機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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隣の恒星(プロキシマ)への切符

宇宙世紀0147年。

エンジェル・ハイロウという名の断頭台が地球圏へと去り、木星(ここ)に残されたのは、削り取られたような静寂と、冷え切った鉄の味だけだった。

カガチに扇動された民の熱狂は、聖母マリアを追って遠い青い星へと吸い出され、ガランとした居住区には、循環システムの重低音だけが鼓膜を突き破る沈黙となって響いている。

 

私はバタラのコックピットで、血の混じった唾を吐き捨てた。

サイコミュのインターフェース規格が脳に刻んだ強制感応の残痛が、いまだに神経を逆なでしている。木星の重力は、今日も魂を圧搾する万力のように私の肉体をシートに縫い付けていた。

 

「テテニス、生きてるか。……派手にやったな」

 

通信モニターに映し出されたジュドー・アーシタの顔は、かつて世界を救った最強のニュータイプというより、ただの疲れ果てた老整備兵のそれだった。だが、その瞳の奥には、木星の放射線さえも焼き尽くせない命の熱が、まだ微かに灯っている。

 

「……ジュドー。カガチを、マリアを止められなかった。私の力不足です。木星はまた、地球に毒を撒き散らす装置になった」

 

「あんた一人のせいじゃねえさ。この星の孤独は、もう一人の少女や王女が背負えるレベルを超えちまってる。……だからさ、俺は決めたよ。こんな狭い檻(システム)は、もう捨てちまうことにした」

 

「捨てる……?」

 

私は、彼の言葉の意味を咀嚼できなかった。

ヘリウム3の採掘プロセスを牛耳り、地球圏のエネルギーを支配することでようやく繋ぎ止めてきたこの木星圏を捨てて、一体どこへ行こうというのか。

 

「ああ。プロキシマ・ケンタウリ……隣の恒星だ。そこまで行けば、地球への執着も、木星のプレッシャーも、全部過去の遺物にできる」

 

ジュドーの背後に広がるのは、農耕区画の地下で極秘裏に建造されていた巨大な船体だった。

それはジュピトリス級のような輸送船ではない。1つの生態系を、1つの希望をそのまま宇宙に放り出すための、究極の脱出装置。

 

「恒星間航行……。そんな、ミノフスキー物理学を無視したような夢物語……」

 

「夢じゃねえよ。俺たちはここで100年、鉄を噛みながら生き延びてきたんだ。その執念があれば、隣の太陽にだって指が届く。……テテニス、あんたも来い。木星の王女(テテニス)じゃなく、ベルナデットに戻れる場所へ」

 

ベルナデット。

その名を呼ばれた瞬間、私の視界が熱く歪んだ。

トビアが愛してくれた私。地球の重力の下で、リンゴの甘さに涙した私。

もし、この鉄の檻を捨てて彼のもとへ行けるなら、どれほど救われるだろう。

 

私は、ジュドーの誘いを喉元まで出かかった言葉で受け入れそうになった。

だが、私の指先が触れたのは、コックピットの冷たいチタン合金のレバーだった。

窓の外、木星の大気圏を覆う貪欲なる大赤斑が、獲物を狙う化け物の顎のようにこちらを嘲笑っている。

 

「……行けません。ジュドー」

 

「……。だろうな、とは思ったがよ」

 

「私は、この星で生まれ、この星を汚した男の娘です。カガチが、マリアが、地球を傷つけるために旅立ったというのに、その責任の根源である私が、一人で楽園へ逃げることはできない」

 

私はドレスを脱ぎ捨て、パイロットスーツのジッパーを力強く引き上げた。

ここにはまだ、カガチに見捨てられ、絶望の底で鉄の粉を吸い込んでいる民がいる。

指導者を失い、信仰を奪われた彼らを、再びディビニダドやエンジェル・ハイロウの燃料にさせてはならない。

 

「私はここに残ります。この地獄の底を、いつかリンゴが実る土壌に変えるまで。……それが、私に許された唯一の贖罪なんです」

 

「……頑固なところは、ドゥガチに似ちまったな。だが、その瞳はあいつとは違う。……分かったよ。お節介なじいさんの出番は、ここまでだ」

 

ジュドーのガンプが、ゆっくりと巨大移民船へと向かって後退していく。

その背中は、どんな英雄の肖像画よりも大きく、そして寂しかった。

 

「テテニス。あんたがここを守るってんなら、俺はあんたがいつか見上げる空を、もっと広くしてきてやるよ。……あばよ、お姫様」

 

巨大な移民船が、木星の超重力に抗うように、青白いプラズマの尾を引いて上昇を開始した。

それは、宇宙世紀という閉じた円環を断ち切る、究極の「脱出」。

木星の歪んだプレッシャーからも、地球という呪縛からも解き放たれた、魂の移住。

 

「さようなら、ジュドー。……さようなら、シャングリラの亡霊たち」

 

私はバタラのモニター越しに、プロキシマの光を目指して加速する船を見送った。

居住区のLEDが擬似的な夜を告げ、冷え切った金属臭が再び鼻を突く。

独りになった。

かつて父が味わい、カガチが宗教に変えた、あの「底なしの孤独」が私を飲み込もうとする。

 

だが、今の私には「遺言」がある。

トビア・アロナクスが遺してくれた、心の中の太陽。

彼がいる地球が、カガチの狂風に晒されているのなら、私はここから、その風の源流を断ち切るための楔(くさび)になる。

 

「サイコミュ・リンク、深度10。……聞こえるか、木星の民よ」

 

私は全居住区に向けて通信を開いた。

指導者としてではない。一人の、鉄の味を知る人間として。

 

「フォンセ・カガチは去り、聖母は空へと昇った。だが、私たちの足元にあるのは依然として冷たい鉄だ。……絶望しろ。そして、その絶望を燃料にして、自らの手で土を耕せ。私は、最後の一人が希望を掴むまで、この地獄を去ることはない!」

 

宇宙世紀0147年。

木星は二つに分かれた。

新天地へ旅立つ者たちの輝きと、泥濘の中で自らの罪を耕し続ける者たちの沈黙。

 

私はバタラのハッチを開け、加速Gで軋む体を無理やり引きずり出した。

空気調整機から漏れる乾いた風が、私の頬を叩く。

萌えなど、ここにはない。あるのはただ、生きるという剥き出しの意志だけだ。

 

「……まずは、この区画の酸素供給を安定させなければ」

 

私は、テテニス・ドゥガチとして、最初の一歩を踏み出した。

地面が揺れない奇跡を、いつかこの星に作るために。

トビア。あなたが守ろうとしている地球の空を、私はここから見上げている。

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