藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~ 作:梅酒24
静かな帰り道の空気の中でさえ、あの対局の余韻は消えていなかった。
◆
【佐為視点】
私は、あの一局を何度も反芻していた。
(……楽しかった……)
その感情は、確かにある。
だが同時に――
(……悔しい……)
胸の奥を締めつけるような痛み。
◆
対局相手――
塔矢行洋。
(あれほどの打ち手……)
思い出すだけで、心が震える。
◆
(私は……まだ知らない)
江戸後期以降の定石。
流行。
現代の理論。
◆
(知らぬことが……多すぎる)
◆
だが――
そこで思考は止まらない。
◆
(……だからこそ……)
◆
静かに、何かが湧き上がる。
◆
(私は……まだ強くなれる)
◆
その確信。
◆
次の瞬間――
それは形を持った。
◆
青い光。
無数の粒子のような気配が、全身を包み込む。
◆
(……漲る……)
◆
力が、満ちていく。
◆
(まだ……終わっていない)
◆
むしろ。
(ここからだ)
◆
◆
【塔矢行洋視点】
あの対局を思い返す。
◆
(……不思議な少年だ)
◆
ヒカルの中に見た、もう一つの存在。
◆
(あの力……)
◆
単なる才能ではない。
◆
(時代を越えている……)
◆
そして同時に――
(未完成)
◆
知識の穴。
定石の欠如。
◆
(それでも……あれだけ打つ)
◆
口元に、わずかな笑み。
◆
(伸びる……)
◆
◆
【佐為視点】
ヒカルと、向き合う。
◆
(……決めましょう)
◆
言葉を落とす。
◆
(あなたのご両親を救うために)
(私は碁を打つ)
◆
ヒカルが、ゆっくりと頷く。
◆
「……ああ」
◆
(そのためには)
◆
(プロになる必要がある)
◆
そして――
(あなた自身も、強くならねばなりません)
◆
◆
院生。
◆
その言葉に、現実が重なる。
◆
締め切りは過ぎている。
◆
だが――
◆
【塔矢行洋視点】
(推薦した)
◆
それだけの価値があると、判断したからだ。
◆
「特例で受けさせよう」
◆
その一言で道が開かれる。
◆
◆
【佐為視点】
試験。
◆
対局が始まる。
◆
(……軽い……)
◆
相手の思考が、透けて見える。
◆
(これは……)
◆
手を進めるたびに、差が開く。
◆
(10目差……)
◆
圧勝。
◆
(……だが)
◆
満足はない。
◆
(もっと上へ)
◆
◆
廊下。
◆
ヒカルの足取りは軽い。
◆
「打倒塔矢行洋!!!!」
◆
その声が、響く。
◆
◆
すれ違う影。
◆
和谷義高。
◆
「……は?」
◆
足を止める。
◆
◆
【和谷との会話】
「今の……マジで言ってんの?」
ヒカルは肩をすくめる。
「当然だろ」
◆
和谷は笑う。
「面白い奴だな、お前」
◆
短い会話。
だが印象は残る。
◆
◆
【院生たち】
和谷が戻る。
そこには――
伊角慎一郎、
奈瀬明日美、
越智康介、
福井雄太がいる。
◆
「おい聞いてくれよ」
和谷が笑いながら言う。
「さっきすげー奴がいてさ、“塔矢行洋倒す”とか言ってんの」
◆
伊角が苦笑する。
「俺も院生入りたての頃、似たようなこと言ってたな……」
◆
奈瀬が腕を組む。
「でもさ、そういうのって嫌いじゃない」
◆
越智は冷静に。
「口だけなら誰でも言える」
◆
福井は笑う。
「で、強いのか?」
◆
その空気の中――
◆
ヒカルが入ってくる。
◆
◆
【会話】
和谷「そういやさ」
「塔矢アキラって気に食わないんだよな」
◆
ヒカル「知り合い?」
◆
和谷「ああ、プロ試験でな」
「そういうお前は?」
◆
ヒカル、あっさりと言う。
「俺は塔矢アキラに5回勝ったよ」
◆
一瞬、空気が止まる。
◆
ヒカル「ライバルと思われてるみたいなんだよね」
「何度も勝負挑んでくるんだよ」
◆
◆
沈黙。
◆
そして――
◆
「はああああああああああ!?」
◆
場が爆発する。
◆
【塔矢アキラ視点(遠く)】
(……進藤ヒカル……)
名前だけで、胸がざわつく。
◆
(また……打つ)
◆
その意思は、揺るがない。
◆
◆
【佐為視点】
騒がしい空間の中で、私は静かに思う。
◆
(道は開かれた)
◆
(ここからが、本当の勝負)
◆
◆
帰路。
夕焼けの中。
◆
ヒカルの歩みは、止まらない。
◆
その隣で――
私は、次の一手を考えていた。
***
すでに、空気は揺れていた。
目に見えぬざわめきが、院生室の隅々にまで染み込んでいる。
◆
【佐為視点】
(……騒がしい……)
だがそれは、雑音ではない。
期待と疑念が混じり合った、独特の熱。
◆
「塔矢アキラのライバルらしい」
「特例で1組16位スタートだって」
「試験官に10目差……さすがに盛りすぎだろ……」
◆
(……当然です)
私は静かに思う。
(まだ、何も見せていないのですから)
◆
【塔矢行洋視点】
別の場所。
静かに報告を受ける。
◆
(院生試験で10目差……)
◆
(噂が独り歩きしているな)
◆
だが。
(それでも――)
◆
(あの対局を見た者なら……)
◆
否定はしない。
◆
(むしろ足りぬくらいだ)
◆
◆
扉が開く。
◆
ヒカルが入ってくる。
◆
ざわ……ざわ……
◆
視線が一斉に集まる。
◆
【佐為視点】
(……来ましたね)
◆
ヒカルの足取りは、どこかぎこちない。
だが――
(中にあるものは……)
◆
静かに燃えている。
◆
◆
教師が入ってくる。
「静かに!」
◆
空気が引き締まる。
◆
「これより対局を開始する」
◆
◆
一斉に、碁盤へ。
◆
◆
【対局:初戦】
相手は――
越智康介。
1組1位。
◆
【越智】
「へぇ……お前が“噂の新人”?」
◆
ヒカルは無言。
◆
越智、鼻で笑う。
「……まずさ」
「時計の使い方、分かってる?」
◆
ヒカル、固まる。
◆
「……は?」
◆
ざわ……
◆
【佐為視点】
(……そうでしたね……)
◆
(現代のルール……)
◆
ヒカルはぎこちなく石を持つ。
◆
越智、さらに笑う。
「持ち方……素人じゃん」
「先手後手の決め方も知らないのか?」
◆
周囲もざわつく。
◆
(……これは……)
◆
【和谷・伊角・奈瀬たち】
「……越智、やりすぎじゃね?」
「でも……確かに初心者っぽい……」
「噂ってやつか……?」
◆
【佐為視点】
(構いません)
◆
むしろ。
(都合がいい)
◆
◆
対局開始。
◆
だが――
ヒカルはもたつく。
◆
越智「遅ぇな……」
「本当に大丈夫かよ」
◆
◆
【佐為視点】
(……さて)
◆
私は、静かに盤へと意識を落とす。
◆
(ここからです)
◆
◆
時間が流れる。
◆
30分後。
◆
ヒカルが立ち上がる。
◆
ざわっ――
◆
【周囲】
「え?」
「もう終わり?」
「越智に速攻やられたか……」
◆
◆
【佐為視点】
(……終わりました)
◆
ただし――
◆
(“逆”に)
◆
◆
50分後。
◆
他の対局が終わり始める。
◆
和谷、伊角、奈瀬が立ち上がる。
◆
「終わったな」
「越智どうなった?」
◆
◆
越智の席へ向かう。
◆
そこにあったのは――
◆
動かない背中。
◆
俯いたまま。
◆
◆
盤を見る。
◆
(……中盤の入り口……?)
◆
それで終わっている。
◆
(……投了……?)
◆
◆
【佐為視点】
(ええ……)
◆
(そこで決しました)
◆
◆
【和谷】
「おい……越智?」
◆
◆
越智、ゆっくりと顔を上げる。
◆
その目は――
◆
怯えていた。
◆
◆
「違う……」
◆
声が震える。
◆
「僕が……投了した……」
◆
◆
静寂。
◆
◆
越智「進藤ヒカル……」
◆
◆
息を飲む。
◆
◆
「……奴は本物だ」
◆
◆
まるで――
◆
“化け物”を見たような顔で。
◆
◆
【佐為視点】
(……伝わりましたね)
◆
ざわめきが、質を変える。
◆
疑念から――確信へ。
◆
(ここからです)
◆
◆
【塔矢アキラ視点(遠く)】
その報せを聞く。
◆
(……やっぱりだ)
◆
胸の奥が、熱くなる。
◆
(進藤ヒカル……)
◆
(早く……)
◆
(もう一度……!)
◆
◆
【塔矢行洋視点】
静かに目を閉じる。
◆
(始まったな)
◆
◆
新しい時代が。
【佐為視点】
越智という少年。
盤を通して、その力は十分に伝わってきた。
(……良い腕前です)
石の運び、読みの深さ、無駄のない構成。
確かに、この場において上位にいる理由は明白だった。
だが――
(……私には到底及ばない)
その差は、あまりにも明確だった。
◆
そして、もう一つ。
(この子が……一番強い……?)
わずかに思考が巡る。
◆
すぐに結論に至る。
(……違う)
◆
脳裏に浮かぶのは、あの少年――
塔矢アキラ。
(あの子には……遠く及ばない)
◆
それは確信だった。
◆
盤を離れた今、私は静かに考える。
(さて……)
◆
(このまま全力で打ち続けても……)
(私自身の力量は……大きくは伸びないでしょう)
◆
なぜなら。
(相手が……足りない)
◆
では、どうするか。
◆
(答えは……明確)
◆
ヒカルへと意識を向ける。
◆
(交互打ち)
◆
(私とヒカルで、順に打つ)
◆
それによって――
(ヒカルの力を引き上げる)
◆
ただし。
(例外は設けましょう)
◆
(本気を求められた時は――)
(本気で応じる)
◆
静かに微笑む。
(それでいきましょう)
◆
◆
二戦目。
◆
対面に座るのは――
奈瀬明日美。
◆
「女の子もいるんだ」
ヒカルの素直な声。
◆
奈瀬は軽く笑う。
「よろしくねー」
「越智を完封だなんて……やるじゃん」
◆
(……明るい方ですね)
◆
空気が柔らかい。
◆
対局開始。
◆
ヒカルが、最初の一手を置く。
◆
――天元。
◆
(……ほう)
◆
思わず、心が弾む。
(面白い)
◆
常識に囚われない、その一手。
◆
(良いでしょう)
◆
◆
ここから、交互に打つ。
◆
ヒカルの一手。
私の一手。
◆
そのリズムの中で、私は語りかける。
(今の一手……少し広すぎますね)
◆
ヒカルの思考が返ってくる。
(え……じゃあ、どこ?)
◆
(こちらです)
(この石と連動させるのです)
◆
ヒカルが頷く。
◆
◆
【ヒカルの内側】
(……なるほど……)
(さっき図書館で見た形に近い……)
◆
彼は、確かに努力していた。
棋譜を読み、私の言葉を吸収し――
(……成長している)
◆
◆
一手、また一手。
◆
ヒカルが打つ。
(あ……これ、違ったかも……)
◆
私はすぐに応じる。
(いえ、完全な誤りではありません)
(ただ――こちらの方が良い)
◆
◆
別の場面。
◆
ヒカルが打つ。
(……これ、いい手じゃないか?)
◆
私は静かに微笑む。
(ええ)
(その通りです)
(良い手です)
◆
その言葉に、ヒカルの心が少し弾む。
◆
◆
【奈瀬の心】
(……何これ)
◆
目の前の相手。
◆
(さっきまで初心者みたいだったのに……)
◆
打つたびに、変わる。
◆
(別人……?)
◆
◆
「ねえ」
奈瀬が軽く言う。
「さっきと雰囲気違わない?」
◆
ヒカル、少し焦る。
「え?そう?」
◆
(……ふふ)
◆
私は静かに見守る。
◆
◆
対局は進む。
◆
和やかな空気の中で――
だが盤上は、確実に差がついていく。
◆
【奈瀬の心】
(……強い……)
◆
(でも……なんか楽しい)
【佐為視点】
中盤に入ったとき、私は意識的に“手を引いた”。
(……ここからは)
(見守りましょう)
◆
ヒカルの思考が、静かに深まっていくのを感じる。
先ほどまでの戸惑いは消え、盤へと集中している。
◆
(良い傾向です)
◆
私は決める。
ヒカルが打つときには――何も言わない。
◆
(考えさせる)
(感じさせる)
(選ばせる)
◆
打った“あと”ならば、いくらでも導ける。
だが、その一手を“自分で選ぶ”経験こそが、何よりも大切。
◆
(こうやって……育てる)
◆
盤を見つめながら、静かに思う。
(今は……)
(この場にいるどの子よりも弱い……)
◆
だが――
(きっと……強くなる)
◆
その確信は、揺るがない。
◆
◆
ヒカルが打つ。
一手。
◆
(……あ)
◆
わずかに、呼吸が止まる。
◆
(それは……)
(少し……軽い……)
◆
いわゆる“悪手”。
だが――
私はすぐに思考を切り替える。
◆
(ならば……)
(活かすまで)
◆
私の番。
◆
その歪みを包み込むように、一手を置く。
◆
(悪手も……石)
(使いようです)
◆
◆
そして、気付く。
◆
(……面白い……)
◆
ヒカルの一手は、予測できない。
◆
(この発想……)
◆
私一人では、選ばなかった道。
◆
(考えさせられる……)
◆
それは、新しい刺激。
◆
(……成長しているのは)
(ヒカルだけではありませんね)
◆
◆
――次の瞬間。
◆
ヒカルが打つ。
◆
(……!?)
◆
思わず、声が出そうになる。
◆
(あわわわわ……!)
(そこは……だめです……!)
(いけません……一番悪い場所です……!)
◆
だが、私は言葉を飲み込む。
◆
(……待ちなさい)
◆
ヒカルの思考が流れ込む。
◆
(ここで当てれば……すぐに取り合いになる……)
(形は悪いけど……今は戦いを優先したい)
◆
◆
(……なるほど)
◆
私は、静かに納得する。
◆
(短期的には……成立している……)
◆
私は、数十手先を読む。
だがヒカルは――
◆
(“今”を見ている)
◆
目の前の攻防。
呼吸のような一手一手。
◆
(視点が違う……)
◆
それは、未熟さであり――
同時に、強さでもある。
◆
◆
だが。
◆
【奈瀬の心】
(……今の……)
◆
見逃さない。
◆
(甘い)
◆
◆
彼女の一手が突き刺さる。
◆
(……やはり……)
◆
ヒカルの歪みを、正確に咎めてくる。
◆
◆
気付けば――
(5目……)
◆
リードされている。
◆
◆
だが。
◆
(問題ありません)
◆
私は静かに盤を見つめる。
◆
(この5目……)
(捨てましょう)
◆
◆
守るのではなく――
◆
(新しい道を作る)
◆
◆
一手。
◆
流れを、変える。
◆
◆
終盤。
◆
空気が張り詰める。
◆
ヒカルの手。
私の手。
◆
二人三脚。
◆
(詰めていく……)
◆
じりじりと。
確実に。
◆
◆
石の音が響く。
――コツン
――ピシッ
◆
(……来ました)
◆
流れが、こちらへ。
◆
◆
ヒカルも感じている。
◆
その呼吸。
その熱。
◆
◆
そして――
◆
逆転。
◆
さらに一手。
また一手。
◆
(差が……開く)
◆
◆
終局。
◆
(3目半……)
◆
勝利。
◆
◆
ヒカルが立ち上がる。
◆
「やったぁ!!」
◆
元気なガッツポーズ。
◆
(……ふふ)
◆
私は、静かに微笑む。
◆
◆
対局後。
◆
「進藤くんって、変な子だねー」
◆
奈瀬明日美が笑う。
◆
「なんかさー、微妙な手といい手が交互に来る感じ?」
◆
率直な感想。
◆
ヒカルは苦笑する。
「え、そう?」
◆
◆
(……その通りです)
◆
だがそれは――
◆
(可能性の証)
◆
◆
二人は自然と会話を続ける。
◆
笑い合い、言葉を交わす。
◆
(良い関係ですね)
◆
◆
私は静かに見守る。
◆
(強くなるでしょう……ヒカル)
◆
(この出会いもまた――)
◆
一手なのですから。
【佐為視点】
対局を終えたあとの空気は、どこか柔らかかった。
勝負の緊張が解け、言葉が自然と行き交う。
◆
奈瀬明日美がふと振り返る。
「わや、いつからいたの?」
◆
壁にもたれていた
和谷義高が肩をすくめる。
「序盤から」
「休み番だったんだよ」
◆
ヒカルが首を傾げる。
「休み番?」
◆
(……確かに、初めて聞く言葉でしょうね)
◆
和谷は少し得意げに説明する。
「囲碁って2人1組だろ?」
「奇数だと1人余るんだよ」
「そいつは不戦勝。ここじゃ“休み番”って呼ぶ」
◆
ヒカルは素直に頷く。
「へー」
◆
(こうして一つずつ、この世界の仕組みを覚えていく……)
(それもまた成長ですね)
◆
和谷が、じっとヒカルを見る。
◆
その視線には、先ほどまでの軽さはない。
◆
「てかさ」
◆
一歩、踏み込む。
「お前……なんか企んでるだろ?」
◆
ヒカルが眉をひそめる。
「は?」
◆
和谷は続ける。
「手、抜いてたっていうか……」
「試してる感じ?」
◆
◆
(……鋭い)
◆
私は静かに感心する。
(よく見ていますね、この少年は)
◆
ヒカルは少しだけ笑う。
「まーね」
◆
(隠しませんか……)
(それでよいでしょう)
◆
和谷がニヤリと笑う。
「でさ」
「俺がなんで休み番でここにいたか、分かるか?」
◆
ヒカルはあっさり言う。
「わからねーよ」
◆
◆
一瞬の間。
◆
和谷の目が、真剣になる。
◆
「次の対局」
◆
「俺だから」
◆
◆
空気が、少しだけ引き締まる。
◆
「俺はさ」
「進藤の“本当の実力”見てぇんだよ」
◆
一歩、近づく。
◆
「だから――」
◆
「本気で打ってくれ」
◆
◆
(……来ましたね)
◆
私は静かにヒカルへ語りかける。
(“本気”を求められました)
◆
(約束通り……応じましょう)
◆
ヒカルは口元を歪める。
◆
「泣かないよな?」
◆
◆
一瞬、空気が抜ける。
◆
和谷が即座に返す。
「泣くかよ!」
◆
奈瀬がくすっと笑う。
◆
「なにそれ、子供みたい」
◆
◆
三人の間に、軽やかな空気が流れる。
◆
だがその奥には――
◆
確かな火種。
◆
(……良いですね)
◆
私は静かに思う。
◆
(競い合い)
(ぶつかり合い)
◆
それこそが――
◆
(人を強くする)
◆
ヒカルの中に、わずかな高揚が生まれる。
◆
それを感じながら――
◆
私は、次の一局に思いを巡らせていた。
◆
(さて……)
◆
(どこまで見せましょうか)
【佐為視点】
昼休憩。
張り詰めていた空気がほどけ、院生たちはそれぞれの場所へ散っていく。
◆
ヒカルは自然な流れで、二人と並んで歩いていた。
隣には
和谷義高、
そして
奈瀬明日美。
◆
向かった先は、簡素なハンバーガー屋。
ガラス越しに差し込む光と、油の香りが混じる、どこか日常的な空間。
◆
(……こういう場所も……今の時代の“対局場”の一つなのでしょうね)
◆
三人は席に着く。
◆
ヒカルはメニューを眺めながら迷う。
「えーっと……」
◆
奈瀬は即決する。
「私はチーズバーガーセット!」
「ポテトLで」
◆
和谷も続く。
「俺はダブルバーガーとコーラ」
◆
ヒカルは少し考え――
「じゃあ俺、てりやきバーガー」
◆
(……甘辛い味付け……)
(面白そうですね)
◆
やがて、トレーが並ぶ。
◆
紙に包まれたバーガー。
揚げたてのポテト。
弾ける炭酸。
◆
(……こうした何気ない時間も……)
(大切な一手)
◆
◆
食べながら、自然と会話が始まる。
◆
和谷が口を開く。
「でさ」
◆
ヒカルを見る。
◆
「次の対局、分かってるよな?」
◆
ヒカル、ポテトをつまみながら答える。
「わかってるよ」
◆
和谷、念を押すように。
「本気で来いよ」
◆
◆
(……やはり、こだわりますね)
◆
ヒカルは軽く笑う。
「はいはい」
◆
だが、その奥には――
◆
(受ける意思がある)
◆
◆
和谷がさらに踏み込む。
「てかさ」
「越智との対局……あれ、本気だったのか?」
◆
◆
一瞬、ヒカルの動きが止まる。
◆
(さて……どう答えますか)
◆
ヒカルは少しだけ考え――
◆
「……途中からな」
◆
◆
奈瀬が目を丸くする。
「途中から?」
◆
ヒカルは肩をすくめる。
「最初は……色々試してた」
◆
◆
(正直ですね)
◆
和谷は呆れたように笑う。
「マジかよ……」
「越智、相当強いぞ?」
◆
◆
ヒカルは頷く。
◆
「強いよ」
◆
その言葉に、軽さはない。
◆
「かなり強い」
◆
◆
(正しい評価です)
◆
◆
ヒカルは続ける。
◆
「でも――」
◆
わずかに、視線が遠くなる。
◆
「塔矢アキラの方が……全然強い」
◆
◆
空気が少し変わる。
◆
奈瀬が興味深そうに聞く。
「そんなに?」
◆
◆
ヒカルは、静かに言う。
◆
「うん」
◆
「物凄く強い」
◆
◆
(……確かに)
◆
私も、その姿を思い出す。
塔矢アキラ。
◆
(あの少年は……特別です)
◆
◆
ヒカルはさらに続ける。
◆
「でもさ」
◆
ポテトを一つ、口に運びながら。
◆
「まだ……伸びると思う」
◆
◆
和谷が眉を上げる。
「は?」
◆
奈瀬も興味を示す。
「どういう意味?」
◆
◆
ヒカルは少し考え――
◆
「なんていうか……」
◆
言葉を探す。
◆
「完成してないっていうか」
◆
「もっと強くなりそうなんだよな」
◆
◆
(……感じ取っていますね)
◆
私は静かに思う。
◆
(あの少年の“余白”を)
◆
◆
和谷は腕を組む。
◆
「へぇ……」
◆
少し笑う。
◆
「じゃあ、その“もっと強くなる奴”と戦ってるお前はどうなんだよ?」
◆
◆
ヒカルは一瞬だけ黙り――
◆
ニヤリと笑う。
◆
「俺も強くなるよ」
◆
◆
(……良い顔です)
◆
その言葉に、偽りはない。
◆
◆
奈瀬が笑う。
「なんかさー」
「進藤くんって、ほんと不思議」
◆
和谷も笑う。
「確かにな」
◆
◆
笑い声が、店内に溶ける。
◆
だが――
◆
(この三人)
◆
(いずれぶつかり合う)
◆
◆
私は静かに見つめる。
◆
(楽しみですね)
◆
次の対局。
◆
そこに待つものを思い描きながら――
私は、静かに心を整えていた。
【佐為視点】
休憩の余韻は、もうどこにも残っていなかった。
席へ戻る足取りの中で、空気が変わるのを感じる。
◆
碁盤の前。
向かい合うのは――
和谷義高。
◆
その表情は、先ほどの軽口とは別人のように引き締まっている。
◆
(……良い顔です)
◆
真剣。
それは、碁打ちにとって何よりも尊い姿。
◆
和谷が静かに石を取る。
◆
先手。
◆
一手目が置かれる。
◆
(……では)
◆
私は、ヒカルへと意識を落とす。
◆
(本気を求められました)
◆
(ならば――)
◆
(最初から応じましょう)
◆
◆
私は、一手を選ぶ。
◆
それは、遥か昔。
平安の頃に生まれた構想。
◆
――「夕霧」。
◆
(光源氏の子の名を冠した……一つの流れ)
◆
石を、散らす。
◆
まるで夕暮れに漂う霧のように。
◆
一見、まとまりはない。
だが――
(中盤から終盤にかけて)
(夜のように……石が生きる)
◆
◆
【和谷視点】
(……!?)
◆
違和感。
◆
だが同時に――理解する。
◆
(これ……“夕霧”……!?)
◆
古い打ち方。
だが、その本質は――
◆
(中盤以降を見据えてる……)
◆
(じっくり来いってことか……!)
◆
胸の奥が、熱くなる。
◆
(上等だ……!)
◆
◆
【佐為視点】
(気付きましたか)
◆
和谷の気配が変わる。
◆
(良いですね)
◆
◆
序盤。
石は散らばる。
◆
だが――
(全ては繋がっています)
◆
◆
一手、一手が重い。
◆
和谷の額に、わずかに汗が浮かぶ。
◆
(感じているはずです)
◆
(この“重さ”を)
◆
◆
序盤の終わり。
◆
ばらばらに見えた石たちが――
◆
じわりと、圧をかけ始める。
◆
◆
【和谷視点】
(くっ……!)
◆
(なんだこれ……!)
◆
散っていたはずの石が、
いつの間にか――
◆
(全部、効いてくる……!)
◆
◆
それでも、和谷は崩れない。
◆
(流せ……!)
◆
(まともに受けるな……!)
◆
最小限で受け、形を崩さない。
◆
(粘る……)
◆
(喰らいつく……!)
◆
◆
【佐為視点】
(……見事です)
◆
私は、静かに評価する。
◆
(バランスが良い)
◆
無理に戦わない。
急所を外さない。
◆
(性格は……猪突猛進のようですが)
◆
(碁は……繊細で慎重)
◆
◆
だが――
◆
(“牙”がない)
◆
◆
越智の鋭さ。
塔矢アキラのような圧。
◆
(それが……ない)
◆
◆
(だからこそ)
◆
(怖さもまた……ない)
◆
◆
だが、その安定が――
◆
(終盤へと導く)
◆
◆
中盤を越える。
◆
(……ここからです)
◆
◆
夕霧。
◆
その真価が現れる。
◆
散らばっていた石が――
◆
次々と、息を吹き返す。
◆
(生きる……)
◆
(全てが……)
◆
◆
【和谷視点】
(嘘だろ……)
◆
(全部……繋がる……!?)
◆
◆
盤面が、一気に傾く。
◆
◆
【佐為視点】
(読み通り)
◆
差が、開く。
◆
一手。
また一手。
◆
(止まりません)
◆
◆
終局。
◆
(……22目差)
◆
圧倒。
◆
◆
石を置く音が、止む。
◆
◆
和谷は――
動かない。
◆
俯いたまま。
◆
(……受け止めていますね)
◆
◆
しばしの沈黙。
◆
そして――
◆
ガタンッ
◆
勢いよく立ち上がる。
◆
「くやしいいい!!」
◆
声が、響く。
◆
「強すぎるぜ……!」
◆
息を荒げながら、笑う。
◆
「でもよ……!」
◆
◆
顔を上げる。
◆
その目は、まっすぐだった。
◆
「塔矢アキラのライバルっての……」
◆
◆
「俺、信じた」
◆
◆
【佐為視点】
その言葉に、私は静かに目を細める。
◆
(……ええ)
◆
◆
(それでよいのです)
◆
◆
ヒカルの中で、何かが確かに動いている。
◆
一手ごとに。
◆
確実に。
◆
◆
(次へ……進みましょう)
【佐為視点】
対局が終わったあとの盤上には、まだ熱が残っていた。
石の配置は静かにそこにあるのに、先ほどまでの攻防が、空気の中に確かに息づいている。
◆
和谷義高は、しばらく盤を見つめたまま動かなかった。
だがやがて、顔を上げる。
◆
「なあ……」
◆
その声には、悔しさと同時に、はっきりとした意思があった。
◆
「どこが悪かった?」
◆
◆
(……来ましたね)
◆
私は静かに頷く。
(求める者には、応える)
(それが……打ち手の務め)
◆
ヒカルは一瞬、言葉を探す。
だがすぐに――
◆
(そのまま伝えてください)
◆
私は、思考を預ける。
◆
ヒカルの口から、私の言葉が紡がれていく。
◆
「序盤……受けすぎだってさ」
◆
和谷の目が、わずかに揺れる。
◆
「お前、急所は外してた」
「形も崩れてなかった」
◆
「でも――」
◆
一拍。
◆
「全部“守り”だったって」
◆
◆
(そうです)
◆
私は静かに続ける。
◆
「夕霧はな」
「中盤から終盤で効いてくる打ち方だ」
◆
「だから序盤で押し返さないと――」
◆
「全部、後で重くなる」
◆
◆
和谷が、ゆっくりと頷く。
◆
ヒカルはさらに続ける。
◆
「あと」
◆
「怖がってたって」
◆
◆
その一言で、空気が止まる。
◆
和谷の目が、鋭くなる。
◆
「……怖がってた?」
◆
◆
(ええ)
◆
私は言葉を重ねる。
◆
「お前の碁、丁寧で強いけど」
◆
「“切り込む手”がなかったってさ」
◆
◆
沈黙。
◆
◆
和谷は、盤を見つめる。
◆
そして――
◆
小さく笑う。
◆
「……なるほどな」
◆
◆
(受け止めましたね)
◆
ヒカルは最後に付け加える。
◆
「でも、バランスはすげえいいって」
◆
「崩れないし、粘れる」
◆
◆
和谷が顔を上げる。
◆
「……そっか」
◆
◆
その表情には、すでに次を見据えた光があった。
◆
(これで良い)
◆
(彼は、強くなります)
◆
◆
感想戦は続く。
石を動かしながら、分岐を辿る。
◆
一手一手に意味が宿る。
◆
(……この時間こそが)
◆
(成長の本質)
◆
◆
やがて――
次の対局へと流れていく。
◆
◆
――対局①
伊角慎一郎
◆
穏やかな空気。
だが、内には確かな芯。
◆
この対局は――交互打ち。
◆
ヒカルが打つ。
私は見守る。
◆
(……良いですね)
◆
伊角の打ちは柔らかい。
◆
ヒカルの荒さを受け止めながら、形を整えてくる。
◆
(包み込む碁)
◆
中盤。
ヒカルの一手が、わずかに乱れる。
◆
(そこは……)
◆
だが、私は口を出さない。
◆
(今は、感じる時)
◆
◆
その後、私が打つ一手で流れを整える。
◆
二人三脚。
◆
終局、わずかな差で勝利。
◆
(ヒカル……少しずつ、見えてきていますね)
◆
――対局
本田敏則
◆
この対局で――
◆
「本気で来てくれ」
◆
と、言われる。
◆
◆
(……来ましたか)
◆
◆
私は静かに応じる。
◆
(では)
◆
(ここは――私が)
◆
◆
最初から、最後まで。
◆
一人で打つ。
◆
◆
盤面が変わる。
◆
空気が変わる。
◆
◆
本田の呼吸が乱れる。
◆
(感じていますね)
◆
◆
一手、一手。
◆
迷いなく。
◆
最短で。
◆
最善を積み重ねる。
◆
◆
終局――
圧倒。
◆
◆
本田が、呆然と呟く。
◆
「……別人みたいだ」
◆
◆
(いいえ)
◆
私は静かに思う。
◆
(これもまた……ヒカルの一部)
◆
◆
◆
こうして対局は続いていく。
◆
一局ごとに、
ヒカルの中に積み重なるもの。
◆
私の中に芽生えるもの。
◆
◆
(……楽しい)
◆
◆
それは、久しく忘れていた感情。
◆
◆
(碁とは)
◆
(これほどまでに――)
◆
◆
私は、次の一局を待ちながら、
静かに微笑んでいた。
【佐為視点】
二週間。
それは、人の成長を測るには短い時間のはずだった。
だが――
◆
(これほどまでに……変わるものなのですね)
◆
進藤ヒカルという存在は、院生たちの中で一つの“現象”になっていた。
◆
全勝。
◆
疑いは、もはやどこにもない。
◆
「やっぱり本物だったんだな……」
「噂以上だろ……あれ……」
◆
そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。
◆
そして、もう一つ。
◆
(……興味深い変化)
◆
対局後。
ヒカルのもとには、自然と人が集まるようになっていた。
◆
「さっきの局面、どう打てばよかった?」
「俺のあの手、悪かったか?」
◆
ライバルであるはずの者たちが、
答えを求めてくる。
◆
(普通なら……あり得ない光景)
◆
だが、ヒカルは――
◆
(惜しみなく……与えていますね)
◆
私の言葉を、そのまま。
◆
いや――
◆
(彼自身の言葉として)
◆
◆
「そこ、守るより攻めた方がよかったってさ」
「その形、後で重くなるぞ」
◆
◆
(……不思議なものです)
◆
教えることで、
彼自身もまた理解を深めていく。
◆
(教えるとは……学ぶこと)
◆
◆
◆
やがて、季節が巡る。
◆
春。
◆
小学校の卒業式。
◆
◆
【佐為視点】
校庭に並ぶ子どもたち。
◆
ヒカルの姿を見つめる。
◆
(……少し、大きくなりましたね)
◆
背丈も、表情も。
◆
何より――
◆
(覚悟が)
◆
◆
藤崎あかりが、隣にいる。
◆
「ヒカルー!写真撮ろ!」
◆
明るい声。
◆
ヒカルは、少し照れながらも応じる。
◆
「うるせーな……いいよ」
◆
◆
シャッターの音。
◆
その一瞬に、
確かな時間が刻まれる。
◆
(……尊いものです)
◆
◆
式が終わり。
二人は並んで歩く。
◆
「中学でも碁、やるの?」
◆
あかりの問い。
◆
ヒカルは、少しだけ空を見上げてから答える。
◆
「……やるよ」
◆
短い言葉。
だが、その奥には――
◆
(決意)
◆
◆
◆
そして――
病院。
◆
静かな廊下。
◆
消毒液の匂い。
◆
◆
ヒカルの両親が眠る部屋。
◆
機械音だけが、一定のリズムで響く。
◆
◆
ヒカルは、ゆっくりと近づく。
◆
「……来たぞ」
◆
小さな声。
◆
◆
あかりは、少し後ろで見守っている。
◆
ヒカルは、椅子に座る。
◆
「俺さ……」
◆
◆
言葉を探す。
◆
「……勝ってる」
◆
◆
それだけ。
◆
だが――
◆
(全てが込められている)
◆
◆
「絶対、治すから」
◆
◆
拳を握る。
◆
(ヒカル……)
◆
私は、何もできない。
◆
ただ――
◆
(見守ることしか)
◆
◆
◆
そして――
中学生。
◆
新たな舞台。
◆
若獅子戦。
◆
プロ、院生、アマチュアが交わる場。
◆
◆
(ついに……来ましたね)
◆
◆
部活の団体戦がないため、1年早くプロ試験編スタート
次号 ヒカルVSアキラ リベンジ戦 勝つのは
-
ヒカル
-
アキラ
-
引き分け