藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~   作:梅酒24

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第八局:VS加賀

第二局。

 盤の前に座る門脇の気配は、先ほどよりもわずかに軽い。

 だが――それは油断ではない。

 むしろ逆。

 

(……整ってきておりますね)

 

 私は静かに盤を見下ろす。

 

(敗北の後、人は二つに分かれます)

(折れる者と――研ぎ澄まされる者)

 

 門脇は、後者でした。

 

(静の道)

 

 ヒカルもまた、その言葉を心の中でなぞる。

 

「またか……」

 

 門脇が小さく呟く。

 

(また同じ流れ)

(さっきの塔矢アキラと同じ……)

 

 その思考は、確かに鋭い。

 

(俺を通して比較しているのか?)

 

 だが、それに気付いた瞬間。

 門脇の中で、何かが噛み合う。

 

(……なるほどな)

 

(ならば――乗ってやる)

 

■佐為

(よい……)

 

 私は、わずかに微笑む。

 

(理解する者は、強くなります)

 

 静かに、整然とした構え。

 

 門脇はそれを見て、すぐに反応する。

 

(また来た……だが今度は違う)

 

 彼の打ち手は、明らかに変わっていた。

 

(早い)

(鋭い)

(迷いが消えている)

 

■門脇

(……なんだこれは)

 

(さっきより……いい)

 

 自分の思考が、滑らかになる。

 

 判断が早い。

 手が見える。

 

(俺、調子いいぞ……?)

 

 そして同時に。

 

(進藤も……)

 

 視線の先には、少年。

 

 ノータイムで放たれる一手。

 

(……嘘だろ)

 

(あいつ、さっきより速い)

(しかも……質が落ちてない)

 

 門脇の胸に、驚きが走る。

 

(院生って……こんなレベルか?)

 

■ヒカル

「門脇、さっきよりいい手打ってるね」

 

 その一言は、軽いようでいて――

 核心を突いていた。

 

■佐為

(……気付きましたか)

 

 私は静かに頷く。

 

(そうです、ヒカル)

 

(比較は、成長を生みます)

 

 門脇は、負けたままでは終わらなかった。

 むしろ――吸収していた。

 

(静の道を通ったがゆえに)

(次の一手が研ぎ澄まされていく)

 

 そしてヒカルもまた。

 

 ただ打っているのではない。

 

 門脇という“鏡”を通じて、

 自分の碁を理解し始めている。

 

■門脇

(進藤も……)

 

(塔矢アキラよりも……早い?)

 

 そんなはずはない。

 だが、感覚が告げている。

 

 

■佐為

(面白い……)

 

 私は胸の奥で震える。

 

(教え合いではない)

(競い合いでもない)

 

(これは――“相互成長”)

 

 門脇が強くなり、

 ヒカルもまた強くなる。

 

(そして私は、その間にいる)

 

 打ち手として。

 導き手として。

 

(この時代の碁は……)

(あまりにも、豊かです)

 

 静かな喜びが、

 胸の奥に広がっていく。

 終盤。

 盤上の空気は、もはや“対局”という言葉では足りぬほどに張り詰めておりました。

 

 門脇。

 その者の指先が、わずかに乱れる。

 

(……来ましたか)

 

 秒読み。

 それはこの世界において――

 “死”に等しい圧。

 

 しかし私は知っております。

 彼はここまで、決して崩れてはいなかった。

 

(時間さえあれば、最善を打てる者)

(それが、あなたです)

 

 だが――

 時間は、奪われる。

 

■門脇の内側

(……苦しい)

 

 それは焦りではない。

 恐怖でもない。

 

 ただ、“速度”の欠如。

 

(見えているのに、届かない)

(指が、間に合わない)

 

 それでも、藻掻く。

 生きるように。

 

■佐為

(よろしい)

 

 私は静かに碁笥へ手を伸ばす。

 

(ならば私は――)

 

(最善で応えましょう)

 

 技巧はいらない。

 飾りもいらない。

 

 ただ――基本。

 ただ――正道。

 

(積み重ねるのみ)

 

 秒読みの中で、

 一手一手が“確定”していく。

 

 その一手は、派手ではない。

 だが逃げ道を消し、

 未来を削る。

 

■門脇

(……止まらない)

 

(全部、読まれている)

 

 次第に理解する。

 

(最善が打てない)

(次点になる)

(さらに、その下になる)

 

 そして――それをすべて拾われる。

 

■終局

 盤上に静けさが戻る。

 

 結果。

 

 十目差。

 

 大差。

 

■門脇

「……マジかよ」

 

 声は、かすれていた。

 

「致命的なミスは……なかったはずだ」

 

 その言葉に、

 私は静かに目を伏せる。

 

(ええ)

(ありませんでした)

 

 ただ――

 

(積み重ねが、差になったのです)

 

■ヒカル

「秒読みからさ……」

 

 静かに、しかし確信をもって言う。

 

「最善手じゃない手がちょっとずつあってさ」

「それを全部拾われたんだ」

 

 門脇の顔が歪む。

 

(くそ……)

 

(確かに俺は“最善だと思いながら”打っていた)

 

(でも――届いていなかった)

 

■門脇の内心

(天狗になっていたのか……俺は)

 

(アマ最強?)

(そんな肩書きが、何だっていうんだ)

 

(ただの力不足だ)

 

■外のざわめき

「門脇が二連敗……?」

「嘘だろ……?」

「しかも中学一年?」

 

 空気が、崩れていく。

 常識が、軋む。

 

■越智

「門脇が弱いんじゃない?」

 

 軽い笑み。

 

「三戦目は僕だよ」

 

■門脇

(……切り替えろ)

 

(負けを引きずるな)

 

 そして――

 第三局。

 

 門脇は再び前へ出る。

 

(こいつは……さっきより軽い)

(圧がない)

 

(なら勝てる)

 

■佐為

(……違います)

 

 私は静かに見つめる。

 

(それは“弱さ”ではありません)

 

(“別の種類の碁”です)

 

 そして結果は――

 15目差、門脇の勝利。

 

 しかし。

 それは“支配”ではない。

 

(揺れの中での勝利)

 

■そして途中結果

 記録。

 

• 全勝

 塔矢

 進藤

 伊角

 加賀

 

• 九勝一敗

 真柴

 越智

 

• 八勝二敗

 和谷

 門脇

 本田

 

■佐為

(……揃いましたね)

 

 私は静かに盤上を見渡す。

 

(才能は、確かに分かれました)

 

(しかし――まだ終わってはいません)

 

 むしろ、ここから。

 

(ヒカル)

(あなたは、どこまで行くのでしょう)

 

 そしてその隣には、

 塔矢アキラがいる。

 

(よい時代です)

 

 私は、かすかに微笑む。

佐為視点──揺れる心と、静かなる決着

 十一戦目。

 それは、ただの一局ではありませんでした。

 

 全勝同士。

 すなわち――

 避けることのできぬ邂逅。

 

 進藤ヒカル。

 そして、伊角慎一郎。

 

(ついに来ましたね)

 

 私は静かに盤を見つめます。

 

■伊角の内側

(進藤……)

 

 その名を心の中で呼ぶ。

 

(勝てるイメージが……浮かばない)

 

 だが、すぐに首を振る。

 

(怖がるな)

(俺はプロになるんだ)

 

 自らを叱咤するように。

 

(プロになれば、化け物だらけだ)

(ここで怯んでどうする)

 

 その言葉は、確かに強い。

 だが――

 心の奥に、まだ揺らぎがある。

 

■佐為

(……脆さではありません)

 

 私は静かに思う。

 

(“人の心”です)

 

 碁は、石の戦いでありながら。

 同時に、心の戦いでもある。

 

■対局開始

 私とヒカルは、交互に打ちます。

 

 私は、できる限り静かに。

 美しく。

 そして隙なく。

 

 繊細に積み上げる一手一手。

 

(崩れぬように)

(乱れぬように)

 

 それに対し、ヒカル。

 

 彼はまだ未完成。

 だが――

 

(迷いながらも、前に進む)

 

 時に正しく。

 時に危うく。

 

 それでも、その一手には“意思”がある。

 

(面白い)

 

■伊角

(進藤……)

 

 彼は気づく。

 

(このブレ……)

(調子の波がある)

 

 強すぎる一手と、

 未熟な一手。

 

(人間らしい)

 

 そして同時に――

 

(だからこそ怖い)

 

 軽い手に見える一手が、

 罠に見える。

 

(疑ってしまう)

(だが――打つしかない)

 

■佐為

(よい読みです)

 

 私は静かに評価する。

 

(あなたは、正しく見ています)

 

 盤は、ゆっくりと伊角寄りへ傾く。

 

 昼休み。

 

 静かな時間。

 

 しかしその裏で、思考は止まらない。

 

■越智

(やや伊角さんリードか……)

 

 冷静に分析する。

 

(ただ、時間を使っている)

 

■昼休みの対話

「伊角さん、いい調子じゃないですか?」

 

 越智の声。

 

 伊角は軽く視線を上げる。

 

「まあな」

 

「塔矢アキラも、進藤をライバルって言ってるらしいですよ」

 

「……そうか」

 

 短い返答。

 だが心は乱れていないように見える。

 

(……揺れは、隠している)

 

■再開

 午後。

 対局は再び動き出す。

 

 そして――

 中盤。

 

■伊角

(……っ)

 

 手が震える。

 

(アテ……間違えた)

 

(まずい)

 

 一瞬の乱れ。

 

 しかし彼は、すぐに打ち換える。

 

(まだだ……まだやれる)

 

■ヒカル

「今の……伊角さん、手を離さなかった」

 

 その一言。

 

 それは観察ではなく、感覚だった。

 

■佐為

(ええ)

 

 

「……今の」

 

 ヒカルが問う。

 

 

 

「……ああ」

 

 短く。

 

(ならば)

 

■佐為

(――一刀両断)

 

 私は決断する。

 

(迷いは、残さない)

 

 ヒカルの一手。

 それは鋭く。

 まっすぐに。

 

 盤面を貫いた。

 

■伊角

(……あ)

 

 その瞬間。

 

 すべてが崩れる。

 

(遅かった……)

 

 それでも、目は逸らさない。

 

 最後まで見届けるように。

 

■終局

 2目半差。

 

 静かに。

 しかし確かに。

 

 勝敗が決する。

 

■伊角

 その場から動けない。

 

(負けた……)

 

 その事実が、重く落ちる。

 

■佐為

(よい一局でした)

 

 私は静かに思う。

 

(あなたもまた、強い)

 

 だがそれ以上に。

 

(ヒカル)

(あなたは、確かに成長しています)

 

 まだ未完成。

 まだ荒い。

 

 それでも――

 

(光を持っています)

 

 私はそっと目を細める。

静まり返った会場に、異様な緊張が満ちていた。

 全勝同士。

 それは偶然ではなく、必然の衝突。

 

 塔矢アキラ。

 そして――加賀鉄男。

 

 かつては小学生大会の決勝で、何度も顔を合わせた二人。

 しかしその記憶は、片側だけに残っている。

 

■塔矢アキラの内側

(加賀……?)

 

 盤の前に座りながら、アキラは記憶を探る。

 

(小学生の頃、何度か当たった)

(でも……覚えていない)

 

 それは軽視ではない。

 単純に――差があった。

 

(あの頃は、僕の方が遥か上にいた)

 

 しかし今は違う。

 

(同じ舞台にいる)

 

 その事実が、静かに胸を締めつける。

 

■加賀鉄男

(やっとだな……塔矢)

 

 口元に笑み。

 しかしそれは軽薄ではない。

 

(ずっと待っていた)

(この位置まで来るのを)

 

 彼の中には、焦燥と執念が混じっている。

 

(お前だけが先に行くのは気に食わない)

(囲碁でも将棋でも――勝てなかったまま終わるのは嫌だ)

 

■対局前

 盤の前。

 加賀が口を開く。

 

「覚えてるか?」

 

 アキラは少し間を置き、答える。

 

「……すまない、あまり」

 

 その一言に、加賀は笑う。

 

「だろうな」

 

(そういうやつだ、お前は)

 

(いつも“上”にいた側)

 

 その言葉には、皮肉ではなく事実があった。

 

■加賀

「今日はな」

 

 加賀は碁石を軽く鳴らす。

 

「負かしに来た」

 

 その瞬間、空気が変わる。

 

■塔矢アキラ

(……来る)

 

 感覚が研ぎ澄まされる。

 

(この人は、ただの相手じゃない)

 

(積み上げてきた“執念”がある)

 

■対局開始

 石が打たれるたびに、空気が変質していく。

 

 加賀は迷わない。

 強く、速く、押す。

 

(行くぞ、塔矢)

 

 その一手一手には、明確な意志があった。

 

■神視点(盤上の流れ)

 序盤。

 互いに譲らない。

 だがその質は異なる。

 

 アキラは「整える碁」。

 加賀は「壊す碁」。

 

 ぶつかるたびに、盤が軋む。

 

■加賀の内側

(読めるか?)

 

(俺のこの圧を)

 

 彼は攻める。

 あえて乱す。

 

(お前が冷静なら冷静なほど)

(俺は崩しやすい)

 

■アキラ

(強い……)

 

 初めての感覚。

 

(院生とも違う)

(プロの圧とも違う)

 

 もっと荒く、もっと人間的。

 

(でも――嫌いじゃない)

 

 その瞬間。

 アキラの中で、何かが切り替わる。

 

(なら僕も――応える)

 

■中盤

 盤は荒れる。

 整然とした形は崩れ、

 代わりに“力”がむき出しになる。

 

 加賀の一手は鋭く。

 アキラの一手は冷たい。

 

(塔矢、やっぱりお前はそう来るか)

 

(でもな)

 

(俺も止まらない)

 

■神視点

 この対局は、技術の戦いではない。

 

 意地と意地の衝突。

 記憶と現在のぶつかり合い。

 

 碁盤は静かに燃えていく。

 

■アキラ

(負けたくない)

 

 それは単純な感情。

 だが強い。

 

(ヒカルがいる)

(門脇戦を超えてきた奴がいる)

 

(だから僕も止まれない)

 

■加賀

(やっとだ)

 

(やっと“対等”だ)

 

 その事実が、彼を燃やす。

 

■終盤へ

 互角。

 いや――わずかに揺れる均衡。

 

 どちらも一歩も引かない。

 

 そして盤は、

 勝敗の最終局面へと進んでいく。

 

■神視点(結び)

 かつて交わらなかった二本の線が、

 ようやく同じ高さで交差した。

 

 それは勝負でありながら、

 同時に――再会でもあった。

 

 石はまだ止まらない。

 勝敗は、まだ終わらない。

 盤上に、異質な“直線”が走っていた。

 

 加賀鉄男。

 その碁は、将棋の影を強く残している。

 

(飛車のようだ)

 

 神視点の観察としても、それは明確だった。

 横へ、縦へ。

 迷いなく、一直線に突き刺さる手。

 

■加賀の碁

(曲がるな)

(止まるな)

(読ませるな)

 

 その思想は単純でありながら強烈だった。

 囲碁において異質な“直進性”。

 

 それはときに暴力となり、

 ときに破壊となる。

 

■塔矢アキラ

(……来る)

 

 最初は戸惑いだった。

 碁ではなく、“圧”だったからだ。

 

(将棋の打ち方……?)

 

 規格外の圧により、アキラは一瞬後手に回る。

 

 盤面が乱れる。

 形が崩れる。

 

(押し込まれる……)

 

 しかし、次の瞬間。

 

(落ち着け)

 

 塔矢アキラは“整える”。

 

 崩れた石を、再構築するように。

 

(このままでは負ける)

(なら――立て直す)

 

■中盤

 加賀の攻撃は止まらない。

 だが――

 アキラは崩れない。

 

 むしろ静かに、圧を吸収していく。

 

(塔矢……やっぱり崩れないか)

 

 加賀の内心に、わずかな焦りが生まれる。

 

(普通なら崩れる)

(なのに……)

 

■終盤

 形勢は逆転する。

 

 アキラの手は鋭く、

 無駄がない。

 

(ここで……終わるか)

 

 加賀は悟る。

 

(ミスはしない)

(この男は)

 

 塔矢アキラは“落ちない”。

 

 その結論に至った瞬間。

 

 加賀は静かに手を止める。

 

■加賀

「……降参だ」

 

 潔い敗北。

 しかし悔しさよりも、納得があった。

 

■塔矢アキラ

「……あなたは強い」

 

 それは社交辞令ではない。

 事実としての評価だった。

 

■加賀

「囲碁ってのはさ」

 

 少し笑う。

 

「飛車じゃ勝てねぇんだな」

 

 アキラは静かに答える。

 

「でも……圧はあった」

 

「それは確かに、武器だった」

 

***

 碁盤の上に落ちる静寂は、いつの時代も変わらない。

 けれど、その静寂の奥に流れるものは――人の心だ。

 私はヒカルの傍らに佇みながら、ふと遠い昔へと意識を馳せていた。

「(そういえば佐為って当時ライバルや強敵とかいなかったのか?)」

 無邪気な問い。

 けれど、その奥には、私という存在を知ろうとする温度があった。

「(居ましたよ……)」

 静かに目を細める。

 あの時代の光と影が、胸の奥で淡く揺れる。

「(井上幻庵因碩(げんあんいんせき)という方が。本因坊秀策として、十八の折に初めて対局いたしました)」

 その名を口にするだけで、盤上に張り詰めた空気が蘇る。

 一手一手が命を削るような、あの緊張。

「(井上幻庵因碩は……今でいう塔矢行洋のような存在、と申せば分かりやすいでしょうか)」

「(へぇ……そんなすごい奴がいたんだ)」

 ヒカルの声は軽い。

 だが私は知っている。その軽さの裏にある、純粋な興味を。

「(そこで以前お話しした『耳垢』という手が生まれたのです。彼との対局は、常に新しきものを生み出しました……新手も、そしてその返しも)」

 あの一局。

 呼吸すら忘れ、ただ盤に没入した時間。

 ――あれこそが、生きているということだった。

「(あのね、ヒカル。この前インターネットで調べたじゃないですか)」

「(あああれか!漢字が難しくて忘れてた)」

「(あらら……)」

 思わず小さく笑みがこぼれる。

 時代が変わっても、人の本質は変わらないらしい。

「(しかも彼は将棋もお強かったのですよ)」

「(え、マジで?囲碁だけじゃないのかよ)」

「(ええ。才ある方は、往々にして複数の道に通じるものです)」

 その言葉を口にしながら、私はふと――現在へと意識を戻した。

 ヒカルの次の対局相手。

 加賀鉄男。

「(そういえばヒカル、次の相手……加賀とおっしゃいましたね)」

「(ああ。中学の先輩。囲碁部のやつ……いや将棋部か)」

 その言葉に、私は興味を引かれる。

「(どのような方なのです?)」

 ヒカルは少しだけ間を置いた。

 思い出を探るように。

 

 ――中学の廊下。

 昼休みのざわめき。

 その中で、ひときわ乱暴な声が響く。

「おい、筒井!まだそんな弱ぇ打ち方してんのかよ!」

 振り返ると、そこにいたのは加賀だった。

 腕を組み、不敵に笑っている。

「加賀先輩……!」

 筒井が焦った声を出す。

 その様子を、ヒカルは少し離れた場所から眺めていた。

(なんだあいつ……偉そうだな)

 だが次の瞬間。

 碁盤を覗き込んだ加賀の目が、鋭く光る。

「……そこ、違うだろ。こう打てよ」

 無造作に指された一手。

 それは――明らかに形を変える好手だった。

「え……あ……」

 筒井は言葉を失う。

 ヒカルもまた、知らず息を呑んでいた。

(こいつ……強い)

 

 記憶は静かに現在へと戻る。

「(まあ、なんつーか……)」

 ヒカルは頭をかきながら続けた。

「(口は悪いけど、めちゃくちゃ強い。囲碁もだけど……将棋はもっとやるらしい)」

「(ほう……)」

 私は静かに頷く。

 囲碁と将棋。

 二つの道に通じる者。

 ふと、あの人の面影が重なった。

「(面白いですね。まるで幻庵殿のようだ)」

「(げんあん……なんだっけ)」

「(もう……ヒカル)」

 呆れながらも、どこか愛おしい。

 この少年は、まだ知らない。

 己が立つ場所が、どれほど深い世界なのかを。

 だが――

 だからこそ、面白い。

「(ヒカル)」

「(ん?)」

「(良い対局になりそうですね)」

 風のように微笑む。

 かつての宿敵を思いながら、

 これから訪れる新たな一局に、胸を躍らせて。

 盤上は、いつの時代も――

 新しい物語を生むのだから。

***

 

 個室へと続く廊下は、どこか異質な静けさに満ちていた。

 

 ――この先で、何かが起こる。

 私は、確かな予感とともにヒカルの傍らに在った。

 

「ほんとに個室でいいのか?」

 ヒカルが振り返りもせずに言う。

「びびってんなら今のうちにやめとけよ」

 加賀の声は、いつも通り乱暴で、しかしどこか楽しげだった。

「誰がびびるかよ。お前こそ、言い出しといて逃げんなよ」

「はっ。言うじゃねぇか」

 軽口を叩き合いながらも、その歩みは止まらない。

 

 だが――

 私は知っている。

 その背中に宿る、微かな緊張を。

 

 個室。

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。

 盤が据えられる。

 石が整えられる。

 そして――向かい合う。

「初めてだな、こうして打つのは」

 加賀が言う。

「ああ。囲碁部で顔は合わせてたけどな」

「その時は大したことなかったけどな、お前」

「今は違うって言いたいんだろ?」

「言わなくても分かるだろ」

 ふっと、笑う。

 互いに視線を外さない。

 その空気は、既に対局のそれだった。

 

「じゃあ、始めるか」

「ああ」

 ヒカルの指が石に触れる。

 私は、静かに盤へと意識を沈めた。

 ――打つ。

 

 一手。

 二手。

 三手。

 序盤から、速い。

 無駄がない。

 まるで、互いに先を読み切っているかのように。

「へぇ……」

 加賀の声が、低くなる。

「その打ち方」

 一瞬の間。

 そして――

「本因坊秀策だな」

 ヒカルがニヤリと笑う。

「よく分かったな」

「当たり前だろ」

 石が、鋭く打ち込まれる。

「本因坊秀策は俺が得意とする手だぜ!!」

 ――その一手。

 私は、息を呑んだ。

(この者……強い……)

 ただの読みではない。

 その受け――

(幻庵殿の打ち方を……完全に理解している……)

 あの人の“間”を、知っている。

 

 石が走る。

 音が重なる。

 呼吸のように、手が進む。

「どうした?もう押されてんじゃねぇのか?」

 加賀が笑う。

「うるせーな、まだ序盤だろ!」

 ヒカルが即座に返す。

 だが盤上は、すでに激しくぶつかり合っていた。

 攻めと受け。

 綺麗に、そして容赦なく。

 ――バチバチ、と。

 

 気付けば。

 中盤。

 わずか、十分にも満たない時間。

 それほどまでに、濃密だった。

 そして――

 私は押されていた。

(塔矢行洋並……)

 否。

(それ以上に、隙がない……)

 冷たい確信が、胸に落ちる。

(いや……まさか……)

 視線が、自然と上がる。

 加賀の頭上。

 そこに――

 “何か”が在る。

 揺らがぬ気配。

 ただよらぬ圧。

(……幻庵殿……?)

 ありえぬ。

 だが――

 確信が、胸を打つ。

 喉が鳴る。

 

「そうだ」

 加賀が、ぽつりと言う。

 その言葉と同時に。

 声が、重なる。

「わしだ。久しぶりだな、本因坊秀策!」

 ――現れた。

 井上幻庵因碩。

 あの頃と変わらぬ、鋭い気配をまとって。

 

 ヒカルが息を呑む。

「……誰だよ」

「見えてんだろ?」

 加賀が肩をすくめる。

「意識しないと見えない。俺は最初から見えてた」

 扇子を開く。

 そこに記された文字。

 ――角行。

「初めてだぜ。同じようなことが起きてるやつが、同じ中学にいるなんてな」

 

「塔矢アキラには負けた、俺自身の力で」

 加賀が続ける。

 わずかな悔しさを滲ませながら。

「でもな、碁のレベルは俺の方が上だ。進藤ヒカル」

 ヒカルの目が、鋭くなる。

「そして――」

 加賀の視線が、私へ向く。

「こいつは、さらに強くなってる」

 

「本因坊秀策」

 幻庵殿の声。

 その響きに、胸が震える。

「貴様との戦い……忘れたことはない」

「幻庵殿でございましたか」

 私は、静かに応じる。

「またお会いできて、嬉しく思います」

 それは、偽りなき想い。

「私にとって、あなたは最大の目標でございました」

 盤を挟み、幾度も追い続けた背中。

 あの頃と同じ熱が、今も胸にある。

 

「ふむ」

 幻庵殿が、わずかに笑う。

「貴様との勝負では、勝率は貴様が上だった」

 一拍。

「だが、囲碁界全体での勝利数は、わしが上じゃ」

 その言葉に、重みが宿る。

「その悔しさを糧に、わしは学び続けた。現代の定石もな」

 静かに、だが確かに告げる。

「そして再び貴様と会えた……感謝するぞ、この巡り合わせを」

 

「恐れ入ります」

 私は頭を垂れるように、言葉を紡ぐ。

「あの対局……耳垢の一局は、私に分がありました」

 遠い記憶が、鮮やかに蘇る。

「当時、私は無名。ゆえに、対策ができたのです」

「ほう?」

「幻庵殿の打ち方は広く知られておりました。ですが私は――違った」

 だからこそ。

「あなたに勝つため、徹底的に研究し、備えました」

 あの一局に、すべてを注いだ。

「棋力では、幻庵殿の方が上であったと、今でも思っております」

 静かに、しかしはっきりと。

 

「相変わらずの謙遜か……」

 幻庵殿が鼻を鳴らす。

 だがその声音には、どこか柔らかさがあった。

「まぁよい」

 

 盤上では、なおも石が打たれ続ける。

 言葉を交わしながらも、思考は止まらない。

 あの頃と同じ。

 いや――それ以上の戦い。

 

 再び巡り合った宿敵。

 そして、今の私。

 胸の奥で、確かな炎が灯る。

 ――この一局。

 必ずや、越えてみせる。

盤上に満ちる緊張は、すでに極限に達していた。

 それでもなお――石は止まらない。

 言葉を交わしながらも、互いの思考は一瞬たりとも緩まないまま、対局は深く、鋭く進んでいく。

 やがて。

 個室の扉の向こうに、気配が集まり始めた。

 ――強者の気配。

 静かに、しかし確実に。

 扉が開く。

 現れたのは、塔矢アキラ、伊角、越智、和谷。

 いずれも、自らの対局をすでに終えた者たち。

 しかもそれは、序盤で相手を圧倒し、投了へと追い込んだ末の余裕だった。

 彼らは、ただ一つの盤を目指してここへ来たのだ。

 ――この対局を、見るために。

 

 塔矢アキラは、一歩踏み入れたところで足を止めた。

 そして――言葉を失う。

 

 盤上。

 石は、ほとんど淀みなく置かれている。

 考えていないわけではない。

 むしろその逆。

 すべてを読み切ったうえで、最善だけを選び続けている。

 だからこそ――速い。

 序盤からの攻防が、はっきりと“追える”ほどに、理に適い、美しい。

 

(……見える)

 アキラの瞳が、盤を射抜く。

 

 本因坊秀策の攻め。

 そして――幻庵の受け。

 

 かつて語られた伝説が、今この盤上に再現されているかのようだった。

 

 越智も、和谷も、伊角も。

 最初はただ圧倒されるだけだった。

 だが、数分も経たぬうちに――気付く。

 

 これは、ただのハイレベルな対局ではない。

 “質”が違う。

 

 攻防の一手一手に、意味があり、意志があり、そして――未来が仕込まれている。

 

 

 私は、その中心にいた。

 盤と一体となりながら、なおも先を読む。

 

 そして――放つ。

 

 耳垢。

 

 あの時と同じ一手。

 だが、それは過去の再現ではない。

 今この瞬間の、最善としての一手。

 

 しかし。

 

「当然だな」

 

 幻庵殿は、迷いなく応じる。

 その手は、かつてと同じ。

 否――

 さらに洗練されている。

 

 ならば。

 

 私は、返す。

 

 新手。

 

 盤の奥に沈めていた一手を、静かに引き出す。

 

「ほう……」

 

 幻庵殿の声が、響く。

 それは、この場にいるすべての者には届かない。

 見える者にのみ、触れる声。

 

「さらに返すか……なるほど」

 

 その響きに、わずかな愉悦が混じる。

 

 

 観ている者たちが、息を呑む。

 

「……今の、何だ?」

「返した……?あの形で……?」

 

 驚きが広がる。

 

 当然だ。

 

 それは、表面に現れた一手ではない。

 

 序盤。

 何気なく置かれた一石。

 定石の流れに紛れ込ませた、ごく自然な布石。

 

 そこに――すでに、この返しは潜んでいた。

 

 耳垢で返されることを前提にした、さらにその先。

 

 悪手のように見える一手ならば、警戒もできる。

 だが――自然な一手は、見逃される。

 

 それが、今になって牙を剥く。

 

 だが。

 

 幻庵殿もまた、同じことをしていた。

 

 巧妙に、静かに。

 盤の奥へと、別の未来を忍ばせていた。

 

 

 攻める。

 しのぐ。

 返す。

 さらに返す。

 

 その応酬は、もはや“読み合い”の域を越えていた。

 

 観客たちは、理解し始める。

 

「……これ、プロとかそういうレベルじゃないだろ……」

 

 誰かが、呟く。

 

 それは正しい。

 

 これは――

 未知の領域だ。

 

 

 やがて。

 終盤。

 

 初めて、時間が流れ始める。

 

 石が、止まる。

 呼吸が、深くなる。

 

 一手。

 一手が――重い。

 

(すべてを、読み切ることはできない)

 

 それは、私も幻庵殿も同じ。

 

 ゆえに。

 

 一手の誤りが、致命傷となる。

 

 そして今。

 

 盤上は――誰も知らぬ道へと踏み込んでいた。

 

 新手に対する、新手。

 

 かつて存在しなかった局面。

 未踏の領域。

 

 それでもなお、互いに最善を探り続ける。

 

 だが――

 

 完全ではない。

 

 幾度か。

 ほんのわずかに。

 

 “次点”が、混じる。

 

 三十手に一度ほどの、微細な揺らぎ。

 

 それでも、拮抗は崩れない。

 

 

 その時。

 

 幻庵殿の手が、わずかに揺れる。

 

 次点。

 

 その選択へと、傾く。

 

 だが――

 

「……違うな」

 

 加賀が、低く呟く。

 

「そこじゃねぇ」

 

 次の瞬間。

 

 バチン――

 

 石が打たれる。

 

 最善手。

 

 三十手に一度の揺らぎが――修正される。

 

 その一手は、重い。

 あまりにも、重い。

 

 

 そして――こちら。

 

 ヒカルの手が動く。

 

 だが。

 

 その一手は――

 

 次点。

 

 私は、その瞬間に気付けなかった。

 

「……来たな」

 

 幻庵殿の声。

 

「見逃したか、本因坊秀策」

 

 静かな、確信。

 

「勝負あったな……」

 

 加賀の声が、重なる。

 

 

 ヨセ。

 

 静かに、すべてが収束していく。

 

 そして――

 

 半目。

 

 

 負けた。

 

 

 ヒカルの拳が、床を打つ。

 

「くそっ……!!」

 

 顔を上げない。

 

 その背中が、震えている。

 

 

 私は、言葉を持たない。

 

 ただ――

 

 理解していた。

 

 この敗北の意味を。

 

 

 棋力は、拮抗していた。

 

 だが。

 

 人としての“差”が、そこにあった。

 

 

 加賀が、扇子で風を送る。

 

「俺の方が少し上だったな」

 

 軽く笑う。

 

「まあ、プロになったらまたやろうぜ」

 

 その声音は、どこまでも自然だった。

 

 

 ヒカルの、初めての黒星。

 

 そして。

 

 全勝は――塔矢アキラ、ただ一人となる。

 

 

 盤上に残された石を見つめながら、私は静かに思う。

 

 ――まだ、足りない。

 

 だが。

 

 だからこそ。

 

 この道は、終わらない。

 

 

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