藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~   作:梅酒24

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第九局:VS越智、VS那須、VS和谷

 加賀が去ったあと、個室には奇妙な静けさが残された。

 つい先ほどまで、あれほど激しく火花を散らしていた盤上が、今はただの石の配置へと戻っている。

 だが――その余韻だけは、消えない。

 誰も、口を開けなかった。

 ヒカルは俯いたまま、動かない。

 握られた拳は、まだわずかに震えている。

 周囲にいる者たちは、戸惑っていた。

 当然だ。

 彼らは皆、どこかで信じていたのだ。

 ――進藤ヒカルは負けない、と。

 だからこそ、何を言えばいいのか分からない。

 励ますべきか。

 触れないべきか。

 その曖昧な空気を、誰も破れずにいた。

 

 ――ただ一人を除いて。

 

「進藤」

 塔矢アキラが、一歩前へ出る。

 その声は、静かで、まっすぐだった。

「すごい、いい勝負だった……」

 その言葉に、嘘は一切ない。

 純粋な感嘆と、そして敬意。

 

 ヒカルは、ゆっくりと顔を上げる。

「ああ、塔矢」

 その目には、まだ悔しさが残っている。

「俺が最善手に気付いていれば……くそっ」

 その一言に、すべてが込められていた。

 

 アキラは、わずかに目を見開く。

「君でも……負けることがあるんだね」

 静かな驚き。

「正直、僕は――君を、怪物か何かだと誤解していた」

 率直な言葉だった。

 

 ヒカルは、ふっと息を吐く。

「俺はまだ……全然だ」

 拳を見つめる。

「色々と足りねえ。甘かった……」

 

 その言葉を、私は静かに受け止める。

 ――違う、ヒカル。

 君は、確かに強くなっている。

 だが。

 この一局は、ただそれだけでは届かぬ場所にあった。

 

「君の……その顔」

 アキラが、ぽつりと漏らす。

「悔しがる顔や声、初めて見た」

 一瞬の間。

「……すまない」

 そして、少しだけ遠慮がちに続ける。

「棋譜を並べてもらえないか?」

 その瞳は、すでに盤を見ていた。

「君と加賀の戦いが……気になるんだ。次の試合まで、まだ時間もあるし」

 

 ヒカルは、一瞬だけ呆れたように笑う。

「お前なあ……」

 肩をすくめる。

「こういう時は普通、そっとしとくもんだろ」

 だがその声音には、どこか救われたような軽さがあった。

「……まあ、お前らしいけどな」

 そして、盤の前に座る。

「いいぜ」

 石を手に取る。

「今までで一番の攻防戦だ」

 

 

 私は、息を呑んだ。

 

 ヒカルの手が――迷わない。

 

 私の助言を求めることもなく、

 ただ一人で、石を並べていく。

 

 正確に。

 淀みなく。

 

(……見ていたのですね)

 

 あの対局を。

 ただ任せていたのではない。

 

 ――すべてを。

 

 特等席で、見届けていた。

 

 胸の奥に、静かな熱が灯る。

 

 

 アキラは、盤に顔を近づける。

 一手、また一手と進むたびに――

 その呼吸が変わっていく。

 

「……すごい……」

 かすかな声。

 

「この流れ……こんなに自然に……」

 

 さらに進む。

 

「レベルが……違う……」

 

 指先が、わずかに震える。

 

「父さんと……同レベル……いや……」

 一瞬、言葉が詰まる。

 

「そんな手が……ここに隠れていたのか……」

 

 序盤の何気ない一手に、目を留める。

 

「これが……後で効いてくるのか……?」

 

 驚きと、興奮。

 そして、理解が追いつかぬ焦燥。

 

 アキラの世界が、広がっていく。

 

 

 ヒカルは、黙って並べ続ける。

 

 その横顔は、先ほどとは違っていた。

 

 悔しさは消えていない。

 だが――

 

 どこか、前を見ている。

 

 

 私は、その姿を見つめながら思う。

 

 ヒカルは、変わり始めている。

 

 私に委ねるだけの存在ではない。

 

 見て、感じて、学び――

 

 自らの碁を、掴もうとしている。

 

 

 盤上に再現される、あの一局。

 

 幻庵殿との再会。

 そして、敗北。

 

 そのすべてが――

 

 今、ヒカルの中で、確かに息づいている。

 

 

 この敗北は、痛みであると同時に。

 

 次へ進むための、確かな一手。

 

 

 私は、静かに微笑んだ。

 

 ――まだ、終わりではない。

 

 むしろ。

 

 ここからが、本当の始まりなのだから。

 静寂の中で、私は盤を見つめていた。

 すでに石は片付けられている。

 だが――あの一局は、まだ終わっていない。

 私の中で、そしてヒカルの中で。

 

「……なあ、佐為」

 ヒカルがぽつりと呟く。

 その声には、まだ悔しさの残滓が滲んでいた。

「どこで負けた?」

 

 私は静かに目を閉じる。

 盤を思い起こす。

 一手一手を辿るように。

 

「終盤です」

 やがて、そう答えた。

「あの一手……次点を選んでしまいました」

 

 ヒカルは、歯を食いしばる。

「あそこか……やっぱりな」

 

「ですが」

 私は続ける。

「それ以前にも、僅かな歪みはございました」

 

「え?」

 

「三十手に一度ほどの、ほんの小さな揺らぎです」

 それは致命ではない。

 だが――積み重なる。

「幻庵殿は、それを最小限に抑えておられました」

 

 ヒカルは黙る。

 拳を握りしめる。

 

「……じゃあさ」

 低く、しかしはっきりと。

「俺が気付いてれば、勝てたのか?」

 

 私は、一瞬だけ言葉を選んだ。

 

「――はい」

 

 だが、それは同時に。

 

「ですが、それは“今のヒカル”に求めるには酷でもあります」

 

「なんだよそれ」

 

「見えていなかったものを、責めることはできません」

 静かに告げる。

「ですが、今こうして振り返っている以上――」

 一拍。

「次は、見えるはずです」

 

 ヒカルは顔を上げた。

 

「……ああ」

 

 その目に、迷いはない。

 

「次は、逃さねぇ」

 

 

 その時。

 

「よう、進藤」

 

 聞き覚えのある声。

 

 越智が立っていた。

 腕を組み、にやりと笑っている。

 

「さっき、将棋部に負けたらしいな?」

 

 ヒカルの眉がわずかに動く。

 

「塔矢アキラは勝ってたぞ?」

 

 追い打ちのような一言。

 

「どうした?天才様も、意外と大したことねぇんじゃねぇのか?」

 

 挑発。

 露骨なまでの。

 

 だが――

 

「お前さ」

 ヒカルが、ゆっくり口を開く。

 

「それ、何回目だよ」

 

「は?」

 

「さっきから同じことばっか言ってるよな」

 

 視線が、真っ直ぐ越智を射抜く。

 

「そんなに気になるなら、盤で確かめろよ」

 

 越智の口元が、引きつる。

 

「……言うじゃねぇか」

 

「あとさ」

 

 ヒカルは一歩近づく。

 

「そろそろ――黙れ」

 

 空気が、一変する。

 

「打つぞ」

 

 

 対局が、始まる。

 

 バチン。

 

 その一手に、迷いはない。

 

(……なんだ?)

 

 越智の思考が、わずかに揺れる。

 

(さっきまで負けたばっかのやつだぞ……?)

 

 だが――

 

 違う。

 

 石の音が、重い。

 

(……速い)

 

 そして、鋭い。

 

 一手ごとに、圧が増していく。

 

(こいつ……)

 

 目の前のヒカルは、先ほどまでとは別人のようだった。

 

 いや――違う。

 

(変わったのか……?)

 

 さっきの敗北。

 

 普通なら、引きずる。

 迷いが出る。

 

 だが、この男は――

 

(切り替えてる……?)

 

 それどころか。

 

(さっきより、強くなってる……?)

 

 

 攻める。

 

 守る。

 

 崩す。

 

 そのすべてが、淀みなく繋がっている。

 

(なんだこの打ち筋……)

 

 越智の指が、一瞬止まる。

 

(重い……)

 

 一手が、重い。

 

 ただの力任せではない。

 

(読まれてる……?)

 

 いや。

 

(違う……もっと先……)

 

 盤の“先”に、何かがある。

 

(なんだよこれ……)

 

 焦りが、じわじわと広がる。

 

 

(さっきの対局……)

 

 越智は思い出す。

 

(あのレベルのやつと打った直後に……)

 

 普通でいられるはずがない。

 

 なのに――

 

(吸収してる……?)

 

 あの敗北を。

 

(ありえねぇだろ……)

 

 

 石が打たれる。

 

 バチン。

 

 その音に、越智の思考が断ち切られる。

 

(……終わった)

 

 盤を見下ろす。

 

 もう、手がない。

 

 どこにも、道が残されていない。

 

 

 ゆっくりと、息を吐く。

 

「……参った」

 

 中押し。

 

 

 ヒカルは、何も言わない。

 

 ただ盤を見つめている。

 

 

(なんなんだよ……こいつ)

 

 越智は、苦笑する。

 

(さっき負けたばっかだろ……)

 

 それなのに。

 

(なんで、こんなに前向けるんだよ……)

 

 

 私は、その光景を静かに見つめていた。

 

 ヒカルは、確かに変わった。

 

 敗北を、ただの痛みで終わらせない。

 

 それを――

 

 力へと変える。

 

 

 胸の奥で、静かに思う。

 

 この少年は。

 

 まだまだ強くなる。

 

 どこまでも。

 

対局場の空気は、先ほどまでとはまるで違っていた。

 あの激烈な一局の余韻は、すでに遠のき、

 今はどこか――日常に近い、柔らかなざわめきが戻っている。

 それでも。

 ヒカルの中にあるものは、確かに変わっていた。

 

「ねえ、進藤くん」

 

 軽やかな声がかかる。

 振り返ると、那須がそこにいた。

 

「さっきさ、越智となんか揉めてなかった?」

 

 少し興味深そうに、けれど深追いはしない距離感で。

 

「揉めてねーよ」

 ヒカルは肩をすくめる。

「ちょっと黙らせただけ」

 

「あはは、なにそれ」

 

 那須はくすっと笑う。

 その笑い方は、どこか力が抜けていて、自然だった。

 

 ――強張っていない。

 

 私は、そのことに気付く。

 

 この場にいる院生たちの多くは、

 すでに“次”を意識している。

 

 だが彼女は。

 

 どこか、少しだけ違う場所に立っている。

 

 

「私さぁ」

 

 那須は、ふと視線を落とす。

 

「中途半端なんだよね」

 

 その言葉は、驚くほどあっさりと口にされた。

 

「院生の中でも、それなりには強いの」

 笑う。

「でもさ、プロになるほどじゃない」

 

 軽い調子のまま。

 けれど、その奥には確かな現実がある。

 

「将来のこととか、考えちゃうんだよね」

 

 ヒカルは何も言わない。

 ただ、静かに聞いている。

 

「あと頑張れて、二、三年かなーって」

 

 指先で、石を転がすような仕草。

 

「伊角さんとか、真柴とかさ。自分より強い人でも院生止まりだったりするし」

 

 一瞬だけ、言葉が途切れる。

 

「……んー、考えちゃうね」

 

 それでも。

 最後は、やはり軽く笑う。

 

 その笑顔は、無理をしているようには見えない。

 ただ――受け入れている。

 

 

 私は、その姿に、静かな切なさを覚えた。

 

 かつての時代にも、同じような者たちはいた。

 才がありながら、頂に届かなかった者たち。

 

 だが。

 

 その道もまた、一つの“碁”なのだ。

 

 

「あ、そうだ」

 

 那須が顔を上げる。

 

「個室でやらない?」

 

 ぱっと、明るく。

 

「私、勝率ちょうど七割だしさ」

 

 少しだけ肩をすくめる。

 

「でも今日はさ、真剣勝負じゃなくて――」

 

 一拍。

 

「指導碁、してほしいな」

 

 ヒカルが、わずかに目を細める。

 

「今年はもう無理だしさ」

 

 那須は笑う。

 

「進藤くん、プロになると思うし」

 

 そして、少しだけ視線を逸らす。

 

「打ってもらえるの、最後かもしれないし」

 

 

 その言葉に。

 

 私は、何も言えなかった。

 

 

「……いいぜ」

 

 ヒカルは、あっさりと答える。

 

 けれどその声には、やわらかな温度があった。

 

 

 個室。

 

 先ほどとは違う空気。

 

 張り詰めた緊張はなく、

 どこか穏やかな時間が流れている。

 

「じゃあ、よろしくお願いします、先生」

 

 那須がふざけた調子で言う。

 

「やめろよ、それ」

 

 ヒカルが苦笑する。

 

「いやいや、今日は指導碁なんでしょ?」

 

「まあ、そうだけどさ」

 

 石が置かれる。

 

 だがその音は、先ほどのように鋭くはない。

 

 柔らかく。

 どこか、余白を残すように。

 

 

 ヒカルは、ゆっくりと打つ。

 

 考えさせるように。

 

 導くように。

 

 

 私は、その手を見つめながら、静かに感じていた。

 

 ――変わった。

 

 先ほどの一局。

 あの敗北が。

 

 確かに、彼の中で形を変えている。

 

 

「うわ、なにそれ」

 

 那須が笑う。

 

「そんな打ち方あるんだ」

 

「あるんだよ」

 

「知らなかった」

 

「今覚えればいいだろ」

 

 

 軽やかな会話。

 

 その中で、碁は進む。

 

 

「……あ、やば」

 

 那須が盤を見て、苦笑する。

 

「これ、もうダメじゃない?」

 

「まだあるだろ、一応」

 

「いやいや、ないない」

 

 肩をすくめる。

 

「参りました」

 

 

 終局。

 

 

「ありがとね」

 

 那須が、にこりと笑う。

 

「すごく楽しかった」

 

 

 その言葉に、偽りはない。

 

 

「お前、普通に強いじゃん」

 

 ヒカルが言う。

 

「もうちょい頑張ればいけるんじゃね?」

 

 

 那須は、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。

 

 そして――

 

「……そっか」

 

 小さく、笑う。

 

「もうちょっとだけ、頑張ってみようかな」

 

 

 その笑顔は、先ほどよりも少しだけ――前を向いていた。

 

 

 個室を出る。

 

 柔らかな空気が、背中に残る。

 

 

 私は静かに思う。

 

 勝つことだけが、碁ではない。

 

 負けることも。

 迷うことも。

 立ち止まることも。

 

 すべてが、この道の一部。

 

 

 そしてヒカルは――

 

 そのすべてを、少しずつ知り始めている。

 

 

 盤上に刻まれるものは、ただの勝敗ではない。

 

 それは、人の歩みそのものなのだから。

 対局開始の十分前。

 静まり返った対局場の中で、ひときわ早く席に着いている者がいた。

 和谷。

 盤を前にして、腕を組み、じっと石のない碁盤を見つめている。

 その背中には、いつもの軽さはなかった。

 

 ヒカルが、その向かいに腰を下ろす。

 

「ついに、進藤か……」

 

 低い声。

 だが、どこか噛みしめるような響きがあった。

 

「伊角さん……お前に負けて、崩れたんだ」

 

 ヒカルの手が、わずかに止まる。

 

「俺さ、お前が伊角さんと打った後に当たったんだけど……」

 和谷は苦く笑う。

「いつもの伊角さんじゃなかった」

 

 盤を見つめたまま、続ける。

 

「プロ試験ってさ……どんなに強くても、ちょっとしたことで崩れるんだよな」

 

 その言葉は、軽くはない。

 

「伊角さんじゃあ……」

 

 ヒカルが、言いかける。

 

「……可能性は消えた」

 

 和谷が、静かに言い切る。

 

 空気が、重く沈む。

 

「今は――」

 

 指を折るように、淡々と並べる。

 

「塔矢アキラが全勝。俺とお前と加賀が一敗」

 

「真柴が二敗。本田さんと越智が四敗」

 

 一拍。

 

「プロ候補は、この中だ」

 

 顔を上げる。

 真っ直ぐに、ヒカルを見る。

 

「この一局……俺にとっては、すげえ重要なんだ」

 

 

 その目に、迷いはなかった。

 

 

 私は、その言葉を静かに受け止める。

 

 和谷。

 

 彼は、まだ成長の途中にある。

 だが、その歩みは確かだ。

 

 ――急ぐ必要はない。

 

 だが。

 

 この場にいる以上、彼にとって“今”がすべてなのだ。

 

 

「なあ、進藤」

 

 和谷が、少しだけ口元を緩める。

 

「こうして打つの、久しぶりだよな」

 

「ああ」

 

 ヒカルも、軽く笑う。

 

 

 短い会話。

 

 だが、その裏にあるものは、深い。

 

 共に過ごした時間。

 共に歩んできた道。

 

 

 和谷の視線が、ふと遠くを見る。

 

 ――回想。

 

「お前ならプロになれる!」

 

 師匠の声。

 

「自分の力を信じろ!」

 

 叩かれた肩の感触。

 

「俺の元へ来いよ!」

 

 その言葉に、何度救われたか。

 

 何度、奮い立たされたか。

 

(……ここで負けるわけにはいかねぇ)

 

 

「じゃあ――」

 

 和谷が、石に手を伸ばす。

 

「始めるか」

 

「ああ」

 

 ヒカルが応じる。

 

 そして。

 

 私は、静かに決意する。

 

 

 ――手加減は、しない。

 

 

 友であるからこそ。

 

 与える勝ちなど、意味はない。

 

 それは、和谷自身が許さぬだろう。

 

 そして――

 

 彼は、まだ伸びる。

 

 一年遅れたとしても。

 その先で、必ず届く。

 

 だからこそ。

 

 今は。

 

 全力で、叩き潰す。

 

 

 バチン。

 

 初手。

 

 その音が、空気を震わせる。

 

(……重い)

 

 和谷の心が、揺れる。

 

(なんだ……この感じ……誰かと似ている)

 

 

 序盤。

 

 形は、穏やかに始まる。

 だがその奥で、すでに戦いは始まっている。

 

(読み合いが……深い)

 

 和谷の額に、わずかな汗。

 

 

 

 

 中盤へ。

 

 攻防が、激しさを増す。

 

 石がぶつかる。

 呼吸が速くなる。

 

(くそっ……!)

 

 読みは通じている。

 だが、その先に――

 

(さらに上がある……!)

 

 

 ヒカルの手は、止まらない。

 

 迷いがない。

 

 いや――

 

 見えている。

 

 はるか先まで。

 

 

(……違う)

 

 和谷は気付く。

 

(こいつ……)

 

 

 “上から打ってる”

 

 

 圧倒するためではない。

 

 導くように。

 

 示すように。

 

 

(なんだよ……それ……そうか……saiは進藤なのか……)

 

 悔しさが込み上げる。

 

 だが同時に――

 

(……すげえ)

 

 

 認めざるを得ない。

 

 

 この差。

 

 

 だが。

 

 その差は――

 

 絶望ではない。

 

 

(……追える)

 

 

 そう思わせる打ち方。

 

 

 やがて。

 

 形が、崩れる。

 

 和谷の石が、息を失う。

 

 

「……参った……お前がsaiだったんだな」

 

 静かに、言葉が落ちる。

 

 中押し。

 

 

 ヒカルは、何も言わない。

 

 ただ、盤を見つめている。

 

 

 和谷は、しばらく動かなかった。

 

 そして。

 

「……強ぇな、お前」

 

 ぽつりと、笑う。

 

 

 その顔には、悔しさがある。

 

 だが。

 

 それ以上に――

 

 前を向いている。

 

 

 私は、静かに見つめる。

 

 

 この一局は。

 

 勝敗以上のものを、残した。

 

 

 和谷にとっての、指標。

 

 ヒカルにとっての、立ち位置。

 

 

 そして――

 

 未来への、確かな距離。

 

 

 盤上の石は、すでに動かない。

 

 だが。

 

 この対局は、終わっていない。

 

 

 それぞれの中で、続いていく。

 

 

 ――次へと。

 

 

 最終戦。

 その言葉が持つ響きは、これまでとはまるで違っていた。

 

 盤上に至るまでのすべての道。

 勝ち、負け、迷い、積み重ねてきた時間。

 

 それらすべてが、今この一局へと収束している。

 

 

 塔矢アキラ――十九勝〇敗。すでに合格を決めている。

 加賀――十八勝一敗。

 ヒカル――十八勝一敗。

 和谷――十七勝二敗。

 真柴――十五勝四敗。

 

 数字は冷静で、残酷で、そして美しい。

 

 だが、この最終戦においては――

 

 そのすべてが、まだ揺らいでいる。

 

 

 塔矢対ヒカル。

 加賀対和谷。

 

 もし和谷が勝てば、道は分岐する。

 もしヒカルが敗れれば、さらに複雑に絡み合う。

 

 

 誰もが理解していた。

 

 ――これは、ただの最終戦ではない。

 

 

 観戦席には、静かなざわめきが広がっている。

 

 すでに合格の可能性を失った者たち。

 彼らの中には、自らの対局を捨ててでも、この二局を見届けようとする者もいた。

 

 それほどまでに、この戦いは――価値がある。

 

 

 そして。

 

 開始二十分前。

 

 扉が、静かに開いた。

 

 

 塔矢アキラ。

 

 

 その足取りは、静かで、迷いがない。

 

 だが――

 

 私は、その内に宿るものを感じ取っていた。

 

 微かな震え。

 

 それは恐れではない。

 

 ――待ち続けた者だけが抱く、昂り。

 

 

 席に着く。

 

 ゆっくりと、目を閉じる。

 

 

 その内側で。

 

 彼は、一人の存在を思い描いている。

 

 

 進藤ヒカル。

 

 

 かつて出会い、追い、追われ、そして今――

 

 同じ場所に立つ者。

 

 

(……この瞬間を、どれほど望んでいたか)

 

 

 静寂。

 

 だが、その静寂は満ちている。

 

 言葉にならぬほどの、濃密な想いで。

 

 

 ――その時。

 

 

 気配。

 

 

 アキラが、ゆっくりと目を開く。

 

 

 そこにいたのは。

 

 

 ヒカル。

 

 

 自然な足取りで、向かいの席へと歩いてくる。

 

 その姿に、もはや迷いはない。

 

 

「待っていた……いや」

 

 アキラが、静かに口を開く。

 

「この日を、待ち望んでいた」

 

 

 その言葉は、重く、そしてまっすぐだった。

 

 

 ヒカルは、わずかに笑う。

 

 

「俺もだ」

 

 一拍。

 

「そして――プロ合格、おめでとう」

 

 

 素直な言葉。

 

 だがその裏にあるのは、祝福だけではない。

 

 認めている。

 

 そして――

 

 追いついている。

 

 

 アキラは、ゆっくりと首を振る。

 

 

「僕にとって、合格は通過点に過ぎない」

 

 その瞳は、揺るがない。

 

「僕にとっての試練は――まさに、これからだ」

 

 

 その言葉に。

 

 私は、静かに息を呑む。

 

 

 この者は、すでに見ている。

 

 “先”を。

 

 

 ヒカルもまた、同じだった。

 

 

「そうかよ」

 

 軽く肩をすくめる。

 

「じゃあ、ちょうどいいな」

 

 

 にやり、と笑う。

 

 

「その試練、俺がやってやるよ」

 

 

 空気が、わずかに震える。

 

 

 だが次の瞬間。

 

 

「……にしてもさ」

 

 ヒカルが、ふっと力を抜く。

 

「お前、相変わらず早ぇな」

 

 

「君こそ」

 

 アキラも、ほんのわずかに口元を緩める。

 

「十分前には来ると思っていたよ」

 

 

「読みすぎだろ」

 

「当然だ。君のことは、よく見ているからね」

 

 

 短い会話。

 

 だがそこには、長い時間が流れている。

 

 

 初めて出会った日のこと。

 

 ぶつかり合った対局。

 

 互いに知らぬところで、積み重ねてきた努力。

 

 

 すべてが――

 

 この瞬間に繋がっている。

 

 

 私は、静かに見つめる。

 

 

 ヒカル。

 

 あなたは、ここまで来ました。

 

 

 かつて、何も知らなかった少年が。

 

 今――

 

 塔矢アキラと対等に向き合っている。

 

 

 胸の奥に、込み上げるものがある。

 

 誇り。

 そして、わずかな寂しさ。

 

 

 ――私の役目は。

 

 もう、終わりに近づいているのかもしれない。

 

 

 だが。

 

 

 それでも、今は。

 

 

 この一局を。

 

 ともに打つ。

 

 

 それだけで、よい。

 

 

 やがて、開始の時間が近づく。

 

 

 場の空気が、ゆっくりと変わっていく。

 

 

 雑談は、自然と途切れる。

 

 言葉は、もはや必要ない。

 

 

 盤を挟み。

 

 互いに座る。

 

 

 視線が、交わる。

 

 

 ――始まる。

 

 

 すべてを懸けた、一局が。

 

 

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