機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0136年。
地球の青を背にしてから3年。私は再び、あの鉛色の空の下へと戻ってきた。
ヘリウム輸送船のハッチが開いた瞬間、肺の奥まで侵食してくるのは、懐かしくも忌々しい金属の錆びた匂いと、リサイクルを繰り返した死んだ酸素の味だ。
木星。
父が「帝国」と呼び、私が「地獄」と定義した場所。
かつて逃げ出したこの場所に、私は自らの意志で、テテニス・ドゥガチとして帰還した。
「テテニス様……。本当によくぞ、よくぞご無事で……っ」
タラップの麓で私を迎えたのは、かつての廷臣たちでも、着飾った侍女たちでもない。
顔を煤で汚し、放射線防護服の継ぎ接ぎを隠そうともしない、疲れ果てた民たちだった。
彼らの瞳には、高貴なる王女への敬意など、もはや一滴も残っていない。そこにあるのは、指導者を失い、誇りを奪われ、明日のパンと酸素を保証しろという、野獣に近い飢餓感と憎悪だけだった。
「黙りなさい、この人殺しの娘が!」
群衆の端から、一発の銃弾が放たれた。
弾丸は私の頬の数センチ横をかすめ、ジュピトリス級のチタン合金壁に乾いた金属音を響かせた。
周囲の護衛が色めき立ち、銃口を民衆へと向ける。一触即発の、氷のような沈黙が通路を支配した。
私は、あえて一歩前へ出た。
震える膝を、ドレスの裾の下で力一杯踏み締めて。
頬をかすめた熱は、地球の暖かさとは似ても似つかない、木星の冷酷な拒絶そのものだった。
「撃ちたいのなら、撃ちなさい」
私の声は、思いのほか静かに、あるいは鋭く響いた。
鼓膜を突き破る沈黙の中、私は民衆一人ひとりの顔を、逃げずに見つめ返した。
「私はあなたたちのお父様を……クラックス・ドゥガチを殺しました。それは事実です。ですが、彼が地球へ放とうとした神の雷が、どれほどの絶望を木星に呼び込むか、あなたたちは知っていたはずです。彼が愛したのは木星の民ではない。自分自身の孤独だけだった!」
「嘘だ! 総統は我々に希望をくれた!」
「それは希望ではなく、劇薬です。パプテマス・シロッコが遺し、父が煮詰めた、選民思想という名の猛毒よ!」
私は叫んだ。
脳裏をよぎるのは、トビアが差し出してくれたリンゴの赤。あの生命の輝きを、この鉛色の檻の中に持ち込むためには、まずこの血塗られた過去を清算しなければならない。
殺気が、潮が引くように収まっていく。
民衆は、私の中に父の幻影を見たのかもしれない。あるいは、父とは決定的に違う、鋼鉄の意志を宿した「新しい支配者」の萌芽を見たのか。
だが、現実は甘くない。
帝国が崩壊し、配給システムは麻痺している。
「再建」という言葉は、この鉄の塊の中では、泥濘を素手で掻き分けるような絶望的な作業を意味する。
執務室へと続く無機質な廊下を歩きながら、私は手元の端末に届いた「戦後処理の最終通知」を確認した。
そこには、かつて私を救ってくれた戦士たちの、その後の足跡が事務的に記されている。
――キンケドゥ・ナウ、除籍。
その名は、クロスボーン・バンガードの解散と共に公式記録から完全に抹消されていた。
エースパイロットとしての特権も、モビルスーツの操縦桿もすべてを捨て、彼は本名の「シーブック・アノー」として、一人の女性の隣で静かな日常へと帰還したのだ。
彼はもう、戦わない。
右腕に残った傷痕だけを戦士の証として、今はただ、愛する人のためにパンを焼く穏やかな時間を噛み締めている。
それは、彼が死線を潜り抜けてまで勝ち取りたかった、たった一つの、そして絶対の真実。
限界だった。
地球へ帰ったあの騎士のように、私もすべてを投げ出せればどれほど楽だろうか。
密かに願った「パンの焼ける匂い」は、この鉛色の空の下では、あまりにも遠い幻影でしかなかった。
「テテニス様、各ブロックの代表が、酸素供給の優先順位について拝謁を求めています」
側近の報告に、私は短く頷いた。
一段ごとに、木星の重力が魂を圧搾する万力のようにのしかかる。
地球の1Gに慣れた体には、この2.5G近い疑似重力環境は、文字通り骨を軋ませる拷問だ。
それでも、私は背筋を伸ばし続けた。
誰も見ていないところで、吐血するような孤独に苛まれても。
トビア……、君が守ってくれたこの命を、私はこの灰色の世界を塗り替えるための絵具として使い切るわ。
私は執務室の窓から、巨大な木星の縞模様を見上げた。
あれは「化け物の顎」ではない。
いつか、この鉄の檻を壊し、誰もが太陽を仰げる場所へと導くための、試練の海なのだ。
「始めましょう。木星を、ただの墓標にしないために」
私は、茨の冠を深く、深く頭に載せ直した。
トビアへの想いという、ベルナデットとしての唯一の贅沢を、心の最深部へと封印して。
宇宙世紀0136年。
再建の泥濘の中、テテニス・ドゥガチの孤独な統治が始まった。
それは英雄譚の終わりであり、一人の女性が「聖母」へと至る、長すぎる巡礼の始まりでもあった。