機動戦士ガンダム 地獄の底のお姫様 ―木星帝国の王女は、地球を焼かないと決めた― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
木星の“鉛の空”は、かつてないほど静まり返っていた。
U.C.0153。地球圏を震わせたザンスカールの狂風も、エンジェル・ハイロウって巨大な揺籃も、遠い宇宙の彼方で、ついに塵に還った。リガ・ミリティアのあの少年たちが、命がけで狂気に終止符を打ったのだ。カガチが持ち出した“母性による救済”って毒薬は、結局、地球に惹かれ続ける人の孤独を癒せなかった。人は、強制された眠りの中じゃ、幸せになれない。宇宙世紀が、たくさんの血を流して学んだ真実だ。
無人の観測デッキから、わたしは一隻の巨大な船が木星の重力圏を脱していくのを見つめてた。ジュドー・アーシタ。わたしに“鉄より温かい土”の味を教えてくれた老人は、ついにこの狭すぎる太陽系を捨てて、隣の恒星プロキシマ・ケンタウリへ舵を切った。
プロキシマの光は眩しい。希望の光だ。でもその光が強いほど、わたしの足元の“地球の影”は、色濃く、重くなる。カガチが去り、マリアが消え、ジュドーが旅立って、木星にはまた巨大な空白が訪れた。
今このドレスを脱いでジュドーの船に飛び乗れば、わたしはただのベルナデットとして眠りにつける。全部の責任から、全部の罪から解放されて。……でも、だめ。
「わたしはドゥガチの娘。この場所を、いつかリンゴが実る星にするまでは、死ぬことさえ許されない」
わたしはまた、あの第13工廠へ向かった。ザンスカール戦役で大破して、墓標みたいに横たわる愛機バタラの残骸。腐った金属臭。焦げた溶接火花の匂い。これがわたしの現実だ。プロキシマの眩い光じゃなく、この鉄と油の匂いこそが。
コクピットに潜り込んで、システムの再構築を始める。シャリア・ブルが優しさと呼び、シロッコが支配に使い、父が兵器に変えたその力を、わたしは全く別の目的に研ぎ澄ます。壊すためじゃない。理解するために。殺すためじゃない。繋ぐために。
バタラのバイオセンサーが、磁気圏を突き抜けて、数億キロ先の地球圏の残響を拾い上げた。そこには、戦い終わった後の深い静寂と、新しい時代を築こうとする人たちの、泥臭くて力強い鼓動があった。
「……ああ。地球は、まだあんなに暖かい」
父が焼こうとして、カガチが眠らせようとしたあの青い星は、たくさんの狂気を乗り越えて、今も変わらず、暖かく脈打ってた。
戦闘の残り火――旧式のディビニダドを模した歪なモビルアーマーを重力の底に沈めた後、わたしは激しく咳き込んだ。口の中に、鉄の味。……もう、若くないんだ。わたしも。ハッチを開けて通路に這い出す。すると、そこに、見知らぬ影が立っていた。栗色の髪。真っ直ぐな瞳。わたしは息を呑んだ。死んだはずのトビアと、瓜二つの少年が、そこにいたのだ。少年はわたしを見て、少しはにかんで、こう言った。「ベルナデットさん……ですよね? じいちゃんの、トビア・アロナクスの使いで来ました。あなたに、渡したいものがあるって」。