見知らぬ子どもの体。見知らぬ部屋。そして目の前で死んでいく護衛。
ここがどこかは、すぐにわかった。カキン帝国。王位継承戦。第十二王子モモゼ。
問題は、この王子が原作で死ぬことを、自分が知っていることだった。
武器も、念も、味方も持たない。あるのは三十九年分の頭と、自分でも意味のわからない守護霊獣だけ。
弱いまま、死なない理由を探す話。
喉に、指があった。
四本の指が気管を塞ぐように巻かれ、背中が壁に押しつけられ、足が床から浮いていた。視界の端から暗さが滲み出てきて、思考が奇妙なほどクリアになっていた。死ぬとき人間の脳はこういう動き方をするのだと、どこか遠いところで考えた。恐怖というより、確認だった。二度目の死の、静かな確認だった。
男の顔が目の前にあった。三十代か四十代か、そのあたりだった。顔の造作は整っていた。濃紺の正装に近い服を着ていた。その顔に感情というものが存在しなかった。怒りも、嫌悪も、躊躇いさえもなかった。仕事をしている顔だった。依頼された仕事を正確にこなしている、それだけの顔だった。授業中に問題を解く生徒の顔に似ていた。没入している顔。自分がやっていることの意味を考えていない顔。その類似に気づいた瞬間、わたしは奇妙な怒りを感じた。
恐怖より先に、怒りが来た。
しかしその怒りを行使できる体が、今のわたしにはなかった。
右手で男の前腕を叩いた。叩いた瞬間、何かがおかしいと感じた。腕の軌道が、思っていたより短かった。インパクトの位置が、想定より低かった。三十九年間使い続けてきた体の感覚と、実際に動いた体の感覚が、決定的にずれていた。床から足が浮いているのに、その高さが低すぎた。視界が低すぎた。男の顔が、近すぎた。
自分の手を見た。
白くて小さかった。指が短かった。爪が丁寧に整えられていた。三十九年間、自分のものだと思っていた手とは、何もかもが違った。これはわたしの手ではない、と思った。しかし動かそうとしたら動いた。叩こうとしたら叩いた。まるで効かなかったが、動いた。自分の意思通りに、知らない手が動いた。
その事実が、恐怖より奇妙だった。
気管が潰れる感触があった。思考が、それでもまだ動いていた。目が覚めた瞬間から数えて三分も経っていなかった。三分で状況を把握し、三分で死にかけていた。鏡の中に見知らぬ子どもの顔があった。黒い髪、細い首、絹の夜着。その手がわたしの意思通りに動いた。それだけで全部わかった。カキン帝国。王位継承戦。第十二王子、モモゼ。わかりたくなかったが、わかった。そしてこの子が死ぬことを、漫画の読者として知っていた。継承戦の序盤で暗殺される第十二王子モモゼ。その通りのことが、今まさに進行していた。
指に力が込められた。
意識の輪郭が、本格的に溶け始めた。
国語の授業で扱った話を思い出した。極限状態に置かれた人間の脳は走馬灯を見るという話。走馬灯は来なかった。代わりに来たのは、この状況の構造的な分析だった。三十九年間のうち七年を言葉と物語の構造に費やした人間の、どうしようもない職業病だった。物語には必ず転換点がある。転換点の前には、必ず何かの予兆がある。今この状況に転換点があるとすれば、それはどこか。
そのとき、男の動きが変わった。
止まったのではなかった。極端に、遅くなった。水中に沈んだもののように、男の全身の動作が緩慢になった。伸びてくる力が弱くなったわけではなかった。男の体そのものが、時間の流れから切り離されたように動いていた。一秒が、引き伸ばされていた。男の顔に初めて表情が走った。困惑だった。自分の体に何が起きているか理解できない、という顔だった。その困惑は本物だった。演技ではなかった。教師として七年間、嘘をついている生徒の顔を見続けてきた。あの顔は嘘ではなかった。男はこの現象を意図していなかった。
指の締め付けが、わずかに緩んだ。
空気が、少しだけ戻ってきた。
三秒あった。わたしはその三秒で何ができるかを考えた。この体で男を物理的に排除することはできない。武器もない。逃げ場もない。窓の向こうは海で、飛び降りれば死ぬ高さだった。残っている選択肢は一つだった。叫ぶことだった。廊下に護衛がいるかどうかわからなかった。いたとして間に合うかどうかもわからなかった。しかしゼロではなかった。ゼロでない可能性に賭けることが、今できる唯一の合理的な判断だった。
叫んだ。
声が出た瞬間、全身が粟立った。
高かった。細かった。透き通っていた。三十九年間、風呂場でも怒鳴ったことがあり、笑い転げたこともあり、泣いたこともあった。しかしこの声は、それら全部と何もかもが違った。自分の声帯から出ているのに、自分の声として認識できなかった。他人の声が、自分の体の内側から響いてくる感覚だった。その奇妙さに、一瞬だけ叫ぶことを忘れた。一瞬だけ。それでも叫び続けた。生きるためなら何でも構わなかった。
廊下から足音が来た。複数の、速い足音が。
男が判断した。一瞬だった。手を離し、二歩動き、廊下の暗がりに消えた。足音がなかった。気配ごと消えた。訓練された人間の消え方ではなかった。念能力者の消え方だった。
わたしは床にへたり込んだ。
床が、近かった。
当たり前のことだったが、その当たり前が奇妙だった。へたり込んだときの床との距離が、体の記憶より圧倒的に近かった。膝が折れて尻が床につくまでの時間が、短すぎた。視界の高さが変わった。絨毯の繊維が、顔の真横にあった。深紅の絨毯の繊維が、異様に大きく見えた。三十九年間の体の記憶が、今の体の現実と、一致しなかった。
喉が燃えるように痛かった。呼吸が戻ってくるのに数秒かかった。その数秒の間、ただ床の絨毯の深紅を見ていた。深紅の絨毯と、その上に倒れた護衛の女の体を。首が、あり得ない方向に曲がっていた。人間の筋肉と骨格がそうなるためには、通常の人間の力では足りなかった。念能力で強化された力でなければ、ああはならなかった。ぱきり、という音を目が覚めた直後に聞いた。その音がこれだったのだと、今になってわかった。
護衛の右手が、床に投げ出されていた。
わたしはその手を見た。爪の下に、何かが挟まっていた。繊維だった。暗くて色はわからなかったが、確かにそこにあった。死ぬ直前に何かを引っ掻いていた。男の服か、体かを。男が着ていた濃紺の服の繊維かもしれなかった。証拠として使えるかどうかは、今の段階ではわからなかった。しかしその情報を、わたしは頭に刻んだ。
護衛が三人、駆け込んできた。全員が武装していた。全員が死体を見て顔色を変えた。しかし誰も、死体の手を見なかった。全員が首の折れ方を確認した。それだけだった。
国語の授業で扱う文章に、こういう構造がある。読者が見落とすように書かれた一文が、後から決定的な意味を持つ構造。伏線と呼ばれるものだ。七年間それを教えてきた。今わたしは、その伏線を自分だけが拾っていた。護衛の手を見た人間がこの部屋にわたしだけだという事実を、わたしは静かに記憶した。
わたしは何も言わなかった。
三人の中で誰を信頼できるか、判断する材料がなかった。判断できない相手に情報を渡すことは、情報を捨てることと同じだった。知っているが知らせない。それが今できる唯一の防衛だった。
「お怪我は、モモゼ様」
ひとりが膝をついて顔を覗き込んできた。
その顔との距離が、近かった。
大人の顔が、こんなに大きいものだとは思っていなかった。いや、知っていた。知識としては知っていた。しかし体で知ることと、頭で知ることは違った。膝をついた成人の顔が、目の前に迫ってくる感覚。見上げる角度が、急すぎた。この体で生きてきた七年間、世界はずっとこの高さから見えていたのだと思うと、眩暈に似た感覚があった。
わたしは首を横に振った。
年長の護衛が消えた廊下を確認しに行き、戻ってきて首を横に振った。
「見失いました」
その言葉を、わたしは反芻した。見失いました。主語が曖昧だった。追ったのか。追ったとして、どこまで追ったのか。見失いました、という言葉は追跡したという事実を含意する。しかしその含意は証明できない。言葉として最も情報量が少ない報告の仕方だった。意図的か無意識かはわからなかった。しかし引っかかった。国語教師として七年間、言葉の選び方に人間の意図が滲み出ることを教えてきた。あるいは教えながら、自分自身が最もそれを信じていた。
そのとき、部屋の隅に影があることに気づいた。
人の形をしていたが、人ではなかった。輪郭が定まっていなかった。熱を帯びた空気の向こうにあるもののように、その形は絶えず揺れていた。背丈は人間より高く、腕が長すぎた。顔があるべき場所に、顔がなかった。顔の位置に、天秤があった。金属製の、古い様式の天秤が、ゆっくりと揺れていた。両皿が、空気もないのに揺れていた。護衛たちには見えていなかった。誰もその方向を見なかった。その影に背を向けて立っている護衛もいた。まるでそこに何もないかのように。
守護霊獣だとわかった。念能力者に宿る、その人間の深層心理が生み出す霊的存在。モモゼに宿っていたものが、今はわたしに見えている。なぜ見えているのかはわからなかった。わたしには念の素養などない。あるいはあの三秒間に何かが起きたのか。判断できなかった。ただ、天秤は今ほぼ水平だった。
「モモゼ様、お部屋を移動されるべきかと存じます」
年長の護衛が言った。声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。部下が目の前で死んでいるのに、動揺というものがその声になかった。問題のある生徒が職員室に呼ばれたとき、動揺を隠すために逆に落ち着いた声を出すことがある。その落ち着きに似ていた。何かを隠しているときの、過剰な平静さに。
「移動する」
廊下に出た。護衛が前後を固め、わたしは中央を歩いた。
歩くたびに、足が地面に届くのが早すぎた。
歩幅が短かった。一歩の感覚が、体の記憶と合わなかった。廊下の長さを歩数で測ろうとして、できなかった。この体の歩幅で測った歩数は、三十九年間の体の歩幅で測った歩数と、一致しなかった。燭台の火が等間隔に並び、歩くたびに影が揺れた。その影の中に、見てはいけないものが混じっている気がした。気のせいかもしれなかった。しかしこの状況で気のせいだと切り捨てることは、合理的ではなかった。
廊下の途中、一箇所だけ暗い区画があった。燭台が二本消えていた。年長の護衛が立ち止まった。
「確認してまいります」
護衛が暗がりに踏み込んだ。懐中灯の光が、暗がりの中を動いた。わたしはその光の動き方を見ていた。おかしかった。左右に揺れるだけだった。前進しながら確認するなら、光は弧を描きながら進むはずだった。しかし光は同じ場所で左右に揺れていた。体が動いていなかった。確認していなかった。何かを待っているか、何かに合わせているか、そのどちらかに見えた。授業中に手遊びをしている生徒の動きに似ていた。やるべきことをやっていない動きに。
そのとき、影が廊下のど真ん中に現れた。
天秤が大きく傾いた。左の皿が、深く沈んだ。さっき男の指がわたしの喉を塞いでいたとき、まったく同じ傾き方をしていた。同じ角度で、同じ速さで。
わたしには天秤の意味がまだわからなかった。しかし部屋の中で男に喉を塞がれていたときと、今この瞬間が、天秤にとって同じ意味を持つ状況であるなら。
「待ってください」
護衛たちが振り返った。
「別の道を通ります」
「ですが、この廊下が最短で」
「別の道を通ります」
言葉を繰り返すことが、今できる最も明確な意思表示だった。七歳の女児の声で、三十九歳の男が命令した。声が高すぎて、命令として機能するかどうかわからなかった。しかし言葉の意味を変えなかった。言葉の意味だけが、今のわたしに残っている武器だった。
護衛たちが従った。年長の護衛を呼び戻した。暗がりから戻ってくる年長護衛の顔を、わたしは灯りの中で見た。驚きの奥に、焦りがあった。計算が狂ったという顔だった。その表情は一瞬で消えたが、わたしは見た。七年間、言い訳をする生徒の顔を見続けてきた。隠そうとしている感情が、隠しきれていない瞬間を見続けてきた。あの顔は、その種類の顔だった。
別の廊下を歩き始めた。
七歩目で、後ろから音がした。湿った、重い音だった。人間ほどの重さのものが床に落ちる音だった。誰も振り返らなかった。わたしも振り返らなかった。天秤がゆっくりと水平に戻っていくのを感じながら、ただ歩き続けた。
移動先の部屋は小さかった。窓が少なく、入口がひとつしかなかった。護衛たちが外に立った。部屋の中にわたしひとりが残された。
影はここにもいた。
壁際で輪郭を揺らしながら、天秤を静かに揺らしていた。水平だった。今は、水平だった。わたしはベッドに座り、影を正面から見た。裁く者の形をしていた。量る者の形をしていた。何かを常に秤にかけ続ける存在の形をしていた。それがわたしの守護霊獣だとすれば、わたしの深層心理がこの形を選んだということになる。三十九年間生きてきた人間の無意識が、天秤という形に結晶した。
ベッドに座ったまま、自分の手を見た。
また見た。
さっきも見たが、また見た。白くて小さかった。爪が整えられていた。指の関節が、子どもの関節だった。この手で板書をしても、生徒には見えないだろうと思った。この手でテストを配っても、生徒は笑うだろうと思った。この手でドアを叩いても、音が出ないだろうと思った。三十九年間積み上げてきたものが、この手では何もできなかった。声も、体も、存在の重さも、全部が別のものになっていた。
それでも、頭だけは同じだった。
頭の中身だけは、三十九年分のままだった。
それが今のわたしに残っている、唯一のものだった。
喉の痛みが少しずつ引いていた。思考が、地に足をつけ始めた。
今夜起きたことを、順番に並べた。護衛の女が死んだ。暗殺者が来た。三秒間、何かが起きた。廊下の暗がりで天秤が傾いた。別の道を選んだ。後ろで音がした。それだけが確かなことだった。
爪の下の繊維のことを、また考えた。男の服の色を思い出した。濃紺だった。繊維が濃紺なら一致する。一致したとして、それが誰に対する証拠になるのかは今のわたしにはわからなかった。しかし誰も気づいていない情報をわたしだけが持っているという事実は、状況によっては意味を持つ。捨てる理由はなかった。
年長護衛の顔を何度も思い返した。計算が狂ったという顔だった。部下が死んだことへの動揺ではなかった。何かを予定していて、その予定が狂ったという顔だった。断言はできなかった。しかし保留にしておくには、あまりにも鮮明な表情だった。
天井を見た。眠れなかった。
しばらくして、壁の向こうから声が聞こえた。低い男の声だった。護衛の声ではなかった。短い言葉を繰り返していた。確認しているような、指示を出しているような抑揚だった。内容はほとんど聞き取れなかった。ただ一つだけ、固有名詞が聞き取れた。
それは第七王子の名前だった。モモゼではなかった。継承戦に参加している、第七王子の名前だった。
わたしはその名前を、記憶した。
第七王子と第十二王子の間に、どういう関係があるのか。あるいは関係などなく、たまたま聞こえただけなのか。今のわたしには判断できなかった。しかし聞こえた事実は消えなかった。
声は数分続いて、消えた。波の音だけが残った。
影が揺れた。天秤が、わずかに傾いた。今度は右の皿が沈んだ。左ではなかった。右だった。左が沈んだときには、直後に脅威が来た。廊下の暗がりで、人が死んだ。では右が沈むとき、何が来るのか。わからなかった。わからなかったが、左が沈んだときとは種類が違うことだけは感じた。左は差し迫った死の予感だった。右が沈む今この感覚は、もっと遠く、もっと根が深く、もっと取り除きにくい何かの予感だった。
喉の痛みが、また戻ってきた気がした。
今夜死にかけた。次はいつ来るかわからなかった。暗殺者は一度失敗した。失敗した側がどう動くかを、わたしは読めなかった。読むための情報がなさすぎた。
何が使えるかを考えた。
あの三秒が再び起きるかどうかわからなかった。天秤は何かを感知する。それだけは今夜証明された。しかし読み解く方法を、わたしはまだ持っていなかった。爪の下の繊維。壁越しに聞こえたウーフェイという名前。年長護衛の表情。天秤の傾きと現実の対応関係。それだけだった。しかしゼロよりはましだった。
七年間、物語を教えてきた。
物語には構造がある。どんなに複雑に見える話にも、読み解ける構造がある。そのことを、わたしは信じていた。信じていたし、今も信じるしかなかった。この状況にも構造がある。読み解ける構造が。
ただし物語と違うのは、読み解く時間が無限にあるわけではないことだった。
七歳の体の中で、三十九歳の男が目を開けたまま天井を見続けた。波の音が続いた。影が揺れた。天秤の右の皿が、まだ沈んだままだった。
そしてわたしはまだ、この能力に名前をつけていなかった。
名前をつけることが、何かを確定させる気がした。
確定させることが、何かを終わらせる気がした。
だからまだ、つけなかった。
続かない