機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
視界の端で、昨夜サセ主任が書き換えたサイコミュのインターフェース・ログが青白く発光している。
私の脳細胞(ニューロン)は、いまだにブラウ・ブロの亡霊と接続されたままのような錯覚を拭えない。指先を微かに動かせば、遠く離れた工廠のメガ粒子砲が火を噴き、誰かの命を奪うのではないかという恐怖。
木星の重力は、魂を圧搾する万力となって、私の細い首筋を常に冷たいチタン合金の床へと押し付けていた。
「テテニス様、本日の巡幸スケジュールです。ドゥガチ様が第17居住区での演説に、あなたの同席を望んでおられます」
カガチの声が、無機質な隔壁に反響して届く。
私は鏡の前に立ち、侍女のマーサにドレスの背中を締め上げさせていた。
贅沢なシルクの重みが、今は鉄の鎖よりも忌々しい。
「……第17居住区。あそこは、先日の酸素適正化で最も被害が出た区画ね」
「左様。だからこそ、王女の微笑みが必要なのです。死を覚悟した民に、高貴な慈悲という名の麻薬を打つ。それがあなたの役割だ」
カガチは鏡越しに私の瞳を覗き込む。彼の視線は、私の感情を分析するセンサーそのものだ。
私はわざとらしく、淑やかな、人形のような笑みを浮かべて見せた。
「わかっているわ、カガチ。私は父様の、そして帝国の最高傑作ですもの」
「よろしい。その意気です」
カガチが部屋を去る。
静寂が戻った部屋で、マーサの手が微かに震えているのに気づいた。
「テテニス様……本当に行かれるのですか? あそこは、まだ空気の循環が安定していなくて……」
「大丈夫よ、マーサ。私はもう、空気の味なんて忘れてしまったわ」
私はマーサの耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「準備はいい? 私が演壇に上がった瞬間に、第3排気ダクトの保安ロックを解除して」
マーサの顔から血の気が引く。
それは帝国の国家反逆罪、即ち、エアロックからの投棄を意味する行為だ。
「そんな……見つかったら、マーサは……」
「見つからないわ。私がサイコミュで、監視カメラの電子回路を一時的に焼く。……私を信じて、マーサ。この鉄の檻を壊すには、今しかないの」
私は、ドレスの裾に隠し持っていた、小さな、だが鋭いボルトカッターを握りしめた。
それは工廠で亡霊に触れた時、無意識に盗み出していたものだ。
ジュピトリス級の広大な回廊を、私は軍靴の音に守られながら歩く。
父、クラックス・ドゥガチは、移動式の王座に座り、醜く肥大した野望を言葉に変えて民衆に投げつけていた。
「地球は、我々の呼吸を盗んでいる! 奴らの贅沢は、我々の子供たちの命の上に成り立っているのだ!」
第17居住区のドーム広場。
そこには、酸素欠乏で脳を焼かれた民衆が、救いを求めて狂ったように叫んでいた。
父の言葉は、ミノフスキー物理学を無視して空間を支配するサイコミュ・ウェーブのように、民の脳に直接、憎しみの回路を刻んでいく。
私は父の傍らで、ただ静かに立っていた。
だが、私の意識は、背後にある巨大な排気ダクトの制御系へと飛んでいた。
アクセス・インターフェース、規格はUC82。旧式だけど、堅牢ね。
脳の奥が熱くなる。
木星帰りのプレッシャー。
過酷な環境が育んだ、私の異常なまでの知覚能力が、目に見えないミノフスキー粒子の流れを捉える。
私は、サイコミュの毒を逆利用し、自分自身の意志を電子的パルスへと変えた。
今よ、マーサ!
遠くの区画で、小さな爆発音が響いた。
偽装された短絡事故。
ドーム広場の照明が一瞬だけ明滅し、監視兵たちの意識が逸れる。
「何事だ! 指揮系統を再確認せよ!」
カガチの鋭い叫び。
その喧騒を、私は待っていた。
私は贅沢なドレスを乱暴に引きちぎった。
裾に仕込まれたバラストを床に叩きつける。
10キログラムもの重りが鉄板に衝突し、鼓膜を突き破る沈黙のような衝撃が周囲を包む。
「テテニス!? 何をしている!」
父の驚愕に満ちた声。
私はドレスを脱ぎ捨てた。その下には、盗み出していたノーマルスーツを着込んでいた。
お姫様の抜け殻が、重力に引かれて無様に床へ這い蹲る。
「お父様……。私は、あなたの道具じゃない」
私はボルトカッターを、非常用エアロックの緊急起動レバーへ叩きつけた。
警告ブザーが、地獄の底の悲鳴のように鳴り響く。
「テテニス! 貴様、裏切るのか! この私の愛を!」
「愛じゃないわ、それは呪いよ!」
私は叫んだ。
その瞬間、ドームの隔壁が激しい噴射音と共に開いた。
人工の空気が、真空の闇へと一気に吸い出される。
減圧の暴力。
三倍の重力さえも一瞬だけ忘れさせるほどの、凄まじい風。
「止めるのだ! 守備隊、バタラを出せ! 王女を拘束しろ!」
カガチの命令で、ドーム周辺に待機していたモビルスーツ、バタラ3機が急速接近してくる。
モノアイが赤く輝き、私の細い体を照らし出す。
まだよ……まだ、私は止まらない!
私は、開いた隔壁の向こう側にある、ヘリウム輸送船のコンテナ・ポッドへと飛び移った。
真空の冷たさが、ノーマルスーツ越しに肌を刺す。
背後では、バタラのビーム・ライフルが放たれ、私が今しがた立っていた演壇を蒸発させていた。
「お父様、さようなら。私は、本物の太陽を見に行くわ」
私はコンテナの固定クランプを、サイコミュによる強制介入で解除した。
ガコン、という重厚な衝撃。
巨大な鉄の塊が、ジュピトリス級の重力圏から解き放たれ、暗黒の宇宙へと放り出される。
視界が回転する。
バタラの追撃を、木星の強大な磁気圏が遮る。
高放射線の帯(ヴァン・アレン帯)が、追手のレーダーを狂わせているはずだ。
私は、小さなコンテナの窓から、遠ざかっていく木星を見た。
美しい縞模様。
その中に潜む、底なしの悪意と狂気。
そして、今なお私を捕らえようと腕を伸ばす、鋼鉄の父の影。
「……身軽ね」
ふと、呟いた。
バラストを脱ぎ捨てた体は、あまりにも軽くて、あまりにも自由だ。
だが、その自由は、明日をも知れぬ漂流の始まりでもあった。
心臓の鼓動が、ノーマルスーツの密閉空間に響き渡る。
私の指先は、今、確かに鉄の檻を壊した。
でも、その指先には、まだマーサの震えが、父の憎しみが、そして自分が殺したレジスタンスたちの体温が、こびり付いている。
「私は……お姫様じゃない」
ドレスを脱ぎ捨てた私は、ただの、空っぽの少女だ。
これから向かう地球圏が、シャリア・ブルの言ったような優しい世界なのか、それともカガチの予言したふやけた猿の檻なのか、私にはわからない。
でも、私は選んだ。
重力に魂を引かれ、地獄の底で夢を見るのをやめ、凍える宇宙で目を開けることを。
宇宙世紀0128。
ベルナデット・ドゥガチは、この日、木星の冷たい闇の中で一度死に、一人の人間として産声を上げた。
ヘリウム輸送船の冷たい壁に背を預け、私は遠く輝く小さな光を見つめた。
それは、何億キロも先にある、青い星。
いつかそこへ辿り着いた時、私は自分に誇れる人間になれているだろうか。
加速Gが私の肺を押し潰す。
それでも私は、酸素の配給に感謝することなく、自分自身の力で、強く、深く、息を吸い込んだ。
目の前に広がる暗黒は、どこまでも深く、そしてどこまでも私の意志を試していた。