機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0136年。木星の重力は、物理的な質量以上に、人々の「疑念」を重く沈殿させる。
第12精錬プラントのテロを鎮圧した後の木星圏は、静寂という名の耳鳴りに包まれていた。復興という言葉が美しく響くのは、地球圏の贅沢なサロンの中だけだ。ここでは、一本のボルト、1リットルの酸素が、誰かの政治的な意図によって測られている。
「テテニス様、月(フォン・ブラウン)からの貨物船が到着しました。……ですが、中身が事前申告と異なります」
側近の報告に、私は重い防寒コートの襟を立てた。
ハッチの向こう側に広がるドックには、地球圏の巨大企業、アナハイム・エレクトロニクスのロゴが刻印されたコンテナが整然と並んでいる。彼らは救世主の顔をしてやってくる。だが、その微笑みの裏側には、常に計算尺と「毒」が隠されていることを、私は父の書斎に残された古い通信記録から学んでいた。
「申告には『医療用ナノマシンと農業用プラント資材』とあったはずですが?」
「ええ。ですが、実際に荷解きをされたのは……モビルスーツ用の新型サイコ・フレームの試作パーツ、および高出力ミノフスキー・ドライブの実験データです。それも、ザンスカール系列の企業コードが刻まれたものが」
私は目の前が暗くなるのを感じた。
宇宙世紀の歴史において、アナハイムは常に「両方に武器を売る死の商人」だった。だが、今の彼らがやろうとしていることは、それ以上に悪質だ。彼らは、戦火の傷跡が生々しいこの木星を、地球圏では行えない非人道的な「技術試験場」として利用しようとしている。
「……彼らは、木星を救いに来たのではない。新しい戦いの種を蒔きに来たのね」
私はリニアトレインに飛び乗り、ジュドーたちが隠れ住む古い区画へと向かった。
鋼鉄の回廊を抜ける風は、循環システムの不調により、焦げた電子回路の匂いが混じっている。
私の視界に入るものすべてが、巨大な実験室の一部のように見えてくる。
「ジュドー! ルー! アナハイムが……あの人たちが、木星を売ろうとしています!」
農耕区画の入り口で、私は叫んだ。
ジュドーはクワを休め、額の汗を拭いながら、私の言葉を静かに受け止めた。
その傍らで、ルーは古い無線機のメンテナンスをしていたが、私の言葉を聞くなり、その美しい眉を不快そうに寄せた。
「あのタヌキども、まだ懲りてないわけ? 地球を戦場にするのに飽きたら、今度はこの鉄の箱を実験台にするつもり?」
ルーの声には、歴戦の戦士だけが持つ、鋭い怒りが宿っていた。
彼女は無線機を放り出し、私の肩を力強く掴んだ。
「テテニス、落ち着きなさい。……ジュドー、あんたはどう思う? 噂の『マリア主義』を掲げるフォンセ・カガチとアナハイムが、裏で繋がってるって話、本当みたいね」
ジュドーは土のついた手を見つめ、低い声で言った。
「ああ。カガチはかつてドゥガチの側近だった。奴は木星の怨念を宗教に変えて、再び地球を焼き尽くすつもりだ。アナハイムはその狂気を利用して、新しいおもちゃ――エンジェル・ハイロウの雛形を作らせようとしている」
エンジェル・ハイロウ。
その名を聞いた瞬間、私の背中を氷のようなプレッシャーが駆け抜けた。
サイコミュの極致。
シャリア・ブルが夢見た「理解し合うための力」が、シロッコの毒を経て、カガチの手によって「全人類を強制的に眠らせる精神兵器」へと変質しようとしている。
「……お父様と同じ過ちを、繰り返させはしない。私は木星の主として、あの荷物を送り返します!」
「甘いわよ、テテニス」
ルーが遮った。
「あいつらはもう、このドックの中に自分たちの『私兵』を潜り込ませてる。……ほら、始まったわ」
爆音。
重厚なチタン合金の床を突き破るような振動が、私たちの足を掬った。
モニターが映し出したのは、搬入されたコンテナを強引に奪還しようとする、所属不明のモビルスーツ部隊だった。
それらは、アナハイムが木星残党に「供与」した、試験用の新型機――デスフィズ。
その有機的なフォルムは、かつて木星の深淵で作られた「神の雷」の機体群を、より洗練された殺戮機械へと進化させたものだった。
「ルー、お姫様を守れ! 俺はガンプを出す!」
「分かってるわよ、ジュドー! テテニス、あんたは指揮を執りなさい。王女の権限でドックを封鎖するのよ!」
私たちは、混乱する区画を走り抜けた。
空気中に散布されたミノフスキー粒子が、通信を鼓膜を突き破る沈黙へと変えていく。
私はバタラのコックピットに飛び乗り、サイコミュのインターフェースを極限まで絞った。
他人の意志に呑まれてはいけない。
私は、私の意志で、この鉄の星を守るのだ。
ドック内は、すでに戦場と化していた。
アナハイムの技術者という名のエージェントたちが、新型機のデータ収集を優先し、避難する労働者たちを平然と機体の足元で踏み潰していく。
「止まりなさい! ここはあなたたちの実験場ではないわ!」
私はバタラのビーム・ライフルを放った。
高出力のメガ粒子が、デスフィズのシールドを焼く。
だが、新型機の機動力は異常だった。
木星の重力を無視するような慣性制御。
それは、サイコ・フレームを用いた「感応」による追従性の極致。
「くっ、これがサイコミュの進化だというの……!? 人の神経を無理やり機械に繋いで、魂を圧搾する万力のような力が!」
脳内に直接響く、敵パイロットたちの狂ったような高揚感。
彼らはアナハイムに「強化」された、使い捨ての実験体だった。
彼らの魂が放つノイズが、私の脳髄を灼く。
「テテニス、惑わされるな! 向こう側にいるのは、もう人間じゃない。ただのデータの断片だと思え!」
ジュドーのガンプが、デスフィズの一機を大型ビーム・サーベルで両断する。
だが、次から次へとコンテナから新しい「毒」が這い出してくる。
「ジュドー、左! 輸送船の影に潜んでる奴がいるわ!」
ルーが、古い作業用ポットを改造した狙撃機から、的確な支援射撃を繰り出す。
彼女の射撃には、迷いがなかった。
守るべき日常を知る者の、冷酷なまでに正確な一撃。
「……私は、負けない。この星を、二度とお父様の狂気にも、アナハイムの欲望にも渡さない!」
私は叫び、バタラを加速させた。
機体のフレームが悲鳴を上げ、冷却水の噴出音がコックピットに響く。
私はサイコミュを通じて、ドック内の管制システムに直接アクセスした。
王女にのみ許された、最高優先順位のプロトコル。
「全ドック、強制閉鎖! 重力発生装置、最大出力! アナハイムの貨物船を、この重力の底へ叩き落としなさい!」
宇宙世紀0136年の技術が、木星の超重力と組み合わさり、物理的な「壁」となって敵を圧殺する。
アナハイムの貨物船は、自重に耐えきれず、チタン合金の床にめり込んでいった。
新型機たちは、制御を失った重力に翻弄され、機動力を奪われていく。
「これで……終わりよ」
私は、逃げ遅れた最後の一機にビーム・サーベルを突きつけた。
だが、そのコックピットから聞こえてきたのは、アナハイムのエージェントの嘲笑だった。
「……テテニス・ドゥガチ。君がどれほど抗おうと、木星の毒はすでに地球に届いている。……マリアという少女を、我々がどう仕立て上げるか、楽しみにしているがいい」
爆発。
敵機は自爆し、その残骸は重力の底へと沈んでいった。
戦闘が終わった後のドックには、歪んだ鉄と、無機質なオイルの臭いだけが残っていた。
私は、機体から降り、膝から崩れ落ちた。
手に入れた「平和」は、あまりにも脆い。
私たちがここで泥を耕している間に、地球圏ではフォンセ・カガチとアナハイムが、新しい絶望の物語を書き換えている。
「テテニス、顔を上げなさい」
ルーが歩み寄り、私の乱れた髪を整えてくれた。
その瞳は、厳しい現実を映しながらも、絶望に屈してはいなかった。
「あいつらは毒を撒いた。なら、私たちはここで解毒剤を作るのよ。……ジュドーが耕すこの土が、いつかあいつらの計算を狂わせる日が来るわ」
「……はい、ルー」
私は、アナハイムのロゴが刻まれたコンテナの残骸を、力強く踏みつけた。
木星は、依然として戦いの実験場であり続けている。
だが、その鉄の檻の中には、計算式では測れない「意志」が芽生え始めていた。
ベルナデット・ドゥガチという名の遺言を、私は心に刻む。
私は指導者(テテニス)として生きる。
だが、トビアから貰ったリンゴの味を知る、あの弱くて自由な少女を、心の奥底で守り抜くために。
宇宙世紀0136年。
木星の再建は、さらに深い闇の中へと突き進んでいく。
だが、私の隣には、戦友たちがいた。
泥にまみれ、誇りを失わない、シャングリラの亡霊たちが。