機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0136年。
木星圏の再建は、遅々として進まない泥濘の中にあった。
連邦政府からの支援は滞り、資源採掘のノルマだけが冷徹に突きつけられる日々。
私は、各ブロックから寄せられる酸素供給の優先順位を巡る陳情の山に、精神を摩耗させていた。
「テテニス様、少しはお休みにならないと。……第71試験農耕区画の視察は、明日に回しましょうか」
側近の言葉を、私は首を振って拒んだ。
逃げ出したかった。
けれど、私が足を止めることは、この鉄の檻で生きる何万もの民の命を放り出すことと同義だ。
私は護衛を最小限に減らし、試験農耕区画へと足を運んだ。
そこは、かつて父が軍事施設として建設し、今は放棄された区画を、外部からの「協力者」たちが開墾している場所だ。
「……あら、お姫様。こんな煤けたところまで何の用?」
声をかけてきたのは、ボロボロの作業着を纏いながらも、その瞳に隠しきれない理知と強さを宿した女性、ルー・ルカだった。
彼女は古い無線機のメンテナンスを止め、不敵な笑みを浮かべて私を見つめた。
「ルーさん。……進捗はどうですか?」
「順調よ。あそこの『木星じいさん』が、また無茶な方法で土を作ってるから」
彼女が指差した先には、白髪の混じった髪を振り乱し、必死にクワを振るう一人の男の姿があった。
グレイ・ストーク――かつて木星の荒野で出会い、私の窮地を救ってくれた戦士。
その正体が、第一次ネオ・ジオン抗争を終結させた英雄、ジュドー・アーシタであることを知る者は、この木星圏でも極僅かだ。
「よう、テテニス! 茨の冠の具合はどうだい?」
ジュドーは顔の汗を拭い、屈託のない笑顔で私に歩み寄ってきた。
彼の放つプレッシャーは、戦場での鋭さとは異なり、今は大地に根を張る生命のような、暖かく、そして巨大なものへと変質していた。
「ジュドー……。私は、もう限界かもしれません。民を救おうとすればするほど、彼らからは『ドゥガチの娘』として憎まれ、父が遺したシステムに縛られていく……」
私の吐露を、彼は黙って聞いていた。
そして、彼は自分の掌を見せた。
そこには、木星の過酷な環境でようやく作り上げた、黒く、湿った「本物の土」が握られていた。
「いいか、テテニス。あんたが背負ってるのは、死んだ親父の罪だけじゃない。今、この瞬間を必死に生きてる連中の『明日』だ」
彼は土を、私の白い手に握らせた。
ひどく冷たく、それでいて確かな重みがあった。
「あんたは一人で王女様をやってるつもりかもしれないが、俺たちがここにいることを忘れるな。……ルーも、俺も、シャングリラの亡霊たちはしぶといんだ。あんたの焼くパンが、この木星で一番の御馳走になるその日まで、俺たちはここを離れやしないよ」
彼の言葉に、ルーも静かに頷いた。
かつて戦場を駆け抜け、歴史の表舞台から消えた彼らは、今、この名もなき開墾地で、木星の未来を耕している。
ふと、農耕区画の奥に、シートを被せられた巨大な質量が見えた。
かつて「ガンプ」と呼ばれ、今はもはや原形を留めぬほどに改修を繰り返された、伝説のモビルスーツの残骸。
それは、平和を願いながらも、いざという時には再び戦う覚悟を捨てていない、彼らの意志の象徴のように思えた。
「……ありがとうございます、二人とも」
私は、土のついた手で、目元を拭った。
鉛色の空は変わらない。
けれど、私の心には、あのキンケドゥ……シーブックが焼くパンの匂いに似た、微かな、けれど消えない希望の火が灯っていた。
「さあ、お姫様。一休みしたら、次の陳情を捌きに行きなさい。……あんたが折れたら、この土から芽が出る前に、みんな凍え死んじまうからな」
ジュドーの笑い声が、無機質な鉄の回廊に響いた。
私は、テテニス・ドゥガチとして、再び歩き出す。
この茨の冠が、いつか本当の冠になるその日まで。