藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~   作:梅酒24

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第一局:VS塔矢アキラ

――暗闇。

いや、それはただの闇ではなかった。

千年という時間が沈殿した、重く、静かな無の海。

そこに、ただ一つの意識だけが漂っていた。

藤原佐為。

己が何者であったかも、何を求めていたのかも、すでに輪郭は曖昧だった。だが、それでも消えなかったものがある。

碁。

盤上に石を置く、その一手の輝き。

神の一手に至るための、永遠の探求。

――打ちたい。

その想いだけが、魂をこの世に縫い留めていた。

「……まだ、終われぬのです」

誰に届くでもない声が、虚無に溶ける。

だがその時――

ふ、と。

遠くに“気配”が灯った。

かすかな光。

人の気配。

そして――

碁盤。

「……!」

それは、奇跡だった。

長い、長い孤独の果て。

ついに、再び“盤”に触れられるかもしれないという予感。

佐為の意識は、その光へと引き寄せられる。

――少年だ。

無邪気で、粗雑で、しかしどこか純粋な気配を持つ子供。

名も知らぬその少年が、古びた蔵の中で碁盤に触れようとしていた。

(この子……)

初めて触れる、生の気配。

千年の孤独を一瞬で打ち破る温度。

だが同時に、佐為は戸惑っていた。

(この子は……碁を知らぬ)

石の意味も、盤の深さも、何も知らない。

それでも、その手は碁盤に伸びている。

なぜか。

偶然か。

それとも――導きか。

少年が碁盤に触れた、その瞬間。

ぱきん、と。

時間が、割れた。

「……っ!」

視界が一気に開ける。

音が戻る。

風が流れる。

そして――

佐為は、“そこ”にいた。

「これは……現世……?」

驚きと、震え。

だがそれ以上に押し寄せるのは、歓喜。

盤がある。

石がある。

そして――人がいる。

「……ああ……」

思わず、涙が零れた。

「ようやく……ようやく……!」

だがその喜びの中で、佐為はすぐに理解する。

自分は“完全には戻っていない”。

この少年を媒介にして、かろうじてこの世に存在しているのだと。

少年――進藤ヒカル。

彼の中に、自分はいる。

(この子と共に……打つしかない)

だがその時、ヒカルは顔をしかめた。

「なんだこれ、汚れてんじゃん」

ぞんざいな声。

無造作な手つきで碁盤を扱う。

(ああ……!それは……それは大切な……!)

思わず声を上げる。だが届かない。

もどかしさが胸を締め付ける。

それでも。

それでも佐為は、確信していた。

(この子だ)

理由は分からない。

だが、魂が知っている。

この少年と共にあれば――

再び碁を打てる。

いや、それだけではない。

神の一手へ、辿り着ける。

ヒカルが盤から手を離そうとした、その瞬間。

佐為は叫んだ。

「お願いです……!」

声にならぬ声で。

「私に……打たせてください……!」

その願いが届いたのかどうかは分からない。

だがヒカルの手は、もう一度盤に触れた。

その一手が、すべての始まりだった。

――そして。

この物語は、“終わらない”。

消えることのない佐為。

打ち続ける魂。

ヒカルと共に、いやヒカルを導きながら、

果てなき碁の道を進み続ける。

「さあ……参りましょう、ヒカル」

誰にも聞こえぬその声は、しかし確かにそこにあった。

「今度こそ……神の一手へ――」

盤上に、静かに石が置かれる。

その音は、千年の時を越えて――

確かに、響いていた。

 

===

――囲碁会所。

古びた扉を開けた瞬間、空気が変わる。

静かで、張り詰めていて、それでいてどこか温かい――石と盤の匂い。

ヒカルは少しだけたじろいだ。

「なんだよここ……じいさんばっかじゃん……」

だが、その背中に寄り添うように、佐為は確かに“そこ”にいた。

(ああ……この空気……この静寂……)

千年ぶりに感じる、碁の場の気配。

胸の奥が震える。

(打てる……私はまた……打てる……!)

その時――

一人の少年が視界に入った。

端正な顔立ち。まっすぐな姿勢。

年齢はヒカルと同じくらい――だが、纏う空気が違う。

(……この子……)

佐為の中で、何かがざわめいた。

――強い。

まだ幼い。だが確実に、碁に選ばれた者の気配。

少年――塔矢アキラは、ヒカルの方をじっと見ていた。

(この人……素人?いや……違う……)

ヒカルの立ち方、目線、所作。

どれも素人そのもの。

だが――

(なぜだ……この違和感は……)

盤の前に座る前から、すでに“何か”を感じている。

ヒカルは居心地悪そうに頭をかいた。

「なあ、佐為……帰ろうぜ……」

(いえ……!)

佐為の声が強く響く。

(あの子と……打ちたい)

ヒカルはため息をつく。

「……しゃーねえな……」

そして、アキラの前に座った。

「一局、どうだ?」

アキラの目が細くなる。

「……はい」

――対局開始。

最初の一手。

ヒカルの手が石を持つ。

だが、その動きは明らかにぎこちない。

(ここは……)

佐為が静かに導く。

(星に……)

ヒカルの手が、盤の隅へ。

カチッ。

その音に、アキラの意識が集中する。

(……定石通り……)

だが次の瞬間。

(これは……!?)

二手目、三手目――

(違う……)

ヒカルの手は拙い。

だが、置かれていく石は――完璧に整っている。

(なぜだ……?)

アキラの心がざわめく。

佐為は、穏やかに盤を見つめていた。

(まだ幼い……だが、よく見えている)

アキラの応手は鋭い。

無駄がなく、純粋で、そして正しい。

(だからこそ……)

佐為はあえて、“緩める”。

(ここは……少し外しましょう)

ヒカルの手が、ほんのわずかに甘い位置へ。

アキラの目が光る。

(そこだ!)

鋭く切り込む一手。

カンッ!

(取れる……!)

アキラの胸に高揚が走る。

だが――

(え……?)

数手後。

その攻めが、するりといなされる。

(嘘だ……今のは……)

明らかに取れる形だった。

だが結果は、逆に自分の石が薄くなっている。

(誘われた……?)

アキラの鼓動が速くなる。

(いい反応です……)

佐為は微笑む。

(ですが、碁は“戦い”だけではありません)

盤全体を見る。

一局の流れ。

呼吸。

調和。

(ここで――)

静かに、大きく打つ。

ヒカルの手が中央へ伸びる。

アキラの瞳が見開かれる。

(このタイミングで中央……!?)

普通ではない。

だが――

(美しい……)

思わずそう感じてしまう一手。

ヒカルは混乱していた。

(なんだこれ……)

自分は何もしていない。

ただ言われるままに打っているだけ。

だが――

(なんか……すげえ……)

盤が、まるで生きているみたいに見える。

石と石が呼吸して、会話しているような感覚。

(これが……碁……?)

知らなかった世界。

そして目の前の少年――アキラの表情。

真剣で、苦しそうで、それでいて楽しそうで。

(あいつ……マジだな……)

終盤。

アキラの額に汗がにじむ。

(届かない……)

どれだけ考えても、差が埋まらない。

(なぜだ……同じ年なのに……)

いや、違う。

(これは……)

直感が告げている。

(この人じゃない……この人の“中”にいる何か……!)

最後の一手。

ヒカルの手が石を置く。

カチ……

静寂。

勝負あり。

「……負けました」

アキラは静かに頭を下げた。

だがその心は、嵐のように揺れていた。

(この人は誰だ……?)

(もう一度……打ちたい……!)

強烈な渇望。

佐為は、静かに目を閉じる。

(ああ……)

確信していた。

(この子は……いずれ……)

自分の“本気”に届く存在になる。

いや――

(ヒカルと共に……この子と……)

未来が、開けていく。

ヒカルは立ち上がる。

「じゃ、帰るか」

軽い口調。

だがその胸の奥には、確かに何かが残っていた。

アキラはその背中を見つめる。

(必ず……また……)

拳を握りしめる。

そして――

この一局が。

二人の運命を、大きく動かし始める。

まだ誰も知らない。

これはただの“出会い”ではない。

――宿命の、始まりだということを。

***

――再戦。

囲碁会所の空気は、前回とは明らかに違っていた。

静けさの中に、張り詰めた緊張。

その中心にいるのは――塔矢アキラ。

盤の前に座るその姿は、小学生とは思えないほど研ぎ澄まされていた。

(……あれは、敗北だった)

あの日の一局が、何度も何度も頭の中で再生される。

序盤、中盤、終盤――どこを切り取っても隙はなかった。

いや、違う。

(隙は“あった”……)

あえて作られていた。

(あの一手……あの緩み……)

あれがなければ、自分はもっと早く、もっと一方的に負けていた。

(つまり……あれは……)

アキラの指が、わずかに震える。

(――指導碁)

胸の奥が焼けるように熱くなる。

同世代に負けたことがない。

常に“上”にいた。

それが――

(教えられていた……だと……?)

悔しさが、怒りに変わる。

だがその怒りは、相手ではなく、自分自身へと向いていた。

(見抜けなかった……僕は……!)

そして、その悔しさの奥底にあるのは――

(もう一度……)

純粋な渇望。

(本気で……打ってもらう)

ヒカルは、相変わらず気だるそうに座っていた。

「またあいつかよ……」

だがその内側で、佐為は静かに目を細める。

(……来ましたね)

前回とは違う。

空気が違う。

覚悟が違う。

(この子……気付きましたね)

指導碁であったことに。

そして――それを許さないという意志に。

佐為の胸に、久しく感じていなかった感情が灯る。

(良いでしょう……)

静かに、しかし確かに。

(今度は――)

“本気”で応じる。

「もう一局、お願いします」

アキラの声は低く、真っ直ぐだった。

ヒカルは肩をすくめる。

「いいぜ」

石を持つ。

だがその瞬間、空気が変わった。

カチ……

一手目。

(……!?)

アキラの瞳が見開かれる。

(速い……)

迷いがない。

そして何より――

(重い……!)

一手一手に、圧がある。

(最初から……全力……!)

アキラの思考が加速する。

前回とは違う。

誘いも、緩みもない。

すべてが一直線に勝ちへ向かっている。

(受ける……!)

応手。

さらに応手。

盤上で火花が散る。

(素晴らしい……!)

佐為の内側で歓喜が弾ける。

(見えている……読めている……!)

アキラの読みは鋭く、深い。

年齢を超えている。

(ですが――)

ほんのわずか。

(“一手先”が足りない)

そこを、突く。

ヒカルの手が滑るように石を置く。

アキラの呼吸が乱れる。

(そこに打つのか……!?)

予想のさらに外側。

だが――

(成立している……!)

盤が、ひっくり返る感覚。

(まだだ……!)

アキラは食らいつく。

(届く……まだ届く……!)

読みを重ねる。

手を伸ばす。

だが――

(……遠い……)

差が、縮まらない。

いや、むしろ。

(広がっている……)

焦りが胸を締め付ける。

(なぜだ……!)

ヒカルはその空気を感じていた。

(なんか……やべえな……)

前より明らかに激しい。

盤を挟んで、何かがぶつかり合っている。

(あいつ……めちゃくちゃ真剣じゃん……)

そして、佐為。

(……楽しそうだな)

それが、少しだけ不思議だった。

終盤。

アキラの手が止まる。

盤を見つめる。

何度も、何度も読み返す。

だが――

(……ない)

逆転の道が、どこにもない。

静かに、手を置く。

「……負けました」

沈黙。

だが前回とは違う。

アキラは顔を上げる。

その目には、涙はない。

代わりに――

燃えるような光。

「……今のが、本気ですね」

ヒカルはきょとんとする。

「は?」

だがその奥で、佐為は静かに頷く。

(ええ……)

(これが……今の私の全力です)

アキラは拳を握る。

(遠い……)

だが同時に。

(確かに、届く場所にある)

絶望ではない。

希望だった。

「……必ず、追いつきます」

その言葉は、小さく、しかし確かに響いた。

佐為は、その言葉を受け止める。

(……待っていますよ)

千年の時を越えても消えなかった想い。

神の一手。

(ヒカルと共に……あなたと共に……)

その道を、進む。

ヒカルは立ち上がる。

「なんかよくわかんねーけど……またな」

軽い一言。

だがその背中を、アキラは真っ直ぐに見つめていた。

(あの人は……何者なんだ……)

答えはまだ出ない。

だが一つだけ、確かなことがある。

――この敗北は、終わりではない。

始まりだ。

***

――静かな帰り道。

夕暮れの光が、ゆっくりと街を染めていく。

ヒカルはポケットに手を突っ込みながら、少しだけ気だるそうに歩いていた。

「なあ、佐為」

不意に、声がかかる。

「さっきのやつ……あいつ、すごいやつなのか?」

その問いに、私はすぐには答えなかった。

――まだ、盤の余韻が残っている。

あの少年の一手一手。

読みの深さ。

そして何より――あの“まっすぐさ”。

(……ええ)

私は静かに、しかし確信を持って答える。

「とても……すごい方ですよ」

ヒカルは少し意外そうに眉をひそめる。

「へえ?そんなにか?」

(そんなに、どころではありません……)

思わず、心が揺れる。

あの年で、あの完成度。

あの年で、あの執念。

そして――

(負けを、正しく受け止める強さ)

それが、何よりも尊い。

「ヒカル」

私は穏やかに続ける。

「あの方は、すでに“勝つこと”だけで碁を打っているのではありません」

「はあ?」

ヒカルは首をかしげる。

「どういう意味だよ?」

私は少しだけ目を細める。

「自分より強い者を求めている……そういう碁です」

(ああ……懐かしい……)

かつて、私もそうだった。

強い相手を求め、ただひたすらに打ち続けた日々。

(あの子は……その入口に立っています)

ヒカルは、ふーんと軽く相槌を打つ。

だが、その表情にはまだ実感はない。

「でもさ、結局負けてたじゃん」

その一言に、私は小さく微笑む。

「ええ……ですが」

少しだけ、声に熱がこもる。

「次は……分かりませんよ」

ヒカルが足を止める。

「え?」

「今日の一局で、あの方は確実に変わりました」

あの目。

あの最後の言葉。

「必ず、追いつきます」

――あれは本気だ。

「人は、負けた時にこそ強くなります」

私は空を見上げる。

夕焼けの中に、どこか遠い記憶が重なる。

「しかも……あの方は“自分が負けた理由”に気付いています」

ヒカルが少しだけ真剣な顔になる。

「……それって、そんなにすごいのか?」

私はゆっくりと頷く。

「とても……とても、すごいことです」

(あの年で……あそこまで見えているとは)

正直に言えば――

(末恐ろしい)

だが同時に。

胸の奥に、確かな喜びがある。

「楽しみですね……」

思わず、言葉が漏れる。

「は?」

「また、あの方と打てる日が」

ヒカルは呆れたように笑う。

「お前ほんと碁ばっかだな」

(ええ……)

それでいい。

それがすべてだったはずだ。

だが――

私は少しだけ、ヒカルの横顔を見る。

(今は……違う)

この少年がいるからこそ、あの子と出会えた。

「ヒカル」

「なんだよ」

「あなたも……頑張りなさい」

「はあ!?なんで俺が!?」

思わずくすりと笑ってしまう。

(いずれ……)

きっとこの二人は、ぶつかり合う。

全力で。

本気で。

その時――

どんな碁が生まれるのか。

(ああ……)

胸が高鳴る。

千年の時を越えても、変わらないもの。

「碁は……本当に、素晴らしいですね」

ヒカルは肩をすくめる。

「はいはい」

だが、その軽い返事の中に。

ほんの少しだけ――

何かが芽生え始めていることを、私は感じていた。

***

――夜。

静まり返った部屋の中。

ヒカルはすでに眠りについている。

規則正しい寝息。

無防備な姿。

その傍らで、私はただ静かに座していた。

(……)

今日の対局。

塔矢アキラという少年。

あの輝き。

(また……打ちたい)

その想いが胸に満ちる。

だが同時に――

(……いけません)

ふと、ある記憶がよぎる。

遠い昔。

名も知らぬ少年――いや、“友”と呼ぶべき存在。

虎次郎。

(とらじろう……)

彼の姿が、静かに浮かび上がる。

幼いながらも、純粋に碁を愛し、私のために打ち続けてくれた少年。

だが――

(私は……)

ゆっくりと目を閉じる。

(彼の時間を……奪った)

彼自身の人生。

彼自身の選択。

それらを、私は“碁”の名のもとに縛り付けた。

「もう一局……もう一局だけ……」

そう言い続けた記憶。

(あれは……私の我がままでした)

気付いた時には、遅かった。

彼の時間は、戻らない。

彼の人生は、私の影に覆われていた。

(……繰り返してはならない)

ゆっくりと、ヒカルへ視線を向ける。

この少年もまた、私に碁を与えてくれた存在。

だが――

(同じことをしてしまうのではないか)

胸の奥に、不安が広がる。

ヒカルはまだ子供だ。

遊びたい時もある。

何もせず、ただ過ごしたい日もある。

それなのに――

(私は……)

「打ちたい」

ただその一心で、彼を動かしている。

(これは……正しいことなのでしょうか……)

答えは出ない。

(しかし……)

今日のアキラとの対局。

あの瞬間。

確かに私は、生きていた。

石を置くたびに、世界が広がる感覚。

読みが通じた時の、あの震え。

(あれを……手放すことができるのか……?)

できるはずがない。

千年を彷徨い、ようやく手にした機会。

(私は……碁を打ちたい)

その想いは、どうしても消えない。

だが――

(だからといって……)

ヒカルの寝顔を見る。

無邪気で、まだ何も背負っていない顔。

(この子の時間を……奪っていい理由にはならない)

胸が締め付けられる。

とらじろうの姿が、重なる。

(また同じ過ちを……?)

それだけは、絶対に許されない。

(ならば……どうする……)

考える。

ただひたすらに、考える。

自分の願いと、ヒカルの人生。

その両方を守る道を。

(私は……)

ゆっくりと、答えが形になっていく。

(“頼む”のではなく……“選ばせる”)

ヒカル自身に。

打つか、打たないか。

そのすべてを。

(私は……強制してはならない)

あくまで、導く存在。

決して、縛る存在ではなく。

(そして……)

もう一つ。

心に浮かぶのは、あの少年――アキラ。

(彼もまた……)

強く、碁を求めている。

ならば。

(ヒカルが望む時に……)

ヒカル自身が、あの子と向き合う日が来る。

その時。

(私は……)

ほんの少しだけ、力を貸す。

それでいい。

それ以上は、望んではならない。

(……難しいものですね)

小さく、苦笑する。

碁の読みならば、いくらでも深く潜れる。

だが――

人の心は、そうはいかない。

(ですが……)

それでも、決めた。

(もう……誰かの人生を奪うような打ち方はしない)

とらじろうへの、せめてもの償い。

そして――

ヒカルという少年への、約束。

静かな夜。

月明かりが、部屋を淡く照らす。

(それでも……)

胸の奥で、小さく疼く。

(……打ちたい)

その想いは、消えない。

消えることは、きっとない。

(ならば……)

それと共に生きるしかない。

欲望を抱えたまま。

それでも、誰も傷つけない道を探しながら。

私は、静かに目を閉じる。

(ヒカル……)

この少年と共に。

どこまで行けるのか。

(見届けさせてください)

その未来を。

その碁を。

その人生を。

今度こそ――

奪うのではなく、支えるために。

***

――雨。

それは、いつもと変わらないはずの一日を、静かに狂わせていく。

午後。

視界を歪ませるほどの激しい雨が、街を叩きつけていた。

道路は水を含み、タイヤの音は重く鈍い。

ワイパーは絶え間なく動き続けるが、それでも前方は滲んで見える。

その車の中に――進藤ヒカルの両親がいた。

「今日はひどい雨ね……」

母がフロントガラス越しに外を見つめる。

「だな。少しスピード落とすか」

父はハンドルを握りながら、慎重に車間距離を取る。

普段と何も変わらない会話。

日常の一コマ。

だが――

その日常は、ほんの一瞬で崩れる。

対向車線。

一台のトラックが、わずかにスリップする。

雨で濡れた路面。

摩擦を失ったタイヤ。

運転手は咄嗟にハンドルを切るが――

制御を失った車体は、大きく蛇行する。

「……!」

進藤の父の目が見開かれる。

「危ない……!」

急ブレーキ。

だが、間に合わない。

トラックが、こちらに突っ込んでくる。

時間が、引き延ばされたかのように遅くなる。

母が、息を呑む。

父が、歯を食いしばる。

そして――

衝突。

激しい金属音が、雨音をかき消す。

ガラスが砕け散る。

車体が大きく歪む。

衝撃で、車は横転しかけながら停止した。

世界が、止まる。

数秒後。

再び、雨音が戻ってくる。

叩きつけるような雨。

歪んだ車体の中。

動かない二人。

血が、静かに流れる。

遠くで、誰かが叫ぶ。

「事故だ!!」

通行人が駆け寄る。

「大丈夫ですか!?」

だが、返事はない。

すぐに携帯が取り出される。

「救急車!早く!」

雨の中、サイレンの音が近づいてくる。

救急隊が到着する。

迅速な判断。

「意識なし!呼吸あり!」

「すぐに搬送する!」

担架に乗せられる二人。

酸素マスク。

応急処置。

そのすべてが、機械のように正確に行われる。

だが――

その顔色は、決して楽観できるものではなかった。

救急車の中。

サイレンが鳴り響く。

赤い光が、雨を切り裂く。

「血圧低下しています!」

「意識レベル変化なし!」

短く、鋭い言葉が飛び交う。

命を繋ぎ止めるための戦い。

病院。

ストレッチャーが走る。

「緊急手術室へ!」

医師たちが待ち構える。

「頭部外傷あり!」

「内出血の可能性!」

ドアが閉まる。

――手術開始。

その頃。

進藤ヒカルは――

何も知らずにいた。

いつも通りの日常。

だが、それは突然断ち切られる。

携帯が震える。

知らない番号。

「……もしもし?」

数秒の沈黙。

そして――

「進藤ヒカルさんですか?」

低く、事務的な声。

「ご両親が交通事故に遭われました」

世界が、音を失う。

「現在、○○病院に搬送されています」

言葉が、頭に入らない。

「至急、来てください」

通話が切れる。

ヒカルは、動けない。

「……は?」

理解が、追いつかない。

だが――

次の瞬間。

全身が、勝手に動いていた。

雨の中。

少年が走る。

傘もささずに。

ただ、必死に。

(嘘だろ……)

心の中で、何度も繰り返す。

(嘘だ……)

だが現実は、容赦なく迫ってくる。

病院の光が見えたとき。

彼の日常は、完全に終わりを告げていた。

――ここから、すべてが変わる。

 

***

――雨。

それは、すべてを覆い隠すように降り続いていた。

激しく、容赦なく。

まるで何かを打ち消そうとするかのように。

(……)

病院の廊下。

白い光。

消毒液の匂い。

その中心で――

ヒカルは、崩れ落ちていた。

「なんでだよ……なんでだよぉ……!」

震える声。

掠れた叫び。

両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくる。

(ヒカル……)

私はその傍にいる。

確かに、すぐ隣にいる。

それなのに――

「しっかりしろよ……父さんも母さんも……!」

声は、届かない。

(……くっ……)

どれだけ言葉を重ねても。

どれだけ想いを込めても。

この手は、彼に触れることすらできない。

(何も……できない……)

無力。

その現実が、胸を締め付ける。

やがて、足音が響く。

「ヒカル!!」

振り返る。

祖父と――進藤あかり。

息を切らし、駆けつけてきた。

「大丈夫か、ヒカル……!」

祖父の手が、ヒカルの肩を掴む。

あかりも、涙を浮かべながら寄り添う。

「ヒカル……!」

だがヒカルは、ただ首を振るだけだった。

「……まだ……わかんねえ……」

声が、壊れている。

(……)

私は、ただ見ているしかない。

やがて――

手術室のランプが消える。

医者が出てくる。

その一瞬。

空気が止まった。

「……手術は、成功しました」

その言葉に。

ヒカルの顔が、ぱっと明るくなる。

「……ほんとかよ……!?」

あかりも、涙を流しながら笑う。

「よかった……!」

祖父も、深く息を吐く。

だが――

(……?)

医者の表情。

暗い。

重い。

沈んでいる。

(これは……)

次の言葉が、突き刺さる。

「しかし……」

静寂。

「お二人とも……意識は戻っていません」

ヒカルの顔が、固まる。

「……え?」

「脳へのダメージが大きく……」

言葉が、ゆっくりと落ちていく。

「いわゆる……植物状態です」

世界が、崩れる。

(……)

ヒカルの目から、光が消える。

「……そんな……」

声が、出ない。

あかりも、言葉を失う。

祖父は、唇を噛みしめる。

「さらに……」

医者の声は続く。

「長期の治療になります。費用も……相当なものになります」

現実。

逃げ場のない現実。

(……ああ……)

私は、理解してしまう。

これは――

あまりにも、残酷すぎる。

ヒカルは、立ち上がる。

ふらふらと。

誰の声も聞かずに。

そのまま――

屋上へ。

雨。

冷たい雨が、降り続いている。

空は暗いはずなのに。

なぜか――

雲の切れ間から、星が見えた。

不思議な光景。

涙のように降る雨と、遠くで輝く星。

(ヒカル……)

彼は、空を見上げていた。

びしょ濡れのまま。

動かない。

そして――

ぽつりと、呟く。

「……なあ、佐為」

その声に、私は震える。

「いるんだろ……?」

(……はい)

「……頼む……」

その一言。

それだけで、すべてが分かる。

ヒカルは、ゆっくりと膝をつく。

雨に打たれながら。

「……助けてくれよ……」

声が、震えている。

「父さんも……母さんも……」

拳を握りしめる。

「このままなんて……嫌だ……」

(……)

私は、何も言えない。

言葉が、見つからない。

「なあ……」

ヒカルが、顔を上げる。

涙と雨で、ぐしゃぐしゃになった顔。

「俺の人生……やるよ」

――その言葉に。

時間が止まる。

(……え……)

「全部、やる」

はっきりと。

迷いなく。

「だから……」

声が、崩れる。

「碁で……金、稼いでくれよ……」

(ヒカル……!)

「俺が遊びたいとかじゃねえ……」

必死に、言葉を繋ぐ。

「豪遊とか……そんなんじゃねえ……」

ただ一つ。

「父さんと母さんを……助けたいんだよ……!」

叫び。

魂の叫び。

「だから……お願いだよ……!」

雨の中。

小さな少年が、世界にすがりつく。

その姿が――

あまりにも、痛々しい。

(……)

私は、震えていた。

千年の時を生きても。

こんな感情は、知らない。

(こんな……)

重い願い。

(受け取れるはずが……)

あるのか。

「……頼むよ……佐為……」

その声が、胸を貫く。

(……ヒカル)

私は、目を閉じる。

とらじろうの記憶がよぎる。

また――

同じことをするのか。

誰かの人生を、奪うのか。

だが――

目の前には。

雨に打たれ、壊れそうな少年がいる。

(私は……)

答えを、出さなければならない。

雨は、止まない。

星は、静かに輝いている。

その狭間で――

ヒカルは、ただ祈るように。

私を、待っていた。

***

――君が今僕を支えて 僕が今君を支えるだから迷いながらも共に生きていこうよ 未来へと

 

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