リゼロif 少年と魔女   作:まんはんたん

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その12

 どこまでも果てしなく続く、緑の草原。

 吹き抜ける風はいつだって心地よく、空は不気味なほどに青く澄み切っている。

 精神と魂が交差する「夢の城」において、強欲の魔女エキドナと、その唯一の契約者であるナツキ・スバルのお茶会は、沈黙という名の膠着状態に陥っていた。

 

 当代の『剣聖』、ラインハルト・ヴァン・アストレア。

 その規格外の存在を自陣営に引き入れるという、悪魔すら呆れるようなスカウト計画。それをどう成し遂げるべきか、スバルの脳内では無限のシミュレーションが空回りし、そのどれもが「絶対的な武力による死」という絶望的なエラーを吐き出して強制終了していた。

 

 テーブルの向かい側に座るエキドナは、そんなスバルの苦悩に満ちた表情を、まるで極上の演劇を鑑賞するかのように楽しげに眺めていた。だが、やがて彼女は小さく息を吐き、陶器のカップをソーサーへと静かに戻した。カチャリ、という高く澄んだ音が、スバルの混濁した思考を微かに揺り起こす。

 

「……しかし、最初に少しばかり言い過ぎたようだね。これはボクのミスだ」

 

 エキドナの口からこぼれたのは、意外にも謝罪にも似た言葉だった。

 頭を抱え込んでいたスバルは、訝しげに顔を上げ、眉間に深い皺を寄せた。

 

「ん? 言い過ぎってことはないだろ」

 

 スバルは、脳裏に焼き付いている燃えるような赤毛の青年の姿を思い出しながら、ひどく掠れた声で反論した。

 

「ラインハルトは強敵──いや、強敵なんて手垢のついた言葉さえ軽すぎる。あいつは、次元が違うんだ。俺たちがこれまで必死の思いでくぐり抜けてきた死線が、あいつにとってはただの散歩道みたいなもんなんだよ。言うならば……」

 

 言葉を探して口ごもるスバルの言葉を、強欲の魔女が嬉しそうに引き継いだ。

 

「超越者。……君風の言葉で例えるならば、『ちーときゃら』、と言えばいいのかな?」

 

「────」

 

 スバルの動きが、ピタリと止まった。

 深刻な絶望感に支配されていた夢の城の空気が、唐突なサブカルチャー用語の投入によって、一瞬にして間抜けなものへと変質する。

 

「お前……最近、ますますサブカルに染まってきてないか?」

 

 スバルは、半ば呆れたようにジト目を向けた。

 四百年の叡智を誇る強欲の魔女が、事あるごとに現代日本の若者言葉をドヤ顔で披露してくるこの状況。もはやツッコミを入れる気力すら削がれそうになる。

 

 だが、エキドナは全く悪びれる様子もなく、むしろ自身の胸に手を当てて、愛おしげに微笑んだ。

 

「ふふ……ボクの愛しき君への『理解』が、より深く、より親密なものへと進んでいると捉えることにするよ。……夫婦間で通じる話題や語彙が増えるというのは、関係を長続きさせる上で、とても良いことだからね」

 

「誰が夫婦だ。寝言は自分の墓所で一人で眠ってる時に言え」

 

 スバルは冷たく切り捨てた。

 

「強欲の魔女サマが、これからサブカルオタク魔女にクラスチェンジして引きこもるかどうかはどうでもいいんだよ。今は、ラインハルトの話だ」

 

 スバルが話を本筋へと無理やり引き戻すと、エキドナもまた、先ほどまでのふざけた空気をスッと消し去り、理知的な魔女の顔へと戻った。

 

「うん、そうだね。当代の『剣聖』、ラインハルト・ヴァン・アストレアについてだ」

 

 エキドナは、テーブルの上で両手の指を組み合わせ、その美しい顔をスバルへと向けた。

 

「ボクが『言い過ぎた』というのはね……あんな風に、彼の絶対的な強さばかりを強調する言い方をしてしまったら、まるでボクたちが、これからラインハルトを武力や策略で『打倒』する必要があるみたいじゃないか、という意味さ」

 

「……似たようなもんだろ? あいつの信念をへし折って、俺たちの陣営に引きずり込むんだ。盤面をひっくり返してあいつを叩き潰す算段を立てなきゃ、話が始まらねえ」

 

「いいや、そこは全く違うよ、スバル。君は愚かではないが、焦りから視野が狭くなっている。……手段と目的を、絶対に履き違えてはダメだ」

 

 エキドナの声は、ひどく静かで、それゆえに逆らうことのできない絶対的な響きを持っていた。

 

「君は、ラインハルトの強固な心をへし折り、屈服させることを前提に考えているようだが……それは、全く必要のないアプローチの仕方さ。彼を『倒す』必要なんて、どこにもないんだからね」

 

「倒さずに、あの剣聖を手に入れろってのか?」

 

「そうさ。確かに、当代の剣聖は個人の『武』という観点においてのみ言えば、世界最強、いや、歴史上最強の存在を誇るだろうね。……でも、それはね、スバル」

 

 エキドナは、哀れむような目でスバルを見つめた。

 

「彼が最強であるということは……彼が『己の望む未来を手に入れられる』ということと、イコールではないんだよ」

 

「…………」

 

 スバルは押し黙った。

 エキドナの言っている意味が、頭では理解できても、感情がそれを拒絶している。圧倒的な力があれば、なんだってできるじゃないか。俺が喉から手が出るほど欲しかった、誰かを守るための力。死の運命を理不尽な暴力で叩き潰せる力。それを持っているあいつが、望む未来を手に入れられないはずがない。

 

「ふふ、納得できないという顔だね」

 

 エキドナは、スバルの内心を見透かしたように小さく笑った。

 

「君は、己の無力さを嫌というほど知っている。何度も何度も惨たらしく死んで、その度に自分の手札の少なさに絶望し、血反吐を吐いてきた。……だからこそ、君はラインハルトの持つ『絶対的な武力という力』を、過大評価しすぎているんだよ。ナツキ・スバル」

 

 エキドナは立ち上がり、ゆっくりとテーブルを回り込んで、スバルのすぐそばへと歩み寄った。

 

「ボクの愛しい契約者よ。君は、君自身が慢心しないように、常に自分を底辺に置き、卑下している。それは君の生存本能であり、美徳でもあるが……同時に、その強すぎる自己否定が、君の目をひどく曇らせてもいるんだよ」

 

 エキドナの白い手が、スバルの肩にそっと触れた。氷のように冷たいのに、魂の奥底が熱くなるような奇妙な感覚。

 

「それでは一つ、簡単な思考実験をしようか」

 

 エキドナは、スバルの耳元で、悪魔の囁きのように言葉を紡ぎ始めた。

 

「例えば……ラインハルトほどの力があるのなら、彼個人が王選などという面倒な遊戯に参加しなくても、別にいいじゃないか。そうは思わないかい?」

 

「は……?」

 

「彼がその気になれば、明日にでもルグニカ王国の実権を握ることだってできる。歯向かう者、異議を唱える者、煩わしい賢人会、それこそ他の王選候補者や騎士たちを全てその圧倒的な武力で打倒し、ついでに周辺の大国、ヴォラキア、カララギ、グステコをも一人で滅ぼして、自らが世界の覇王になればいい。……彼には、それが物理的に『可能』なんだからね」

 

 スバルの目の前に、血塗られた世界地図が広がるような錯覚を覚えた。

 もし、ラインハルトが悪人であったなら。もし、ラインハルトが己の欲望のままに剣を振るう存在であったなら。誰も彼を止めることはできない。世界は三日と持たずに彼の手によって蹂躙されるだろう。

 

「そ、そんなの……ありえねえよ」

 

 スバルは肩を震わせ、エキドナの言葉を否定した。

 

「あいつはそんな奴じゃない。あいつは誰かを傷つけるために剣を振るったりしない。そんなこと、絶対に……」

 

「そう。絶対に、ありえないだろう」

 

 エキドナは、満足げにスバルの肩をポンと叩いた。

 

「世界は感謝すべきだろうね。彼ほどの絶対的な力を持つ人間が、盤面のルールを己の力で破るような傲慢な人格を持たなかったことにさ」

 

 エキドナはスバルから離れ、再びパラソルの下から青い空を見上げた。

 

「だが、それは同時に、彼の致命的な弱点でもある。……きっと、ラインハルトは『英雄』にしか、なれないんだよ」

 

「英雄にしか、なれない……?」

 

「そう。彼は、誰かから与えられた大義名分がなければ、その無敵の剣を一つ、満足に振るうことができない。民を守るため。主を守るため。世界を守るため。そういった綺麗で、重たくて、どうしようもない鎖に縛り付けられていなければ、彼は己の力を発揮することすら許されないシステムの中に生きている」

 

 エキドナは振り返り、嘲笑うかのように唇を歪めた。

 

「ふふ……初代『剣聖』と呼ばれた、あのレイド・アストレアという傍若無人な無頼漢の血筋とは思えないほど、今の剣聖は……ひどく窮屈で、退屈で、そして脆い精神性をしていると、ボクは言わざるをえないけどね」

 

 英雄であることの呪い。

 最強の剣は、それを抜くための正当な理由がなければ、ただの重たい鉄の塊に過ぎない。

 スバルは、王都の路地裏で初めてラインハルトに出会った日のことを思い出していた。彼はスバルを助けたが、それはスバルが「助けを求めた」からだ。エルザを退けたが、それはエルザが「明確な悪意を持って襲いかかってきた」からだ。

 彼はいつだって、事態が起きてから対処する「後手」の存在だ。自ら盤面を引っ掻き回し、泥をかぶって未来を捻じ曲げるような真似は、彼の正義が許さない。

 

「おっと、少し話がそれてしまったね。スバルの顔を見る限り、君はまだ心の底から納得がいっていないようだ」

 

 エキドナは、未だにラインハルトへの畏怖を捨てきれていないスバルを見て、楽しげに目を細めた。

 

「でも、君は……ラインハルトという存在が、君が思っているほど『完全無欠な存在ではない』という事実を、そろそろきちんと理解してもいいと思うんだけどね」

 

「どういう意味だ?」

 

 スバルが問い返すと、エキドナは先ほどまでの芝居がかった態度を捨て、ひどく真剣な、歴史の真実を語るような声色に変わった。

 

「四百年間もの間、この世界に甚大な損害を出し続け、無数の命を奪ってきた3大魔獣。……スバル。そのうちの2体は、一体『誰』が滅ぼしたんだい?」

 

「────ッ」

 

「同じく、数百年にわたり世界に暗い影を落とし続けてきた魔女教。その幹部である大罪司教『怠惰』を、完全に殺し切ったのは……『誰』だい?」

 

 スバルは息を呑んだ。

 白鯨。大兎。ペテルギウス・ロマネコンティ。

 歴史上の誰もが恐れ、誰もが討伐を諦めていた理不尽な厄災たち。

 

「それは……」

 

 スバルが口ごもると、エキドナは意地悪く微笑んで見せた。

 

「ラインハルトが滅ぼしたのかな? 彼個人の絶対的な実力から考えれば、三体まとめて彼が討伐していたとしても、何も不思議ではないよね」

 

「……」

 

「でも、違う」

 

 エキドナは、一切の反論を許さないほどの強い口調で言い切った。

 

「彼が本当に、魔獣に怯える民の苦しみや、先代剣聖である祖母テレシアの無念を心から感じていて、それを晴らそうと願っていたのなら……己の独断で、すぐ討伐に向かえばよかったじゃないか。ラインハルトには、それが可能なだけの実力がある。白鯨を両断し、大兎を焼き尽くす力が、彼にはあるはずだ」

 

 エキドナの言葉は、正論という名の刃となって、スバルの脳髄に突き刺さる。

 

「でも、違う。彼はやらなかった」

 

 エキドナは一歩ずつ、再びスバルへと近づいてくる。

 

「白鯨も、大兎も、怠惰も。一つも、ラインハルトは討伐していない。討伐どころか、彼らと剣を交えることさえなかった。彼はただ王都で、己の正義という名の窮屈な檻の中で、じっと待機していただけだ」

 

「俺じゃ、ない……」

 

 スバルは、頭を抱えるようにして、震える声で否定しようとした。

 

「俺の手柄じゃない。白鯨を落としたのはクルシュさんや、ヴィルヘルムさんや、討伐隊のみんなが命を懸けたからだ。怠惰を倒せたのも、ユリウスやフェリスたちが俺を信じて力を貸してくれたからだ。俺はただ、逃げ回って、叫んで、囮になって……俺一人じゃ、何も……」

 

「──倒したのは、君だ」

 

 背後から。

 ふわりと、死と甘さが混じったような魔女の匂いが、スバルの全身を包み込んだ。

 気がつけば、エキドナはスバルの背後に立ち、その細く白い両腕で、椅子に座るスバルの首元から胸にかけてを、そっと、ひどく優しく抱きしめていた。

 

「君なんだよ。スバル」

 

「ッ……」

 

 耳元で囁かれる、甘く、鼓膜を撫でるような声。

 魔女の柔らかな感触と、氷のような体温が背中越しに伝わってくる。スバルは、自分が強欲の魔女に抱きしめられているという異常な状況にさえ、もはや気づいているのかどうか怪しいほどに、精神が不安定に揺らいでいた。

 視界がブレる。吐き気がする。だが、魔女の腕の中は、どうしようもなく安らかで、呪いのように心地よかった。

 

 エキドナは、スバルの首に頬をすり寄せながら、まるで聖母が愛する我が子に愛を囁くように、あるいは、悪魔が契約者の魂を汚すように、言葉を紡いでいく。

 

「武力を持たない君が」

 

「魔法の才能すらろくにない君が」

 

「誰よりも弱く、脆弱で、惨めで、無様で……何度も何度も死の痛みに泣き叫んだ君が」

 

 その言葉は、スバルの傷口をえぐりながらも、確かな『肯定』として彼の魂に染み込んでいく。

 

「その絶望的な無力さゆえに、君は誰よりも考えた。あらゆる手札をかき集め、他者の力を利用し、死の淵から泥をすすって……誰もが諦めていた盤面を、君自身の命をすり減らして整えた」

 

 エキドナの腕が、スバルの胸元で強く組み合わされる。それは、決して彼を逃がさないという所有の証。

 

「だからこそ、四百年の悲願が達成されたんだ。最強の剣聖が何百年も放置していた厄災を、ただの無力な少年である君が、たった数ヶ月で全て滅ぼして見せたんだ」

 

「俺、が……」

 

「そう。誇りたまえ、ナツキ・スバル。君はラインハルトよりも、遥かに恐ろしく、遥かに偉大な『結果』を世界にもたらしているんだからね」

 

 エキドナは、抱きしめたスバルの耳を小さく甘噛みし、そして、決定的な呪いの言葉を落とした。

 

「彼は、確かに最強の刃だ。……だが、刃は所詮、誰かに握られるための『道具』に過ぎない」

 

 スバルの瞳孔が、大きく見開かれた。

 道具。あの英雄を、ラインハルトを、道具だというのか。

 

「大義名分がなければ鞘から抜くことすらできない『英雄』など……君とボクがこれから作り出す、全てを呑み込む強欲な盤面の上では、ただの踊らされる哀れな駒でしかないのさ」

 

 最強の刃を、誰が握るのか。

 もし、彼に「正しき大義名分」を与える存在が、自分たちであったなら。彼を縛り付ける鎖を、自分たちが握ることができたなら。

 

「フェルトの陣営の第一の騎士? 確かに、彼のあの強固な忠誠心を引き剥がし、正攻法で離反させることは、事実上不可能だろうね」

 

 エキドナはスバルの背後から離れ、彼の横に立って、その顔を見下ろした。彼女の口元には、三日月のような邪悪な笑みが刻まれていた。

 

「ふふ、なら……その主である『フェルト』が、いなくなれば?」

 

「──殺せってのか?」

 

 スバルは、感情を完全に押し殺した、冷酷な声で尋ねた。

 かつて自分を助けてくれた、スラムの少女フェルト。彼女を暗殺し、ラインハルトの忠誠の対象を消し去る。それが手っ取り早い「最善」だというのなら、スバルはエルザを使ってそれを実行する覚悟をすでに決めていた。

 

 だが、エキドナはゆっくりと首を横に振った。

 

「別に、殺さなくてもいいさ。彼女を殺してしまうと、ラインハルトに『主の復讐』という、最も強固で厄介な大義名分を与えることになりかねないからね。彼が復讐の刃となってこちらに向かってくるリスクは、何としてでも避けなければならない。だから、殺すのはやめておこうか」

 

 エキドナは、まるでチェスの駒を指で弾き飛ばすような、軽やかな仕草をして見せた。

 

「ただ……彼女に、王選という舞台から『脱落』してもらえれば、それでいいのだからね」

 

「脱落……」

 

「そう。命を奪うことなく、彼女から王選候補者としての資格、あるいは意志を完全に剥奪する。主が王を目指すことを諦め、あるいは目指す資格を失えば……騎士であるラインハルトは、行き場を失う」

 

 大義名分を失った英雄。

 鞘を失い、宙に浮いた最強の刃。

 その刃が地に落ちる前に、最もらしく、最も美しい『正義』の皮を被った大義名分を用意し、そっとその柄を握りしめる者がいれば。

 

「……王選からの、脱落」

 

 スバルの瞳の奥底で、狂気の炎が静かに、しかし爆発的な熱量を持って燃え上がり始めた。

 フェルトの心を折り、彼女を盤面から引きずり下ろす。そして、ラインハルトを『救済』するという名目で、己の陣営へと組み込む。

 血も涙もない、悪魔の所業。

 だが、全てを救うという身の程知らずの強欲を満たすためには、その最強のカードが必要不可欠なのだ。

 

「あぁ、見えてきたよ。エキドナ」

 

 スバルは、深く椅子に座り直しながら、かつての人間らしい感情を完全に捨て去った、王の顔で呟いた。

 

「俺たちがやるべき、最初の『最善』の手がな」

 

「ふふふ……それでこそ、ボクの愛しい契約者だ」

 

 強欲の魔女は、完成しつつある最高の怪物の姿に、歓喜の身震いを隠せなかった。

 夢の城に吹き抜ける風は、これから現実世界で巻き起こるであろう、凄惨で冷酷な謀略の嵐を予感させるように、低く、不気味な唸り声を上げていた。

 最強の剣聖を盤面に引き摺り下ろすための、誰も見たことのない地獄のシナリオが、今、魔女と少年の手によって静かに幕を開けようとしていた。

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