機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
半年、あるいはそれ以上の時間が過ぎたのかもしれない。
ヘリウム輸送船「コバヤシ丸」の第4コンテナ・ブロック。窓のない鉄の棺桶の中で、私は時間の感覚を完全に喪失していた。
聞こえるのは、核融合炉が発する微かな低周波の唸りと、循環システムが吐き出す、消毒臭い、一度誰かの肺を通ったことが確実な生ぬるい空気の音だけ。
宇宙世紀0133年。
私の肉体は、木星の3倍の重力から解き放たれ、今は逆に1Gという「地球の重力」をシミュレートした船内の疑似重力に戸惑っていた。
骨が軽すぎる。魂が、肉体の内側で浮き上がっているような、不確かな感覚。
「まもなく地球周回軌道、ヘリウム・ベースへ入港します。非戦闘要員は各居住区で待機してください」
スピーカーから流れる、抑揚のないアナウンス。
私は、油の浮いた再生水を最後の一口まで飲み干し、ボロボロになったノーマルスーツのジッパーを喉元まで引き上げた。
お姫様のドレスは、とうの昔にコンテナの隅で塵に変わった。今の私は、ただの密航者。
だが、その時だった。
「……何、このプレッシャー?」
脳の奥が、熱い針で刺されたように疼いた。
木星帰りのプレッシャー。
帝国の工廠で、あのブラウ・ブロの「亡霊」が私に刻み込んだ、呪われた知覚。
ミノフスキー粒子の密度が、一気に跳ね上がるのを感じる。
これは入港の作業ではない。
「戦闘」だ。
轟音。
コンテナの装甲を、高エネルギーの熱線が掠める。
衝撃波が伝わり、私は鉄の壁に叩きつけられた。
(海賊……? 違う。この冷たさは、お父様の……帝国の「毒」だ)
私は、コンテナの非常用ハッチを無理やりこじ開けた。
目の前に広がっていたのは、地球圏の眩いばかりの光と、それを切り裂くように飛び交うメガ粒子砲の閃光だった。
木星帝国の工作員たちが、この輸送船を「処理」しに来たのだ。逃亡した王女という、帝国の瑕疵を消し去るために。
「逃げなきゃ……」
私は、乱気流のような慣性の中を、必死に走った。
船内はパニックに包まれ、悲鳴と警報音が混ざり合っている。
逃げ惑う大人たちの間を抜け、私は格納庫の隅にある、救命ポッドへと向かった。
だが、そこには先客がいた。
「おい、君! 危ない、こっちだ!」
聞き慣れない、だが驚くほど真っ直ぐな声。
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
私とそれほど歳の変わらない、どこか野暮ったい、それでいて瞳の奥に強い生命力を宿した少年。
トビア・アロナクス。
後に私の運命を大きく変えることになるその少年は、混乱の中で、自分も逃げるべき身でありながら、見ず知らずの私に手を差し出していた。
「……地球の人?」
「そうだよ。君もこの船の乗客だろ? 早く、こっちのポッドに乗るんだ!」
彼は私の手を取り、強引に救命ポッドの中へと押し込んだ。
彼の掌は、信じられないほど温かかった。
木星の鉄の床でもなく、カガチの冷たい指先でもない、生きている人間の、確かな体温。
ポッドが射出される。
背後で、輸送船「コバヤシ丸」が爆発し、宇宙の闇に一瞬の、虚しい花を咲かせた。
私は、小さな観測窓に張り付き、遠ざかっていく爆光を見つめた。
あそこには、私を助けてくれたマーサがいたかもしれない。私を運んでくれた「日常」があったかもしれない。
それらすべてが、父の意志ひとつで塵に変わった。
「……ひどい。どうして、こんな……」
私は膝をつき、震える肩を抱いた。
すると、トビアが私の隣に座り込み、無造作にポケットから「それ」を取り出した。
「ほら。これでも食べて、落ち着けよ」
差し出されたのは、赤くて、丸い、不思議な物体だった。
表面には微かな光沢があり、甘酸っぱい、嗅いだこともないような瑞々しい香りが鼻をくすぐる。
「……これ、何?」
「何って……リンゴだよ。地球の、僕の田舎の名産なんだ。ちょっと傷んでるけど、味は保証するよ」
リンゴ。
父の書斎の古い植物図鑑に載っていた、想像上の果実。
一滴の水すらも管理され、ビタミン剤と合成タンパク質だけで作られた木星の食事とは、対極にある存在。
私は、震える手でそれを受け取り、恐る恐る口にした。
(――!)
衝撃が走った。
歯を立てた瞬間に溢れ出したのは、暴力的なまでの「生」の雫だった。
酸味と甘みが舌の上で暴れ回り、香りが鼻腔を抜けて脳を揺さぶる。
これが、生命の味。
鉄と油と、再利用された酸素の中で育った私には、あまりにも眩しすぎる、地球の欠片。
「……甘い。……すごく、甘い」
気づけば、涙が溢れていた。
このリンゴ一個を作るために、どれほどの水と、どれほどの光と、どれほど揺らがない地面が必要だっただろう。
地球の人たちは、これを当然のように享受している。
この豊かさが、父を狂わせ、木星の人々を劣等感の地獄へと突き落とした。
だが、目の前のトビアは、そんな私の内面など露知らず、屈託のない笑顔で笑っている。
「だろ? 元気出た?」
「……ええ。ありがとう。……私、ベルナデット。ベルナデット・ドゥガチ」
私は、偽名を使わなかった。
この少年になら、本当の名前を言ってもいいと思った。
いや、この「生命」の味を教えてくれた彼に、嘘を吐くことなどできなかったのだ。
その時、救命ポッドのセンサーが、接近する巨大な質量を捉えた。
黒い、ボロ布のような旗を掲げた、異様な姿の戦艦。
宇宙海賊、クロスボーン・バンガード。
「あれは……海賊!?」
トビアが身を乗り出す。
彼の瞳には恐怖ではなく、未知なるものへの好奇心が宿っていた。
だが、私にはわかった。
その戦艦から放たれる、強烈な、それでいてどこか悲しげなプレッシャー。
かつてシーブック・アノーと呼ばれた英雄が、木星の闇を切り裂くために掲げた、反逆の旗。
「猿たちの住処へようこそ、木星のお姫様」
ポッドの通信回路に、誰かが割り込んできた。
低く、落ち着いた、それでいて重い罪を背負った男の声。
キンケドゥ・ナウ。
私は、手の中に残ったリンゴの芯を、強く握りしめた。
この少年と出会い、この果実を口にした瞬間から、私の物語は「逃避」から「闘争」へと変わったのだ。
「私は……お姫様じゃない」
私は独り言のように呟き、観測窓の向こうに広がる、母なる地球の青さを見つめた。
木星の地獄を知らない少年と、過去を捨てた英雄たち。
彼らと共に、私は、父が焼き尽くそうとしているこの美しい星を、守るための戦いに身を投じることになる。
木星の冷たい風を、一瞬だけ忘れた。
私の肺には今、地球のリンゴの香りが、確かに満ちていた。