機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
酸素が足りない。
脳が焼けるような飢餓感と、全身を圧搾する3倍の重力が、思考を細切れにしていく。
父ドゥガチが配給したのは酸素ではなく、反乱分子の処刑という名の狂気だった。広場を埋め尽くした民衆の熱狂的な勝鬨が、今も鼓膜の奥で耳鳴りのようにこびり付いている。
私は、カガチに促されるまま、ジュピトリス級の最深部、第13工廠へと足を踏み入れた。
ここは帝国の聖域。ヘリウム3の精錬プラントから供給される膨大な熱量が、巨大な冷却水の流れる音と共に、獣の唸り声のように響いている。
「テテニス様。これこそが、わが帝国の技術的特異点。地球連邦が忘れ去り、捨て去った『可能性』の究極系です」
カガチが操作パネルに指を滑らせると、防重シャッターが重々しく左右に割れた。
暗闇の中から浮かび上がったのは、巨大な、あまりにも巨大な鉄の塊だった。
それは、かつてシャリア・ブルが乗り、宇宙世紀0079の戦場で散ったとされる機体、ブラウ・ブロの雛形。だが、そこに宿る気配は、記録映像で見たものとは決定的に異なっていた。
「……これが、ブラウ・ブロ? 嘘よ。こんなの、ただの化け物じゃない」
私の口から漏れたのは、拒絶の言葉だった。
目の前の機体は、有線制御式砲塔を増設され、ミノフスキー物理学を無視したかのような歪な装甲を纏っている。
剥き出しの回路が、まるで血管のように機体表面を這い、冷却水のパイプが心臓の鼓動に合わせて脈打っているように見えた。
「左様。連邦やジオンの残党どもは、サイコミュを『感応』の道具に貶めた。だが、わが帝国は違う。超重力下での極限生活が研ぎ澄ませた脳波(サイコウェーブ)を、直接的な『空間支配』へと転換する。この機体は、パイロットの神経を外部へと拡張し、戦場そのものを己の肉体とするための祭壇です」
カガチの言葉と共に、工廠の奥から一人の男が歩み寄ってきた。
白衣を纏い、狂気じみた光を瞳に宿した技術将校、サセ主任だ。彼は私のドレスの汚れを舐めるように見つめ、卑屈な笑みを浮かべた。
「テテニス様、光栄です。あなたが先日の処刑で見せたサイコミュへの適合値……0.158パーセントの誤差もなく、この『亡霊』を再起動させるためのパルスと一致しました。さあ、このインターフェースに触れてください。ブラウ・ブロの呪われた進化を、あなたの手で完成させるのです」
サセが差し出したのは、パイロットの脳波を強制的に増幅させるためのヘッドギアだった。
その表面には、パプテマス・シロッコが遺したとされる、バイオ・センサーの改良型回路が複雑に組み込まれている。
「嫌よ……。これを着ければ、私の心が、この怪物に食い荒らされてしまう」
「……テテニス様。これは命令ではなく、宿命です」
カガチが私の背後から、逃げ場を奪うように囁く。
「この木星で生きる民は、みな何かに食われて生きている。酸素に食われ、重力に食われ、絶望に食われる。ならば、この強大な力に食われることこそ、王女としての至上の悦びではありませんか?」
強引にヘッドギアが私の頭に被せられた。
その瞬間、視界が弾けた。
「ああああああっ!」
脳内に直接、数10年分の怨念が流れ込んでくる。
木星の暗黒に消えていった名もなき労働者たちの叫び。
重力に押し潰された者たちの骨が軋む音。
そして、シャリア・ブルが感じていたはずの、あの「孤独」が、鋭利な刃物となって私の精神を切り刻む。
サイコミュのインターフェースが、私の思考を、工廠内のあらゆるセンサーと接続していく。
私は自分自身の指先を失った。代わりに、ブラウ・ブロの巨大な砲塔が、私の意志で動き始める。
有線式のメガ粒子砲が、磁気誘導によって工廠内を自在に舞う。
それは、優雅なダンスなどではない。
空間を、敵を、自分以外のすべてを否定し、圧殺するための「支配」の動きだ。
「素晴らしい……! 脳波パルスが安定している! テテニス様、もっと、もっと憎しみを! 地球への劣等感を燃料にしてください!」
サセの歓喜した叫びが、遠くの方で聞こえる。
だが、私の意識は、もっと深い場所へ沈んでいた。
ブラウ・ブロの回路の奥底。
そこに、シャリア・ブルの「残滓」を見た気がした。
彼は、こんなにも苦しい場所で、本当に人を信じていたの?
こんなにも冷たい鉄の中で、本当に優しさを求めていたの?
(……助けて)
私は、自分でも気づかないうちにそう呟いていた。
誰に?
父に? カガチに?
違う。
この鉄の檻を、木星という名の重力を、すべて壊してくれる「誰か」に。
「目標確認。演習用標的、射出」
カガチの冷徹な声が合図となり、工廠の天井から旧式の作業ボットが数機放たれた。
私の意志とは無関係に、ブラウ・ブロの砲塔が牙を剥く。
サイコミュが私の恐怖を「攻撃」と誤認し、高エネルギーのビームが空間を薙ぎ払った。
轟音。
閃光。
作業ボットは一瞬で蒸発し、その残骸が火花を散らして床に転がる。
三倍の重力下では、火花さえも重々しく地面へ垂れ下がる。
その光景は、まるでお姫様のドレスが、泥と血で汚れていく様を象徴しているようだった。
「……もう、やめて」
私はヘッドギアを剥ぎ取り、その場に崩れ落ちた。
鼻腔から血が滴り、鉄の味が口の中に広がる。
シロッコが遺した毒。
ドゥガチが育てた狂気。
そして、シャリア・ブルが夢見た可能性の成れの果て。
「テテニス様、お疲れ様でした。これで『亡霊』は目を覚ました。あとは、これをドゥガチ様の愛機、ディビニダドへと組み込むだけです」
カガチが冷たく私の肩を叩く。
サセは狂ったように、モニターに映し出された私の脳波データを書き写している。
彼らにとって、私は人間ではない。
この巨大な怪物を動かすための、1つの「部品」に過ぎないのだ。
私は、汚れた手で自分のドレスを握りしめた。
このままでは、私は本当に怪物になってしまう。
父の野望を叶えるための、血塗られた女神に。
(壊さなきゃ……)
この工廠を。この機体を。
そして、お姫様という名の私自身の檻を。
宇宙世紀0125。
木星の最深部で、私は「鉄の味」を骨の髄まで叩き込まれた。
それは死の味であり、同時に、反逆の味でもあった。
私の指先が、震えながらも、次の行動を探し始めていた。
この贅沢なドレスを脱ぎ捨て、泥にまみれてでも、私は「私」を取り戻す。
たとえ、それが父様という名の聖者を殺すことになっても。
工廠の排気ファンが回る、重苦しい風の音だけが、私の決意を嘲笑うように鳴り響いていた。