藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~ 作:梅酒24
第二局。
盤の前に座る門脇の気配は、先ほどよりもわずかに軽い。
だが――それは油断ではない。
むしろ逆。
(……整ってきておりますね)
私は静かに盤を見下ろす。
(敗北の後、人は二つに分かれます)
(折れる者と――研ぎ澄まされる者)
門脇は、後者でした。
(静の道)
ヒカルもまた、その言葉を心の中でなぞる。
「またか……」
門脇が小さく呟く。
(また同じ流れ)
(さっきの塔矢アキラと同じ……)
その思考は、確かに鋭い。
(俺を通して比較しているのか?)
だが、それに気付いた瞬間。
門脇の中で、何かが噛み合う。
(……なるほどな)
(ならば――乗ってやる)
■佐為
(よい……)
私は、わずかに微笑む。
(理解する者は、強くなります)
静かに、整然とした構え。
門脇はそれを見て、すぐに反応する。
(また来た……だが今度は違う)
彼の打ち手は、明らかに変わっていた。
(早い)
(鋭い)
(迷いが消えている)
■門脇
(……なんだこれは)
(さっきより……いい)
自分の思考が、滑らかになる。
判断が早い。
手が見える。
(俺、調子いいぞ……?)
そして同時に。
(進藤も……)
視線の先には、少年。
ノータイムで放たれる一手。
(……嘘だろ)
(あいつ、さっきより速い)
(しかも……質が落ちてない)
門脇の胸に、驚きが走る。
(院生って……こんなレベルか?)
■ヒカル
「門脇、さっきよりいい手打ってるね」
その一言は、軽いようでいて――
核心を突いていた。
■佐為
(……気付きましたか)
私は静かに頷く。
(そうです、ヒカル)
(比較は、成長を生みます)
門脇は、負けたままでは終わらなかった。
むしろ――吸収していた。
(静の道を通ったがゆえに)
(次の一手が研ぎ澄まされていく)
そしてヒカルもまた。
ただ打っているのではない。
門脇という“鏡”を通じて、
自分の碁を理解し始めている。
■門脇
(進藤も……)
(塔矢アキラよりも……早い?)
そんなはずはない。
だが、感覚が告げている。
■佐為
(面白い……)
私は胸の奥で震える。
(教え合いではない)
(競い合いでもない)
(これは――“相互成長”)
門脇が強くなり、
ヒカルもまた強くなる。
(そして私は、その間にいる)
打ち手として。
導き手として。
(この時代の碁は……)
(あまりにも、豊かです)
静かな喜びが、
胸の奥に広がっていく。
終盤。
盤上の空気は、もはや“対局”という言葉では足りぬほどに張り詰めておりました。
門脇。
その者の指先が、わずかに乱れる。
(……来ましたか)
秒読み。
それはこの世界において――
“死”に等しい圧。
しかし私は知っております。
彼はここまで、決して崩れてはいなかった。
(時間さえあれば、最善を打てる者)
(それが、あなたです)
だが――
時間は、奪われる。
■門脇の内側
(……苦しい)
それは焦りではない。
恐怖でもない。
ただ、“速度”の欠如。
(見えているのに、届かない)
(指が、間に合わない)
それでも、藻掻く。
生きるように。
■佐為
(よろしい)
私は静かに碁笥へ手を伸ばす。
(ならば私は――)
(最善で応えましょう)
技巧はいらない。
飾りもいらない。
ただ――基本。
ただ――正道。
(積み重ねるのみ)
秒読みの中で、
一手一手が“確定”していく。
その一手は、派手ではない。
だが逃げ道を消し、
未来を削る。
■門脇
(……止まらない)
(全部、読まれている)
次第に理解する。
(最善が打てない)
(次点になる)
(さらに、その下になる)
そして――それをすべて拾われる。
■終局
盤上に静けさが戻る。
結果。
十目差。
大差。
■門脇
「……マジかよ」
声は、かすれていた。
「致命的なミスは……なかったはずだ」
その言葉に、
私は静かに目を伏せる。
(ええ)
(ありませんでした)
ただ――
(積み重ねが、差になったのです)
■ヒカル
「秒読みからさ……」
静かに、しかし確信をもって言う。
「最善手じゃない手がちょっとずつあってさ」
「それを全部拾われたんだ」
門脇の顔が歪む。
(くそ……)
(確かに俺は“最善だと思いながら”打っていた)
(でも――届いていなかった)
■門脇の内心
(天狗になっていたのか……俺は)
(アマ最強?)
(そんな肩書きが、何だっていうんだ)
(ただの力不足だ)
■外のざわめき
「門脇が二連敗……?」
「嘘だろ……?」
「しかも中学一年?」
空気が、崩れていく。
常識が、軋む。
■越智
「門脇が弱いんじゃない?」
軽い笑み。
「三戦目は僕だよ」
■門脇
(……切り替えろ)
(負けを引きずるな)
そして――
第三局。
門脇は再び前へ出る。
(こいつは……さっきより軽い)
(圧がない)
(なら勝てる)
■佐為
(……違います)
私は静かに見つめる。
(それは“弱さ”ではありません)
(“別の種類の碁”です)
そして結果は――
15目差、門脇の勝利。
しかし。
それは“支配”ではない。
(揺れの中での勝利)
■そして途中結果
記録。
• 全勝
塔矢
進藤
伊角
加賀
• 九勝一敗
真柴
越智
• 八勝二敗
和谷
門脇
本田
■佐為
(……揃いましたね)
私は静かに盤上を見渡す。
(才能は、確かに分かれました)
(しかし――まだ終わってはいません)
むしろ、ここから。
(ヒカル)
(あなたは、どこまで行くのでしょう)
そしてその隣には、
塔矢アキラがいる。
(よい時代です)
私は、かすかに微笑む。
佐為視点──揺れる心と、静かなる決着
十一戦目。
それは、ただの一局ではありませんでした。
全勝同士。
すなわち――
避けることのできぬ邂逅。
進藤ヒカル。
そして、伊角慎一郎。
(ついに来ましたね)
私は静かに盤を見つめます。
■伊角の内側
(進藤……)
その名を心の中で呼ぶ。
(勝てるイメージが……浮かばない)
だが、すぐに首を振る。
(怖がるな)
(俺はプロになるんだ)
自らを叱咤するように。
(プロになれば、化け物だらけだ)
(ここで怯んでどうする)
その言葉は、確かに強い。
だが――
心の奥に、まだ揺らぎがある。
■佐為
(……脆さではありません)
私は静かに思う。
(“人の心”です)
碁は、石の戦いでありながら。
同時に、心の戦いでもある。
■対局開始
私とヒカルは、交互に打ちます。
私は、できる限り静かに。
美しく。
そして隙なく。
繊細に積み上げる一手一手。
(崩れぬように)
(乱れぬように)
それに対し、ヒカル。
彼はまだ未完成。
だが――
(迷いながらも、前に進む)
時に正しく。
時に危うく。
それでも、その一手には“意思”がある。
(面白い)
■伊角
(進藤……)
彼は気づく。
(このブレ……)
(調子の波がある)
強すぎる一手と、
未熟な一手。
(人間らしい)
そして同時に――
(だからこそ怖い)
軽い手に見える一手が、
罠に見える。
(疑ってしまう)
(だが――打つしかない)
■佐為
(よい読みです)
私は静かに評価する。
(あなたは、正しく見ています)
盤は、ゆっくりと伊角寄りへ傾く。
昼休み。
静かな時間。
しかしその裏で、思考は止まらない。
■越智
(やや伊角さんリードか……)
冷静に分析する。
(ただ、時間を使っている)
■昼休みの対話
「伊角さん、いい調子じゃないですか?」
越智の声。
伊角は軽く視線を上げる。
「まあな」
「塔矢アキラも、進藤をライバルって言ってるらしいですよ」
「……そうか」
短い返答。
だが心は乱れていないように見える。
(……揺れは、隠している)
■再開
午後。
対局は再び動き出す。
そして――
中盤。
■伊角
(……っ)
手が震える。
(アテ……間違えた)
(まずい)
一瞬の乱れ。
しかし彼は、すぐに打ち換える。
(まだだ……まだやれる)
■ヒカル
「今の……伊角さん、手を離さなかった」
その一言。
それは観察ではなく、感覚だった。
■佐為
(ええ)
「……今の」
ヒカルが問う。
「……ああ」
短く。
(ならば)
■佐為
(――一刀両断)
私は決断する。
(迷いは、残さない)
ヒカルの一手。
それは鋭く。
まっすぐに。
盤面を貫いた。
■伊角
(……あ)
その瞬間。
すべてが崩れる。
(遅かった……)
それでも、目は逸らさない。
最後まで見届けるように。
■終局
2目半差。
静かに。
しかし確かに。
勝敗が決する。
■伊角
その場から動けない。
(負けた……)
その事実が、重く落ちる。
■佐為
(よい一局でした)
私は静かに思う。
(あなたもまた、強い)
だがそれ以上に。
(ヒカル)
(あなたは、確かに成長しています)
まだ未完成。
まだ荒い。
それでも――
(光を持っています)
私はそっと目を細める。
静まり返った会場に、異様な緊張が満ちていた。
全勝同士。
それは偶然ではなく、必然の衝突。
塔矢アキラ。
そして――加賀鉄男。
かつては小学生大会の決勝で、何度も顔を合わせた二人。
しかしその記憶は、片側だけに残っている。
■塔矢アキラの内側
(加賀……?)
盤の前に座りながら、アキラは記憶を探る。
(小学生の頃、何度か当たった)
(でも……覚えていない)
それは軽視ではない。
単純に――差があった。
(あの頃は、僕の方が遥か上にいた)
しかし今は違う。
(同じ舞台にいる)
その事実が、静かに胸を締めつける。
■加賀鉄男
(やっとだな……塔矢)
口元に笑み。
しかしそれは軽薄ではない。
(ずっと待っていた)
(この位置まで来るのを)
彼の中には、焦燥と執念が混じっている。
(お前だけが先に行くのは気に食わない)
(囲碁でも将棋でも――勝てなかったまま終わるのは嫌だ)
■対局前
盤の前。
加賀が口を開く。
「覚えてるか?」
アキラは少し間を置き、答える。
「……すまない、あまり」
その一言に、加賀は笑う。
「だろうな」
(そういうやつだ、お前は)
(いつも“上”にいた側)
その言葉には、皮肉ではなく事実があった。
■加賀
「今日はな」
加賀は碁石を軽く鳴らす。
「負かしに来た」
その瞬間、空気が変わる。
■塔矢アキラ
(……来る)
感覚が研ぎ澄まされる。
(この人は、ただの相手じゃない)
(積み上げてきた“執念”がある)
■対局開始
石が打たれるたびに、空気が変質していく。
加賀は迷わない。
強く、速く、押す。
(行くぞ、塔矢)
その一手一手には、明確な意志があった。
■神視点(盤上の流れ)
序盤。
互いに譲らない。
だがその質は異なる。
アキラは「整える碁」。
加賀は「壊す碁」。
ぶつかるたびに、盤が軋む。
■加賀の内側
(読めるか?)
(俺のこの圧を)
彼は攻める。
あえて乱す。
(お前が冷静なら冷静なほど)
(俺は崩しやすい)
■アキラ
(強い……)
初めての感覚。
(院生とも違う)
(プロの圧とも違う)
もっと荒く、もっと人間的。
(でも――嫌いじゃない)
その瞬間。
アキラの中で、何かが切り替わる。
(なら僕も――応える)
■中盤
盤は荒れる。
整然とした形は崩れ、
代わりに“力”がむき出しになる。
加賀の一手は鋭く。
アキラの一手は冷たい。
(塔矢、やっぱりお前はそう来るか)
(でもな)
(俺も止まらない)
■神視点
この対局は、技術の戦いではない。
意地と意地の衝突。
記憶と現在のぶつかり合い。
碁盤は静かに燃えていく。
■アキラ
(負けたくない)
それは単純な感情。
だが強い。
(ヒカルがいる)
(門脇戦を超えてきた奴がいる)
(だから僕も止まれない)
■加賀
(やっとだ)
(やっと“対等”だ)
その事実が、彼を燃やす。
■終盤へ
互角。
いや――わずかに揺れる均衡。
どちらも一歩も引かない。
そして盤は、
勝敗の最終局面へと進んでいく。
■神視点(結び)
かつて交わらなかった二本の線が、
ようやく同じ高さで交差した。
それは勝負でありながら、
同時に――再会でもあった。
石はまだ止まらない。
勝敗は、まだ終わらない。
盤上に、異質な“直線”が走っていた。
加賀鉄男。
その碁は、将棋の影を強く残している。
(飛車のようだ)
神視点の観察としても、それは明確だった。
横へ、縦へ。
迷いなく、一直線に突き刺さる手。
■加賀の碁
(曲がるな)
(止まるな)
(読ませるな)
その思想は単純でありながら強烈だった。
囲碁において異質な“直進性”。
それはときに暴力となり、
ときに破壊となる。
■塔矢アキラ
(……来る)
最初は戸惑いだった。
碁ではなく、“圧”だったからだ。
(将棋の打ち方……?)
規格外の圧により、アキラは一瞬後手に回る。
盤面が乱れる。
形が崩れる。
(押し込まれる……)
しかし、次の瞬間。
(落ち着け)
塔矢アキラは“整える”。
崩れた石を、再構築するように。
(このままでは負ける)
(なら――立て直す)
■中盤
加賀の攻撃は止まらない。
だが――
アキラは崩れない。
むしろ静かに、圧を吸収していく。
(塔矢……やっぱり崩れないか)
加賀の内心に、わずかな焦りが生まれる。
(普通なら崩れる)
(なのに……)
■終盤
形勢は逆転する。
アキラの手は鋭く、
無駄がない。
(ここで……終わるか)
加賀は悟る。
(ミスはしない)
(この男は)
塔矢アキラは“落ちない”。
その結論に至った瞬間。
加賀は静かに手を止める。
■加賀
「……降参だ」
潔い敗北。
しかし悔しさよりも、納得があった。
■塔矢アキラ
「……あなたは強い」
それは社交辞令ではない。
事実としての評価だった。
■加賀
「囲碁ってのはさ」
少し笑う。
「飛車じゃ勝てねぇんだな」
アキラは静かに答える。
「でも……圧はあった」
「それは確かに、武器だった」
***
碁盤の上に落ちる静寂は、いつの時代も変わらない。
けれど、その静寂の奥に流れるものは――人の心だ。
私はヒカルの傍らに佇みながら、ふと遠い昔へと意識を馳せていた。
「(そういえば佐為って当時ライバルや強敵とかいなかったのか?)」
無邪気な問い。
けれど、その奥には、私という存在を知ろうとする温度があった。
「(居ましたよ……)」
静かに目を細める。
あの時代の光と影が、胸の奥で淡く揺れる。
「(井上幻庵因碩(げんあんいんせき)という方が。本因坊秀策として、十八の折に初めて対局いたしました)」
その名を口にするだけで、盤上に張り詰めた空気が蘇る。
一手一手が命を削るような、あの緊張。
「(井上幻庵因碩は……今でいう塔矢行洋のような存在、と申せば分かりやすいでしょうか)」
「(へぇ……そんなすごい奴がいたんだ)」
ヒカルの声は軽い。
だが私は知っている。その軽さの裏にある、純粋な興味を。
「(そこで以前お話しした『耳垢』という手が生まれたのです。彼との対局は、常に新しきものを生み出しました……新手も、そしてその返しも)」
あの一局。
呼吸すら忘れ、ただ盤に没入した時間。
――あれこそが、生きているということだった。
「(あのね、ヒカル。この前インターネットで調べたじゃないですか)」
「(あああれか!漢字が難しくて忘れてた)」
「(あらら……)」
思わず小さく笑みがこぼれる。
時代が変わっても、人の本質は変わらないらしい。
「(しかも彼は将棋もお強かったのですよ)」
「(え、マジで?囲碁だけじゃないのかよ)」
「(ええ。才ある方は、往々にして複数の道に通じるものです)」
その言葉を口にしながら、私はふと――現在へと意識を戻した。
ヒカルの次の対局相手。
加賀鉄男。
「(そういえばヒカル、次の相手……加賀とおっしゃいましたね)」
「(ああ。中学の先輩。囲碁部のやつ……いや将棋部か)」
その言葉に、私は興味を引かれる。
「(どのような方なのです?)」
ヒカルは少しだけ間を置いた。
思い出を探るように。
――中学の廊下。
昼休みのざわめき。
その中で、ひときわ乱暴な声が響く。
「おい、筒井!まだそんな弱ぇ打ち方してんのかよ!」
振り返ると、そこにいたのは加賀だった。
腕を組み、不敵に笑っている。
「加賀先輩……!」
筒井が焦った声を出す。
その様子を、ヒカルは少し離れた場所から眺めていた。
(なんだあいつ……偉そうだな)
だが次の瞬間。
碁盤を覗き込んだ加賀の目が、鋭く光る。
「……そこ、違うだろ。こう打てよ」
無造作に指された一手。
それは――明らかに形を変える好手だった。
「え……あ……」
筒井は言葉を失う。
ヒカルもまた、知らず息を呑んでいた。
(こいつ……強い)
記憶は静かに現在へと戻る。
「(まあ、なんつーか……)」
ヒカルは頭をかきながら続けた。
「(口は悪いけど、めちゃくちゃ強い。囲碁もだけど……将棋はもっとやるらしい)」
「(ほう……)」
私は静かに頷く。
囲碁と将棋。
二つの道に通じる者。
ふと、あの人の面影が重なった。
「(面白いですね。まるで幻庵殿のようだ)」
「(げんあん……なんだっけ)」
「(もう……ヒカル)」
呆れながらも、どこか愛おしい。
この少年は、まだ知らない。
己が立つ場所が、どれほど深い世界なのかを。
だが――
だからこそ、面白い。
「(ヒカル)」
「(ん?)」
「(良い対局になりそうですね)」
風のように微笑む。
かつての宿敵を思いながら、
これから訪れる新たな一局に、胸を躍らせて。
盤上は、いつの時代も――
新しい物語を生むのだから。
***
個室へと続く廊下は、どこか異質な静けさに満ちていた。
――この先で、何かが起こる。
私は、確かな予感とともにヒカルの傍らに在った。
「ほんとに個室でいいのか?」
ヒカルが振り返りもせずに言う。
「びびってんなら今のうちにやめとけよ」
加賀の声は、いつも通り乱暴で、しかしどこか楽しげだった。
「誰がびびるかよ。お前こそ、言い出しといて逃げんなよ」
「はっ。言うじゃねぇか」
軽口を叩き合いながらも、その歩みは止まらない。
だが――
私は知っている。
その背中に宿る、微かな緊張を。
個室。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
盤が据えられる。
石が整えられる。
そして――向かい合う。
「初めてだな、こうして打つのは」
加賀が言う。
「ああ。囲碁部で顔は合わせてたけどな」
「その時は大したことなかったけどな、お前」
「今は違うって言いたいんだろ?」
「言わなくても分かるだろ」
ふっと、笑う。
互いに視線を外さない。
その空気は、既に対局のそれだった。
「じゃあ、始めるか」
「ああ」
ヒカルの指が石に触れる。
私は、静かに盤へと意識を沈めた。
――打つ。
一手。
二手。
三手。
序盤から、速い。
無駄がない。
まるで、互いに先を読み切っているかのように。
「へぇ……」
加賀の声が、低くなる。
「その打ち方」
一瞬の間。
そして――
「本因坊秀策だな」
ヒカルがニヤリと笑う。
「よく分かったな」
「当たり前だろ」
石が、鋭く打ち込まれる。
「本因坊秀策は俺が得意とする手だぜ!!」
――その一手。
私は、息を呑んだ。
(この者……強い……)
ただの読みではない。
その受け――
(幻庵殿の打ち方を……完全に理解している……)
あの人の“間”を、知っている。
石が走る。
音が重なる。
呼吸のように、手が進む。
「どうした?もう押されてんじゃねぇのか?」
加賀が笑う。
「うるせーな、まだ序盤だろ!」
ヒカルが即座に返す。
だが盤上は、すでに激しくぶつかり合っていた。
攻めと受け。
綺麗に、そして容赦なく。
――バチバチ、と。
気付けば。
中盤。
わずか、十分にも満たない時間。
それほどまでに、濃密だった。
そして――
私は押されていた。
(塔矢行洋並……)
否。
(それ以上に、隙がない……)
冷たい確信が、胸に落ちる。
(いや……まさか……)
視線が、自然と上がる。
加賀の頭上。
そこに――
“何か”が在る。
揺らがぬ気配。
ただよらぬ圧。
(……幻庵殿……?)
ありえぬ。
だが――
確信が、胸を打つ。
喉が鳴る。
「そうだ」
加賀が、ぽつりと言う。
その言葉と同時に。
声が、重なる。
「わしだ。久しぶりだな、本因坊秀策!」
――現れた。
井上幻庵因碩。
あの頃と変わらぬ、鋭い気配をまとって。
ヒカルが息を呑む。
「……誰だよ」
「見えてんだろ?」
加賀が肩をすくめる。
「意識しないと見えない。俺は最初から見えてた」
扇子を開く。
そこに記された文字。
――角行。
「初めてだぜ。同じようなことが起きてるやつが、同じ中学にいるなんてな」
「塔矢アキラには負けた、俺自身の力で」
加賀が続ける。
わずかな悔しさを滲ませながら。
「でもな、碁のレベルは俺の方が上だ。進藤ヒカル」
ヒカルの目が、鋭くなる。
「そして――」
加賀の視線が、私へ向く。
「こいつは、さらに強くなってる」
「本因坊秀策」
幻庵殿の声。
その響きに、胸が震える。
「貴様との戦い……忘れたことはない」
「幻庵殿でございましたか」
私は、静かに応じる。
「またお会いできて、嬉しく思います」
それは、偽りなき想い。
「私にとって、あなたは最大の目標でございました」
盤を挟み、幾度も追い続けた背中。
あの頃と同じ熱が、今も胸にある。
「ふむ」
幻庵殿が、わずかに笑う。
「貴様との勝負では、勝率は貴様が上だった」
一拍。
「だが、囲碁界全体での勝利数は、わしが上じゃ」
その言葉に、重みが宿る。
「その悔しさを糧に、わしは学び続けた。現代の定石もな」
静かに、だが確かに告げる。
「そして再び貴様と会えた……感謝するぞ、この巡り合わせを」
「恐れ入ります」
私は頭を垂れるように、言葉を紡ぐ。
「あの対局……耳垢の一局は、私に分がありました」
遠い記憶が、鮮やかに蘇る。
「当時、私は無名。ゆえに、対策ができたのです」
「ほう?」
「幻庵殿の打ち方は広く知られておりました。ですが私は――違った」
だからこそ。
「あなたに勝つため、徹底的に研究し、備えました」
あの一局に、すべてを注いだ。
「棋力では、幻庵殿の方が上であったと、今でも思っております」
静かに、しかしはっきりと。
「相変わらずの謙遜か……」
幻庵殿が鼻を鳴らす。
だがその声音には、どこか柔らかさがあった。
「まぁよい」
盤上では、なおも石が打たれ続ける。
言葉を交わしながらも、思考は止まらない。
あの頃と同じ。
いや――それ以上の戦い。
再び巡り合った宿敵。
そして、今の私。
胸の奥で、確かな炎が灯る。
――この一局。
必ずや、越えてみせる。
盤上に満ちる緊張は、すでに極限に達していた。
それでもなお――石は止まらない。
言葉を交わしながらも、互いの思考は一瞬たりとも緩まないまま、対局は深く、鋭く進んでいく。
やがて。
個室の扉の向こうに、気配が集まり始めた。
――強者の気配。
静かに、しかし確実に。
扉が開く。
現れたのは、塔矢アキラ、伊角、越智、和谷。
いずれも、自らの対局をすでに終えた者たち。
しかもそれは、序盤で相手を圧倒し、投了へと追い込んだ末の余裕だった。
彼らは、ただ一つの盤を目指してここへ来たのだ。
――この対局を、見るために。
塔矢アキラは、一歩踏み入れたところで足を止めた。
そして――言葉を失う。
盤上。
石は、ほとんど淀みなく置かれている。
考えていないわけではない。
むしろその逆。
すべてを読み切ったうえで、最善だけを選び続けている。
だからこそ――速い。
序盤からの攻防が、はっきりと“追える”ほどに、理に適い、美しい。
(……見える)
アキラの瞳が、盤を射抜く。
本因坊秀策の攻め。
そして――幻庵の受け。
かつて語られた伝説が、今この盤上に再現されているかのようだった。
越智も、和谷も、伊角も。
最初はただ圧倒されるだけだった。
だが、数分も経たぬうちに――気付く。
これは、ただのハイレベルな対局ではない。
“質”が違う。
攻防の一手一手に、意味があり、意志があり、そして――未来が仕込まれている。
私は、その中心にいた。
盤と一体となりながら、なおも先を読む。
そして――放つ。
耳垢。
あの時と同じ一手。
だが、それは過去の再現ではない。
今この瞬間の、最善としての一手。
しかし。
「当然だな」
幻庵殿は、迷いなく応じる。
その手は、かつてと同じ。
否――
さらに洗練されている。
ならば。
私は、返す。
新手。
盤の奥に沈めていた一手を、静かに引き出す。
「ほう……」
幻庵殿の声が、響く。
それは、この場にいるすべての者には届かない。
見える者にのみ、触れる声。
「さらに返すか……なるほど」
その響きに、わずかな愉悦が混じる。
観ている者たちが、息を呑む。
「……今の、何だ?」
「返した……?あの形で……?」
驚きが広がる。
当然だ。
それは、表面に現れた一手ではない。
序盤。
何気なく置かれた一石。
定石の流れに紛れ込ませた、ごく自然な布石。
そこに――すでに、この返しは潜んでいた。
耳垢で返されることを前提にした、さらにその先。
悪手のように見える一手ならば、警戒もできる。
だが――自然な一手は、見逃される。
それが、今になって牙を剥く。
だが。
幻庵殿もまた、同じことをしていた。
巧妙に、静かに。
盤の奥へと、別の未来を忍ばせていた。
攻める。
しのぐ。
返す。
さらに返す。
その応酬は、もはや“読み合い”の域を越えていた。
観客たちは、理解し始める。
「……これ、プロとかそういうレベルじゃないだろ……」
誰かが、呟く。
それは正しい。
これは――
未知の領域だ。
やがて。
終盤。
初めて、時間が流れ始める。
石が、止まる。
呼吸が、深くなる。
一手。
一手が――重い。
(すべてを、読み切ることはできない)
それは、私も幻庵殿も同じ。
ゆえに。
一手の誤りが、致命傷となる。
そして今。
盤上は――誰も知らぬ道へと踏み込んでいた。
新手に対する、新手。
かつて存在しなかった局面。
未踏の領域。
それでもなお、互いに最善を探り続ける。
だが――
完全ではない。
幾度か。
ほんのわずかに。
“次点”が、混じる。
三十手に一度ほどの、微細な揺らぎ。
それでも、拮抗は崩れない。
その時。
幻庵殿の手が、わずかに揺れる。
次点。
その選択へと、傾く。
だが――
「……違うな」
加賀が、低く呟く。
「そこじゃねぇ」
次の瞬間。
バチン――
石が打たれる。
最善手。
三十手に一度の揺らぎが――修正される。
その一手は、重い。
あまりにも、重い。
そして――こちら。
ヒカルの手が動く。
だが。
その一手は――
次点。
私は、その瞬間に気付けなかった。
「……来たな」
幻庵殿の声。
「見逃したか、本因坊秀策」
静かな、確信。
「勝負あったな……」
加賀の声が、重なる。
ヨセ。
静かに、すべてが収束していく。
そして――
半目。
負けた。
ヒカルの拳が、床を打つ。
「くそっ……!!」
顔を上げない。
その背中が、震えている。
私は、言葉を持たない。
ただ――
理解していた。
この敗北の意味を。
棋力は、拮抗していた。
だが。
人としての“差”が、そこにあった。
加賀が、扇子で風を送る。
「俺の方が少し上だったな」
軽く笑う。
「まあ、プロになったらまたやろうぜ」
その声音は、どこまでも自然だった。
ヒカルの、初めての黒星。
そして。
全勝は――塔矢アキラ、ただ一人となる。
盤上に残された石を見つめながら、私は静かに思う。
――まだ、足りない。
だが。
だからこそ。
この道は、終わらない。