機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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酸素と狂気の配給日

「15パーセント……。また下がったのね」

 

私は、自室の壁に埋め込まれた生命維持モニターの数字を、震える指先でなぞった。

酸素濃度を示すインジケーターは、不吉な琥珀色を灯している。

木星圏の生活とは、常にこの数字との対話だ。循環システムのフィルター詰まり、あるいはヘリウム3精錬プロセスの不調。理由はなんだっていい。ただ、数字が下がれば、私たちの命の価値も同時に削り取られていく。

 

「テテニス様、本日の公式行事の準備を。……ああ、その顔色は、酸素不足による軽微なチアノーゼでしょうか」

 

気配もなく部屋に足を踏み入れたカガチが、慇懃無礼に頭を下げた。

彼は首元をきつく締めた軍服のまま、乱れ一つない呼吸をしている。まるで、この薄い空気そのものを自分の意志で支配しているかのようだ。

 

「カガチ、下層ブロックの配給はどうなっているの? 15パーセントでは、老人や子供たちは……」

 

「ご案じ召されるな。すべては聖王ドゥガチ様の計算通りです」

 

カガチは冷たい笑みを浮かべ、私の肩に贅沢なシルクのショールを掛けた。

 

「不足は、信仰を深めるためのスパイス。空気が薄ければ薄いほど、民は一息の酸素を求めて神(ドゥガチ)に縋るものです。さあ、広場へ。今日は『選別』の日です」

 

ジュピトリス級の広大なドーム広場には、数千の民がひしめき合っていた。

皆、顔色は土色で、眼窩は落ち窪んでいる。

三倍の重力が彼らの肩にのしかかり、一歩歩くごとに肺を押し潰すような喘ぎ声が漏れる。

広場の中心、高い演壇の上に座る父、クラックス・ドゥガチの姿が見えた。

彼は生命維持装置に繋がれ、醜く肥大した肉体を機械の椅子に預けている。だが、その瞳だけは、飢えた獣のようにぎらついていた。

 

「わが民よ! 聞くが良い!」

 

父の声が、スピーカーを通じてドーム全体に鳴り響く。

その瞬間、それまで漏れていた呻き声がぴたりと止まった。鼓膜を突き破るような沈黙が広場を支配する。

 

「現在、わが帝国の酸素プラントは、地球連邦の卑劣な輸出規制により、稼働率を大幅に下げざるを得ない状況にある。貴様たちの肺が焼けるようなこの苦しみ……その原因はすべて、青い空の下で安穏と眠る、あの傲慢な地球人どもにあるのだ!」

 

真っ赤な嘘だ。

地球連邦が木星の酸素プラントに干渉する物理的手段など持っていないことは、父の書斎の記録を見ればわかる。これは、父が自らプラントのバルブを絞り、民の怒りの矛先を外へ向けさせるための、あまりにも卑劣な演出だ。

 

だが、極限状態の民に、そんな冷静な判断はできない。

「地球人を殺せ!」「我らに空気を!」

地を這うような怨嗟の声が、やがて巨大なうねりとなってドームを震わせた。

 

「そうだ! 奪われたものは奪い返さねばならぬ! だが、そのためには、戦う意志を持たぬ『重荷』を捨てねばならぬのだ!」

 

父が合図を送ると、広場の一角がシャッターで仕切られた。

そこには、栄養失調で動けなくなった老人や、呼吸器の補助なしでは生きられない病人たちが集められていた。

 

「これより、第10次酸素適正化執行を行う! 執行人は……わが娘、テテニス・ドゥガチ!」

 

頭を殴られたような衝撃が走った。

「父様……! 何を……!」

私が声を上げるより早く、カガチが私の背中に冷たい金属の感触を押し付けた。

それは、遠隔操作用のサイコミュ・トリガー。

広場の上空に浮遊する、武装プラットフォームの制御キーだ。

 

「さあ、テテニス様。あなたの指先ひとつで、彼らはこの苦しみから解放されます。帝国の良心として、慈悲を与えて差し上げなさい」

 

カガチの囁きは、耳元で這いずる毒虫のようだった。

私は演壇の下を見下ろした。

シャッターの向こう側で、一人の老人が私を見上げている。

その瞳には、恨みも怒りもなかった。ただ、早くこの三倍の重力と、灼熱の肺から解放してくれと願うような、虚ろな絶望だけがあった。

 

「できない……そんなこと……!」

 

「テテニス様、これは『萌え』ですよ」

 

カガチが、場違いな言葉を口にした。

 

「無力な少女が、己の純潔を汚しながら、民の血でその手を染める。その痛ましさ、その悲劇性こそが、民衆の狂熱を加速させる最高の燃料となる。あなたは今日、女神から、戦女神(ヴァルキュリア)へと昇華されるのです」

 

私は震える指先でトリガーを握った。

サイコミュのインターフェースが、私の脳に直接リンクしてくる。

広場に配備されたモビルスーツ「バタラ」たちの駆動音が、私の鼓膜を内側から叩く。

人々の絶望、怒り、そして父のどす黒い殺意が、ミノフスキー粒子を介して私のニュータイプ能力を異常なまでに刺激した。

 

(やめて……入ってこないで……!)

 

叫びは声にならない。

その時、シャッター内の老人たちが、一斉に祈り始めた。

「聖母テテニス、我らに救いを。聖王ドゥガチ、我らに空気を」

それはもはや信仰ではない。狂気だ。

酸素欠乏によって脳を焼かれた者たちが、自分たちを殺そうとする者に救いを求める、地獄の構図。

 

その瞬間、私の背後で爆発音が響いた。

 

「……ッ!? 何事だ!」

 

カガチが鋭く振り返る。

ドームの天井付近、排気ダクトが吹き飛び、そこから数機の小型作業艇が突入してきた。

彼らは帝国の圧政に耐えかねた、レジスタンスの生き残りだ。

 

「ドゥガチ! 貴様の狂気もここまでだ! 民を殺すのをやめろ!」

 

作業艇から放たれた不器用なミサイルが、父の演壇近くに着弾した。

悲鳴が上がり、広場は一瞬で戦場へと変わる。

 

「フン、羽虫どもが……。テテニス様、ちょうど良い練習台です。慈悲を、彼らにも分け与えなさい」

 

カガチの手が、強引に私の指をトリガーに掛けた。

サイコミュが私の拒絶を「闘争本能」へと変換する。

広場に待機していたバタラ2機が、私の脳波に反応して急加速した。

 

「ああああっ!」

 

視界が真っ赤に染まる。

バタラのガトリング砲が火を噴いた。

木星の超重力下、弾丸は地球上よりも低い弾道を描き、容赦なく作業艇の装甲を切り裂く。

1隻、また1隻と、レジスタンスの艇が火だるまになって地面に叩きつけられた。

三倍の重力は、墜落の衝撃をも三倍にする。

金属がひしゃげ、人間だったものが肉塊へと変わる音が、サイコミュを通じて私の脳に直接流れ込んできた。

 

「ハハハハ! 見たか! これぞわが娘、テテニスの力だ!」

 

父が歓喜の咆哮を上げる。

民衆もまた、その殺戮を見て、狂ったように拳を突き出した。

「テテニス様万歳!」「地球人に死を!」

酸素不足で朦朧としていた彼らの脳に、アドレナリンという名の毒が回る。

父は、酸素の代わりに「狂気」を配給したのだ。

 

私は、その場に崩れ落ちた。

手の中のトリガーが、あまりにも重い。

私の指先は、今、確かに人々の命を奪った。

シャリア・ブルが言った「宇宙の孤独は人を優しくする」という言葉を、私は自分の血塗られた手で踏みにじったのだ。

 

「テテニス様、お見事でした。これでプラントの負荷は30パーセント軽減されます。明日からは、生き残った民に十分な酸素が行き渡るでしょう」

 

カガチが満足げに私の手からトリガーを回収した。

彼は私の耳元で、さらに残酷な事実を付け加えた。

 

「ちなみに、先ほどのレジスタンス……彼らを誘導して排気口から招き入れたのは、わが帝国の情報部です。あなたの初陣には、適切な生贄が必要でしたから」

 

すべては、父とカガチが描いた筋書きだった。

民を殺し、反乱分子を誘い出し、それを王女に処刑させることで、民の団結を固める。

この星にあるのは、酸素ではなく、狂気だけで編み上げられた「鉄の温室」だ。

 

私は、ドレスの裾を強く握りしめた。

絹の生地が、私の脂汗と血の匂いで汚れていく。

シャリア・ブル、あなたは間違っている。

孤独は人を優しくなんてしない。

孤独は人を怪物に変え、その怪物が、さらに弱い者を食らう連鎖を作るだけだ。

 

(……でも、私は、怪物になりたくない)

 

私は、泣かなかった。

ここで涙を流せば、それすらも父に利用されると分かっていたからだ。

私はただ、肺に残った薄い空気を目一杯吸い込み、冷たい鉄の床を見つめた。

 

宇宙世紀0123。

私はこの日、本当の意味でお姫様であることを辞めた。

私の心の中に、父への、カガチへの、そしてこの木星というシステムそのものへの、消えない殺意が産声を上げた。

 

いつか、この鉄の檻を壊す。

そのためなら、私はドレスを脱ぎ捨て、パイロットスーツを纏い、このサイコミュという名の怪物を乗りこなしてみせる。

 

私は帝国の深部、工廠の奥底で、さらなる「亡霊」と対峙することになる。

それは、シャリア・ブルが乗った機体の、呪われた進化系。

私の決意を嘲笑うかのように、木星の闇は、さらに深く、暗く、私を飲み込もうとしていた。

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