北見遥は黒いジャケットのポケットの中で、小さく拳を握りしめていた。濡れた布地が皮膚に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。しかしそれ以上に彼女の神経を麻痺させていたのは、目の前で古びたパイプ椅子に浅く腰掛ける少年の言葉だった。
「……君。保護者はいるのかい」
喉の奥が削れるような声だった。北見あえて検事特有の無機質な響きを重ねた。長年、法廷で相手の嘘を炙り出すために磨き上げてきた、刺すような声調だ。
「保護者……っていうか、学校の先生ならいる。五条先生って人なんだけど。今は、ちょっと大変なことになってて、ここにはいない」
虎杖悠仁は視線を落とし、頭の後ろで雑に手を組んだ。泥と返り血で固まった朱色のフードが、首元で痛々しく歪んでいる。
「あとは高専の仲間とか。みんな俺を助けようとしてくれたり、一緒に戦ってくれたりしてる。だから、みんなが悪いわけじゃねえんだ。俺が自分で決めたことだから」
『自分で決めた』。
その言葉の背後に横たわる闇を、北見は瞬時に見抜いていた。長年、法という名の巨大な解剖室で真実を切り刻んできた彼女の頭脳が、違和感の正体を解き明かしていく。
身内を亡くし、唯一の拠り所を失った子ども。その素直な善性と圧倒的な強さに目をつけ、呪いという名の兵器を喰わせる。「高等専門学校」などという公的な教育機関の看板を掲げておきながら、実際は守る気などサラサラなく、保護者たる大人が不在のまま、単独で最前線へ放り出す。手続きの正当性などどこにもない。そこにあるのは未成年を消耗品として使い潰す、都合のいい免罪符だけだ。
(……虐待なんて生ぬるい。大人が作った仕組み全体で、この子を都合よく使い潰そうとしてるんだ)
北見はかつてのニューヨークの法廷を思い出した。
13歳。自分が大人たちの不都合な真実を覆い隠すための『天才検事』という便利な道具に仕立て上げられたあの頃。そして検事になって数年目、組織のメンツを守るために完璧な嘘を組み上げ、無実の少年を少年院の冷たい鉄格子へと叩き落としたあの日の公判。
あの日判決を聞いた少年は泣き叫び、彼女を血も涙もない化け物と呼んだ。目の前の虎杖はかつて大人都合で自我を砕かれた自分自身であり、そして自らの手で真実を殺して奪い去った、あの名もなき少年の影そのものだった。北見の口の中に、胃液の混ざった苦い唾液がじわりと広がった。北見の横で日車寛見が小さく息を吸い込んだ。その胸の奥から響く微かな衣擦れの音だけで、彼がどのような感情の淵に立っているかを北見は理解できた。日車はズボンの生地の上で、爪が食い込むほど強く拳を握りしめている。彼の潔癖な正義感が猛烈な火花を散らしていた。
日車の脳裏にもまた、かつて自分が弁護してきた多くの弱者たちの顔が奔流となって駆け巡っていた。社会の構造的欠陥に押し潰され、声を上げる術すら知らず、すべての責任を自分一人で抱え込んで罪人となっていった人々。日本の司法システムはそうした弱者を救うどころか、効率的な処理のために彼らの声を押し殺してきた。そして今目の前にいるこの少年もまた、呪術界という巨大で理不尽なシステムによって、自らの存在価値を完全に解体されている。
「学校、そして先生、か」
日車が重い口を開いた。彼の声は地を膝から揺らすほど低く、だが冷徹な法理の刃を孕んでいた。
「育成機関を名乗りながら、未成年者に死線を行き来させ、その管理責任を『自己責任』という曖昧な概念で覆い隠す。手続きの正当性などどこにもない。安全配慮義務の著しい違反、法的には明確な『保護責任者遺棄』および『未成年者乱用』に該当する」
日車はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。水を含んで重くなった黒いスーツが、彼の肩幅を一層大きく、そして悲壮に見せる。
「……虎杖くん。君の意思は尊重する。だが君をそのような思考に追い詰め、自らの生命の価値を他者の天秤にかけるように強いた環境は、明確に『不当』だ」
日車は少年の前に一歩を踏み出し、その不器用な腕を、宙で一瞬だけ迷わせてから下ろした。少年との間の空間を埋めるように、断固とした拒絶の姿勢を示す。
「自らの選択だったとしても、君を正しく導くべきだった大人たちの責任は決して免罪されない。君が独りでその十字架を背負う必要など、どこを探しても存在しないんだ」
「……っ」
虎杖の喉から掠れた呼吸が漏れた。
『お前は人を殺したんだ』
『お前が生きているから、あの街は地獄になったんだ』
渋谷の惨劇の後、脳内で、胸の奥で、幾度となく反芻されてきた悪魔の声。両面宿儺が自分の肉体を奪い、放った解と捌。一瞬にして灰燼に帰した渋谷の街並み。血の海の中に沈んでいた無数の人々の体温。ガラスが割れるような音を立てて砕けていった、七海の最期。釘崎の倒れる姿。
あの地獄を経験して以来、虎杖にとって生きることそのものが罰であり償いに他ならない。自分はただの呪術というシステムの部品であり、宿儺を道連れにして死ぬための道具でなければならなかった。自分が苦しみ、惨めになればなるほど、死んでいった者たちへのわずかな言い訳になる。そうでなければ、息を吸うことすら許されないはずだった。
なのに——なぜ、この大人たちはそんな顔をするのだ。
怒りと痛ましさと、あまりにも過保護な慈しみに満ちた瞳で、自分を見つめるのだ。
「俺……でも、俺が指を喰わなきゃ、誰も死なずに——」
吐き出しそうになった痛切な罪悪感を、遮る声があった。
「その考え方自体が、君を追い詰めるために植えつけられた罠だよ」
北見が割り込んだ。彼女はポケットから濡れて半ば押し潰されたポッキーの箱を取り出し、最後の一本を口にくわえた。パキリと乾いた音を立ててそれを噛み砕く。脳内に糖分が染み渡ると同時に、彼女の瞳から惑いが消えた。
「よし、決まりだ」
北見はどこか突き抜けた笑みを浮かべた。自嘲を通り越し、世界そのものを茶化すような、彼女特有の仮面。
「虎杖くん。今日から君の親代わりは、私と日車くんだ。文句は受け付けないよ」
「……は?」
虎杖の頭が追いつかない。目の前の二人が何を言い出しているのか、脳が理解を拒絶していた。パイプ椅子の脚がガタリと不快な音を立てて軋む。
「北見、君は何を……」
「子どもがやらかしたことの責任は、親が引き受けるものでしょう?」
北見は日車の抗議を鋭い視線で制し、虎杖の目の前にかがみ込んだ。膝を折り視線の高さを少年と合わせる。そこには検事としての冷徹な顔も、自分を化け物とあきらめる退廃的な顔もなかった。ただの泥と傷に塗れた大人の顔があった。
「一人で背負うには重すぎるって、さっき日車くんも言ったじゃない。だったら、この子の背負ってるものを、私たちで半分ずつ分けてもらったっていいでしょう?」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってくれよアンタら!」
虎杖はパイプ椅子ごと後退りし、両手を激しく振りかざした。パニックに近い衝動が胸を突き上げる。頭の奥で、自分の中の警報がけたたましく鳴り響いていた。
受け入れてはいけない。甘えてはいけない。
この人たちは優しい。優しすぎる。こんなまともな大人たちを、自分の呪いに巻き込むわけにはいかない。あいつが……宿儺が目覚めれば、この優しさだって一瞬で赤黒い肉塊に変えられてしまうのだ。
「俺、もう十五だぜ!?高校生だぞ!?それに……俺はただの宿儺の器だ!いつまたあいつが暴れ出して、周りの奴らを切り刻むかも分かんねえんだ!……俺と一緒にいたら、アンタらだってどうなるか……!損するだけだ、そんなの……っ!」
『道具』。
その単語が空間に落ちた瞬間、空気の密度がガラリと変わった。
「虎杖くん」
日車の一歩は静かだったが、劇場の床板を鳴らす決定的な重みを持っていた。
「法において、人間が『道具』や『客体』として扱われることは絶対に許されない」
日車の瞳の奥で、かつて法廷で燃え上がらせていた青臭い灯火が不気味なほど鮮やかに揺らめいた。
「近代法の根本はすべての人間が権利の主体であるという不可侵の原則にある。君の中に何が潜んでいようと、他者のために苦しみ、涙を流せる一人の『人間』である事実は、何者にも否定できない。君をモノとして消費するこの死滅回遊が、あるいは呪術界というシステムが間違っているなら、我々がその解釈を根底から覆す。……損得という安直な言葉で、我々の意思を値踏みしないでほしい」
日車の言葉には一切の揺らぎがなかった。自らの手で人を殺め、一度は捨て去った弁護士としての魂が、目の前の少年を前にして再び血を吐きながら立ち上がった証だった。北見もまた静かな気迫を湛えた瞳で虎杖を見つめた。
「そうだよ。この頭の固い天才弁護士と、いかがわしい元検事が、君に向けられた理不尽を全部突っぱねてあげる。文句はあるかい?」
「文句、なんて……っ」
そう問われた虎杖はもう言葉を返すことができなかった。喉の奥が焼けるように熱い。視界が急速に歪んでいく。
おかしいじゃないか。俺は、たくさん人を殺して、報いを受けるべきなのに。だからこそ裁判でも自首をした。
それなのに。
彼らが差し出してきたのは理不尽な世界から自分を護るための盾だった。自分を害悪として排除するのではなく、ただの傷ついた子どもとして抱え直そうとする大人たちの理屈。
(……俺は、許されていいわけねえんだよ)
胸の奥で固く冷たく冷え固まっていた罪悪感の塊が、大人たちの放つ歪で真っ直ぐな温もりに晒されて音を立てて崩壊していく。自分を「殺してくれ」と叫びたかった心の一部が、その温もりに縋り付きたいと悲鳴を上げていた。
その二つの感情が激しくぶつかり合い、虎杖の全身を酷く震わせた。彼は泥に汚れた拳を固く握りしめ、溢れそうになる涙を必死に噛み殺しながら、俯くことしかできなかった。
「……ところで、虎杖くん」
北見がふっと肩の力を抜き、いつもの冷ややかな表情に戻って尋ねた。
「君はなぜ100点が欲しかったんだい?」
「あ!そう……だ……っ」
虎杖はハッとして拳で強引に目元を拭うと、掠れた声を振り絞って立ち上がった。呼吸を整えようと肩を揺らす。
「『プレイヤー間でポイントを譲渡できるルール』を追加したいんだよ!伏黒……仲間の義理の姉ちゃんを救うためにさ!」
二人は顔を見合わせた。日車の手元にある「102ポイント」。北見の口元に、微かな自嘲の笑みが浮かぶ。
「……奇遇だな」
日車が手帳を消し、静かに頷いた。
「我々が100点を貯めた目的も、第一にその『ポイント譲渡』のルール追加だった。交渉による解体の糸口を作るためにな」
日車は即座に空中に向かって呼びかけた。
「コガネ」
空間が歪み羽虫のような式神が姿を現す。
「はいはい!なーに日車くん!ルール追加のご注文かい?」
「総則の追加を要求する。プレイヤーは、自身の持つポイントを他のプレイヤーに譲渡することができるものとする」
「了解!100ポイントを消費して、新ルールを追加するよ!」
コガネの声と共に、100ポイントが消費され、死滅回遊という巨大な殺戮ゲームの盤面に新たな亀裂が刻まれた。これで、他者を殺さずともポイントを分け与えることで、術式剥奪という死を回避する道が完成した。
「よし……これで、第一段階は完了だ」
日車は手元に残された「2ポイント」を見つめた。
2ポイント。
彼が死滅回遊という地に足を踏み入れ、最初に殺めたふたつの命。彼が正義を棄て怪物へと変貌した瞬間の、消えることのない烙印。その数字が暗闇の中で呪わしく彼の手のひらに浮かんでいた。
それを見つめる日車の横顔に、北見は静かに歩み寄った。
「日車くん」
「……何だ、北見」
「その残った2ポイントのうち、私に1ポイントちょうだい」
日車は息を呑んだ。時間が凍りついたように、彼の動きが止まる。
「……北見。君はこの数字の意味が分かっているはずだ。これは、俺の罪だ。俺の身勝手な不満と絶望が生み出した泥だ。それを他人に手渡すことなど——」
「押し付けられるんじゃないよ。もらうんだよ」
北見はいつもの軽薄な仮面を完全に脱ぎ捨てていた。濡れた黒髪の隙間から覗く彼女の瞳は、どこまでも澄み渡り、そしてどこまでも深く日車の魂を射抜いていた。
「君が一人でその泥を呑み込み続けるっていうなら、私にも分けてよ。君の最初の罪の半分を、私にちょうだい。……二人で持てば、少しは軽くなるかもしれないでしょう?」
それは、偽りの勝利で塗りつぶしてきた彼女が、初めて紡いだ本当の願いだった。
彼女もまた大罪人だ。日車と共に人を殺め、真実を捻曲げてきた。もう二度と綺麗な世界へは戻れない。ならば日車寛見という男が抱える最初の一滴の闇を分かち合うことだけが、彼女にとって唯一の救いだった。
(私を、一人にしないでよ)
言葉にならない声が、彼女の佇まいから溢れていた。
日車は静かに自らの拳を開いた。彼の大きな掌には何も乗っていない。しかしそこには確かに奪った命の重みが存在していた。自らの罪を一人で抱え込み自己完結した悲劇の中に閉じこもることは、自分をここまで引きずり戻してくれたこの女に対する、何よりの裏切りなのだと悟った。
「……コガネ」
日車の声は低く、だが確かな足取りのように響いた。
「北見遥に、1ポイントを譲渡する」
「了解!日車寛見から北見遥へ、1ポイント譲渡!」
光が走り、日車の「最初の罪」の半分が、北見へと移ろいでいく。罪が消えたわけではない。刑が免除されたわけでもない。ただその過酷な泥を二人で並んで背負った瞬間、日車の胸の奥で何年間も固く結ばれていた結び目が、解けていくのを彼は感じていた。
ポイントを受け取った北見は、濡れた黒髪をサッとかき上げると、日車の胸元——冷えたスーツの襟ぐりを、骨が痛むほど強く拳で叩いた。
「……よし。これで、同罪だね」
湿った吐息と共に囁かれた言葉。日車は呆然と己の胸元を見つめ、それから可笑しそうに、低く鼻を鳴らした。
「……ああ。参ったな」
北見は満足そうに笑うと、呆然と二人を見つめていた虎杖の元へ歩み寄った。
「さて、虎杖くん。君にも1ポイントずつあげるよ。ルール上、19日以内にポイントが変動しないと死んじゃうからね」
「えっ!あ、いや、でも——」
「コガネ。虎杖悠仁に、1ポイント譲渡」
「私もだ。1ポイント譲渡する」
二人の掲げた指示により、生まれたばかりの新ルールが即座に行使される。二人の体内に残っていた1ポイントが、少年の手元へと刻み込まれた。
「……あ」
手元に表示された「1」という数字を見つめ、虎杖はぽつりと声を漏らした。
「本当にいいのか?1ポイントだって、誰かを倒して手に入れた……大事な点数なんだろ」
「『俺なんて』とか『大事な点数』とか、そういう遠慮は禁止」
北見は虎杖の前に立つと、彼の頭を乱暴にクシャクシャと撫で回した。
「君は罪人じゃない。被害者で、このイカれたゲームを終わらせるための大事な仲間だ。だからゲームが終わるまでは、私たちが守る。文句はあるかい?」
虎杖は自分の手元にある「1」の光をじっと見つめた。
自分を責め立てる罰の欲求と、大人たちが差し伸べてくれた救いの温もり。その間でまだ胸はちぎれそうに痛かったけれど、彼らの強烈な正義感とエゴは、虎杖が抱える絶望の暗闇を確実に塗り替えていた。
「……文句なんか、ねえよ」
虎杖は袖で鼻の頭を乱暴に擦り、こぼれ落ちそうだった感情を押し殺して笑った。
「ありがとな。おっちゃん、お姉さん」
「お姉さん、ね。まあよしとしようか」
北見は可笑しそうに笑い、日車と視線を交わした。日車もまた、スーツの乱れを静かに整えながら、深く頷いた。
「まずは君の仲間……伏黒くんたちとの合流を目指そう。そして次の100点で、さらにこのゲームを安全な方向へ改変する」
「おう!」
劇場を支配していた死の冷気は、いつしか消え去っていた。かつて法廷で戦い、絶望し、一度はすべてを棄てた二人の大人。そして過酷な運命に押し潰されかけていた一人の少年。
奇妙な巡り合わせで結ばれた彼らは、互いの罪と命を分かち合う家族として、暗闇の先へと歩み出した。