Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌   作:りー037

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王の撤退と十種の影、闘神の笑み

【時刻:神代の終焉――紀元前2600年代】

 

【場所:絶対魔獣戦線近郊・エリドゥの祭壇麓】

 

 

 肺が、焼けるように熱い。

 

 宿儺は、ひしゃげた岩盤の上に立ち、薄く血の混じった息を吐き出した。

 

 

 領域『伏魔御廚子』の構築失敗。

 

 それは単なる術式の不発ではない。サーヴァントという、現世に仮の肉体を得て繋ぎ止められている「霊基」そのものへの、致命的なエラーの逆流だった。

 

 

 ピシッ、と。

 

 宿儺の胸の奥底――霊基の核が、ガラス細工のように微かな亀裂の音を立てる。

 

(……魔力の変換効率が、絶望的に追いついていない)

 

 

 宿儺は、自身の肉体の内側で起きている異常事態を、極めて冷徹な視座で分析していた。

 

 現在、彼にはパスを繋ぐマスターが存在しない。この神代の大地に満ちる極大の魔力を強引に吸い上げ、己の存在を世界に固定している。

 

 

 だが、召喚されてからまだ間もない彼の霊基は、この濃密すぎる神代の大気に、いまだ完全に馴染みきっていなかった。呪力を練り上げることはできても、世界に干渉するための『魔力』を大気から濾過し、宝具の起動エネルギーとして変換する機能が、完全にショートを起こしているのだ。

 

 

 これ以上の宝具の使用は不可能。

 

 それどころか、このまま無茶な魔力消費を続けるか、あるいは決定的なダメージを重ねられれば、最悪の場合、サーヴァントとしての霊基そのものが自壊し、消滅しかねない。

 

 

 対して。

 

 百メートル先の土煙の向こうで、ゆっくりと立ち上がる黄金の影。

 

 

 

 シュゥゥゥゥゥゥゥゥッ……!!!

 

 

 大気が、歓喜の産声を上げているようだった。

 

 神秘に満ちたこの神代の空間は、神霊であるケツァル・コアトルにとって、まさに『ホームグラウンド』そのもの。

 

 宿儺にとっては毒のように重く、変換効率の悪い真エーテルが、彼女にとっては極上の霊薬となる。呼吸をするだけで、大気中の莫大な魔力が彼女の体内へと流れ込み、伏魔御廚子によってズタズタに引き裂かれた白磁の肌を、失いかけた霊基の密度を、凄まじい速度で修復していく。

 

 

 片腕は失われたままだが、彼女から立ち昇る神威の圧は、傷を負う前よりもさらに強大に膨れ上がっていた。

 

(ここで仕留めきれなかった以上、真っ向からの勝ちの目は完全に潰えたか)

 

 

 

 魔力の枯渇。圧倒的な環境の差。

 

 このまま通常の呪力による強化と斬撃だけで立ち回ったとしても、追い詰められる。こちらが何も捨てずに、あのバケモノのような神を完封できるなどと、思い上がるほど馬鹿ではない。相手は、間違いなく「自分を殺し得る」本物の強者だ。

 

 

 

 だが。

 

 それでも、今の状況から『勝ちの目』を無理やり作り出す手段は、残されていた。

 

(自身の霊基の崩壊を前提として立ち回れば、道連れにするチャンスはある)

 

 

 自らの現界を繋ぎ止めているアンカーを完全に引き抜き、霊基を意図的に暴走させる。自身の消滅を代償とした、一度限りの特攻。それならば、この環境下であっても、相打ちに持ち込むことは可能かもしれない。

 

 

 

 相手を殺し、自分も死ぬ。

 

 王としての絶対的なプライドを守るため、己を見下した神を道連れにして地獄へ落ちる。

 

 

 

 ――しかし。

 

 

 

(…………)

 

 

 宿儺は、無意識のうちに奥歯を強く噛み締めた。

 

 胸の内に渦巻く、正体不明の苛立ちと、重圧。

 

 自身の王としてのプライドよりも、遥かに重い『何か』が、己の魂の天秤に乗せられている。

 

 自分には、まだ辿り着かねばならない場所がある。果たさなければならない、呪いのような約束がある。

 

 

 ならば、ここで死ぬわけにはいかない。

 

 神殺しの快楽に溺れ、自壊を選ぶなど、今の自分には許されないのだ。

 

「……興醒めだ」

 

 

 ここでの戦闘継続は困難。

 

 呪いの王は、自身のプライドを飲み込み、極めて冷徹に『撤退』の二文字を結論付けた。

 

 だが、ケツァル・コアトルの闘志は、いまだ全く衰えていない。

 

「休んでいる暇はありまセンよ!!」

 

 

 

 ドンッ!!

 

 

 空気をぶち抜く破裂音。

 

 全身血みどろの凄惨な姿でありながら、女神は嬉々として大地を蹴った。

 

 その速度は、こちらを凌駕する、怪物じみた神速。大気中の魔力を吸い上げながら、彼女は万全の霊基へと回帰せんとする勢いで、宿儺との十数メートルの間合いを一瞬にしてゼロにしようと迫り来る。

 

 

 宝具の使用は不可能。

 

 斬撃を浴びせながら後退したとしても、この速度差では確実に追い付かれ、粉砕される。

 

 先ほど、自身が領域外へ逃げようとした彼女を絶対に逃がさなかったように。今度は、鬼ごっこの攻守が完全に逆転したのだ。

 

(ならば、手札を変えるまで)

 

 

 迫り来る致命の右拳。

 

 神の殺気が肌を焼き、死の予感が宿儺の視界を極彩色に染め上げる。

 

 

 その極限の刹那。

 

 宿儺は、血に濡れた己の『両手』を、顔の前で滑らかに組み合わせた。

 

 伏黒恵の肉体、その二本の腕による、一切の淀みもない流麗な印。

 

 

 魔力を必要とする宝具ではない。完全に自身の内部の『呪力』のみで駆動する、もう一つの生得術式。

 

 

 

 ――十種影法術。

 

 

 両手で作られた『兎』の影絵。

 

 宿儺の足元の影が、漆黒の泥のようにドロリと沸騰する。

 

「――『脱兎』」

 

 

 

 ボポンッ!!!

 

 影の中から、凄まじい勢いで「何か」が噴出した。

 

 

 一匹、十匹、百匹、千匹。

 

 莫大な呪力によって強化された、数え切れないほどの兎の群れ。それが、宿儺の肉体を完全に覆い隠すように積み重なり、巨大な津波となって、突進してくるケツァル・コアトルへと押し寄せたのだ。

 

「……ウサギ!? オー、キュートな目くらましデスね!」

 

 

 一瞬だけ驚愕に目を丸くした女神だったが、その突進を止めることはなかった。

 

 彼女は黄金の神気を爆発させ、数千匹の兎の群れの中へと、躊躇うことなく正面から突っ込んだ。ウサギたちが次々と弾け飛び、影の残滓となって霧散していく。

 

 

 視界を完全に遮られながらも、直感だけで宿儺の気配を追い、右腕を振り被る。

 

 

 

 

 それが、呪いの王の狙い。

 

 ウサギの群れを強引に突破しようとする女神の、そのすぐ目の前。

 

 兎の波の向こう側で、後退する宿儺の両手は、すでに次の影絵を完成させていた。

 

 

「――『貫牛』」

 

 

 

 モォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!

 

 

 ウサギの群れを内側からぶち破り、巨大な黒い影が顕現した。

 

 宿儺のどす黒い呪力を色濃く纏った、巨大な闘牛。

 

 

 回避不可能な、目と鼻の先。

 

 女神がウサギの群れを抜けた瞬間、黒い牛の巨大な角が、ケツァル・コアトルの胴体を真正面から捉えた。

 

「グ、ゥゥッ!?」

 

 

 

 ズガァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!

 

 神の肉体であろうと、不意を突かれたこの圧倒的な質量の暴力は相殺しきれない。

 

 ケツァル・コアトルの身体は、突進の衝撃によってくの字に折れ曲がり、来た道を逆戻りするように、後方の森へ向かって猛烈な勢いで吹き飛ばされた。

 

 

 宿儺の指先は止まらない。

 

 牛を放った直後、走りながら両手を交差し、鳥の羽ばたきを模した印を結ぶ。

 

 

「――『鵺』」

 

 

 

 バチィィィィィィィィンッ!!!!

 

 

 

 紫電が弾け、大気を焦がすオゾンの匂いが立ち込める。

 

 

 足元の影から、巨大な怪鳥が顕現した。

 

 宿儺は跳躍し、その禍々しい鳥の背中に滑り込むようにして着地する。鵺は主を背に乗せたまま、ケツァル・コアトルが吹き飛ばされたのとは逆の方向――遥か上空へと、超高速で飛び立った。

 

 

 地上を見下ろす。

 

 数百メートル後方、土煙の中から、先ほど吹き飛ばされたはずの女神が、早くも体勢を立て直して姿を現していた。

 

 

 彼女は血を流しながらも、空へ逃れた宿儺の姿を正確に視認し、黄金の神気を脚部に集中させている。

 

 大地を蹴り割り、空を飛ぶ鵺を撃ち落とすための、跳躍の準備。

 

(……まだ来るか。しぶとい女だ)

 

 

 宿儺は、遥か眼下の女神を見下ろしながら、小さく舌打ちをした。

 

 神の闘争心は、想像以上に執念深い。このまま空を飛んで逃げても、あの理不尽な脚力で追撃されれば、いずれ追いつかれる。

 

 

 完全に引き離すための、決定的な足止めが必要だ。

 

 宿儺は、鵺の背に立ちながら、両腕を大きく頭上へと掲げた。

 

 手首を交差させ、両手の指を開いて、巨大な獣の顔を形作る。

 

 

「――『満象』」

 

 

 

 空が、物理的に黒く塗り潰された。

 

 ケツァル・コアトルが跳躍しようと大地に力を込めた、その頭上の空間。

 

 極大の呪力によって強化され、圧倒的な質量と巨体を誇る『象』の式神が、天空から逆さまの状態で、女神の頭上へと直接落下してきたのだ。

 

「オー! 上から来マシタカ!!」

 

 

 ケツァル・コアトルは、跳躍の力を迎撃へと切り替える。

 

 空を覆い尽くすほどの巨大な質量。彼女は残された右腕一本を天へと突き出し、その圧倒的な落下エネルギーを、神の膂力のみで真っ向から受け止めた。

 

 

 

 

 ズドォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!

 

 

 大地がクレーター状に陥没し、女神の両足が膝まで岩盤にめり込む。

 

 片腕が粉砕された状態でありながら、数万トンの圧力を押し返す、常軌を逸した神のパワー。

 

 

 だが。

 

 宿儺の狙いは、物理的な圧殺ではない。

 

 「……やれ」

 

 

 空の彼方から、呪いの王の声が響く。

 

 その瞬間、女神の右腕に受け止められた満象の巨大な鼻から、膨大な量の『水』が噴射された。

 

 

 

 ゴッッッバァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!

 

 

 それは、放水などという生易しいものではない。

 

 まるで空に穴が開き、滝そのものが落ちてきたかのような、水害を引き起こすレベルの極大の濁流。

 

「ワ、ワップ!?」

 

 

 神の膂力で象の質量は支えきれても、流体である『水』の濁流はどうすることもできない。

 

 

 ケツァル・コアトルは、足場を失い、巨大な津波に飲み込まれて、へし折られた巨木や岩の破片と共に、森の奥深くへと猛烈な勢いで押し流されていった。

 

 ゴボゴボと水に揉まれながら、彼女はどうにか水面から顔を出し、空を見上げる。

 

 

 しかし、そこにすでに、怪鳥に乗った呪いの王の姿はなかった。

 

 遥か上空、雲の切れ間へと消えていく、微かな紫電の残滓だけが残されている。

 

「……プハッ!」

 

 

 濁流の勢いが徐々に弱まり、ケツァル・コアトルは泥まみれになりながら、残った右腕で太い木の幹にしがみつき、自身の体を支えた。

 

 水に流されたことで、これ以上の追跡は完全に不可能。

 

 

 彼女は、自身のボロボロの肉体を見下ろす。

 

 左腕は失われ、全身は傷だらけ。神代の魔力で再生し始めているとはいえ、かなりの深手を負っている。もしあのまま、向こうが自身の命を懸けて仕留めに来ていれば、こちらもただでは済まなかっただろう。

 

 命を懸ける価値はないと判断し、瞬時に手札を切り替えて、見事な撤退戦を演じてみせた人間の男。

 

「……逃げられマシタカ」

 

 

 ケツァル・コアトルは、水も滴る血みどろの顔で、空の彼方を見つめた。

 

 あの、傲慢で、極限に利己的で、しかし誰よりも苛烈な闘争の炎を宿していた姿を思い浮かべる。

 

「フフッ。いいデース。今回はドローということにしてあげマース」

 

 

 太陽の女神は、楽しげに笑い声を上げた。

 

「ですが……いずれこの借りは、必ずリングで返してもらいマスからね。悪い子」

 

 

 黄金の瞳を爛々と輝かせながら、闘神の笑みが、水没した神代の密林に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

【時刻:神代の終焉――紀元前2600年代】

 

【場所:絶対魔獣戦線近郊・鬱蒼たる原生林の最深部】

 

 

 ザァァァァァァァァッ……。

 

 遥か後方から、森を薙ぎ倒して進む鉄砲水の轟音が微かに響いてくる。

 

 神代の巨大なシダ植物が群生する、日の光すら届かない原生林の奥深く。

 

 紫電を纏った怪鳥・鵺が、音もなく樹冠をすり抜けて降下し、湿った腐葉土の上へと静かに舞い降りた。

 

 

 背から滑り降りた宿儺は、式神を解く。

 

 バチッ、と微かな静電気の音を残し、巨大な式神は元の実体のない「影」へと融解し、宿儺の足元へと吸い込まれて消えた。

 

「……」

 

 

 深い静寂が、鼓膜を打つ。

 

 あの太陽の女神からの追撃の気配は、完全に途絶えていた。圧倒的な質量と水害による強引な足止めは、見事に機能したらしい。

 

 宿儺は、視界に入る最も太い古代樹の根元へと歩み寄り、その苔生した分厚い樹皮に背中を預けるようにして、ズルリと腰を下ろした。

 

 

(……ひどい有様だな)

 

 

 自身の肉体を俯瞰し、宿儺は自嘲気味に息を吐く。

 

 物理的な外傷の大部分は、すでに反転術式によって塞いである。だが、伏黒恵という器の奥底――サーヴァントとしての魂の根幹を成す『霊核』が、ひどく熱を持ち、不快な軋みを上げていた。

 

 

 それは、疲労ではない。

 

 明確な『飢餓感』だった。

 

 

 腹が、減った。

 

 だがそれは、胃袋が食物を求めている生物的な空腹ではない。己という存在をこの世界に繋ぎ止めているエネルギー――『魔力』の圧倒的な欠乏から来る、霊的な飢えだ。

 

 領域展開という、世界そのものを書き換える絶大な宝具の使用。その起動と、不発によるペナルティ。それらが、現在マスターを持たない宿儺の魔力残量を、レッドゾーンのさらに底まで削り取っていた。

 

 

(サーヴァントの弱点……。世界に干渉するためのエネルギーを外部に依存しなければならないという制約は、思った以上に面倒だな)

 

 

 己の内部で自己完結し、生成できる『呪力』とは根本的に異なる。

 

 肉体をいくら修復しようと、器を世界に固定する釘(魔力)が抜け落ちれば、中身ごと砂のように崩れ去る。それが、英霊というシステムの脆弱性だった。

 

 

 ズキリ、と。脳髄がひび割れるような頭痛が走る。

 

 宿儺は目を閉じ、深く、ゆっくりと呼吸を始めた。

 

 

 スゥゥゥゥゥゥッ……。

 

 

 ハァァァァァァァッ……。

 

 

 神代の空気に満ちる、極大の真エーテル。

 

 現代の人間であれば、一口吸い込んだだけで肺が焼け焦げ、内臓が破裂するほどの、猛毒にも等しい超高密度の魔力。

 

 宿儺はそれを意図的に体内に取り込み、己の回路のフィルターを通して強引に濾過し、自身の霊基に定着させるための『魔力』へと変換していく。

 

 

 痛みを伴う、荒々しいプロセス。

 

 だが、これをしなければ、いずれ霊基は崩壊する。この星の法則に、己の存在を無理やりにでも馴染ませる必要があった。

 

 

 ゆっくりと、少しずつ。

 

 自身の輪郭が、世界に溶け込み、そして再構築されていく感覚。

 

 魔力の循環が安定し始め、痛みが微かな痺れへと変わっていく。

 

 

 眠るつもりなど、毛頭なかった。

 

 だが、霊基の修復に伴う強制的な意識のシャットダウンが、呪いの王の冷徹な脳髄を、一時的な微睡みへと引きずり込んでいく。

 

 

 意識が、深い海の底へと沈む。

 

 暗闇の中で、ふと、一つの『夢』を見た。

 

 

 いや、夢ではない。

 

 それは、伏黒恵という器の奥底にこびりついた記憶の断片か。あるいは、かつて共に在った、何者かの残滓か。

 

 

『……』

 

 

 光の射す方へ。

 

 誰かの背中があった。

 

 ひどく強欲で、傲慢で、それでも透き通るような意思を持った少女の後ろ姿。

 

 

 その声が、言葉が、ひどく鮮明に鼓膜を揺らす。それは呪いのように、あるいは祈りのように。

 

(……くだらん)

 

 

 微睡みの中で、宿儺は無意識のうちに眉間を寄せた。

 

 

 だが、その不快な記憶のノイズを完全に振り払う前に、彼の意識は、深い休眠状態へと完全に移行した。

 

 神代の森の静寂が、傷ついた呪いの王を優しく、そして冷たく包み込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【時刻:同時刻】

 

【場所:絶対魔獣戦線近郊・上空】

 

 

「……もう! 本当に、どこに行っちゃったのよ!!」

 

 

 雲を突き抜ける遥か上空。

 

 黄金の輝きを放つ天舟『マアンナ』の上で、一人の女神が苛立たしげに地団駄を踏んでいた。

 

 金星の女神であり、豊穣と美を司るメソポタミアの一柱、イシュタル。

 

 

 彼女は現在、文字通り血眼になって世界中を飛び回っていた。

 

 探しているのは、自身の所有物。それも、絶対に失くしてはならない、超ド級の『落とし物』である。

 

「ウルクの周辺には無かったし、北の山脈にも見当たらなかった……。あんなバカでかいモノが、そう簡単に見つからなくなるわけないじゃない!」

 

 

 彼女はマアンナの舳先から身を乗り出し、遥か眼下に広がる広大な原生林を、神の視力で睨みつける。

 

 もしあの金ピカの王に『アレ』を失くしたことがバレれば、末代まで嘲笑われることは火を見るより明らかだ。それだけは、女神のプライドに懸けて絶対に阻止しなければならない。

 

「こうなったら、草の根分けてでも……ん?」

 

 

 原生林の上空を舐めるように旋回していたイシュタルの視線が、ふと、不自然なマナの乱れに引き寄せられた。

 

 

 遠くの方で、大規模な魔力衝突の痕跡がある。

 

 現在、このメソポタミアは三女神同盟と魔獣たちの脅威に晒されており、局地的な戦闘など日常茶飯事である。普段の彼女であれば、「またどこかで野蛮な連中が暴れてるわね」と一瞥して通り過ぎるだけだった。

 

 

 

 だが。

 

 

(……何かしら、今の)

 

 その激しい戦闘の痕跡から、数キロメートル離れた深い森の奥。

 

 周囲の真エーテルの流れが、ほんの僅かに、だが極めて『異質』な渦を巻いているポイントがあった。

 

 まるで、大気中の魔力を、ブラックホールのように静かに、そして貪欲に吸い上げているような、奇妙な空間の歪み。

 

 

 イシュタルは、自身の落とし物探しの使命を一旦棚に上げ、好奇心の赴くままにマアンナの高度を下げた。

 

 音もなく地面に降り立った女神は、慎重に、しかし興味津々の足取りで、その気配の源へと近づいていった。 

 

 

「……人間? いや、サーヴァント?」

 

 

 巨大な古代樹の根元。

 

 そこに、一人の少年がもたれかかるようにして目を閉じているのが見えた。

 

 

 不思議な光景だった。

 

 少年は、この時代にはあり得ない、白い和装のような衣服を纏っている。その衣服は所々が破れ、乾いた血がこびりついており、凄惨な死闘を潜り抜けてきたことは一目で分かった。

 

 

 だというのに、彼の寝顔は――目を閉じ、静かに呼吸を繰り返すその横顔は、不気味なほどに整っており、どこか無垢な静謐さすら漂わせている。

 

 イシュタルは、音を立てずに少年のすぐ目の前まで近づき、顔を覗き込んだ。

 

(……変な気配。神気でもないし、ただの魔力でもない。もっとこう、どす黒くて、呪わしい……それに、この子、息をするたびに周囲の魔力を無理やり自分のモノにしてる……?)

 

 

 女神の知覚が、この少年が放つ異常性を警告している。

 

 放っておけば、いずれ世界に牙を剥くであろう、極めて危険な猛毒。本来であれば、この場で神の雷を落とし、塵一つ残さず消却すべき存在。

 

 

 

 だが。

 

 

「……んー……」

 

 

 イシュタルは、なぜかその手を下すことができなかった。

 

 それどころか、木にもたれかかって眠る少年の姿から、目を離すことができない。

 

 

 胸の奥底が、チリチリと疼く。

 

 それは、恐ろしい猛獣の子供を見つけた時の庇護欲か。それとも、理解不能な未知の宝石を見つけた時の所有欲か。

 

 

 惹きつけられる。

 

 絶対に放っておいてはいけないような、放っておきたくないような、奇妙な引力。

 

 イシュタルは、そっと手を伸ばし、少年の頬を人差し指でツンツンとつついた。

 

 

「……」

 

 

 起きない。

 

 ピクリとも動かず、ただ規則正しい呼吸音だけが微かに聞こえる。

 

 夢でも見ているのだろうか。時折、その形の良い眉が僅かに顰められるのが、イシュタルの目にはひどく新鮮に映った。

 

(……ダメダメ、私には探さなきゃいけないモノがあるんだから!)

 

 

 イシュタルはハッと我に返り、首を横に振った。

 

 こんな正体不明の男の子を構っている暇はない。早くアレを見つけないと、自分の女神としての威厳が崩壊してしまう。

 

 

 彼女はきびすを返し、マアンナへと戻ろうと数歩歩き出した。

 

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 

 

 ピタッ。

 

 女神の足が、止まる。

 

 

(…………いや、でも)

 

 

 イシュタルは、ゆっくりと振り返る。

 

 木漏れ日すら届かない薄暗い森の中で、静かに眠り続ける少年の姿。

 

 その存在は、危険でありながら、同時にどうしようもないほど『美しく』見えた。

 

 

 彼女は、腕を組み、うんうんと唸りながら数秒だけ悩んだ。

 

 

 そして、ポンッと手を打つ。

 

 

(ま、いっか!)

 

 

 天の女主人、イシュタル。

 

 彼女はこういう時、決して深く物事を考えない。

 

 美しいもの、興味を惹かれたもの、欲しいと思ったもの。それが何であれ、自身の目に留まったのであれば、それは即ち『自身の所有物』である。

 

 

 それが、美と豊穣の女神としての絶対の方針(ジャイアニズム)だった。

 

 

「身元不明の迷子を保護してあげるんだから、女神の慈悲に感謝しなさいよね」

 

 

 誰に言い訳をしているのか分からないセリフを口にしながら、イシュタルは再び宿儺の元へと歩み寄った。

 

 そして、眠りこける彼を、よいしょ、と抱き上げる。

 

 

 見た目に反して、随分と軽い。

 

 マアンナの船上に少年を寝かせると、イシュタルは満足げに腰に手を当てた。

 

「よし! 落とし物探しは一旦お休み! 今日はこの子を神殿に持ち帰って、色々と尋問(お世話)してあげることに決定!」

 

 

 この少年がどれほど危険な存在であろうと、自身の手元に置いておけば問題ない。

 

 そんな根拠のない、しかし女神としての絶対の自信を胸に。

 

 イシュタルは、ご機嫌な様子で鼻歌を口ずさみながら、天舟マアンナを起動させた。

 

 

 黄金の光が森を照らし、船は静かに、そして一気に天空へと舞い上がる。

 

 血みどろの死闘を終え、魔力枯渇により深い休眠状態に陥っていた呪いの王。

 

 

 彼は本人の意志とは全く無関係なところで、気まぐれな金星の女神によって、文字通り『お持ち帰り』されていくのだった。

 

 

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