機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
人は、なぜこんな地獄まで来たのだろう。
自室の冷たいベッドで天井の配管を見つめていた私の耳に、容赦のない金属音が飛び込んできた。隔壁がスライドし、無機質な軍靴の音が部屋に響く。
「テテニス様。また旧時代の遺物(ログ)を漁っておいでですか」
現れたのは、私の侍従であり、父の忠実な目でもある男、カガチだった。彼は慇懃無礼に頭を下げながらも、その鋭い視線は私の手元にある磁気ディスクを逃さない。
「……ただの暇つぶしよ、カガチ。この鉄の箱の中で、他に何ができるというの?」
私はディスクを隠すことなく、わざと退屈そうに言い放った。カガチは薄く笑い、窓の外に広がる木星の縞模様を指差す。
「暇つぶし、ですか。かつて人類が全エネルギーを地球に供給するため、ヘリウム3という名の『希望』を求めてこの地へ辿り着いてから100年。その歴史を暇つぶしと切り捨てるのは、些か贅沢が過ぎるというものです」
「希望? 笑わせないで。帰る場所を失った棄民たちが、凍りついたガス惑星の周りに巣を築いただけじゃない。ここは約束の地なんかじゃない、巨大な給油所に過ぎないわ」
私の言葉に、背後で控えていた若い女官、マーサが怯えたように肩を震わせた。彼女はこの鉄の檻で生まれ、地球の青を知らない世代だ。
「テテニス様、滅多なことを……! 総帥がお聞きになれば……」
「父様なら、今頃ディビニダドの最終調整に夢中よ。娘の愚痴を聞く暇なんてないわ」
私は立ち上がり、再生機に残っていたシャリア・ブルの声を響かせた。
「宇宙の孤独は、人を優しくする」
ノイズ混じりのその声が部屋に流れた瞬間、カガチの表情から温度が消えた。
「シャリア・ブル……検体番号1と呼ばれた、哀れな先駆者ですか。彼は木星の重力に脳を焼かれ、甘い幻想を抱いたまま死んだ。今の帝国に、そのような『優しさ』の居場所などありません。あるのは選民としての誇りと、地球という寄生虫を駆逐する鋼の意志だけです」
「誇り? 1滴の水、1息の酸素まで管理され、隣人を密告して生き延びることが誇りだと言うの? カガチ、あなたには見える? このログの中の彼が、どれほど静かな瞳をしていたか」
私は画面を指差した。そこに映るシャリア・ブルは、猛烈な放射線帯を見つめながら、凪のような瞳で微笑んでいる。
「孤独を知る者は、痛みを理解する。木星の暗闇に目が慣れた時、君には見えるはずだ。地球という、あまりにも眩しく、あまりにも残酷な光が」
「……毒ですね」
カガチが冷酷に断じた。
「その言葉は、民の戦意を削ぎ、秩序を乱す毒だ。テテニス様、お父上はあなたを帝国の『良心』として育てられた。ですが、良心とは時に、不要な慈悲という名の病を招く」
カガチは私に歩み寄り、低い声で囁いた。
「明日、衛星イオの精錬所で暴動が起きます。見せしめが必要になるでしょう。王女としてのあなたの初仕事は、彼らの処刑に立ち会い、慈悲を捨てることです」
カガチが部屋を去った後、静寂が戻った。マーサは泣きそうな顔で床に膝をついている。
「テテニス様……どうして、そんな反逆者の言葉を信じるのですか? 私たちは、木星で生きるしかないのに……」
「信じているわけじゃないわ、マーサ。確かめたいだけよ」
私は震える手で、シャリア・ブルが映る画面をなぞった。
なぜ、人は木星に来たのか。
文明を、家族を、未来を守るためだったはずだ。それがいつの間にか、地球を焼き尽くすための狂気へとすり替わった。
「お姫様なんて、もう辞める」
私はマーサの肩をそっと抱き、鏡の中に映る自分を見据えた。
シャリア・ブル。あなたが説いた「優しさ」が、この地獄でも通用するのか。それとも、カガチが言うようにただの毒なのか。
「明日、私は密航するわ。イオの処刑場ではなく、もっと遠い場所へ」
「え……? テテニス様……?」
驚愕に目を見開くマーサを背に、私は磁気ディスクを胸に抱きしめた。
足の下のチタン合金が、微かに軋む。
それは、重力に抗い、たった一人で目を開けた少女の、最初の反逆だった。
いつか、本物の緑を見た時。私はあなたに、もう一度答えを返そうと思う。
宇宙の孤独は、人を狂わせるのか。それとも本当に、優しくするのか。
鋼鉄の揺籠が、今、激しく揺れ始めた。