機動戦士ガンダム 地獄の底のお姫様 ―木星帝国の王女は、地球を焼かないと決めた― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「これ、食べなさい。生き残った奴の義務よ」
戦闘の後、ハンガーの下でルー・ルカが、布に包んだ不格好な塊を差し出した。憧れのシーブックが焼くような、白くてふわふわのパンじゃない。ジュドーが温室の芋の粉を混ぜて、この鉄の檻の中で何度も失敗して、やっと焼いた、岩みたいに硬い黒パン。
受け取ったそれは、ずしりと重かった。手のひらにのせただけで分かる。ふわふわなんかじゃない。石を渡されたのかと思うくらい、みっしり詰まってる。表面はところどころ黒く焦げて、ひび割れて、正直、食べ物としては最低の見た目だ。……でも、まだほんのり温かかった。焼きたてなんだ。この鉄と油の匂いしかしない檻の中で、誰かがわたしのために、火加減と格闘してくれた。それだけで、鼻の奥がつんとする。
「ジュドーの奴、また火力を間違えて焦がしたけどね。でもこれが、わたしたちが木星で焼いた最初のパンよ。記念すべき失敗作」
わたしは両手で受け取って、思い切り齧りついた。硬い。喉を焼くような土の香り。洗練された地球の食事とは程遠い、生きるための野性味。決しておいしいとは言えない。歯が負けそうなくらい硬くて、飲み込むのにも苦労する。
……なのに。噛むたびに、温かい熱が胃の奥から全身に染み渡る。
あの日トビアがくれたリンゴの甘さ。シーブックが守った日常の匂い。それはもう、遠い地球の幻じゃない。不器用で、焦げてて、泥臭くても――今この手にあるこの硬いパンこそが、わたしたちが地獄の底で掴み取った“最初の現実”だ。木星で、土から育てて、木星で焼いた。誰かの憎悪じゃなくて、誰かの手間と優しさでできてる。そんな食べ物、この星にはずっと、なかったのに。
「……おいしい。ほんとうに、おいしいわ、ルー」
頬を涙が伝う。
「泣くほどまずいってこと?」
ルーはからかったけど、その目も少し潤んでた。乱暴な言い方しかできないのは、たぶんこの人も、照れてるんだ。わたしと、同じで。
父が遺した神の雷。地球を焼くはずだったその火は、今、わたしの涙とこの泥臭いパンの温もりの前で、やっと完全に消えたのかもしれない。憎悪じゃない。このささやかな温もりを守ること。それが、わたしの戦いの意味だ。焼くための火じゃなくて、パンを焼くための火。同じ火でも、こんなに違う。
背後に立ったジュドーが、わたしの肩にそっと手を置いた。
「あんたの選んだ道は、あの親父さんの帝国よりずっと厳しいぜ。奇跡も神の雷も起きやしない。ただ地道に土を耕して、パンを焼くだけだ。だがな――そいつが一番難しくて、一番尊い戦いなんだ」
その言葉が、硬いパンと一緒に、じんわり胸に落ちていく。派手な勝利も、劇的な救済もない。ただ明日も誰かがパンを齧れるように、今日も土を耕す。そんな地味な戦いを、この英雄は選んで、木星の底まで来てくれたんだ。……わたしも、そっち側でいい。ううん、そっち側がいい。
その時、ルーの握った古い無線機が、突然けたたましい雑音を吐いた。「なにこれ……アナハイムの暗号通信を傍受してる……」。断片的にしか聞こえない。でも砂嵐の向こうから、三つの単語だけが、はっきり耳に届いた。「マリア」。「エンジェル・ハイロウ」。そして――「量産」。……わたしはパンを握る手に、力を込めた。父の神の雷の残り火は、消えた。でも、あの氷水は。その灰の中から、もっと静かで、もっと恐ろしい次の火種を、とっくに育て始めてた。