ダンジョンに獣狩りを求めるのは間違っているだろうか、あるいは血の夢に耽るべきか 作:もいもい130
#### 第一部
迷宮の相貌が変わる。
上層の、どこか石造りの遺跡を思わせる整然とした通路は消え失せ、眼前に広がるのは剥き出しの岩肌が牙のように突き出す、広大な岩窟の連なりだった。
第13階層。ここから先は冒険者たちが『中層』と呼び、生存率が劇的に跳ね上がる死の領域だ。
壁のあちこちから、ドロリとした粘液と共に新たな怪物が産み落とされる。
その胎動の音さえも、上層のそれより重く、湿っている。
「…………」
狩人は、一切の減速なしにその境界線を踏み越えた。
彼にとって、階層の数字など何の意味も持たない。
ただ、深く沈むほどに空気の「澱み」が濃くなり、啜るべき血の熱量が増していくことだけが、彼を突き動かす唯一の指針だった。
使者たちが影の中で騒がしく蠢いている。
彼らは主の足元を泳ぐように先行し、岩陰に潜む殺意を、言葉ならぬ「概念」として脳内に伝えてくる。
右方の岩の裂け目。上方の鍾乳石の影。そして、正面。
「グルゥゥ……ッ!」
暗闇の中から、複数の「火」が灯った。
それは松明の光ではない。燃え盛るような、あるいは煮えたぎるマグマのような、凶悪な赤色。
姿を現したのは、中層の門番とも言うべき魔獣――『ヘルハウンド』の群れだった。
大型犬を二回りほど巨大化させたような体躯。
全身を覆う漆黒の体毛の間から、絶えず火の粉が噴き出している。
彼らは迷宮の侵入者を感知した瞬間、その喉を鳴らし、肺胞に溜め込んだ「火炎」を圧縮し始めた。
一体、二体、……合計で六体。
通常の冒険者パーティであれば、前衛が盾を構え、後衛の魔術師が防御魔法を展開してようやく防ぎ切れるかという、死の包囲網。
ヘルハウンドたちは同時に口を開いた。その奥で、凝縮された熱光が爆発的に膨れ上がる。
「カッ!」
六条の火柱が、狭い通路を埋め尽くすように放たれた。
岩壁が熱で爆ぜ、酸素が瞬時に焼き尽くされる。逃げ場のない灼熱の激流。
だが、狩人は動かなかった。
回避(ステップ)もせず、ましてや『ガラシャの鉄塊』による防御すら選ばない。
彼は、左腕を無造作に突き出した。
その手に握られていたのは、真鍮製の無骨な意匠が施された、水瓶にも似た奇妙な噴霧器。
『ロスマリヌス』。
かつて医療教会の聖歌隊が用いたとされる、宇宙の神秘を媒介する触媒。
狩人の意志が、懐の水銀弾を「媒介」として噴霧器へと注ぎ込まれる。
「シュォォォッ!」という、高圧の蒸気が漏れるような異質な音が響いた。
噴射されたのは、炎でも毒霧でもない。
それは、夜空の彼方、星々の瞳の中に棲まうとされる微小な生物たちの息吹。
美しくも悍ましい、銀色の粒子を孕んだ「神秘の霧」だ。
激突する、赤き炎と銀の霧。
物理的な燃焼現象である火炎ブレスは、その霧に触れた瞬間、理不尽なまでの「法則の書き換え」を受けた。
熱は奪われるのではなく、神秘という名の深淵に呑み込まれて消滅する。
炎が届くはずの空間は、瞬時に凍りつくような宇宙の冷気と、理解不能な星界のノイズによって埋め尽くされた。
「……ッ!?」
ヘルハウンドたちが、困惑したように声を漏らす。
自慢の火力を正面から「消された」ことなど、迷宮の生態系においてあり得ない事態だった。
霧の中から、黒い影が飛び出した。
狩人の跳躍。
彼はロスマリヌスを外套の内へと消し、空いた左手でヘルハウンドの一体の顎を掴んだ。
そのまま、無理やりその口を閉じさせ、地面へと叩きつける。
「ガッ、……ッ!!」
岩盤が砕け、ヘルハウンドの頭蓋が不自然な形に歪む。
狩人は止まらない。
右手の『獣骨断ち』。
折り畳まれていた刃が、ジャラリ、と重厚な音を立てて伸展する。
「一……」
横一閃。
扇状に展開した蛇腹の刃が、残りのヘルハウンド五体の首を、一撫でで刈り取った。
「ドシュッ、ドシュシュッ」
時間差で噴き出す黒い灰と血。
狩人はその返り血を全身に浴びながら、さらに奥へと突き進む。
第14階層を経て、第15階層へ。
岩窟の広さはさらに増し、天井は闇に隠れて見えないほどに高い。
そこに、中層の覇者が待ち構えていた。
「――オォォォォォォォォッ!!」
空気を震わせる絶叫。
巨大な牛の頭部と、筋骨隆々とした人間の胴体を持つ、牛頭の怪物。
『ミノタウロス』。
上層のモンスターとは比較にならない耐久力と膂力を誇る、中層の「死神」。
そいつは手にした巨大な石斧を軽々と振り回し、侵入者である狩人を叩き潰さんと、地響きを立てて突進してきた。
狩人は、右手の獣骨断ちを再び折り畳み、ナタの状態に戻す。
そして、真正面から迎え撃つように、一歩前へ踏み出した。
「ガッ!!」
ミノタウロスの石斧が、狩人の脳天を狙って振り下ろされる。
狩人は左手の『ガラシャの鉄塊』を掲げた。
「ドォォォォォォンッ!」
石斧と鉄板が衝突し、火花が散る。
衝撃波が周囲の岩壁を削り取るが、狩人の足は一ミリも後退していない。
上位者の筋力が、鉄塊という「拒絶」の媒体を通じて、ミノタウロスの全質量を一点で受け止めた。
「……終わりだ」
狩人は、鉄塊で石斧を強引に跳ね上げた。
巨体が大きく後ろへ仰け反り、無防備な胸元が剥き出しになる。
そこへ、狩人は素手を突き出した。
「ドシュッ」
指先が、鋼のようなミノタウロスの筋肉を容易く裂き、肋骨の隙間を潜り抜ける。
狩人の腕は、肘までその巨体の中へと没していた。
内臓攻撃。
「ヌ、ゥ……ッ!?」
ミノタウロスの瞳から、生の色が消える。
狩人の指先が、その体内にある「巨大な魔石」を直接掴んだ。
そのまま、引き抜く。
「――ッ!!」
凄まじい衝撃と共に、魔石が血肉ごと抉り出された。
通常であれば瞬時に灰となるはずの巨体が、理の書き換えによって灰になることさえ許されず、「肉の塊」として地面に崩れ落ちる。
狩人の手には、血に濡れた巨大な魔石。
彼はそれを背後へと放り投げた。
影の中から使者たちがワラワラと這い出し、その贅沢な獲物を奪い合うようにして咀嚼し始める。
バキ、バキ、という、生命の核が砕かれる不吉な音が静かな岩窟に響いた。
狩人は、首筋に新たな輸血液を突き立て、深い吐息を漏らす。
「……まだだ。まだ足りない」
脳内のカレル文字が、さらなる血を求めて疼いている。
ここは、神の管理する「冒険」の場などではない。
上位者にとって、ここはただの、底知れぬ飢えを満たすための「解体場」に過ぎなかった。
狩人は、再び血晶石の拍動を増した獣骨断ちを握り、さらに深く、迷宮の暗闇へと足を踏み出した。
背後には、凍りついたヘルハウンドの死体と、内臓を抉られたミノタウロスの残骸。
中層の秩序は、この「漂流者」の通過によって、もはや修復不能なまでに蹂躙されていた。
#### 第二部
静寂が戻ったはずの第15階層に、場違いな金属音が響いた。
それは慎重に、かつ訓練されたリズムで岩肌を叩く、探索者たちの足音だった。
「――おい、待て。鼻が曲がりそうだぜ」
先頭を行くドワーフの戦士、ドルムが斧を構えたまま足を止めた。
彼は中堅派閥に所属するベテランであり、この『中層』を幾度となく往復してきた歴戦の探索者だ。
その彼が、見たこともないほどに眉根を寄せ、不快そうに顔を歪めている。
「ドルム? どうしたの、いきなり」
「……血だ。それも、ただのモンスターの死臭じゃねえ。……『屠殺場』の匂いがしやがる」
背後の仲間たちが武器を握り直し、慎重に角を曲がる。
そこで彼らが目にしたのは、迷宮の生態系と、彼らが積み上げてきた「常識」を根底から否定するような、地獄の断片だった。
「な……んだ、これ。ミノタウロス、か?」
一人の魔導士が、震える指で前方を指差した。
そこには、中層の覇者であるはずのミノタウロスが、無惨な「肉の塊」として転がっていた。
通常、モンスターは死ねば魔石を残して灰に帰る。
だが、その死骸は灰になることさえ拒絶されたかのように、赤黒い血を流し、生々しい臓腑を晒してそこに「存在」していた。
「……見てくれ。魔石があるはずの胸倉が、素手で抉り取られてやがる。まるで、熟した果実でも毟り取るようにな」
ドルムが死骸の傍らに膝をつき、その断面を観察する。
彼の眼は、ドワーフ特有の武器や鉱石に対する鋭い審美眼を持っていた。
ミノタウロスの鋼のような外皮と筋肉は、鋭利な刃物で断たれたのではない。
圧倒的な「質量」と、それを無理やりに叩きつける「暴力」によって、細胞ごと叩き潰され、引き千切られていた。
さらに彼らを戦慄させたのは、その周囲に散乱するヘルハウンドの残骸だった。
火炎を司るはずの魔獣たちが、黒焦げになるどころか、見たこともないような「白濁した霜」に覆われて絶命している。
「魔剣の仕業か? ……いや、おかしい」
魔導士の少女が、周囲の空間に手をかざして呟いた。
「……『魔力(マインド)』の残滓が、一滴も感じられない。氷結系の魔法が使われたなら、必ず大気中に魔力の揺らぎが残るはずなのに……ここにあるのは、ただの理不尽な『冷気』だけよ」
「魔法じゃねえってのか? 氷の魔石製品(マジックアイテム)でも使ったってのかよ」
「それにしたって限度があるわ。ヘルハウンドの火炎ブレスを正面から押し潰すなんて、どれだけのマインドを込めたら……。それに、見て。この岩壁を」
魔導士が指し示した先。
岩壁には、一本の線ではない「異様な傷跡」が刻まれていた。
重厚な刃が、蛇腹状に連なって打ち付けられたような、不規則で凶悪な破壊の跡。
それは剣でも、斧でも、槍でも、オラリオの鍛冶師が打ついかなるカテゴリーの武器にも当てはまらない、異界の工芸品の痕跡。
「……蛇腹剣? いや、そんな細っちょろいもんじゃねえ。……これは、鉄の塊を無理やり繋ぎ合わせて振り回したような、正気の沙汰じゃねえ代物だ」
ドルムの背中に、冷たい汗が伝わる。
彼は、岩壁にこびり付いた黒い液体に指を触れた。
「……こんなモンを振り回せる膂力(ステータス)なんて、レベル4……いや、レベル5以上の『化け物』じゃねえと説明がつかねえ」
「……おまけに、この『返り血』の量を見ろ。犯人はこれだけの返り血を浴びながら、一歩も止まらずに奥へ向かっていやがる。回復魔法を受けた気配も、ポーションの瓶も落ちてねえ」
「……引き返すぞ」
ドルムが、絞り出すような声で告げた。
「えっ? でも、今日の素材集めが――」
「バカ野郎! 魔法も使わず、ただの『物理的な暴力』だけで、中層の主役どもを肉の塊に変えちまうようなイレギュラーが、今この先にいるんだぞ!」
歴戦のドワーフが、恐怖を隠そうともせずに叫んだ。
彼らが信じてきた「レベル」や「恩恵(ファルナ)」、あるいは「魔法」というシステム。
そのどれにも依存せず、ただ純粋な「狩り」の技量だけで迷宮を蹂躙していく未知の影。
その存在は、彼らのような「神の管理下」にある冒険者にとって、理解不能な天災に等しかった。
「……これは冒険じゃねえ。ただの、解体作業だ」
一行は、逃げるようにして上層への階段へと駆け出した。
彼らが去った後の通路には、不気味なほどの静寂と、神々の理解を超えた銀色の霧だけが、重く漂い続けていた。
迷宮の自浄作用が追いつかないほどの、圧倒的な蹂躙。
中層の平穏は、たった一人の「狩人」が通過しただけで、修復不能なまでに崩壊していた。
#### 第三部
迷宮の動悸が、深層から地上へと伝播していた。
「――ロイマンギルド長。第15階層の複数のパーティから、異常事態の報告が入っています」
ギルド本部、重厚な執務室。
ハーフエルフのエイナ・チュールは、顔色の悪い上司、ロイマン・マディールに向かって報告書を突き出していた。
報告の内容は、どれもにわかには信じがたいものばかりだ。
灰にならない怪物の死骸。魔法の残滓がない凍結現象。そして、素手で魔石を抉り取られたミノタウロス。
「ふん、新人指導のエイナ君。君は相変わらず大げさだ」
ロイマンは肥満した身体を椅子に沈め、鼻を鳴らした。
「中層の怪物が死骸を残す? 武器も持たぬ狂人がミノタウロスを屠る? そんな馬鹿げた話があるものか。どうせ、どこかの派閥(ファミリア)が新種の魔道具でも試した後の、見間違いだろう」
彼は忌々しそうに続ける。
「……そもそも、君が報告したあの『血まみれの男』とやら。神の恩恵も持たぬ者が、中層のヘルハウンドに焼かれずに済むはずがない」
「ですが、実際に目撃証言が……!」
「黙りなさい。ギルドは忙しいのだ。そんな正体不明の幽霊(ゴースト)のために、貴重な探索系ファミリアを動かす予算などない」
ロイマンは冷淡に一蹴し、手元の書類に目を落とした。
エイナは拳を握りしめ、言い返そうとして――止めた。
この男に、あのバベルのホールで感じた「底なしの虚無」を説明しても無駄だと悟ったからだ。
だが、そのギルドのさらに地下深く。
光の届かぬ最下層、「祈りの間」では、全く異なる空気が流れていた。
「…………」
巨大な祭壇の前。老神ウラノスは、迷宮の暴走を抑えるための祈りを捧げていた。
だが、その静謐な祈りの最中、彼は自身の肌を刺すような「異変」に目を見開いた。
神の権能を遮断し、神々を憎悪するはずの迷宮(ダンジョン)が、変質していた。
それは、侵入者に対する激怒ではない。
ウラノスの長い神生において、一度も感じたことのない感覚。
生きた迷宮そのものが、自身の深淵を突き進む「何か」に対し、本能的な『怯え』を抱いている。
岩盤が、微かに震えていた。
それは地鳴りではなく、冷たい水に浸された時に起こる、生物特有の「戦慄」だ。
「迷宮が……恐怖している、というのか」
ウラノスの呟きに応えるように、玉座の影から一人の黒衣の人物が滑り出した。
全身をローブで隠し、顔すら見えない魔術師――フェルズだ。
「ウラノス。あなたも感じたか」
「フェルズか。……迷宮の鼓動が乱れている。神が下りた際に見せる拒絶反応とは、明らかに質が違う」
「ああ。何かが……下っている。神の恩恵を持たず、されど迷宮の理に組み込まれぬ『異物』が」
フェルズの声には、隠しきれない動揺が混じっていた。
「かつて迷宮から這い出した『三大クエスト』の怪物たちですら、迷宮にとっては自身の一部であり、子供のようなものだ。だが、今そこを闊歩している存在は、迷宮というシステムそのものを外部から『解体』しようとしている」
「……フェルズ。直ちに向かえ」
ウラノスが、その重厚な声で命じた。
「決して手出しはするな。あれに干渉すれば、オラリオの秩序がどうなるか予測がつかん。……ただ、観測せよ。迷宮を震え上がらせているその『漂流者』が、何者であるのかを」
「……御意」
フェルズの姿が、影に溶けるように消失した。
地上では神々が遊戯に興じ、冒険者たちが富を求めて笑い合っている。
だが、その華やかな足元では、世界の根幹を揺るがす「解体」が静かに、そして確実に進行していた。
上位者たる狩人は、自らを追う賢者の視線すらも、迷宮の「一部」として踏み越えていく。
彼の前には、ただ赤黒い闇と、さらに濃厚な血の匂いが漂う『下層』への入り口が口を開けて待っていた。