機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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パプテマス・シロッコという劇薬

木星(じごく)の底で、私たちは呼吸をするだけで対価を支払わされている。

肺に流れ込む人工の空気は、循環システムが吐き出したオイルの臭いと、誰かの汗が混じり合った無機質な味がした。

 

「テテニス様、姿勢が乱れております。帝国の王女たる者、重力に抗う背筋こそが民への慈愛と知るべきです」

 

侍従であり、父の影である男、カガチが冷徹な声を飛ばす。

現在、私はジュピトリス級万能輸送船の展望広場にいた。3倍の重力を擬似的に再現した訓練区域。ドレスの裾に仕込まれたバラストが、私の細い足首に食い込み、魂を圧搾する万力のようにのしかかっていた。

 

「……わかっているわ、カガチ。重力は、私たちが選ばれた民であることの証。そうでしょう?」

 

私は唇を噛み、震える膝を強引に固定した。視界の端で、訓練用のモビルスーツ「バタラ」のプロトタイプが重厚な金属音を立てて駆動している。

父、クラックス・ドゥガチは、この鉄の温室で着々と牙を研いでいた。

 

「左様。地球という名の温室でふやけた猿どもには、この誇りは理解できぬ。……さて、本日の講義を始めましょう。聖王ドゥガチ様が、あなたに最も学んでほしいと願った記録です」

 

カガチが操作パネルを叩くと、空間に巨大なホログラムが展開された。

そこに現れたのは、黄金の髪をなびかせ、絶対的な自信を湛えた瞳を持つ一人の男。

 

パプテマス・シロッコ。

 

「……シロッコ」

 

その名を発しただけで、喉の奥が熱くなるのを感じた。

アーカイブに刻まれた彼は、あまりにも美しく、そして残酷なまでに完璧だった。U.C.0087、グリプス戦役において地球圏を震撼させた木星帰りの天才。

 

「彼は、木星の過酷さを美学に昇華させた先駆者です。女性が支配する世界を提唱し、多くの女性たちを心酔させた。……テテニス様、あなたはこの男の瞳に何を見ますか?」

 

カガチの問いに、私は息を呑んだ。

ホログラムの中のシロッコが、こちらを見据えているような錯覚に陥る。

彼の瞳は、シャリア・ブルの持っていた凪のような優しさとは正反対だった。それは、深淵から獲物を見定める捕食者の輝き。女性を愛しているのではなく、女性の献身を燃料にして、自分という神像を加速させるエゴイストの熱量だ。

 

「……冷たい。この人は、誰も愛していない。自分という存在を証明するための道具として、世界を、そして木星を欲しただけ」

 

「その通り。彼は劇薬です。服用すれば一時の力を得ますが、中身は空虚。しかし、その空虚さこそが、今の帝国には必要なのです」

 

カガチの声に冷酷な響きが混じる。

その時、展望広場の警報が鳴り響いた。

 

「報告! 識別信号不明の小型艇が、第4ブロックの排気口から侵入を図っています! 労働者階級の逃亡、あるいはテロの可能性あり!」

 

オペレーターの叫びと同時に、目の前の隔壁が開いた。

カガチが私を庇うように一歩前へ出る。

 

「ふむ、教育の時間は終わりのようですね。テテニス様、これが現実です。シロッコの美学も、シャリア・ブルの理想も、この現実の前には無力だ」

 

展望広場の強化ガラス越しに、外の光景が見えた。

1隻の小型作業艇が、帝国守備隊のバタラ3機に追い詰められている。

作業艇は必死にマニピュレーターを振り回し、木星の暴風に抗いながら逃げようとしていた。

 

「逃がすな。汚物を消毒せよ」

 

カガチの冷徹な命令が通信回路を走る。

バタラのモノアイが赤く発光した。ビーム・ライフルの高エネルギーが、暗黒の空間を切り裂く。

作業艇の装甲が紙細工のように弾け飛び、火花が散った。

 

「やめて……!」

 

私は思わず叫んだ。

作業艇の中には、ただ地球へ行きたいと願っただけの家族が乗っているかもしれない。

だが、私の声は厚い装甲と真空に遮られ、誰にも届かない。

 

その時だった。

破壊された作業艇の陰から、もう1機の機影が飛び出した。

それは帝国の旧式機を無理やり改造した、歪な形状のモビルスーツ。

 

「まだ抵抗する羽虫がいたか。……テテニス様、ご覧なさい。これがドゥガチ様の意志を継ぐ、木星の戦い方です」

 

カガチの合図で、第4ブロックから1機の特殊機が出撃した。

それは試験機「クァヴァーゼ」。

シロッコが遺したメッサーラやジ・Oの設計思想を、木星流に歪めて解釈したサイコミュ搭載機だ。

 

クァヴァーゼのパイロットは、一切の迷いなく改造機へ肉薄した。

「落ちろ、裏切り者がッ!」

通信から聞こえたのは、まだ若い兵士の、狂信的な叫び。

クァヴァーゼのフレキシブル・アームが、改造機のコクピットを直接掴み取った。

 

次の瞬間、アームから高圧電流が流れ、改造機は内部からショートし、断末魔のような放電を撒き散らした。

サイコミュを介して伝わるパイロットの意志が、空間を歪めているのがわかる。

感応ではなく、支配。

相手の精神ごと圧殺するような、暴力的で一方的な意思の拡張。

 

「……これが、シロッコの遺した力の正体」

 

私は、震える手で自分の胸元を抑えた。

シロッコが説いた女性主導の世界など、どこにもない。

ここにあるのは、彼の遺したカリスマという名の毒を利用し、民を狂気へと駆り立てる、父の歪んだ帝国だけだ。

 

改造機は、爆発することすら許されず、スクラップとなって木星の重力圏へと吸い込まれていった。

あの家族も、あのパイロットも、数秒後には大気圏の高圧に押し潰され、原子レベルまで分解されるだろう。

後に残るのは、冷たい金属の沈黙だけだ。

 

「素晴らしい。サイコミュのインターフェース規格は、計画通り、パイロットの闘争本能を200パーセント引き出している。テテニス様、これこそが、あなたが統べるべき帝国の力です」

 

カガチが満足げに頷き、私の方を振り返った。

その瞳には、シロッコに似た、底知れぬ虚無が宿っていた。

 

「……私は、こんな力、いらない」

 

私は絞り出すように言った。

ドレスの下のバラストが、ますます重く感じられる。

木星の重力が、私の魂を地表へと引きずり下ろそうとしている。

 

「いいえ、必要です。あなたは聖王の娘であり、いずれはこの鋼鉄の群れを率いる聖母(マリア)となられる方。シロッコが女を愛したように、あなたもまた、この帝国という名の怪物を愛さねばならない」

 

カガチの言葉が、鋭いナイフのように私の心を切り裂く。

アーカイブの中のシロッコが、再び微笑んだ。

その笑みは、私にこう告げているようだった。

 

「君も、こちらに来るのだろう? 重力に魂を縛られたまま、孤独を力に変えて」

 

「……違う。私は、あなたとは違う!」

 

私はホログラムのスイッチを乱暴に切り、展望広場を走り去った。

バラストが床を叩く音が、孤独な足音となって通路に響き渡る。

 

部屋に戻り、一人になった私は、ベッドに倒れ込んだ。

シロッコという劇薬。

それは木星の民に「自分たちは特別だ」という幻想を与え、正気を奪う毒だ。

父は、その毒を使って、この星を一つの巨大な自爆兵器に変えようとしている。

 

私は再び、シャリア・ブルの古い日誌を開いた。

彼の静かな瞳が、今だけは救いだった。

 

「パプテマス・シロッコ。あなたは美しかった。でも、あなたは光を知らなかった」

 

私は独り言を呟いた。

第4話では、さらに過酷な現実が私を待っているだろう。酸素の配給が滞り、民の不満が爆発する時、父はきっと、より強い毒を投下する。

 

私は、自分の指先を見つめた。

この指で、いつかあのシロッコの遺した「サイコミュ」という名の呪いを、断ち切ることができるだろうか。

 

窓の外では、木星の大赤斑が、すべてを飲み込もうと紅く渦巻いていた。

そこには、慈悲も、希望も、優しさもありはしない。

ただ、冷酷な物理法則と、人の怨念だけが渦を巻いている。

 

「お父様……あなたは、私に何をさせたいの?」

 

答えは、重苦しい沈黙の中にしかなかった。

宇宙世紀0120。

私はまだ、お姫様のドレスを脱ぎ捨てる勇気を持てないまま、地獄の底で、シロッコの残した冷たい毒を、ゆっくりと飲み込み続けていた。

 

いつか、その毒を吐き捨てる日が来ることを、私はただ、暗闇の中で祈り続けた。

その祈りこそが、後に木星を照らす、たった一つの、本物の光になるとも知らずに。

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