に差し込んだ。
(……教えて。本当の木星を、あなたは知っていたの?)
画面にノイズが走る。
再生されたのは、1年戦争、あるいはそれ以前の記録。
そこに映っていたのは、シロッコのような華やかさも、父のような狂気も持っていない、静かな瞳の男だった。
シャリア・ブル。
木星帰りの最初の人。
公式記録では、彼はジオン公国にスカウトされ、ニュータイプとして戦場に散ったとされる。
だが、この非公式のログに刻まれていたのは、MSの操縦法でも、地球への憎悪でもなかった。
「宇宙の孤独は、人を優しくする」
ノイズ混じりの、穏やかな声。
彼は木星の猛烈な放射線帯を見つめ、ただ1人、凪のような瞳でこう続けた。
「誰の助けも届かない、この絶対的な暗黒の中で。隣にいる誰かの体温だけを頼りに生きる時、人は初めて、他者を理解しようと足掻く。その足掻きこそが、ニュータイプの正体だと私は信じている」
嘘だ。
私は、唇を噛み切らんばかりに強く噛んだ。
シャリア・ブル。あなたは間違っている。
あなたのいた時代から100年近く経った今、木星に溢れているのは、優しさなんて高潔なものじゃない。
1滴の水、1息の酸素すら管理され、密告と監視に怯え、地球へのどす黒い劣等感を、選民思想という毒で中和して生きる、惨めな棄民たちの咆哮だけだ。
ドレスの裾が、イオの視察で付着した硫黄の粉塵で汚れていることに気づく。
私はそのドレスを、衝動的に引きちぎりたくなった。
父は聖者なんかじゃない。
木星は、新人類の揺籃なんかじゃない。
ここは、ただの、巨大な、鉄の檻だ。
お姫様なんて、辞めてやる。
私は決意した。
この記録を、この優しさを説いた男の絶望を、私の目で見届けなければならない。
たとえ、父を、木星を、すべてを裏切ることになっても。
私は、磁気ディスクを胸に抱きしめた。
そこには、木星の冷たい金属臭とは違う、どこか遠い、まだ見ぬ緑の匂いがするような気がした。
宇宙世紀0133。
木星帝国の王女ベルナデット・ドゥガチは、お姫様の夢を、地獄の底に捨てた。
明日、私は密航する。
自由なんて、そんな大層なものはいらない。
ただ、鉄の味しかしないこの世界で、本物の生命の味を知るために。
その決意が、後に木星の100年を、そして宇宙世紀そのものを揺るがすことになるのを、まだ誰も知らない。