藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~ 作:梅酒24
【佐為視点】
春の光は、どこか柔らかく、それでいて確かな輪郭を持っていた。
制服に袖を通したヒカルは、もうあの頃の少年ではない。
◆
(……変わりましたね)
◆
歩き方。
視線。
言葉の間。
◆
そのすべてに――
(“迷いの少なさ”がある)
◆
中学生。
たったそれだけの変化のはずなのに、
ヒカルの内側には、確かな“芯”が生まれていた。
◆
(覚悟……でしょうか)
◆
両親のこと。
碁のこと。
未来のこと。
◆
背負うものが、彼を静かに強くしている。
◆
◆
若獅子戦。
◆
会場には、独特の緊張が漂っていた。
◆
プロ、院生、アマチュア。
それぞれの誇りが、静かにぶつかり合う場。
◆
ヒカルは席に座る。
◆
その目は、盤ではなく――
◆
(……先を見ていますね)
◆
対戦表の先。
◆
勝てば――
◆
塔矢アキラ。
◆
(意識している)
◆
だが、その感情に飲まれてはいない。
◆
(良い集中です)
◆
◆
対局開始。
◆
相手は――
村上二段。
◆
若手ながら、堅実で隙の少ない打ち手。
◆
◆
「よろしくお願いします」
◆
静かな挨拶。
◆
ヒカルも応じる。
◆
「お願いします」
◆
◆
(では……)
◆
私は盤面へ意識を落とす。
◆
◆
序盤。
◆
私は、石を散らす。
◆
――夕霧。
◆
(再び、この形を)
◆
◆
石は、まとまりなく広がる。
◆
だがそれは、無秩序ではない。
◆
(すべては……後のため)
◆
◆
【佐為視点】
村上は、冷静に受ける。
◆
(堅実……)
◆
不用意に踏み込まず、
形を整えながら進めてくる。
◆
◆
(良い打ち手です)
◆
◆
中盤。
◆
差はない。
◆
互角。
◆
◆
ヒカルの呼吸も、安定している。
◆
(焦りがない)
◆
◆
以前のヒカルなら、
どこかで揺らいでいた局面。
◆
だが今は違う。
◆
(耐えている)
◆
(“待つ”ことを覚えた)
◆
◆
村上が仕掛ける。
◆
一手、圧をかける。
◆
◆
(良い判断)
◆
だが――
◆
(まだ、早い)
◆
◆
私は静かに応じる。
◆
石と石が、呼応する。
◆
◆
(……来ます)
◆
◆
中盤の終わり。
◆
散らばっていた石たちが、
ゆっくりと――
◆
息を吹き返す。
◆
◆
【村上の変化】
(……なんだ……?)
◆
盤面の印象が、変わる。
◆
◆
(全部……効いてくる……!?)
◆
◆
【佐為視点】
(夕霧の本質)
◆
◆
石は、生きる。
◆
一つ、また一つ。
◆
◆
(ここからです)
◆
◆
終盤。
◆
私は一気に詰める。
◆
無駄なく。
正確に。
◆
◆
ヒカルの指先も、迷いなく石を運ぶ。
◆
(……良い)
◆
(完全に、流れに乗っています)
◆
◆
村上は粘る。
◆
だが――
◆
(届きません)
◆
◆
差は開く。
◆
五目。
十目。
◆
そして――
◆
(十五目半)
◆
◆
「……負けました」
◆
村上が静かに頭を下げる。
◆
◆
ヒカルも、ゆっくりと礼をする。
◆
「ありがとうございました」
◆
◆
盤上には、明確な差。
◆
だがそれ以上に――
◆
(内容の差)
◆
◆
私は、静かにヒカルを見つめる。
◆
(……強くなりましたね)
◆
◆
そして同時に――
◆
(次が来ます)
◆
◆
視線の先。
◆
◆
塔矢アキラ。
◆
◆
(いよいよ……)
◆
胸の奥が、わずかに高鳴る。
◆
◆
楽しみと。
緊張と。
◆
そして――
◆
(避けては通れぬ一局)
◆
◆
ヒカルは、何も言わない。
◆
だがその目は――
◆
まっすぐに、次を見据えていた。
◆
◆
(参りましょう)
◆
(この先へ)
【佐為視点】
盤上に残る余韻は、まだ消えてはおりませぬ。
先の一局――勝負は既に決しておりながら、その流れは、確かに“次”へと繋がっております。
◆
(此度、夕霧を用いたは……)
◆
ただ勝つためにあらず。
◆
(長き勝負を見据えてのこと)
◆
短き戦いにて圧することは、たやすきこと。
されど――
◆
(それでは、届かぬ)
◆
◆
私の意識は、盤の外へと向けられておりました。
◆
(見ておられるか……)
◆
静かに、背後。
◆
◆
塔矢アキラ。
◆
◆
あの者は、必ず勝ち上がる。
そして――
ヒカルの対局を、見に来る。
◆
(ならば)
◆
(見せねばなりませぬ)
◆
◆
我が打ち筋を。
時を越えし一手を。
◆
(夕霧……)
◆
平安の世にて生まれし、悠久の流れ。
◆
序にて決せず、
中にて争い、
終にてすべてを生かす。
◆
(現代の碁打ちには、馴染み薄きもの)
◆
されど――
◆
(だからこそ、心に残る)
◆
◆
【塔矢アキラ視点】
後方にて、静かに盤を見つめる。
◆
(これは……)
◆
その瞳が、わずかに見開かれる。
◆
(“夕霧”……)
◆
記憶の奥にある、古き打ち方。
◆
(中盤までに差をつけるのは難しい)
(だが終盤……すべての石が生きる)
◆
◆
視線が、進藤ヒカルへと向く。
◆
(まさか……)
◆
(僕に見せるために……?)
◆
◆
一局の意味が、変わる。
◆
(あえて、長き勝負を……)
◆
胸の奥に、熱が灯る。
◆
(進藤ヒカル……)
◆
◆
◆
【佐為視点】
感じ取られましたか。
◆
(それで良い)
◆
◆
勝負とは、ただの勝敗にあらず。
◆
(語りかけるもの)
◆
(伝えるもの)
◆
◆
そして――
◆
(次の一局へ)
◆
◆
◆
第二局。
◆
盤は新たに据えられ、
静寂が満ちる。
◆
◆
開始まで、まだ時がある。
◆
されど――
◆
◆
ヒカルと
塔矢アキラは、
既に席についておりました。
◆
◆
十五分前。
◆
その時の流れすら、張り詰めております。
◆
◆
アキラが、先に口を開く。
◆
「……見ていたよ」
◆
静かな声。
◆
ヒカルは、軽く肩をすくめる。
◆
「そりゃどうも」
◆
◆
アキラは、盤を見つめたまま続ける。
◆
「“夕霧”……だね」
◆
◆
ヒカルが、少しだけ目を細める。
◆
「詳しいな」
◆
◆
アキラの指が、碁盤の縁をなぞる。
◆
「古い打ち方だ」
「けれど……あれほど完成された形で見るのは初めてだ」
◆
◆
一拍。
◆
そして、視線を上げる。
◆
「……僕に見せたのかい?」
◆
◆
空気が、わずかに揺れる。
◆
◆
ヒカルは、ふっと笑う。
◆
「どう思う?」
◆
◆
アキラの目が、鋭くなる。
◆
「……そうだとしたら」
◆
「ずいぶんと、挑発的だ」
◆
◆
ヒカルは背もたれに軽く寄りかかる。
◆
「別に」
「ただ打っただけだよ」
◆
◆
(……見事な返し)
◆
私は、内にて微笑む。
◆
◆
アキラは、しばし沈黙する。
◆
◆
そして――
◆
「いいだろう」
◆
◆
静かに言い放つ。
◆
「受けて立つ」
◆
◆
ヒカルが、わずかに前へ身を乗り出す。
◆
「最初から本気で来いよ」
◆
◆
アキラの口元が、わずかに緩む。
◆
「もちろんだ」
◆
◆
そのやり取りは、短く。
だが――
◆
(十分)
◆
◆
二人の間に流れるものは、
言葉など必要とせぬほど、濃密に満ちておりました。
◆
◆
やがて、開始の時が訪れる。
◆
◆
(いよいよ……)
◆
◆
私は、静かに盤を見つめる。
◆
◆
(この一局)
◆
(時を越えしものと、現代の極みが交わる)
◆
◆
胸の奥に、確かな高鳴り。
◆
◆
(参りましょう)
【佐為視点】
対局場に満ちる気配は、先ほどまでとは明らかに異なっておりました。
静けさの中に、張り詰めた糸のようなものが走っている。
◆
(来ましたか……)
◆
私の視線は、自然と一人の少年へと向かう。
◆
塔矢アキラ。
◆
その手が――
わずかに震えておりました。
◆
碁石に触れ、
離し、
また触れる。
◆
指先が定まらぬ。
◆
ふとした拍子に、碁笥の蓋が小さく音を立てて転がる。
◆
◆
(……それほどまでに)
◆
胸の内に渦巻くもの。
◆
抑えきれぬ熱。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(僕は――)
(どれだけ、この一局を待ち望んでいた……)
◆
脳裏に浮かぶ。
過去の対局。
◆
何度も。
何度も。
◆
繰り返し、反芻する。
◆
(あの一手……)
(あの流れ……)
◆
(どう打てば届いたのか)
◆
◆
(それでも――)
◆
(届かなかった)
◆
◆
それは、もはや幻想にも似た存在。
◆
(進藤ヒカル……)
◆
◆
だが――
◆
(僕は、変わった)
◆
一戦目。
プロ相手に、三目差。
◆
冷静に。
正確に。
◆
勝ち切った。
◆
(確かに……成長している)
◆
◆
それでも。
◆
(なのに……)
◆
手が震える。
◆
◆
(止まらない……)
◆
◆
【佐為視点】
その震えは、隠そうとしても隠しきれるものではありませぬ。
◆
ヒカルもまた、それを見ておりました。
◆
「……震えてるのか?」
◆
◆
短く、問いかける。
◆
◆
アキラは、わずかに顔を上げる。
◆
「いや……」
◆
◆
否定。
されど――
◆
(声に、揺らぎがある)
◆
◆
そのやり取りだけで、十分でございました。
◆
◆
(よい)
◆
(この緊張こそ……真の勝負)
◆
◆
やがて。
◆
開始の合図。
◆
◆
【佐為視点】
(参りましょう)
◆
私は、盤へと意識を落とす。
◆
ヒカルの手を借り、
石を置く。
◆
◆
――夕霧。
◆
◆
再び、石を散らす。
◆
規則なきようでいて、
すべてが繋がる布石。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(来た……)
◆
(やはり“夕霧”……!)
◆
◆
視線が、盤をなぞる。
◆
(見ていた)
(何度も、頭の中で試した)
◆
(僕なら……どう打つか)
◆
◆
序盤の応酬。
◆
静かに、
しかし確実に、
火花が散る。
◆
◆
【佐為視点】
(……良い)
◆
アキラの打ちは、迷いがない。
◆
◆
(ただの模倣ではありませぬ)
◆
◆
己のものとして、
消化し、
打っている。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(違う……)
◆
(ただの夕霧じゃない)
◆
◆
盤を凝視する。
◆
(桂馬……?)
◆
将棋に似た跳躍の配置。
◆
◆
(配置の密度が……違う)
◆
(間合いが……計算されている)
◆
◆
【佐為視点】
(気付きましたか)
◆
◆
私は、ただ見つめる。
◆
(よい目)
◆
(よい打ち方)
◆
(よい表情)
◆
◆
そして何より――
◆
(熱意)
◆
◆
院生の中でも、
これほどまでに満ちた者は、そうはおりませぬ。
◆
◆
(すべてが、高い)
◆
◆
中盤へ。
◆
◆
アキラは攻める。
◆
一手。
また一手。
◆
◆
(見事)
◆
◆
一切の無駄がない。
◆
(誤りと言える手が……見当たらぬ)
◆
◆
こちらが、
わずかに押される。
◆
◆
(当然)
◆
夕霧は――
◆
(序から中にかけて、脆きもの)
◆
◆
巧者に攻められれば、
そのまま崩れ去ることも多い。
◆
◆
(ゆえに)
◆
(この流れは……必然)
◆
◆
だが――
◆
私は、微かに微笑む。
◆
◆
(……楽しい)
◆
◆
胸の奥に、湧き上がるもの。
◆
◆
(ヒカルも、著しく伸びておりますが)
◆
◆
視線の先。
◆
塔矢アキラ。
◆
◆
(この者もまた……)
◆
◆
(なお、伸びるか)
◆
◆
盤上にて、
時を越えたものと、
現代の才が交わる。
◆
◆
(なんと……)
◆
◆
(愉しきことよ)
◆
◆
勝負は、まだ続く。
◆
そしてその先に――
◆
どのような景色が待つのか。
◆
◆
私はただ、
その一手一手を、
味わうように見つめておりました。
【佐為視点】
面白い――
その一言に尽きましょう。
◆
盤上に流れる気配は、もはやただの勝負にあらず。
互いの思考が絡み合い、
幾重にも折り重なりながら、深みへと沈んでゆく。
◆
(……誘っておりますな)
◆
私の内に、静かなる確信が芽生える。
◆
この流れ。
この構え。
この呼吸。
◆
(本因坊秀策の戦いへと)
◆
◆
本因坊秀策の碁。
それは、静かにして絶対。
無駄を削ぎ落とし、
一手一手が盤の理に沿い、
やがて逃れ得ぬ流れへと導く。
◆
(……何度も、何度も)
◆
◆
あの少年は、
その影を追い続けてきたのでしょう。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(のってきた……)
◆
胸の奥が、熱を帯びる。
◆
(僕は……)
(この展開を、どれだけ望んできた……)
◆
過去の対局。
敗北。
悔恨。
◆
(もう負けないと……)
(何度も、何度も……考えてきた)
◆
◆
【佐為視点】
(この気迫……)
◆
(よくぞ、ここまで)
◆
学び、
磨き、
昇華している。
◆
◆
ならば――
◆
(応えねばなりませぬ)
◆
◆
私は、夕霧の流れを崩さぬように保ちつつ、
その内に、秀策の理を織り込む。
◆
柔と剛。
散と収。
◆
相反するものを、
一つの流れにて結ぶ。
◆
◆
(では……この一手)
◆
◆
盤に、静かに石を置く。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(……っ)
◆
(ここで……新手)
◆
◆
盤面が、わずかに揺らぐ。
◆
(試されている……)
◆
◆
長考。
◆
視線が、石の連なりを追う。
◆
(お父さんとの対局……)
◆
記憶がよみがえる。
◆
(あの時、僕は三つしか考えられなかった)
◆
(だが父は……六つ)
◆
◆
(差は……歴然だった)
◆
◆
拳を、膝の上で握る。
◆
(この手に対して……)
◆
(有効手は……七つ)
◆
◆
思考が、枝分かれする。
◆
一本。
二本。
◆
さらにその先へ。
◆
◆
【佐為視点】
(さて……)
◆
私は静かに、見守る。
◆
◆
(この新しき手への応じ方は……八通り)
◆
◆
(さあ、アキラ)
◆
(どこまで見えておりますか)
◆
◆
七か。
六か。
◆
それとも――
◆
(九に至るか)
◆
◆
盤上に、静寂が満ちる。
◆
誰もが息を潜める中、
ただ一人、
少年は考え続ける。
◆
◆
(……よい)
◆
◆
やがて。
◆
指が、石を掴む。
◆
そして――
◆
置く。
◆
◆
【佐為視点】
(……ほう)
◆
◆
その一手。
◆
流れに沿い、
要を押さえた、力強き手。
◆
◆
(それは――)
◆
(次善)
◆
◆
だが、
その価値は決して低くない。
◆
◆
(よい手です)
◆
◆
私は、わずかに微笑む。
◆
(夕霧に対してであれば)
◆
(なお優れた応じもありましたが……)
◆
◆
されど。
◆
◆
(ここまで辿り着いたことこそ)
◆
(賞賛に値しましょう)
◆
◆
盤上の空気が、さらに熱を帯びる。
◆
互いに一歩も退かぬまま、
より深き領域へと踏み込んでゆく。
◆
◆
(……よい勝負です)
◆
◆
そして私は、確かに感じておりました。
◆
この一局が、
ただの勝敗では終わらぬことを。
◆
◆
(時を越えしものと)
◆
(今を生きる才が)
◆
(真に交わる一局)
◆
◆
その只中に、
私はいるのだと。
【佐為視点】
中盤――
盤上は、まさしく均衡。
◆
互いに一歩も譲らず、
呼吸を合わせるかのごとく、
石は置かれてゆく。
◆
(よき均衡……)
◆
されど。
◆
(ここより、流れは変わる)
◆
私は、ひとつの石に意識を向ける。
◆
そして――
◆
(……伸ばしましょう)
◆
◆
ノビ。
◆
◆
その一手は、
あまりにも穏やかに見える。
◆
春の風のように、
静かに、
やわらかく、
盤の上をなぞる。
◆
◆
(夕霧に紛れる……春風)
◆
◆
だがその風は――
◆
(止まらぬ)
◆
(伸びゆくもの)
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(……イーブン)
◆
盤を見据え、
静かに分析する。
◆
(いや……違う)
◆
夕霧。
◆
それは――
終盤にて息を吹き返す打ち。
◆
(今、互角ということは……)
◆
(終局では押し切られる)
◆
◆
わずかに、喉が鳴る。
◆
(……厳しい)
◆
◆
視線が、そのノビへと向かう。
◆
(この石……伸びたか)
◆
◆
(ならば……さらに重くなる)
◆
◆
胸の奥に、重圧がのしかかる。
◆
だが――
◆
(逃げてはならない)
◆
◆
「……」
◆
アキラは、わずかに目を閉じ、
◆
(肝を据える)
◆
◆
そして――
攻める。
◆
◆
【佐為視点】
(……来ましたか)
◆
◆
その一手は、
鋭く、
強く、
迷いがない。
◆
◆
(よい……)
◆
◆
胸の奥が、震える。
◆
(この気迫……)
◆
(もはや――)
◆
◆
塔矢行洋にも、
劣らぬ。
◆
◆
攻防は、激しさを増す。
◆
夕霧の弱み――
中盤の脆さが、
露わとなる。
◆
◆
押される。
◆
じわりと。
確実に。
◆
◆
(四目……)
◆
◆
差がつく。
◆
◆
(強い……)
◆
◆
だが。
◆
◆
(それでも)
◆
◆
私は、微かに笑みを浮かべる。
◆
(この風は……)
◆
(穏やかにあらず)
◆
◆
◆
(ここより荒れる)
◆
◆
――雷轟。
◆
◆
ノビは、うねる。
◆
直線ではなく、
蛇のごとく、
折れ、
曲がり、
絡み合う。
◆
◆
それはもはや、
風ではない。
◆
◆
(命を削る嵐)
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(……来たか)
◆
◆
その気配に、
息を呑む。
◆
(捨て身の一手――雷轟)
◆
◆
(本来なら……固く来るはず)
◆
(夕霧を活かすために)
◆
◆
だが――
◆
(ここで……跳ね返せば)
◆
(終局を待たずに……勝てる)
◆
◆
視線が鋭くなる。
◆
(掴める……勝ち筋)
◆
◆
【佐為視点】
(……そうはさせませぬ)
◆
◆
ここからは、
一手の緩みが、
即ち死。
◆
◆
(綱渡り)
◆
◆
石と石が、
互いの命を削り合う。
◆
◆
一瞬の迷いが、
全てを崩す。
◆
◆
(……よい)
◆
(実に、よい)
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(落ち着け……)
◆
◆
状況は、
わずかに有利。
◆
(だが……一手でも崩れれば)
◆
(終わる)
◆
◆
それでも、
手は止まらない。
◆
◆
冷静に。
正確に。
◆
◆
◆
そして――
終盤。
◆
◆
空気が変わる。
◆
◆
【佐為視点】
(……来ました)
◆
◆
散らばっていた石たちが、
ゆっくりと、
息を吹き返す。
◆
◆
一つ、
また一つ。
◆
◆
(夕霧)
◆
◆
それは、
静かに、
だが確実に、
盤を覆う。
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(……何だ)
◆
◆
視界が、
曇るような感覚。
◆
◆
(見えない……)
◆
◆
盤面が、
歪む。
◆
◆
(どこが境界だ……?)
◆
(どこまでが生きて……どこが死んでいる……?)
◆
◆
それはまるで――
◆
◆
霧。
◆
◆
深く、
濃く、
重たい霧。
◆
◆
足元さえ、
確かでなくなる。
◆
◆
一歩踏み出せば、
奈落へと落ちるような、
不安。
◆
◆
(……読めない)
◆
◆
どれほど目を凝らしても、
先が見えぬ。
◆
◆
石はある。
形もある。
◆
だが――
◆
(意味が……掴めない)
◆
◆
霧の中に、
無数の影が揺れる。
◆
それが味方か、
敵かも分からぬ。
◆
◆
(……これが)
◆
◆
(夕霧……)
◆
◆
心が、揺らぐ。
◆
◆
(違う……落ち着け……)
◆
(考えろ……)
◆
◆
だが、
思考は霧に呑まれてゆく。
◆
◆
(……こんな……)
◆
◆
胸の奥に、
初めての恐怖が芽生える。
◆
◆
それは、
敗北の予感ではない。
◆
◆
(理解できないものへの……恐怖)
◆
◆
【佐為視点】
(……感じておりますね)
◆
◆
霧の中に迷い込んだ者の、
戸惑いを。
◆
◆
(だが)
◆
◆
それでもなお、
この少年は崩れぬ。
◆
◆
(実に……見事)
◆
◆
私は静かに、次の一手を見据える。
◆
◆
勝負は、最終の領域へ。
◆
◆
霧の奥に、
ただ一つの結末が、
静かに待っておりました。
【佐為視点】
震えておりますね。
◆
指先のわずかな揺れ。
呼吸の乱れ。
視線の定まらぬ一瞬。
◆
(……感じております)
◆
それは恐れではなく、
理解し始めた証。
◆
(この『夕霧』の深さを)
◆
◆
盤上は、もはや一つの景にあらず。
◆
流れは連なり、
形は崩れ、
再び生まれる。
◆
◆
(『夕霧』)
(『雷轟』)
◆
そして――
◆
(さらに荒れる……)
◆
◆
『雪嵐』。
◆
◆
静かなる白は、
もはや静寂ではない。
◆
吹き荒ぶ雪のごとく、
黒を覆い、
かき消し、
存在そのものを曖昧にしてゆく。
◆
◆
私の白石が、
黒石を、
一つ、
また一つと――
◆
(溶かすように)
◆
奪ってゆく。
◆
◆
(さぁ……)
◆
(如何に応じますか)
◆
◆
【塔矢アキラの内】
(くっ……)
◆
胸を締め付ける圧。
◆
(厳しい……!)
◆
◆
それは、
まるで自然そのもの。
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逃げ場などない。
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抗うことしか許されぬ。
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(だが……)
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拳を強く握る。
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(僕は……)
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(進藤ヒカルを……追い続けてきた)
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敗北。
悔しさ。
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それらすべてを、
飲み込み、
ここまで来た。
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(負けてたまるか……!)
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【佐為視点】
……良い。
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その一手。
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(力で捌くか)
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理を越え、
流れに抗い、
正面より切り裂く。
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その打ち様は――
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塔矢行洋にすら、
劣らぬ。
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(見事)
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盤上は、
さらに激しさを増す。
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互いの石が、
命を削り合う。
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一手の遅れも許されぬ、
極限の領域。
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(そして……)
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終局へ。
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私は、最後の一手を見届ける。
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(六目半)
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静かに、
しかし確かに、
勝負は決した。
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【塔矢アキラ】
「くそぉぉぉ!!」
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机を、強く叩く。
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乾いた音が、室内に響く。
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そのまま、
力が抜けるように、
倒れ込む。
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そして――
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涙。
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【佐為視点】
……言葉は、ございませぬ。
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ただ、時が流れる。
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一分。
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沈黙。
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その重みは、
どの言葉よりも深く、
強く、
心に残る。
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やがて――
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アキラが、顔を上げる。
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「……どこが、駄目だった」
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その問い。
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逃げも、
言い訳もない。
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ただ、真実を求める声。
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(……よい)
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私は、ヒカルを通じて、
言葉を紡ぐ。
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「強く打ったのは、間違っていない」
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静かに。
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「あの姿勢がなければ、差はもっと開いていた」
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アキラの瞳が、わずかに揺れる。
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「夕霧を相手にして……」
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一拍。
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「これほどまで追い詰めた者は、初めてだ」
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空気が、変わる。
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「それに――」
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視線を、まっすぐに向ける。
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「本因坊秀策の流れへと誘ったこと」
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(見事でございました)
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「ただ……」
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盤を指し示す。
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「この新しき手に対しては」
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「さらに良き応じがあった」
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「もし“夕霧”を見抜いていたならば……」
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「こちらの手が、最善であったでしょう」
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静かに、示す。
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【佐為視点】
すべてを伝える必要はありませぬ。
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されど、
進むべき道は、
示さねばならぬ。
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(この者は……)
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まだ、
伸びる。
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大きく。
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どこまでも。
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私は、静かにその姿を見つめる。
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(いずれまた)
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(この霧の先で)
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再び、相まみえる日が来ることを――
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確信しながら。
次号 ヒカルVS倉田 勝つのは?
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ヒカル
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倉田
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