機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
暗黒。
視界を占めるのは、漆黒のベルベットに針を刺したような、あまりにも鋭すぎる星々の瞬きだった。
ジュピトリス級の分厚いチタン合金の隔壁も、父の狂気に満ちた演説も、もはやここには届かない。
私が今、身を委ねているのは、ヘリウム3の貯蔵コンテナを偽装した、文字通りの鉄の棺桶だった。
ガコン、という重苦しい振動が、ノーマルスーツ越しに脊髄へ伝わる。
姿勢制御スラスターが噴射され、私の乗ったコンテナが、母船であるヘリウム輸送船の貨物デッキへと固定されたのだ。
木星の超重力から解き放たれた体は、あまりにも軽くて、あまりにも自由で……そして、内臓が浮き上がるような、耐え難い恐怖を伴っていた。
「……はあ、はあ……っ」
ヘルメットの中に、自分の荒い呼吸音が反響する。
木星の重力を魂を圧搾する万力と呼ぶのなら、この無重力は、存在そのものを宇宙の虚無へと霧散させる、底なしの誘惑だ。
バラストを脱ぎ捨てた私の体は、かつてのお姫様のドレスと同様に、もはや何の意味も持たない端切れのように空間を漂っていた。
「テテニス様、聞こえますか。応答してください」
通信機から漏れたのは、マーサの声だった。彼女はまだ、あの地獄のような木星帝国(エンパイア)の中にいる。
私の脱走を助けた彼女の罪が、どのような「清算」を迎えようとしているのか。想像するだけで、循環システムの冷却水よりも冷たい汗が背中を流れる。
「……聞こえるわ、マーサ。無事よ。輸送船の第4コンテナ・ブロックに……潜り込めた」
「よかった……。今、ドゥガチ様の守備隊が全艦を捜索しています。でも、そこはヘリウム3の残留ガス濃度が高く、センサーも容易には通らないはずです」
マーサの言葉通り、コンテナ内部は致死量の放射線とガスが渦巻いている。
ミノフスキー粒子の濃度も高く、帝国の最新鋭機であるバタラの索敵システムであっても、この鉄の塊の内部までを覗き見ることはできない。
私は、サイコミュ・インターフェースの感度を極限まで引き上げた。
脳の奥が、熱い針で刺されたように疼く。
これが木星帰りのプレッシャー。
帝国の工廠で、あのブラウ・ブロの亡霊から受け継いだ呪われた感覚が、壁の向こう側の気配を驚くほどの解像度で描き出していく。
(……来る)
バタラ1機の駆動音が、装甲を伝って響いた。
全長13メートルを超える鉄の巨人が、私の隠れているコンテナのすぐ側を通り過ぎていく。
モノアイが発する赤光が、コンテナの隙間から細い糸のように差し込み、私のノーマルスーツを撫でた。
私は息を止め、心臓の鼓動すらも押し殺した。
ここで見つかれば、私は再びあの鉄の檻へと連れ戻される。
父の歪んだ愛に塗り固められた、あのお姫様の椅子へと。
「……対象、発見できず。第4区画、クリア」
パイロットの無機質な報告と共に、駆動音が遠ざかっていく。
私は、肺に溜まった薄い空気を、ゆっくりと吐き出した。
「マーサ……輸送船は、いつ出発するの?」
「あと300秒後です。ヘリウム輸送船『コバヤシ丸』。目的地は、地球圏のヘリウム・ベースです」
地球圏。
その響きに、胸が締め付けられる。
父が「我々の酸素を盗む猿どもの巣窟」と呼び、シャリア・ブルが「人が優しくなれる場所」と書き残した、約束の地。
そこへ辿り着けば、私はテテニス・ドゥガチという重責を捨て、ただのベルナデットになれるのだろうか。
「マーサ、あなたも……いつか、必ず……」
「お言葉を。私は木星の土になります。……さようなら、テテニス様。いいえ、ベルナデット様。どうか、本物のリンゴを、食べてくださいね」
通信が、砂嵐のようなノイズと共に途切れた。
それが、私と木星を繋ぐ最後の糸が切れた瞬間だった。
3、2、1。
点火。
凄まじい衝撃がコンテナを襲った。
輸送船の主推進機が火を噴き、私の体は、コンテナの壁面へと強烈に叩きつけられる。
三倍の重力に慣れた私の骨であっても、この加速Gは、魂を磨り潰すような苦痛を伴った。
だが、その苦痛こそが、木星という名の重力圏を、父という名の絶対的な支配を振り切るための、唯一の対価だった。
窓のないコンテナの中で、私は一人、胎児のように丸まった。
木星から地球までの、半年以上に及ぶ孤独な航海。
食料は最小限、水は循環システムの再生水。
そして何より、私の精神を蝕むのは、あのサイコミュの残響だった。
(理解し合うための力……。嘘よ、そんなの)
目を閉じれば、シロッコが遺した美しき毒が、甘い囁きとなって脳内に響く。
ブラウ・ブロの砲塔が空間を支配し、敵を圧殺する快感。
父が、民衆を狂熱へと駆り立てるために使った、選民思想という名の麻薬。
それらが私の内側で混ざり合い、真っ黒な澱となって溜まっていく。
「私は、負けない……」
私は暗闇の中で、自分の指先をじっと見つめた。
この指は、先日の配給日に、確かにトリガーを引いた。
人々の絶望を、サイコミュを通じて「闘争本能」へと変換し、誰かの命を奪った。
その罪は、地球へ行ったからといって消えるものではない。
むしろ、重力から解き放たれたことで、その罪の重さは、より純粋に、より鮮明に、私の心を押し潰し始めていた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
加速が終わり、慣性航行へと移行した船内は、鼓膜を突き破る沈黙に包まれた。
私は、ノーマルスーツの胸ポケットから、一枚の古い写真を引っ張り出した。
それは、父の書斎から持ち出した、U.C.0079当時の地球の写真だった。
青い。
木星の、あの毒々しい縞模様とは違う、透き通るような、あまりにも残酷なほどの青さ。
「……綺麗。お父様は、どうしてこれを、焼き尽くしたいなんて思ったのかしら」
父・ドゥガチの歪んだ憧憬。
自分のものでないのなら、いっそ壊してしまえという、あまりにも幼稚で、あまりにも巨大なエゴ。
私は、その血を引いている。
私の内側にも、あの破壊的な情動が眠っているのではないか。
そう思うと、無重力の中で浮遊する自分の体が、得体の知れない怪物のように感じられて、怖かった。
コンテナの壁を一枚隔てた向こう側には、致死量の放射線が吹き荒れ、木星の磁気圏が、獲物を逃した獣のように荒れ狂っている。
宇宙世紀0128。
私は、お姫様のドレスを脱ぎ捨て、鉄の棺桶の中で、一人の密航者となった。
「私は……ベルナデット。ただの、ベルナデットよ」
自分に言い聞かせるように、その名を繰り返した。
だが、言葉は虚空に消え、答えは返ってこない。
ただ、輸送船の動力源である核融合炉の、微かな、だが力強い振動だけが、私がまだ生きていることを証明していた。
木星の深淵から放たれた、一粒の種。
それが地球という名の土壌に辿り着き、花を咲かせるのか、それとも毒を撒き散らすのか。
今はまだ、星々の瞬きだけが、私の行く先を静かに見守っていた。
銀河を駆ける鉄の棺桶の中で、私は初めて、自由という名の、凍えるような寒さを知った。