機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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木星帝国(エンパイア)の産声

耳の奥で、鼓膜を突き破るような沈黙が鳴り続けている。

地球の青を背景に、ボロ布の旗を掲げた海賊船マザー・バンガードの甲板に降り立った私は、そこで生まれて初めて「本物の風」を浴びていた。それは木星のジュピトリス級空調システムが吐き出す殺菌剤混じりの生ぬるい風とは違う、どこまでも澄み、鋭く、そして自由な匂いがした。

 

だが、その平穏は、あまりにも短すぎた。

 

「……っ!」

 

脳が焼ける。

木星帰りのプレッシャーが、かつてない強度で私の意識を蹂躙した。

サイコミュ・レセプターを通さずとも、宇宙(そら)の彼方から届くどす黒い殺意の波動が、私の心臓を万力のように締め上げる。

それは父、クラックス・ドゥガチの絶叫だった。

 

マザー・バンガードのブリッジに設置された全天周囲モニターが、強制的な広域通信によって一色に塗り潰される。

そこに現れたのは、もはや聖者の仮面さえ脱ぎ捨てた、私の父だった。

 

「地球圏の愚民どもよ、聞くがいい!」

 

父の声は、ミノフスキー粒子の霧を裂き、地球周回軌道上のあらゆる受信機へと叩きつけられた。

モニターに映る父の顔は、生命維持装置に繋がれた痛々しい老人などではなく、憎悪という名の高純度ヘリウム3を燃料に燃え盛る火炎そのものだった。

 

「我ら木星の民は、70年の長きにわたり、貴様らの排泄物を啜り、貴様らの使い残した酸素で露命を繋いできた。超重力に骨を軋ませ、放射線に血を汚しながら、貴様らが踏み締める土、貴様らが仰ぎ見る空、そのすべてを我らが資源が支えてきたのだ!」

 

父の背後には、帝国の威信を懸けて建造された新鋭モビルスーツ、バタラの軍勢。そして、その中心に鎮座する、あまりにも歪な「神」の影。

核ミサイルを抱いた怪鳥、ディビニダド。

 

「だが、それも今日で終わりだ。慈悲の時代は過ぎ去った。我ら木星帝国(ジュピター・エンパイア)は、本日を以て地球連邦に対し、正式に宣戦を布告する! これは戦争ではない。不浄なる猿の檻に対する、神の雷による処刑である!」

 

宣戦布告。

その瞬間、私の視界は白濁した。

サイコミュのインターフェースが、父の脳波パルスを拾い上げ、私の脳内に直接「雷」を落とす。

 

「ああああああっ!」

 

私は床に膝をついた。

隣でトビアが私の肩を抱くが、その手の温もりさえも、父の放つ冷酷な殺意にかき消されていく。

父の精神は、もはや一人の人間のキャパシティを超えていた。シロッコが遺したバイオ・センサー技術の暴走か、あるいは長年の孤独が作り上げた狂気か。

父は、自分の娘である私を、その殺意のターゲットに含めることに一毫の躊躇もなかった。

 

「テテニス……。私から逃げ、猿どもの甘い毒に絆された愚かな娘よ。お前もまた、地球と共に焼かれるがいい。それが、木星の王女として私がお前に与えられる、最後で最大の『愛』だ」

 

通信が途切れる。

後に残ったのは、宇宙の静寂と、これから始まる虐殺への予感だけだった。

 

「……お父様、どうして」

 

震える声で呟いた。

リンゴの甘さが残る唇が、恐怖で白く乾いていく。

父が求めていたのは、地球の救済でも、木星の独立でもなかった。

自分が愛し、そして自分を拒んだ「美しい地球」を、自分の手で灰にすること。そのストーカーにも似た、醜悪で純粋な所有欲。

 

「ベルナデット、しっかりしろ! 戦うんだ、僕たちと一緒に!」

 

トビアの声が、混濁した意識を繋ぎ止める。

彼の瞳は、先程までのリンゴを食べる少年ではなく、運命に立ち向かおうとする一人の戦士のそれに変わっていた。

 

マザー・バンガードの甲板に、警報が鳴り響く。

帝国の先遣隊、工作員ギリが駆るモビルアーマー、クァバーゼがミノフスキー粒子の海を割って急接近してくる。

それはまさに、木星帝国(エンパイア)という名の怪物が上げた、最初の産声だった。

 

「キンケドゥ、出るぞ!」

 

「ああ、トビア。……テテニス・ドゥガチ。いや、ベルナデット。君が見ているのは、君の父親が作った地獄だ。だが、それを終わらせる権利もまた、君の手の中にある」

 

キンケドゥ・ナウが、クロスボーン・ガンダムX1のコクピットへと飛び込む。

背部スラスターがX字に展開し、超高圧のプラズマが宇宙の闇を切り裂いた。

 

私は、逃げるのをやめた。

父が「神の雷」を放つのなら、私はその雷を導く避雷針になろう。

贅沢なドレスを脱ぎ捨てたこの指先には、まだ血の味がこびりついているけれど。

それでも、トビアが教えてくれたリンゴの瑞々しさを、この世界から消させはしない。

 

「トビア、行って……。私も、私にできることをするわ」

 

私は立ち上がり、ブリッジへと駆け出した。

木星の超重力下で鍛えられた私の脚は、地球の1Gの中では羽が生えたように軽かった。

だが、その心に背負った「木星帝国」という名の罪の重さは、今、宇宙で最も重い物質へと変貌していた。

 

宇宙世紀0133年。

木星の深淵で眠っていた亡霊たちが、ついに目を覚ました。

全地球を焼き尽くす「神の雷」のカウントダウン。

その初撃が、マザー・バンガードの装甲を激しく揺らした。

 

私の戦いは、今、この瞬間から始まる。

父様を殺し、そして私自身を救うための、終わりのない戦いが。

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