機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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エンジェル・ハイロウの胎動

宇宙世紀0147年。

木星の工廠を包んだ爆炎は、フォンセ・カガチの野望を止める決定打にはならなかった。むしろ、それは巨大な怪物の産声を、漆黒の宇宙(そら)へと響かせたに過ぎない。

私の視界に広がるのは、もはやただの「鉄の檻」ではなかった。

木星の衛星軌道上に組み上げられつつある、巨大な多重リング状のサイコミュ要塞――エンジェル・ハイロウ。

それは、父ドゥガチが執着した物理的な破壊兵器(ディビニダド)とは対極にある、精神の死を強制する巨大な断頭台だった。

 

「テテニス様、第4居住区のバイオセンサー反応が消失。民の思考波が、あの中枢へと吸い込まれています」

 

側近の声が、循環システムの重低音に混じって震えている。

私はリニアトレインの窓に額を押し当て、その巨大な円環を見上げた。

かつてシャリア・ブルが夢見た、人と人が分かり合うための「感応」。

パプテマス・シロッコが説いた、女性という揺りかごによる支配。

それらすべてが、木星の超重力下で「他者の精神を強制的に幼児化させ、眠りへと誘う毒」へと精製された。

 

「……シロッコ。あなたが遺した美しき毒が、ついにこの世界を窒息させようとしているのね」

 

私は独り、バタラのコックピットに滑り込んだ。

冷却水の腐った金属臭が鼻腔を突き、シートから伝わる微振動が、加速Gによる骨の軋みを予感させる。

今の私には、王女のドレスも、テテニスの仮面も必要ない。

ただ、この狂った設計図を書き換えるための、一振りの剣があればいい。

 

「サイコミュ・リンク、深度20。インターフェース、プロトコル・シロッコをバイパス」

 

私の脳内に、無数のささやきが流れ込んでくる。

それは、エンジェル・ハイロウに組み込まれた2万人のサイキッカーたちが放つ、純粋ゆえに狂暴な「祈り」だ。

マリアという名の少女を核(コア)にして、彼らの意識は一つに編み上げられ、木星の磁気圏さえも塗り替えるほどの精神圧(プレッシャー)となって溢れ出している。

 

「くっ……魂を圧搾する万力のような力が……脳髄を灼く……!」

 

私は叫び、メインスロットルを叩いた。

バタラのブースターが火を噴き、ミノフスキー物理学の限界域で加速する。

前方には、カガチの親衛隊が駆るゾロアットの試作型が展開していた。

彼らの動きは、もはや個人の意志ではない。

エンジェル・ハイロウから発せられる「母性の波動」に同期し、一つの巨大な意志の触手として私に襲いかかる。

 

「どきなさい! あなたたちが守っているのは救いじゃない、ただの死よ!」

 

私はビーム・サーベルを起動し、最短距離で敵陣を切り裂く。

サイコミュの木星的進化――それは、空間そのものを自らの意志の延長線上に置く、無線を超えた支配力。

私の振るう光の刃は、敵が回避を思考するよりも早く、そのコクピット・コアを正確に断ち割った。

爆光。

一機のゾロアットが沈黙する。だが、敵のパイロットから流れてくるのは、死への恐怖ではなく、不気味なまでの「安らぎ」だった。

 

「テテニス様……ああ、温かい……。私たちは、ようやくお母様の元へ帰れるのです……」

 

「……萌えないわ、そんな死に方」

 

私は歯を食いしばり、さらに加速した。

エンジェル・ハイロウのリングが、視界のすべてを覆い尽くす。

その中心部、シャリア・ブルが提唱した「ニュータイプの相互理解」の、最悪の完成形。

そこには、マリアという名の少女が、祈りの形をした生贄として据えられている。

 

「カガチ……! 人の善意を、ここまで汚して……!」

 

その時、通信機から老いた、しかし張り詰めた声が届いた。

 

「テテニス! それ以上近づくな! その領域の精神圧は、普通の人間が耐えられるもんじゃない!」

 

ジュドー・アーシタ。

彼はガンプを駆り、私の背後から迫る残党勢力を引き受けていた。

彼の放つプレッシャーは、荒れ狂うエンジェル・ハイロウの波導の中でも、一筋の温かな光として存在していた。

 

「ジュドー! でも、あれを止めないと、地球も、木星も、みんな眠らされてしまう!」

 

「分かってる! だがな、あそこにいる2万人の悲鳴を一人で背負おうとするな! あんたの根っこは、ここにあるんだ。地球でリンゴを食べた、あの瞬間の自分を忘れるな!」

 

ジュドーの叫びが、私の脳内に直接響いた。

そうだ。

私は、木星の王女として戦っているのではない。

トビアが教えてくれた、一個のリンゴの甘さ。

地面が揺れないことの奇跡。

空から水が降る、あの当たり前で、あまりにも美しい生命の味を守るために、私はここにいる。

 

「……ありがとう、ジュドー。私、正気に戻ったわ」

 

私はバタラのバイオセンサーを限界まで引き上げた。

あの中枢にいるマリア。

彼女もまた、この鉄の檻に囚われた、お姫様のドレスを着せられた犠牲者に過ぎない。

 

「マリア……! 私の声が聞こえる!? あなたが祈っているのは救いじゃない! カガチの野望を叶えるための、冷たいギロチンよ!」

 

私の意志が、サイコミュを通じてエンジェル・ハイロウのリングへと干渉する。

空間が歪み、ミノフスキー粒子の濃度が異常上昇する。

私の精神と、2万人の祈りが衝突し、火花を散らす。

鼓膜を突き破る沈黙。

その中心で、私は見た。

泣いている少女の、あまりにも静かな瞳を。

 

「……お姉様……? 助けて……。もう、祈りたくないの……」

 

マリアの微かな声。

その瞬間、エンジェル・ハイロウのリングの一部が、過負荷により爆発した。

カガチが作り上げた「強制的な安らぎ」が、一瞬だけ揺らぐ。

 

「今よ……!」

 

私はメガ粒子砲のトリガーを引いた。

だが、その一撃は、要塞そのものを破壊するまでには至らなかった。

リングは自己修復を始め、より強固な波導を放ち始める。

カガチの冷笑が、空間の端々から染み出してくる。

 

「無駄ですよ、テテニス様。これはもはや、個人の意志で止められるものではない。木星の100年にわたる孤独と劣等感、それがこの要塞を動かす燃料なのです。……さあ、世界を眠らせましょう」

 

カガチの波動が、私のバタラを弾き飛ばした。

機体のフレームが悲鳴を上げ、私は重力の底へと叩き落とされそうになる。

 

「……まだ……。まだ、終わらせない!」

 

私は姿勢制御バーを強引に引き、木星の闇を睨みつけた。

エンジェル・ハイロウ。

それは、かつての英雄たちが夢見た「希望」の、なれの果て。

だが、私は知っている。

絶望の中にこそ、小さな光は生まれるのだと。

 

宇宙世紀0147年。

エンジェル・ハイロウという名の胎動は、地球圏へとその魔の手を伸ばし始めた。

それは、後にザンスカール帝国という狂気を生む、最初の一歩。

 

私は、ボロボロになったバタラを駆り、ジュドーの待つ農耕区画へと帰還した。

頬を伝う涙は、重力に引かれて床に落ちる。

私はテテニスとして、これからも戦い続ける。

たとえ、マリアがカガチと共に地球へ去り、私が独りこの鉄の星に残されたとしても。

 

「待ってて、トビア。……私は、この檻を、いつか必ず壊してみせる」

 

私は、鋼鉄の空を見上げ、祈ることをやめた。

代わりに、私は一振りの剣を研ぎ始めた。

それが、私に許された、唯一の「未来」への対価だった。

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