「『学園都市最大の禁忌』……」
弓箭猟虎はしばしその言葉を反芻した後、はっと右拳を左の掌に打ち付けた。
思い出した。かつて『スクール』に所属していた頃、教育係だったゴーグルの少年から聞かされた話だ。
学園都市は、限られた面積と資源にもかかわらず、極端な大量消費型を持っている。
にもかかわらず――外部から搬入される資材量と、『暗部』で消費される資材量が、どう考えても釣り合わない。
帳尻合わせでは説明がつかない。むしろ『暗部』側の消費量の方が上回っているとさえ言われていた。
このままでは、記録に必ず不整合が生じるはずだ。
それなのに『暗部』の活動は、いまだ破綻なく隠蔽され続けている。
それはつまり、学園都市のどこかに、誰にも知られていない――資材搬入用の『抜け穴』があるのではないかと噂されている。
ふと、昨日喫茶エーデルワイスで佐天涙子が語っていた都市伝説を思い出した。
――『四時と三十分の間にとある列車に乗ると、謎の隧道を通じて異世界に連れ去られる』! こういうのって一番ワクワクしません!? しかもその入口とされる場所がついさっき第十学区で──
(まさか……あの隧道の正体が――)
「どうやら、心当たりがあるみたいですね」
思考に沈む弓箭を見て、納夢禍棲が静かに指摘した。
弓箭はごくりと固唾を飲み込み、問いかける。
「……納夢さんは、『それ』がどこにあるか、ご存じなんですか?」
先ほどの口ぶりは、まるで『知っている者』のそれだった。
もし本当に、『暗部』ですら把握しきれていない秘密の『抜け穴』を知っているのだとすれば――彼女は只者ではないことが確実だ。
「……ですから、ただの例え話ですよ」
対してウェイトレスの少女は、いつもと変わらぬ調子で答えた。
だが、その声音はわずかに、何かを伏せているようにも聞こえる。
彼女がそれ以上語ろうとしない以上、無理に追及しても意味はない。
そう判断し、弓箭は視線を納夢から外した。
そんな時、巌根泰造が遠慮がちに口を開く。
「あのう……もう自分で立てるから、ここからは自力で歩くよ」
「承知しました」
納夢は即座に手を離し、一歩下がって巌根の背後へ回り込んだ。念のため、後方警備に移ったのだろう。
前方を歩く弓箭は、そのまま周囲の監視を続ける。
そして――ふと、右手の高層ビルに視線が吸い寄せられた。
なんというか、かすかに胸騒ぎがする。
スナイパーである彼女には、一目で分かった。
あの高層ビルの屋上――視界は開け、遮蔽物はほとんどない。ここ一帯を見渡すには、あまりにも都合が良すぎる。
つまり――[[emphasismark:狙撃において > ﹅]]、[[emphasismark:これ以上ない理想的な場所だ > ﹅]]。
次の瞬間、昨夜の光景が脳裏をよぎった。
――数十メートル離れたビルから、交渉人の頭部を正確に撃ち抜いた一撃。
(まさか――)
彼女の直感が警鐘を鳴らした。
「皆さん、ここを離れて――」
叫びながら振り返った、その瞬間。
視界の中心で、血が弾ける。
赤い飛沫が空中に散り、ゆっくりと広がっていく。
弓箭猟虎の視線の先で、巌根泰造の頭部が『何か』に貫かれていた。
◇
その高層ビルの屋上、肩まで切り揃えた白いセーラー服の少女――ウィステリアは右目に装着された小型スコープ越しに、すべてを見届けていた。
視線の先、頭部を撃ち抜かれた巌根泰造が、糸の切れた人形のように仰向けに崩れ落ちていた。
彼女の両手には、全長1.5メートルほどの細長い筒。吹き矢である。
「作戦通り――任務完了っと」
元より、下っ端の連中に期待などしていない。
先ほどの爆発ですら、標的をショッピングモールから引きずり出すための『布石』に過ぎなかった。
「で、そっちはどうじゃ、アイリス?」
耳元の通信端末に問いかける。
帰ってきたのは、感情を感じさせない冷淡な声だった。
『……一応、脱出はした』
「ほう。その言い方じゃと『暗部の悪魔』は仕留め損ねたか? てか……少し息遣いが荒いようじゃが、ケガでもしたか?」
その声音には、ほんの僅かに心配が混じる。
『……問題ない。すぐ治る』
「……そっか。で、護衛の奴もやっちゃう?」
スコープ越しに、倒れた巌根泰造の傍らにいる二人の少女へと照準を滑らせる。
『好きにすればいい。ただし迅速に。連中に他の仲間がいない保証はない』
「あいよ」
それだけ言って、彼女は通信を切った。
照準の中心に、二つの影が重なる。
「……一人は昨夜『暗部の悪魔』と一緒にいた女か」
息を整え、もう一人へと視線を移す。
「もう一人は……誰か知らんが、ごめんなさいね」
再び吹き矢を構え、静かに息を整える。
その直前だった。
「っ!?」
背後に、人の気配を感じる。
反射的に振り抜き、筒先が跳ね上がり、狙いが一瞬で背後へと差し替わる。
少女から二メートル離れたところに、一人の少年が立っていた。
その顔を見た瞬間、彼女の呼吸がわずかに止まる。
肺に取り込んだ空気が、吐き出されることなく喉奥で引っかかった。
どこにでもいそうな、特徴のない顔立ち。群衆の中に紛れれば、二度と見つけられないような――そんな平凡さ。
だが、見間違えるはずがない。忘れるはずもない。
輪郭の取り方。視線の据え方。
何気ない仕草の一つ一つまで、身体が覚えている。
何せ、その人物は彼女の――
少年――海藤高成は一歩も動かず、まっすぐに少女を見据えている。
逃げ場を与えない、まっすぐな視線だった。
「……やはり、お前だったか――
低く、確信に満ちた声だった。
その名を呼ばれた瞬間、空気がわずかに軋んだ。
「……兄貴」
ウィステリア――否、海藤織歌は、静かにその言葉を口にした。
舌の上で転がすその呼び名は、ひどく不器用で、どこかぎこちない。
最後にそう呼んだのが、いつだったのか。
思い出そうとした瞬間、それすらも遠く霞んでいた。
「……どうして」
喉の奥でかすれるように、少女はなんとか言葉を絞り出した。
「どうして俺がここにいる、か?」
間を置かず、少年は言葉を重ねる。
「そんなの決まってんだろ」
わずかに息をつき、彼は言う。
「あの日――お前が消えたとき、俺は誓ったんだ。必ず見つけ出すってな。『暗部』に入ったのも、そのためだ」
淡々とした口調の奥に、押し殺した熱が滲む。
「どれだけ探したか……お前には、想像もつかねえよ」
「…………」
言葉が返せない。
否、返してはいけないと、どこかで分かっていた。
海藤高成は、ずっと彼女を探していたのだ。
あの日から、ずっと。
数年前、海藤織歌は何の前触れもなく姿を消した。
残されたのは、たった一枚の書き置きだけ。
無機質なテーブルの上に、ぽつんと置かれていたそこに記されていたのは――
――兄貴。織歌はもう、『光』の当たる場所では生きていけぬ。これからは、この街の『闇』で生きていくしかない。突然でごめん。どうか、織歌のことを探さないで。兄貴には、真っ当に生きてほしい。
それだけだった。
あまりにも、一方的で。
あまりにも、勝手な――別れだった。
「お前があんなことをしたのは、きっと何か事情があるんだろ。……でもな」
海藤の視線は、遠く炎が噴き上がるショッピングモールへ向けられる。
「こんなこと、間違ってるに決まってんだろ」
少年の拳が、わずかに軋む。
「お前は……今まで、一体何やってきた?」
その非難の言葉の奥にあるのは、怒りだけではない。
信じられないような、震えだった。
「…………」
織歌は答えない。ただ、静かに吹き矢を下ろす。
その目はもう、冷酷な殺し屋のものではなかった。
叱れらるのを待つ、一人の妹の目だ。
少年は一歩近づき、手を差し出す。
「帰ろう、織歌」
ためらいのない声だった。
「誰に利用されてようが、何を背負ってようが関係ねえ」
指先が、わずかに震える。
「俺が、必ずお前を――」
言葉が終わる寸前、空気が裂けた。
織歌は動き出していた。
閃光のように抜かれたクナイが、一直線に迫る。
ギィンッ!!
海藤の手が弾けるように動き、甲高い音と共に同じくクナイでそれを受け止めた。
「……ごめん、兄貴」
至近距離。吐息が触れる距離で、織歌は呟く。
「今さら……もう引き返せぬ」
「だったら――力づくででも、連れて帰る!」
◇
半壊した高架道路の上に、警策看取は一人ぽつんと立っていた。
砕けた車両。抉られた路面。ねじ曲がったガードレール。
激突の痕跡だけが、そこに生々しく残されている。
「――どうやら、敵を生け捕りにはできなかったみたいですわね」
背後から、凛とした声が響いた。
風を纏うように着地した時ヶ谷凛音が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
警策は振り返らない。ただ小さくため息を吐き、正面を見据えたまま立ち尽くしていた。
その先には、巨大な陥没穴。
直径二十メートル近い円形の大穴が、高架道路を丸ごと食い破るように穿たれている。
あのショッピングモールの爆発で一瞬意識を逸らされた隙に、銀髪少女は即座に右手を路面へ叩き込み、それだけでこの大穴が生まれた。
轟音。崩落。巻き上がる粉塵。
視界が塞がれた、その刹那にはもう、少女の姿は消えていた。
「ヤレヤレ、せっかく『当たり』を引いたと思ったんだケドね。ま、そう簡単には行かないか」
警策は小さく肩をすくめ、時ヶ谷の方へ振り向いて問うた。
「で、ソッチは順調?」
その問いに、時ヶ谷は静かに頷く。
「ええ。『作戦通り』でしたら……多分今頃海藤さんは、『彼女』と対峙している頃でしょう」
崩れた高架道路の隙間を縫うように吹き抜ける風が、二人の髪を揺らした。
警策はしばらく黙ったまま、遠くを見つめる。
視線の先にあるのは、ショッピングモールの近くに聳える高層ビル。
おそらく今あの屋上で、兄妹が向き合っている。
「……今さらだけど」
ぽつりと、彼女は呟く。
「アイツらだけに任せて、本当に大丈夫なの?」
その声音には、珍しく軽薄さがなかった。
「情報じゃ、レベルはそこまで高くないけど、相手は一応『気流操作系』の能力者。それで吹き矢の射程を伸ばしてるとか。それに……」
そこで彼女は一度言葉を切り、わずかに目を細めた。
「情に流されて、見逃したりでもしたら――」
暗部に生きる者にとって、そんな甘さはときに身を滅ぼしかねない。
「……たとえそうなったとしても」
時ヶ谷は、遠いビルの屋上を見つめたまま続ける。
「仕方ないとしか、言いようがありませんわ。兄妹水入らずの再会に、わたくしたちが水を差すべきではありませんもの。きっと今は……二人だけで向き合うべき時ですわ」
警策はしばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと苦笑した。
「アンタ、そういうところ甘いよねぇ」
「自覚しておりますわ」
時ヶ谷はどこか自嘲気味に、小さく笑った。
(……まあ、私も人のこと言えないケドね)
警策の視線が、ふと周囲へ向けられた。
砕けた車両の陰。砕けたガードレールのそば。そこには、気絶した武装集団の男達が何人も転がっている。
誰一人、死んではいない。
――本来なら、銀髪少女との戦闘が始まった瞬間、初手から金属矢の雨を降らせ、そのまま人形の群れで制圧することもできた。
しかしそれだと、巻き込まれた武装集団の連中は、まず間違いなく死んでいた。
一年前の自分なら、きっとそうしていただろう。
けれど今は違う。無闇に命を奪うことに、どこか抵抗を覚えている自分がいた。
甘くなった、と言われれば否定はできない。
暗部としては、失格なのかもしれない。
それでも。
警策は静かに空を見上げる。
――この『甘さ』は、きっと弱さなんかじゃない。
今の彼女は、そんな風に思っていた。
◇
場所は、あの高層ビルの屋上へ戻る。
バーン!といきなり屋上の扉が勢いよく開け放たれた。
「――う、動くな! 動いたら撃つぞ! ……って、あれ?」
拳銃を構えた金髪の少年――花村樹人が、拍子抜けしたような声を漏らした。
それも無理はない。殺気に満ちた戦闘現場を想像していた彼の視界に映ったのは、たった一人だけだったのだから。
「海藤先輩!」
花村は慌てて駆け出す。
コンクリートの床に仰向けで倒れていた海藤高成の元へ滑り込むように膝をついた。
「……お前、なんでここが分かった」
海藤は顔をしかめたまま、低く呟く。
「えっとー、禍棲ちゃんと別れた後、蒼石先輩が『海藤先輩ヤバいかも』って急に言い出して! それでこの場所教えてもらって、急いで増援に来たんですけど……って、そんなことより大丈夫なんですか!?」
「問題ねぇよ……」
悪態混じりに吐き捨てながら、海藤はゆっくりと身体を起こす。
全身が軋むように痛んだ。
だが、それ以上に胸の奥が重い。
勝負になるはずないことなど、最初から分かっていた。
自分は、所詮半人前だ。
対して、妹の織歌は違う。あいつには『才能』があった。
息を殺す技術。間合いを読む感覚。気配そのものを溶かすような隠密スキル。
一流の忍びになるために必要なものを、織歌は最初から持っていた。
能力の有無など、もはや関係ない。
海藤高成に、最初から勝機など存在していなかったのだ。
ゆっくりと、彼は拳を握る。
脳裏に、あの瞬間が焼き付いて離れない。
最後に見た妹の顔。その瞳には、どこか悲しげな色が滲んでいた。
『……悪い、兄貴』
不意に、別れ際の声が蘇る。
『私には、まだやるべきことがおる』
それだけを言い残し、織歌はビルの縁から躊躇なく身を躍らせた。
長いマフラーが風に翻る。
直後、吹き上がった気流がその身体を包み込み、少女はどこかへ消え去った。
「……織歌」
遠くを見つめたまま、海藤はか細い声でその名を呟いた。
その瞬間、ポケットの中でスマホが震え、現実に引き戻される。
海藤はすぐにそれを取り出し、通話ボタンを押した。
「どうした、蒼石?」
短く問う。
受話口の向こうの声を聞いた瞬間、海藤の表情がわずかに変わった。
「……そうか。わかった」
通話を切る。
「蒼石先輩はなんて?」
花村の問いに、海藤はわずかに目を細める。
「……追跡用の小型ドローンが、あいつに気づかれて破壊されたらしい」
声の奥に、かすかな苛立ちが滲む。
せっかく掴みかけた手がかりが、また手の中からすり抜けた。
(それでも俺は諦めたりしねぇ。織歌……お前は俺の家族だ。お前がどれだけ深い『闇』に浸かっていようが、俺が必ず――引っ張り出してやる!)
◇
第十八学区の大通りで、救急車のサイレンが断続的に鳴り響いていた。
その音だけが、妙に遠く感じられる。
救急車の後部。
四人の少女は、並ぶように静かに座っていた。
警策看取。弓箭猟虎。時ヶ谷凛音。納夢禍棲。
彼女たちは皆、どこか項垂れるように視線を落としている。
揺れる車内の中央に、ストレッチャーに固定されたまま、巌根泰造の遺体が横たわっていた。
白いシーツは顔までかけられ、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
車体の揺れに合わせて、その影だけが静かに呼吸しているように見えた。
「……申し訳ございません」
最初に沈黙を破ったのは、弓箭猟虎だった。
視線は落ちたまま、拳が膝の上で固く握られている。
「わたくしが、もっと注意していれば……こんなことには……」
「弓箭ちゃんのせいじゃないわ」
即座に返したのは、隣に座る警策看取だった。
その声は淡々としている。
そして次の瞬間、彼女は何でもないように、ストレッチャーへ視線を向けた。
「――[[emphasismark:もう起きていいよ > ﹅]]」
誰かが理解するより早く。
シーツの下で、わずかに指が動いた。
次の瞬間、勢いよく上半身が持ち上がる。
「なっ!?」
弓箭猟虎は思わず声を上げる。
目の前の現実が理解できず、何度も瞬きを繰り返した。
だが見間違いではない。
そこにいるのは、紛れもなく巌根泰造本人だった。
「ど、どどどどどういうことですか!? あの時確かに頭を撃ち抜かれたはずなんですけど!?」
「あら、単なる『[[emphasismark:見間違い > ﹅]]』じゃない?」
「そんなはずが……」
言葉が途中で途切れる。
弓箭はゆっくりと視線を巌根へ戻した。
そして、違和感に気づく。
――傷がない。
吹き矢で貫かれたはずの頭部に、痕跡すら残っていない。
「ただの『誤認』ですよ」
淡々と口を開いたのは、納夢禍棲だった。
「『
弓箭の脳裏に、先ほどショッピングモールで納夢の言っていたことが蘇る。
――四方から同時に詰められると、『偽装』がバレる恐れがありましたから。まあ、なので最初から一本道の動線になるように、意図的に場所を誘導していましたが。
そこでようやく理解が繋がった。
能力の発動条件が「目を合わせること」だとすれば、四方から囲めば視線は分散する。
逆に一直線に誘導すれば、視線は常に同じ方向に固定される。
「――となると、喫茶エーデルワイスを訪れた一般客が、二度と店に辿り着けないのも……」
「ええ、私が『お店までの道順そのものを誤認させた』からです」
納夢は小さく頷いて、
「うちのお店は元々『暗部』向けですが、たまに一般人のお客様が迷い込むことがありますので。店長は、そういった方々を危険に巻き込まないように、私にそういうことをさせていました」
「なるほど、そういうことでしたか……ということは、敵のスナイパーとは既に接触していたのですか?」
この能力の性質上、『誤認』を成立させるには一度は視線を交わしているはずだ。
「はい。その時に、一度だけ『誤認』をかけました」
弓箭は知る由がないが、花村と共にビラ配りしていたあの時点で、納夢は既に白いセーラー服の少女と『目が合った』のだ。
その一瞬で、すべての前提は書き換えられる。
「ですので、実際に巌根さんが撃たれたのは頭部ではなく、腕部です」
そこへ、時ヶ谷凛音が静かに言葉を重ねた。
「そして、その損傷もわたくしの能力で回復速度を早めれば、すぐ治りますわ」
弓箭は一瞬、言葉を失う。
つまるところ、巌根の『死』は最初からただの茶番だった。
しかも自分だけが、その事実を知らされていなかった。
「ソモソモ、巌根が『喫茶エーデルワイスに依頼してきた』って話自体、最初から嘘よ」
「えっ!?」
「昨夜の時点で、時ヶ谷がすでに彼を確保してたの。その上で話を詰めて、今回の作戦に組み込んだってワケ」
時ヶ谷が静かに補足する。
「追手から逃れるには、『死んだことにする』のが最も確実ですから」
そして一拍置いて、言葉を重ねた。
「それに、巌根さんを囮にしたのは敵を引きずり出すためだけではありません。その間に、ご家族の方々を別ルートから学園都市から脱出させるための時間稼ぎでもありました」
弓箭はしばらく呆気に取られたまま、やがて小さく唇を尖らせた。
「……事前に教えていくれてもよかったのに」
どこか拗ねたような声音だった。不満がないわけではない。自分だけが蚊帳の外に置かれていたような気分にもなる。
だが同時に、あの状況でここまで綿密に情報を隠し通していたことに、内心では舌を巻いてもいた。
警策はそんな彼女を慰めるように、
「この作戦を立てた時点では、元々は私たち三人で完結させる予定だったのよ。そこへ急に弓箭ちゃんが割り込んできた形になったからね。どれくらいやれるのか、見極める必要もあったわけ」
さらりと言う。
まるで試験官の講評みたいな口ぶりに、弓箭は思わず眉をひそめた。
「……随分と信用がないんですね」
「逆よ。信用していなかったら、最初から作戦に組み込まない。それに――」
そこで彼女は小さく笑って、
「敵を欺くには、まず味方からって言うでしょ?」
冗談めかした口調だが、その裏にあるのは単なる悪ふざけではない。
仲間すら騙しきるほど徹底していたからこそ、敵も完全に騙されたのだ。
弓箭は小さくため息をつく。
少し悔しい。けれど同時に、どこか納得してしまっている自分もいた。
「……それで、その『テスト』の結果はいかがでしたか?」
弓箭はじっと警策を見据えた。
声音こそ平静を装っているものの、その奥には微かな棘が混じっている。
「わたくしを試したからには、当然、納得のいく評価をしてくださいますよね?」
本当なら言いたいことは色々あったが、とりあえずそれだけを問いかけた。
――自分は、『使える』と判断されたのか。
警策はそんな弓箭の視線を受けながら、ふむ、と小さく顎に手を当てる。
わざと考え込むような仕草で、彼女は言う。
「そうだねぇ……」
間延びした声。その態度に、弓箭の眉がぴくりと動く。
すると警策は、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ま、一応合格かな」
「『一応』って何ですか、『一応』って!?」
弓箭猟虎は思わず身を乗り出して抗議する。
予想以上に感情を露わにした弓箭の反応が、少し面白かったのだろう。
「ごめごめ、ちゃんと謝るから機嫌を直してよ」
警策はくつくつと喉を鳴らしながら、どこか子供をあやすような口調で言う。
弓箭はむっとして顔を背けた。
「別に拗ねていません」
「その顔で言われても説得力ないんだけど」
「……拗ねてません」
さらに不機嫌そうに言い直す。
そのやり取りを見て、時ヶ谷凛音が小さく吹き出した。
納夢禍棲も相変わらず無表情ではあったが、どことなく車内の空気が和らいでいる。
弓箭はそっぽを向いたまま、小さく息を吐く。
その横顔からは、先ほどまでの張り詰めた陰りが少しだけ薄れていた。
「――あの四人、これから良いチームになれそうだ。そう思わないか?」
低く太い声が、救急車の運転席から響いた。
ハンドルを握っているのは、救急隊員の制服に身を包んだ黒人の大男――ディルバー。
助手席では、金髪を後ろへ撫でつけた男――カイツ=ノックレーベンが静かに窓の外を眺めていた。
問いかけを受け、彼はゆっくりと肩越しに後部座席へ視線を向ける。
そこでは、先ほどまで重苦しい空気に沈んでいた少女たちが、ようやく少しだけ肩の力を抜いていた。
弓箭が警策に食って掛かり。
警策がそれを面白がるように茶化し。
時ヶ谷が小さく苦笑し。
納夢が相変わらず無表情のまま、その様子を静かに眺めている。
不器用ながらも、どこか噛み合い始めている空気があった。
カイツはわずかに口元を緩める。
「……彼女たちを見ていると、なんだか昔の私たちを思い出しますネ」
「ハッ、懐かしいこと言うじゃねぇか」
ディルバーは片手でハンドルを回しながら笑った。
「俺らなんて最初は酷いもんだったよな。連携なんざバラバラ、性格も噛み合わねぇ。顔を合わせるたびに揉めてた」
「半分くらいはディルバーが悪かったと思いますガ」
「半分で済むのかよ」
呆れたように返しながらも、その声音にはどこか楽しげな響きが混じっていた。
ディルバーはバックミラー越しに、後部座席を見やった。
ほんの少し前まで、死線のど真ん中にいた少女たち。
それでもこうして、また前を向こうとしている。
その姿が、妙に眩しく見えた。
まるで、かつての自分たちを見ているように。
未だに警策と弓箭が言い合っている傍らで。
時ヶ谷凛音は、ふと誰かの視線を感じ取った。
静かにそちらへ目を向ける。
ストレッチャーの上に身体を起こしていた巌根泰造が、こちらを見ていた。
先ほどまで死人扱いされていた男とは思えないほど、その目は穏やかだった。
しばしの沈黙。
やがて彼は、ぽつりと口を開く。
「……君には、どう感謝すればいいんだろう」
その声音には、心の底からの実感が滲んでいた。
時ヶ谷は静かに首を横へ振った。
「礼には及びませんわ」
穏やかな口調だった。
「わたくしたちも、わたくしたちなりの目的で貴方を利用していたに過ぎませんもの」
今回の作戦において、巌根泰造は重要な駒だった。
だから助けた。それだけだ――と、彼女は言外に示していた。
しかし巌根は、小さく笑った。
「……それでも、だよ」
どこか肩の力が抜けたような笑みだった。
「俺の家族を助けてくれた。それに……俺に、贖罪のチャンスまでくれた」
時ヶ谷はその言葉を受け、わずかに目を細める。
「あら、少しは罪悪感が軽くなりましたかしら?」
「どうだろうな……」
巌根は自嘲気味に呟いた。
その声には、後悔が滲んでいた。
自分が過去に犯した罪。
それらはきっと、死ぬまで消えない。
「……一つ、聞いてもいいか?」
「何かしら?」
「君は……俺のことを恨んでいないのか?」
時ヶ谷の瞳が、わずかに揺れた。
巌根は続ける。
「俺のせいで、君は大切なものを――」
「まったく恨んでいない、と申し上げたら嘘になりますわ」
遮るように、時ヶ谷は静かに答えた。
その声に感情的な棘はなかった。
むしろ、驚くほど落ち着いていた。
「人は誰しも、間違いを犯します」
救急車の揺れの中、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ですが、その罪を一生『弱み』として握られ続けるのも、違うとわたくしは思いますの」
視線を落とし、静かに続ける。
「罪を抱え続けること。何度も噛み砕いて、自分の中へ刻み込み、二度と同じ過ちを繰り返さないよう己を律すること――それ自体が、贖罪なのではないかと」
それは、巌根へ向けた言葉であり。
同時に、彼女自身へ向けた言葉でもあった。
時ヶ谷凛音もまた、過去に消せない罪を抱えて生きているのだから。
「……君の恩義に見合う見返りになるかは分からないが」
そう前置きしてから、巌根泰造はゆっくりと口を開いた。
そして、時ヶ谷へ小さく手招きする。
その仕草に、時ヶ谷はわずかに眉を寄せた。
「……?」
他人に聞かれたくない話なのだろう。
そう判断した時ヶ谷は、静かに身体を寄せた。
すると巌根は、まるで内緒話でもするように彼女の耳元へ口を近づける。
救急車のサイレンに紛れるほど小さな声で、彼は囁いた。
「取引の際に、『奴ら』が要求していたのは……『
「――っ」
その瞬間、時ヶ谷の瞳がわずかに見開かれた。
今まで穏やかだった車内の空気が、一瞬で張り詰めた。
彼女たちはこれまで、敵の狙いは『
だが、もし巌根の言葉が本当なら。
話はそこまで単純ではなくなる。
時ヶ谷は声を潜めたまま問い返す。
「……では、他に何が?」
「それが――」
巌根はすぐには答えなかった。
わずかに目を伏せる。
まるで、その情報を口にすること自体を躊躇うように。
そして数秒後、彼は静かに告げた。
「――君の能力。『
その言葉を聞いた瞬間。
時ヶ谷凛音の表情から、わずかに色が消えた。