U.C.105年、反地球連邦組織「マフティー」はアデレード会議での地球帰還に関する特例法案可決を阻止するため、オーストラリア大陸を南下していた。
メッサー6に搭乗するパイロット、ハーラ・モーリーが属する小隊はその道中、連邦軍のMSによる奇襲を受け壊滅。
メッサー6は爆発とともに地面に墜落していくのであった...
本小説はハーラ・モーリーのその後を妄想した二次創作小説であり、小説、劇場版「閃光のハサウェイ」だけでなく、その前後のシリーズで描かれた史実と矛盾する点が多々あります。
また、その後を描くにあたって世界観の拡張のためにオリジナルキャラクターを登場させています。
苦手な方は閲覧に注意してください。
小説の描写強化のために新カットを加え、劇場版との描写の差異を減らした”完全版”となっています。
※注意※
本作品は「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女」の二次創作小説です。
世界観拡張のためオリジナルキャラクターが登場します。
史実とは異なる点、矛盾する点も含まれます
原作キャラクターの過去や設定に独自の解釈が含まれます。
以上の内容が許せる方のみ、これより先にお進みください
U.C.105年 4月25日 夕方
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠上空
ピロン…ピロン…ピロン…
乾いた電子音がコックピットに反響する。
「高熱源体接近!右後方!120度!」
副操縦士の叫び声が響いた刹那
ギャルセゾンの機体側面を、眩いビームが紙一重で掠めた。
「各機、分散しろ!まとめて堕とされるぞ!」
操縦士ヘンドリクスの怒号と同時に、メッサー6とメッサー7が母機から弾き出されるように飛び立つ。
「いけよ!ヘンドリクス!」
メッサー7のパイロット、ロッドが叫ぶ。
その瞬間、警報がけたたましく鳴り響いた。
振り向いた視界の先――
そこには幾重にも重なり合うミサイルの群れが、黒い点となって迫ってきていた。
「くそっ!」
ロッドは即座にバルカンを掃射する。
弾幕がミサイルの一部を撃ち抜き、爆炎と煙が空を覆う。
だが
煙の奥から現れた“ソレ”に対し、ロッドの反応は一瞬遅れた。
“ソレ”は、まるで水面の魚をさらう猛禽のように、鋭い軌跡を描いてロッド機のすぐ横を通過する。
「ぐうっ……!」
衝撃波が機体を叩く。
速い
音速は、とっくに超えているだろう。
衝撃波によりロッド機の姿勢がわずかに乱れた。
ほんの一瞬、操縦に空白が生まれる。
その瞬間を、“ソレ”は見逃さなかった。
「ロッド……!」
メッサー6のパイロット、ハーラが叫ぶ。
“ソレ”は2機の上空へ急上昇すると、そのまま真下へ鋭く降下を開始した。
一直線の軌道。
ロッドを狙っている。
バシュン バシュン
咄嗟にハーラ機がビームライフルを発射する。
だが
“ソレ”は空中でアルファベットのZを描くような異様な機動を見せ、光線を軽々と回避した。
そして次の瞬間には、すでにハーラ機へと迫っていた。
速すぎる。
その刹那、ハーラの視界から“ソレ”の姿が消えた。
「ハーラ!右だ!」
ロッドの声が無線から飛び込む。
だが
すべては、一瞬だった。
閃光。
“ソレ”から放たれたミサイルが、装備していたはずのシールドを腕ごと吹き飛ばし、機体へと突き刺さった。
コックピットのディスプレイが白く弾ける。
網膜を焼く閃光。
その光を見た瞬間、ハーラの口が無意識に動いた。
「ハサ……」
次の瞬間、衝撃。
体が前面パネルへ叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出された。
ザザッ
「ハーr――」
ガー……
無線は途切れる。
ディスプレイがブラックアウトした。
代わりに、耳を裂くような高音のアラートがコックピットを満たす。
呼吸が乱れる。
胸が締め付けられる。過呼吸だ。
自身の状況は?
機体の状態は?
思考がまとまらない。
頭の中を、警報音が鋭く引き裂く。
次の瞬間
体がふわりと浮いた。
無重力。
目尻から溢れていた涙が、球体となってヘルメットの中を漂う。
この機体は墜落する。
それを理解するのに、時間はかからなかった。
虫食いだらけになったディスプレイには、砂漠の地面が迫ってくる様子が映っている。
それに比例するように、アラートの音は増え続ける。
操縦桿から手を離さなければ。
脱出しなければ。
そう思う。
だが
手が動かない。
筋肉が麻痺しているのか。
それとも、自分の体はすでに爆炎で焼き焦げているのか。
そんな恐怖が、思考を黒く塗りつぶしていく。
怖い。 怖い。 痛い。
感情が、形を持った手のように伸びてきて、顔を覆う。
その恐怖を振り払うように
少女は絶叫した。
「うぅぁぁああああ!」
肺が痙攣する中での絶叫だった。
乾いた空気が喉を切り裂く。
涙が溢れる。
鼻の奥が焼けるように痛む。
だがその叫びに応えるように、手が動いた。
操縦桿の下。
イグニション・ポッドの発火レバーを握る。
力を込めた。
次の瞬間
体に別方向からのGが叩きつけられた。
体がシートへと押し潰される。
作動したっ...!
その安堵を感じる暇すらなく
世界が砕けた。
ハーラの体は、コックピットごと地面へ叩きつけられた。
4月26日 昼
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠南部
民間ゴミ処理施設敷地内
エアーズロックから北西へ約1000km…
体を走る鈍い痛みで、ハーラは目を覚ました。
頭の奥がふわふわと浮いている。
体は動かない。
まるで金縛りだ。
唯一動く目だけを必死に動かし、周囲を見ようとする。
だが、コックピットの中を満たしているのは、
静寂と暗闇だけだった。
ここは現実なのか。
それすら分からない。
頭から足まで包み込むエアバッグの圧迫だけが、ここが現実だと告げている。
ハーラは意識を自分の体へ向けた。
指を一本ずつ動かす。
手。
足。
動く。
震える手でエアバッグをかき分け、立ち上がろうとする。
全身が軋んだ。
関節は、油の切れた機械のようにぎこちなく動く。
暗闇の中、足で地面を探る。
手を前へ突き出し、空間を確かめる。
ハッチの手動レバー。
その位置だけは覚えていた。
見つけるのに時間はかからなかった。
レバーを引く。
ハッチが半分ほど開いた瞬間
光が、目を刺した。
「っ……!」
ハーラは咄嗟に手で目を覆う。
ぼやけた視界が徐々に晴れると同時に、煙が鼻の奥を刺した。
「ゲッホ……!ゲホ……!」
口を押さえる。
そのとき初めて気づいた。
ヘルメットが割れている。
赤子を扱うように慎重にヘルメットを外す。
そしてコックピットから足を出す。
地面の感触を確かめようとした。
だが
足の裏に広がった感触は、土ではなかった。
「ひゃっ……」
思わず足を引き、視線を落とす。
そこにあったのは
ゴミの山だった。
周囲を見渡す。
遠くに、点々と黒煙が立ち上っている。
そして、
数時間前まで自分が駆っていたメッサー6。
それは今、金属の骸となって、ゴミの山に突き刺さっていた。
その光景を見た瞬間
恐怖が、胸の奥から溢れた。
そしてその恐怖さえ飲み込むように、記憶が押し寄せる。
「分散しろ!まとめて堕とされるぞ!」
……ヘンドリクス……
「ハーラ、右だ!」
……ロッド……
胸の奥から何かが質量を持って込み上げる。
ハーラは膝をつき、そのまま嘔吐した。
何もかもが汚らわしく感じた。
ロッドが盾になり、ヘンドリクスが叫び、仲間たちが命を燃やして繋いだ空。
その果てに辿り着いたのが、この薄汚れたゴミの山だというのか。
指先に残る、爆発の微かな振動。
耳の奥で鳴り止まない警報。
仲間たちは今も、熱波と閃光の中で戦っているはずだ。
それなのに、自分はこうして地面の冷たさを感じ、肺いっぱいに酸素を吸い込んでいる。
生きているという実感が、鋭いナイフとなって心臓を刻む。
どうして、私だけが、こんなに静かな場所にいるの?
吐き出した唾液に混じる鉄の味は、機体の焼ける匂いと、死んでいった者たちの無念の味に似ていた。
ロッドとヘンドリクスは無事、ヘソポイントへ辿り着けただろうか。
イラムは。シベットは。エメラルダは。
ハサウェイ...
彼女が慕う人々の顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
そのとき、頬を涙が伝っていた。
疑問。
恐怖。
そして、何もできない自分への無力感。
そのすべてを抱えたまま、空っぽの少女はゴミの山の上で泣き続けた。
U.C.105年 4月26日 昼
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
民間ゴミ処理施設敷地内
エアーズロックから北西へ1000km…
「それで、お偉いさん方はなんて言ってるんだ?」
金属板の通路を歩きながら、初老の男が吐き捨てた。
「施設から出る煙が健康を損なうから減らせって……」
隣の中年男が肩をすくめる。
「ったく……!」
初老の男は足元の空き缶を蹴り飛ばした。
乾いた金属音が鳴る。
「誰のおかげで生活できてると思ってんだ……あの馬鹿どもは!」
缶は二度跳ね、ゴミの斜面を転がり落ちた。
やがて廃棄物の山に呑み込まれて見えなくなる。
男の言う「馬鹿ども」とは、ここから南にある街
ノーザンテルファーの政府高官たちだ。
旧世紀、この街は金鉱で栄えた。
だが宇宙世紀の今、
金を掘った人間は追い出され、
特権階級の人間だけが残っている。
「あいつらはな……」
男は吐き出す。
「見えない人間の手で今の生活があることを、分かっておらんのだ……」
「だったら街まで行って叫べばいいじゃないか」
中年男が頭をかく。
「何ぃ?」
初老の男が立ち止まる。
睨む。
「……で、なんて返事するの?」
「……」
男は禿げ上がった頭を撫でた。
そして小さく唸る。
「“環境対策に注力いたします”……とでも言うしかあるまい」
「なっさけないなぁ……親父……」
中年男は笑って、来た道を戻っていった。
残された男、メルソンは、舌打ちをした。
今朝未明、施設の一角で火災が起きた。
原因は分からない。
この砂漠では珍しくないことだ。
だが、
焼け方が妙だった。
「……ここか」
メルソンが角を曲がった瞬間だった。
足が止まる。
「……なんだ、これは」
ゴミ山の一部が抉れている。
その中心に
金属の巨体。
腕部フレーム。
マニピュレーター。
装甲。
それらがバラバラの状態で散らばっていた
メルソンは理解するのに一秒もかからなかった。
「モビルスーツ……?」
全て合わせても全長20メートル前後だろうか。
「なんでこんなものが……」
メルソンは近づく。
胸部装甲は大きく抉れていた。
砕けた装甲。
露出したフレーム。
「ミサイル……直撃か、この様子じゃ……」
パイロットも無事ではない。
メルソンは視線を逸らした。
「……やれやれ」
とりあえず本部に連絡だ。
そう思って踵を返したとき。
視界の端に、もう一つの金属塊が映る。
頭部。
転がっている。
メルソンは近づいた。
そして凍りつく。
中央のセンサー。
横長のスリット。
「……モノアイ」
背筋に寒気が走る。
「ジオンのMS……?」
だが、あり得ない。
ジオン共和国はすでに自治権を返還している。
ではなぜ
そのときだった。
ひしゃげた頭部の影。
そこに、人影があった。
蹲っている。
「……!」
メルソンは思わず駆け寄った。
少女だった。
若い。
十代かもしれない。
金髪。
ライトブルーのメッシュ。
ツインテール。
赤とオレンジのパイロットスーツ。
そして
額から流れる血。
メルソンは思わず声を張った。
「おい!」
少女が顔を上げた。
怯えた瞳をしていた。
「そんなところで何してる!」
少女は答えない。
ただメルソンを見る。
「嬢ちゃん、怪我してるぞ」
メルソンは頭を指さした。
少女も同じように手を当てる。
血を見る。
そして
初めて気づいたような顔をした。
「怪しい者じゃない」
メルソンは両手を上げた。
「俺はこの施設の管理者だ。メルソンっていう」
少女はしばらく黙っていた。
それから、小さく言う。
「私は……」
言葉が止まる。
メルソンは察した。
言えない事情。
同時に
「いい」
メルソンは言った。
「まずは手当てだ」
4月26日 夕方
ゴミ処理施設管理棟
「どういうことだよ?」
男の声。
「言っただろう。怪我をしてるって」
メルソンの声。
「モビルスーツに乗ってたんだろ?
関わらない方がいい」
「怪我人を見捨てろって言うのか」
「そうは言ったってさぁ……」
ハーラは布団の中で目を閉じていた。
きっと自分の話だ。
これからどうなるのだろう。
連邦に突き出されるのか。
人質になるのか。
鼓動が速い。
布団越しにそれが伝わってくる。
やがて扉が開いた。
メルソンが入ってくる。
「悪いな」
椅子に座る。
「まともなベッドじゃなくて」
ハーラは聞いた。
「私をどうするの?」
言ってから後悔した。
助けてもらったのに。
「どうもしない」
メルソンは答えた。
「ここは俺の敷地だ」
そして続ける。
「そこにあんたが落ちてきた。
なら、もてなすのは俺の自由だろう」
その言葉に、
ハーラは奇妙な安心を感じた。
「あんた、帰る場所は?」
その言葉で思い出す。
ヴァリアント。
自分の船。
艦長。
仲間たち。
今どうしているのだろう。
胸が熱くなる。
泣きそうになる。
ハーラは窓の外を見た。
空は夕焼けに染まり始めていた。
4月26日 夜
メルソンは家に泊めてくれると言った。
息子のチャドが車を運転する。
砂漠の道を走る。
ハーラは窓の外を見ていた。
(今頃ハサウェイたちは……)
壁に着いただろうか。
そんなことを考える。
やがて家に着いた。
扉が開く。
子供が二人、飛び出してくる。
だがハーラを見ると隠れた。
その後ろから女性が出てくる。
チャドの妻らしい。
「お客さん?」
そう言って家の中に入っていく。
食事に呼ばれたのはすぐだった。
メルソンが家族を紹介する。
あの施設
アーチボルド私営クリーンセンター。
それを経営しているのがメルソン。
息子チャドも働いている。
妻リリ。
赤ん坊オメオ。
そして子供たち。
オーリーとイナラ。
紹介が終わると、チャドが言った。
「そういえば名前を聞いてなかったね」
ハーラは少し考えた。
昼は言えなかった。
だが今は違う。
「私は……」
そして言った。
「ハーラ」
小さく息を吸う。
「ハーラ・モーリーです」
U.C.105年 4月26日 夜
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸
エアーズロックから北西へ1000km…
「よかったら食べて」
リリが差し出したスープは、美しい色をしていた。
黄金色に透き通った液体の中で、柔らかく煮込まれた野菜がゆっくりと揺れている。
ハーラの脳裏に、今も戦火の中にいるはずの仲間たちの姿が過ぎった。
しかし感傷に浸る暇は、自分には許されない。
「もしかして、嫌いだった?」
リリの声。
ハーラは静かにスプーンを握り、スープを口に運んだ。
舌を焼く熱さ。
喉を潤す栄養。
胃に落ちる確かな重み。
それらを淡々と受け入れながら、ハーラはただ飲み込み続けた。
身体が本能的に食事を求めて鳴動した。
みんな……
思考の端にちらつく仲間たちの顔を、ハーラは静かに押し込めた。
今感傷的になることに、何の意味もない。
だが、身体は嘘をつけない。
極限まで追い詰められていたハーラの細胞は、リリのスープがもたらす「生存」を、静かに、確実に吸収し始める。
ハーラは黙ってスープをかき込んだ。
鼻の奥がわずかに痛む。
涙が一滴、スープの中に落ちて混ざり合う。
気づかなかった振りをした。
ボウルが空になる頃。
腹の底に宿った熱を、ハーラは否定しなかった。
自分は今、生かされている。
ただ、それだけだ。
その事実を、口の中に残るハーブの香りと共に、ハーラは静かに飲み込んだ。
U.C.10?年
???海域 南西部
ヴァリアント艦内
「そうなんです。筋肉に含まれる色素タンパク質、その量で分類されているらしいんです」
ミヘッシャが言った。
「だからサーモンは、生物学的には白身魚なんですよ」
「へぇ……」
エメラルダが皿を見つめる。
スプーンでサーモンを突き、身をほぐす。
赤い身を、まるで検証するように眺めていた。
「ミヘッシャは相変わらず博識ね」
ルルが笑う。
「いえ……まだ知らないことばかりです。もっと勉強しないと」
ミヘッシャは背筋を伸ばした。
その姿を、ハーラは向かいの席から眺めていた。
知ろうとする心。
それは
ハーラが持てなかったものかもしれない。
憧れ。
そう呼ぶのが近いのかもしれなかった。
その時だった。
「おぉ!今日は空いてるじゃねぇか!」
食堂の扉が勢いよく開く。
ゴルフだった。
ミヘッシャが立ち上がる。
「ゴルフ!今日も途中でへばって日陰で休んでたでしょ!」
「うぇ?!なんでそれを……」
一瞬の沈黙。
図星だった。
「そうか……」
背後から声がした。
「お前、あの時サボってたのか……」
ガウマンだった。
ゴルフの肩に腕を回す。
次の瞬間。
その腕が締まった。
「なら午後は」
さらに締まる。
「みっちりお稽古だな」
「イデデデデデ!」
ゴルフが必死に腕を叩く。
「特別メニューを用意しないとな」
入ってきたイラムが言う。
「頼めるな、シベット」
「まかせときな」
シベットが答える。
食堂が、笑いに包まれる。
ハーラはそれを見ていた。
ただ、見ていた。
そして
ふっと、息が漏れた。
笑っていた。
自分が笑ったことに、少し驚いた。
何気ない日常。
だが。
ここだけが
自分の居場所だった。
「珍しいじゃん」
ベッチーが顔を覗き込む。
「ハーラが声出して笑うなんて」
ハーラは答えなかった。
ただ、心の中でだけ言った。
そうかもね。
U.C.105年 4月27日 未明
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルト邸
エアーズロックから北西へ約1000km…
夢を見た。
ヴァリアントの夢だった。
できれば
もう少し見ていたかった。
目を開ける。
天井が広い。
メルソンが貸してくれた部屋だった。
部屋を案内された時、
メルソンが小さく言った言葉を思い出す。
「ヘイリーも、彼女のためなら喜んで貸すだろう」
ヘイリー。
きっと、この部屋の主だったのだろう。
ハーラはポケットを探る。
指先に硬い感触。
取り出す。
コンパクトだった。
お気に入りのもの。
開く。
鏡は
蜘蛛の巣のように割れていた。
その鏡に映る顔。
腫れた目。
また泣いたらしい。
寝ている間に。
ハーラはため息を吐いた。
コンパクトを閉じる。
体を起こす。
日付は変わっていた。
ふと衝動に駆られ廊下へ出る。
吹き抜けに出た。
下はまだ明るい。
階段を下りようとした瞬間。
「あなた!大変!」
リリの声。
ハーラは走った。
リビング。
状況を理解する前に
耳に声が刺さる。
「ザザ...ザー自...が、マフティー・ナビーユ・エリンであります」
ラジオだった。
「今日まで、自分を中心とした組織が」
地球においでになった連邦政府の閣僚を
粛清してまいりました」
ハサウェイ。
その口調だった。
「そして、そのたびに」
始まる。
そう思った瞬間。
ハーラの体は動いていた。
屋敷を飛び出す。
砂漠。
夜。
冷たい風。
行かなくては。
「おい!どこに行く!」
チャドの声が追う。
だが。
届かなかった。
行かなくては。
アデレードに。
自分は
「自分が……」
あの声が蘇る。
私は
「マフティー・ナビーユ・エリンであります」
マフティーの一員なのだから。
ハーラは走った。
闇の中を。
星が残酷だった。
あまりにも綺麗だった。
砂が足の指の間を抜ける。
その感触だけが現実だった。
地平線の向こう。
星の光なら、一秒もかからない距離。
そこに
仲間がいる。
そう思って走った。
だが。
砂漠は優しくなかった。
方向がわからない。
ハーラは立ち止まる。
空を見る。
北極星。
月。
西。
いや
ここは南半球。
月の動きが違う。
頭が痛くなる。
星が眩しい。
砂がうるさい。
重力が憎い。
自分が
憎かった。
涙が出た。
そして。
空を見る。
綺麗
その瞬間。
腕が引かれた。
世界が落ちる。
振り返る。
メルソンだった。
息を切らしている。
「……どこへ行く気だ」
「行かないと……」
ハーラは言う。
「アデレードに……」
進もうとする。
しかし。
腕が引き戻される。
「行って何になる」
「だって……」
「今行って何になる!」
「……!」
喉が震えた。
ハーラから言葉は、もう出なかった。
涙が痛い。
目が腫れている。
でも。
止まらない。
私は生きているのに。
私は生きているのに。
なぜ
あそこにいないのだろう。
涙の向こう。
砂漠の夜空。
残酷なほど綺麗だった。
そう。
造り物であってほしいと願うほどに。
U.C.105年 4月27日 未明
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸
アデレードから北西へ2200km…
「ねぇ……おねぇちゃんは、さっきのラジオの人の仲間なの……?」
リリに肩を支えられ、部屋へ戻るハーラの背に向けて、オーリーが呟いた。
幼い声だった。
「よすんだ、オーリー……」
チャドが制する。
だが視線はメルソンへ向いていた。
大人たちは、もう理解している。
「何かできることがあったら……いつでも呼んでね」
リリの声。
扉が閉まる。
乾いた音が、響いた。
沈黙。
全員の視線がメルソンに向く。
彼はしばらく動かなかった。
やがて、低く言う。
「……今夜は、そっとしておいてやれ」
分かっていた。
最初から。
彼女と出会ったときから。
あの少女のそばに横たわっていた、モビルスーツ。
そして
この大陸の南端で行われる、連邦の会議。
先ほどの彼女の様子。
点と点が、つながる。
そうか……。
あんな子が……。
頭の中が白くなる。
思考は、そこから先へ進まなかった。
「……」
メルソンは両手で顔を覆う。
鼻から、口から。
どうにも変えられない現実への絶望が、漏れ出る。
部屋には、ただ一つの音だけが残った。
時計の秒針。
刻む。
刻む。
刻む。
時間だけが、進んでいった。
U.C.10?年
??沖 南東200km
ヴァリアント艦内
「ハーラ、このメモをハサウェイに渡してやんな」
エメラルダがメモを差し出した。
「最重要機密だぞ。なくすなよ?」
椅子にふんぞり返ったウェッジが言う。
冗談めいた口調。
「変なこと言わないの。ほら、行っておいで」
エメラルダは振り向き、微笑む。
優しく、肩を叩いた。
その仕草は
姉そのものだった。
「ハーラ、この船旅には慣れたかい?」
エメラルダは水を差し出す。
「はい……」
受け取る。
冷たい。
温度が、掌に伝わる。
「困ったことがあったら、いつでも言いな。
特に……この船は――」
その瞬間。
エメラルダの目が、別の方向を向いた。
通り過ぎようとした男。
レイモンド。
「バカな…男が…多いん…だか…らっ!」
ドンッ!!
拳が胸にめり込んだ。
「ッテェ!」
レイモンドが身体を折る。
だが反論はしない。
心当たりがある顔だった。
「勘弁してくれ……」
「ありゃお前が悪いよ」
後ろからシベットが刺す。
エメラルダは鼻を鳴らす。
「フフン……!」
そしてハーラへウィンク。
その瞬間。
ハーラの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
Time rewinds...
U.C.105年 4月26日 深夜
オーストラリア大陸 ノーザンテリトリー
エアーズロック
ヘソと呼ばれた地点
「すみません……! 2人を守りきれなくて……!」
声が、夜の岩肌に吸い込まれる。
泣き崩れたヘンドリクスの身体を、副操縦士が支える。
支えられているはずなのに、どこか崩れ続けているように見えた。
その顔には、はっきりと刻まれている。
喪失。
後悔。
そして自分だけが生き残ったことへの、理解しきれない表情。
「追っ手を振り切ってここまでたどり着いてくれただけでも、凄いことだ……ヘンドリクス……!」
ハサウェイは言いながら、彼を引き寄せる。
腕の力は強くない。
だが、拒ませない距離だった。
「ありがとう……ございます……」
言葉は出ている。
だが、その中に納得はない。
ヘンドリクスは、腕の中でただ泣き続けていた。
エメラルダは、唇を噛み締める。
血の味が、わずかに広がる。
ハーラとロッドがやられた。
事実は、短い。
だが、それだけで十分すぎた。
小隊の中でも、最も西寄りのルート。
孤立。
遅延。
そして、遭遇。
運が悪かった。
そう言ってしまえば、それまでだった。
ヘンドリクスの証言。
ハサウェイの言っていた連邦の新型。
回避不能。
どれも、正しい。
だからこそ、納得できない。
「……よりにもよって」
声にならない。
拳が、軋むほどに握られる。
ハーラ。
仲間思いで、物静かさの奥に覚悟を隠していた少女
妹のような存在だった。
その“不在”が、現実としてここにある。
理解が、追いつかない。
周囲を見渡す。
誰もが、同じ顔をしていた。
言葉を失った顔。
受け入れきれていない顔。
ハサウェイとイラムもまた、道中でそれを見ている。
ハーラ機の残骸。
機体の原形を留めていない、あの形。
それが何を意味するか、理解しない者はいない。
ハサウェイの瞳が、わずかに揺れる。
唇が、強く結ばれる。
血が滲むほどに。
それでも、何も言わない。
少し離れた場所。
レイモンドとマクシミリアンが立っている。
二人とも、動けないでいた。
伝えなければならない。
だが、その一言で、さらに何かが壊れる。
分かっている。
それでも。
言わなければならない。
視線が交差する。
言葉はない。
だが、互いに理解している。
行くしかない。
足が、重い。
それでも前に出る。
一歩。
また一歩。
砂を踏む音が、やけに大きく響く。
「ヴァリアントが撃沈された」
夜の空気が、止まる。
その言葉は、あまりにも簡単に放たれた。
だが、重さだけが残る。
イラムが、崩れる。
膝から。
音もなく。
腕に抱えていた四春が、するりと落ちる。
小さな体。
軽いはずなのに。
やけに、遅く見えた。
受け身をとる。
こちらに駆け寄ってくる。
それをエメラルダが受け止める。
反射的に。
考えるより先に。
「ヴァリアントが……」
言葉が、続かない。
「なんで、いい奴が先に死んじまうかな……」
イラムの声は、乾いていた。
涙すら追いついていない。
その言葉が、エメラルダの胸を貫く。
どうして。
どうして、あの子が。
どうして、自分じゃない。
そんな思考が、勝手に浮かぶ。
あの時。
自分が乗っていれば。
メッサー6に。
違った結果になったのではないか。
頭を振る。
強く。
否定するように。
それは結果論だ。
分かっている。
だが。
それでも。
“いない”という事実だけが、心を削り続ける。
「まだ、死んだとは限らんよ」
レイモンドの声。
低く。
だが、確かにそこにある。
「連邦だって、沈む船から逃れようとする人たちを殺そうとはしないよ」
マクシミリアンが続ける。
理屈。
可能性。
希望。
全部、分かっている。
だがそれは、誰のための言葉か。
自分か。
仲間か。
「それに、ハーラとロッドも……」
マクシミリアンの言葉が止まる。
続けることができない。
想像してしまうから。
衝撃。
炎。
圧力。
メカニックであるがゆえに、知りすぎている。
知らなければよかった。
そう思うほどに。
「悪いことばかりじゃないよ……」
エメラルダが言う。
自分に向けて。
誰かにではなく。
「ファビオ・リベラたちは、上手くやってくれたんだろう?」
「そうだな」
ハサウェイが呟く
「良い友人を持ったな」
イラムの言葉もまた自分に言い聞かせているように聞こえた。
静寂が、落ちる。
重く。
逃げ場なく。
エアーズロック。
闇の中、聳え立った巨大な一枚岩
その頂上
エメラルダの腕の中で
四春が、毛繕いをしている。
小さな音。
かすかな動き。
命の音。
それだけが、この場に残っていた。
U.C.105年 4月27日 朝
グレートサンディ砂漠
アーチボルド私営クリーンセンター
アデレードから北西へ2200km…
夢を見た。
エメラルダの夢。
マフティーに参加した日から、
彼女は
姉だった。
できれば…
メルソンに頼み、ゴミ処理施設へ同行させてもらう。
砂漠の朝は眩しい。
昨日の冷たさが嘘のようだ。
太陽が砂を照らす。
反射した光が、肌を刺す。
施設へ着く。
迷わず歩く。
昨日、自分が落ちてきた場所。
そこに
機体がある。
ゴミの山に突き刺さった、かつての愛機。
燃えた廃棄物は炭になり、踏むと軽い音を立てた。
サク。
サク。
金属の表面には、夜の結露が残っている。
そして
機体に描かれた「証」。
擦れていた。
だが、まだ残っている。
自分の存在の証。
ハーラは、しばらくそれを見ていた。
やがて視線を上げる。
飛ばされた頭部。
コックピット。
中に入る。
暗い。
朝日が、まだ奥まで届かない。
足に当たる。
ヘルメット。
拾い上げる。
シートに置く。
「確か……この辺に……」
手探り。
そして
見つけた。
PLB。
携帯用位置指示標識。
モビルスーツの緊急通信とは
異なる周波数。
位置だけを、静かに送信する装置。
敵には探知されにくい。
うまくいけば
ギャルセゾンに届く。
そう、願った。
「やはり、ここにいたか……」
声。
背後。
振り向く。
メルソンだった。
胸が、わずかに痛む。
だが彼は、袋を掲げた。
「ブランチだ!」
ただ、それだけ言う。
アルミホイルの包み。
差し出される。
メルソンは自分の包みを開く。
サンドイッチ。
昨夜の残りに、チーズを加えて焼いたもの。
リリが毎朝作るのだろう。
メルソンがかぶりつく。
チーズが糸を引いた。
ハーラは、唾を飲む。
だが
食べられない。
せっかく作ってもらったのに。
聞こえるのは、ただ一つ。
メルソンの咀嚼音。
「驚いたよ……」
メルソンが、頭部を見上げる。
「頭にコックピットがあるなんてな」
感心した声だった。
「俺の知ってるモビルスーツは、みんな腹にある」
腹をぽん、と叩く。
ハーラは思う。
腹のコックピット。
母の胎内。
パイロットは、赤ん坊。
変な発想だ。
「面白いよなぁ」
メルソンは笑う。
「どうせコックピット狙われるんだ。
だったら場所を変えちまえってわけだ」
鼻で息を鳴らす。
「こいつにも名前があるんだろ?
ザクとか、そういうの」
ハーラは答える。
「……メッサー」
短く。
「メッサーか」
メルソンは笑った。
「ナイフって名前とはな。
よほど戦い好きが名付けたんだろうな
へっへっへっ!」
ハーラは何も言わない。
ただ待つ。
彼が、本題を切り出すのを。
「へーっ……」
沈黙
「……それも、マフティーが付けたのか?」
空気が変わった。
ハーラの心臓が跳ねる。
メルソンはふっと鼻を鳴らす。
「昨日は悪かったな」
頭を掻く。
「気も知らねぇで、引き止めちまった」
少し笑う。
「まあ、日付はもう変わってたが」
そして、視線を落とす。
「何となくな……」
「お前を失いたくなかった」
言葉は重かった。
「今の時代、これに乗るのは大人だけだと思ってた」
遠くを見る。
「数時間前まで一緒にいた子が、死地に行くなんて……」
首を振る。
「想像したくなかった」
沈黙。
「俺のエゴだ」
ハーラも、目を落とす。
「今朝な……」
メルソンが言う。
「アリス・スプリングス基地から輸送機団が飛び立った」
「アデレードへ」
「お前があんな派手に落ちたのに、パトロールが来ない」
肩をすくめる。
「向こうも、それどころじゃないんだろうな」
立ち上がる。
「仲間……無事だといいな」
小さな声。
歩き出す。
「待って!」
ハーラの声が、思わず出た。
「なんで……」
「そこまでして、私を生かしてくれるの?」
メルソンは止まる。
沈黙。
風が砂を動かす。
「……」
返事はない。
時間だけが流れる。
「ごめん……忘れて………ください……」
顔が熱い。
自分でも、何を言ったのかわからない。
その時。
メルソンが言った。
「お前は」
「後ろめたさを感じたことがあるか?」
ハーラは息を止める。
「マフティーとか関係ねぇ」
声が強くなる。
「守りたいものが、揺らいだことがあるかって聞いてる!」
沈黙。
そして。
メルソンは言う。
「俺の守りたいものはな…」
「今の暮らし」
「家」
「仕事」
そして。
「……家族だ。」
ハーラは気付く。
なぜ、自分が後ろめたかったのか。
世間は言う。
テロリスト。
でも
「守りたいなら、生きろ」
メルソンの声。
「生き続けろ」
「そして忘れるな」
「その場所も」
「その人たちも」
ゴミの山にメルソンの声が響く。
「おっと……」
ゴホン、と咳払い。
急に照れた顔になる。
「じゃあな!」
手を振る。
歩き出す。
しばらくして。
また止まる。
「あ、そうだ!」
振り返らないまま叫ぶ。
「なんでお前を生かしたかって答え!」
頭を掻く。
少し考える。
そして――
振り向いた。
笑う。
「俺にとって」
「お前は家族だからだ!」
その瞬間。
ハーラの中で。
何かが
確かに、変わった。
Time rewinds…
U.C.105年 4月25日 夕方
オーストラリア大陸
グレートサンディ砂漠上空
「メッサー6、信号途絶! 墜落します!」
副操縦士の声がコックピットを裂いた。
警報音。
機体の振動。
「……っ」
操縦桿を握るヘンドリクスの奥歯が鳴る。
視界の隅で赤い警告灯が点滅していた。
砂漠の地平線。
そこをなめるように走る光線。
狙撃だ。
「ギャルセゾン、聞こえるか! 高度を落とせ!」
無線が弾ける。
ロッドの声だった。
「狙われてるぞ! 西の奇岩群に入れ!」
通信は荒れている。
それでも声の調子は、妙に落ち着いていた。
「時間は稼ぐ!」
「ロッド……」
ヘンドリクスの喉が詰まる。
モニターの向こうで、ロッドが笑った。
「安心しろ、ハーラは俺が必ず助け出す」
「お前はハサウェイにこう伝えとけ」
一瞬、沈黙。
「ヘソで会おう」
「2人で追いつくってな」
親指が立つ。
その瞬間。
警報。
ロッド機のコックピットでアラートが炸裂する。
「チッ……来やがったか」
空を裂く影。
猛禽。
ハーラを貪った、”ソレ”だ。
ロッドはメッサーを一度着地させる。
砂が爆ぜる。
次の瞬間。
スラスター全開。
巨体が噴き上がる。
そして
「持ってけよ」
マインレイヤー投下。
爆発。
地面が裂ける。
すかさず
ビームライフルを地面に照射する。
砂の焼ける音
同時に高温による蒸気と衝撃によって舞い上がった砂煙が辺りを覆う。
そして爆煙がその両方を飲み込み、巨大な黒柱となって立ち上る。
ロッドは機体を旋回させた。
ギャルセゾンを逃がす。
そのためだけの戦場。
平野の真ん中。
逃げ場はない。
接近戦。
相手が、あの男なら。
レーン・エイム。
ハサウェイが言っていた、あのパイロットなら。
必ず来る。
ロッドは確信していた。
ライフル、パージ
すかさずビームサーベルを引き抜く。
そして
盾、パージ。
軽くなる機体。
これでいい。
勝負は一瞬だ。
自分にとっても。
相手にとっても。
博打。
砂漠が静まる。
ほんの数秒。
その沈黙を
轟音が引き裂いた。
来た。
「来やがれ……」
汗が頬を伝う。
煙が唸る。
砂が舞う。
視界は闇。
その奥で。
光が走る。
「うおおおおおおおおおお!」
U.C.105年 4月25日 夕方
グレートサンディ砂漠 西部
ギャルセゾン機内
ズゥウウウン……
空気そのものが揺れた。
爆音。
機体が震える。
「ロッド……?」
ヘンドリクスの脳裏に、不安が流れ込む。
止まらない。
コックピットを見回す。
誰も口を開かない。
皆、同じ顔だった。
分かっている。
このままでは終わる。
ヘンドリクスが声を張る。
「全員聞け!」
視線が集まる。
「これより高度を落とし、奇岩群に突っ込む!」
一拍。
「操縦は俺がやる」
さらに言葉を叩きつける。
「計器は最低限だけ残せ。
他は全部切れ!」
「了解!」
副操縦士が席を離れる。
「フィッツ!」
呼ばれた男が振り向く。
「キャビンの連中に伝えろ!
ここからは揺れるぞ!」
「了解!」
男は壁を伝い、後方へ消える。
「急げ!」
ヘンドリクスが怒鳴る。
「奴の熱源探知に引っかかる!」
砂漠の夜空。
ハーラ。
ロッド。
死なせるか。
歯を噛み締めた。
唇が裂ける。
血が落ちた。
U.C.105年 4月26日 深夜
オーストラリア大陸 南部
アンキシャス湾沿い
「壁」
ヘンドリクスは跳ね起きた。
荒い呼吸。
寝袋の中、汗が冷たい。
夢。
昨日の夢。
ロッド。
爆音。
光。
「……くそ」
生き残った。
それが、余計に重い。
ヘンドリクスは機外へ出る。
夜。
海風。
月は高い。
白い光が岩壁をなぞっている。
人影。
見張りか。
近づく。
違う。
女だった。
あの女。
ハサウェイと一緒にいた。
ギギとかいう。
女は月へ手を伸ばしていた。
陶器のような肌。
静かな横顔。
「……生きてるんじゃないかな」
ぽつり。
「え?」
ヘンドリクスの声が漏れる。
「今、なんて?」
女が振り向く。
青い瞳。
「え?」
「生きてるって、どういう意味だ」
詰め寄る。
女は首を傾げた。
「言った……私が?」
理解できない。
こいつ。
自分で喋ったことを覚えてないのか?
ヘンドリクスは一歩退く。
ギギは顎に指を当てる。
考える仕草。
「……もういい」
ヘンドリクスは背を向ける。
所詮、敵側の女だ。
信用できるか。
その時。
「へぇ……」
女が言う。
「おしゃれな子なのね」
ヘンドリクスが振り向く。
「機体にまで装飾するなんて」
ハーラ。
間違いない。
「どこで聞いた」
「分かんない」
ギギは月を見上げた。
「そう囁くんだもの」
沈黙。
風。
「……今はまだ」
彼女が続ける。
「気づいてないだけ」
青い瞳。
真っ直ぐだった。
「そのうち、目を覚ますと思うよ」
ヘンドリクスは言葉を失う。
U.C.105年 4月27日 夜
オーストラリア大陸
グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸
アデレードから北西へ2200km……
「ハーラおねぇちゃん! 見て見て!」
軽い足音が廊下を駆けてくる。
イナラだった。
両手いっぱいにスケッチブックを抱えている。
「これ描いたの!」
差し出された紙。
棒人間。
歪な線。
太陽と家。
子供の絵だった。
「よく描けてる」
ハーラは小さく言う。
本当のところ、子供は得意ではない。
どう接していいのか、分からない。
だが
「ほんとぉ?」
イナラの目が輝く。
その無垢な期待に、嘘はつけなかった。
「あのね、ここ!」
指が紙の一点を叩く。
棒人間の列。
その中に一人だけ違う形があった。
頭に三日月。
青く塗られている。
ハーラは少し目を細める。
「……これ」
そっと呟く。
「私?」
「うん!」
イナラが何度も頷く。
その勢いに、思わず笑みが漏れた。
「ありがと」
ハーラはイナラを抱き寄せる。
「おねぇちゃん、くすぐったい!」
そう言いながらも、イナラは嬉しそうに笑っていた。
イナラの寝息。
そっとキッチンに向かう。
夕食の準備を手伝おうと思ったのだ。
そこにはリリがいた。
腕の中には赤ん坊。
オメオ。
ハーラに気づくと、リリは柔らかく微笑んだ。
「すっかりハーラのことが気に入ったみたいね」
「ええ」
短く答える。
そして付け加えた。
「でも、寝ちゃいました」
「そう」
リリがくすりと笑う。
「ちょっと待ってね」
そう言うと、リリは服を少しずらした。
「この子が済んだら取り掛かるから」
ハーラは咄嗟に背を向ける。
背後で布の擦れる音。
下着のホックが外れる小さな音。
赤ん坊が乳房に吸いつく。
すぐに、静かなキッチンに吸う音が響き始めた。
ハーラは前髪をいじる。
少しだけ、気まずい。
沈黙が落ちる。
それを破るように、リリが話し始めた。
「あの子たちはね」
「本当にあなたを気に入っているのよ」
ハーラは何も言わない。
リリの声だけが続く。
「本当のおねぇちゃんみたいだって」
姉。
その言葉が胸の奥に落ちる。
昨日の夢。
私は
あの人のようにはなれない。
そう思う。
リリは赤ん坊を抱いたまま続ける。
「この子がまだお腹の中にいたときね」
「イナラが言ったの」
ハーラは視線を上げる。
「私も、おねぇちゃんになれるかなって」
リリが静かに笑う。
「だから言ったの」
「おねぇちゃんになるために条件なんていらない」
オメオが満足そうに口を離す。
リリは優しく乳房を拭く。
「あなたをおねぇちゃんだと思ってくれる人ができたときには」
「もうその時には」
「あなたは立派なおねぇちゃんなのよって」
ハーラは振り向く。
リリがこちらを見ていた。
優しい目だった。
オメオを見る。
すやすやと寝ていた。
そしてその横に...
咄嗟に視線を逸らす。
「別に見られても、なんとも思わないのに」
少しからかうように言われた。
「これはマナーですから」
「ふふ……」
リリは小さく笑った。
下着を整える。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「押し付けがましいかもしれないけど」
ハーラを見る。
まっすぐに。
そして言った。
「私はね……」
一呼吸。
「あなたを家族だと思ってる」
その言葉は静かだった。
けれど。
はっきりと胸に落ちた。
ハーラは一瞬、言葉を失う。
リリは微笑んだままキッチンへ向き直る。
まるで何事もなかったかのように。
ハーラは慌てて蛇口をひねった。
水が流れる。
冷たい音。
母に悟られないように。
ただ、黙って水を見つめていた。
胸の鼓動が、わずかに速い。
それを、ハーラは確認だけして
何も言わなかった
U.C.10?年
夢を見た……。
知らない場所。
見覚えのない場所。
視界の奥。
砂漠の中に、ぽつんと家がある。
風に削られながら、そこにだけ残されたような家。
意識が、ゆっくりとそこへ引き寄せられていく。
抗えない。
やがて扉が開いた。
人影。
知らない顔。
それでも
距離が近い。
まるで、最初からそこにいたかのように。
笑顔。
迎え入れる仕草。
家族のような温もり。
違う。
私には、もう帰る場所がある。
ヴァリアントという家が。
それでも
胸の奥に、小さな痛みが残った。
理由は、分からないまま。
U.C.105年 4月28日 未明
オーストラリア大陸南部
アデレード
ギャルセゾンキャビン内
機械の低い駆動音が、閉ざされた空間に満ちている。
機内には残熱が漂っていた。
アデレード空港襲撃作戦は成功だった。
エメラルダの事を除けば。
撃墜の閃光。
一瞬だけ強く焼き付いた光景が、まだ網膜の奥に残っている。
その後の沈黙。
泣き崩れたレイモンド。
視線を向け続けることができなかった。
ヘンドリクスは、マグカップを握る手に力を込める。
わずかに、指先が白くなる。
元より誰が死んでもおかしくない。
それは前提だ。
次に選ばれるのが
自分である可能性も。
思考を断ち切るように、立ち上がる。
コックピットへ。
逃げるような動きだった。
端末を開く。
地図を展開する。
次の攻撃目標。
そこに意識を固定するはずだった。
だが
視線が、止まる。
画面の端。
赤い点滅。
規則的に、静かに。
救難信号。
「生きてるんじゃないかな……」
ギギ。
あの女の声が、ふいに蘇った。
確証のない言葉。
だが、消えない。
気づいた時には座標を拡大していた。
グレートサンディ砂漠……。
何もないはずの場所。
そのはずの座標。
ヘンドリクスの瞳が、わずかに揺れた。
U.C.105年 4月28日 朝
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド私営クリーンセンター
アデレードから北西に2200kmの地点
乾いた空気。
「ブランチだ!」
場違いなほど軽い声。
メルソンが、アルミの包みを放る。
受け取ると同時に、かすかな金属音が鳴る。
彼は転がっていた一斗缶を立て、腰を下ろした。
ギシ……。
鈍く軋む音が、重さを伝える。
メルソンは包みを破り、そのまま中身にかぶりつく。
油の匂い。
咀嚼の音。
ハーラはそれを、横目で見ていた。
「お前は家族だからだ!」
「あなたを家族だと思ってる」
胸の中に言葉だけが残る。
家族か...。
ハーラは包みを開ける。
中身を口に運ぶ。
味は、はっきりしなかった。
ただ、乾いた風だけが、確かな感触として肌を伝う。
半分ほど食べたところで
メルソンの携帯が鳴った。
「もう来たのか……」
ため息まじりの声。
そう言うと彼は包みを手で潰し、立ち上がった。
「じゃ、また後でな」
ぶっきらぼうに言う。
手を上げるが、振り返らない。
自分を呼ぶものにうんざりしている。
そんな印象だった。
彼はそのまま去っていった。
残された空気が、わずかに静まる。
ハーラは冷たくなった中身を齧った。
しばらくして、別の足音が響く。
チャドだった。
彼はメッサーの胴体を、舐め回すように見つめる。
機体の輪郭を、確かめるように。
やがてハーラに近づく。
「こいつのことだが……」
親指で示す。
「ここには……長くは置いておけないだろうな……」
言葉が落ちる。
重さを持って。
ハーラの心臓が、大きく跳ねた。
思考より先に、身体が動く。
首を振る。
何度も。
必死に。
昨日のイナラと同じように。
その反応に自分でも少し驚いた。
そんな少女の様子にチャドは鼻から短く息を吐く。
そして一斗缶に腰を下ろす。
キシ……。
缶は先ほどより軽い音を立てた。
「ハーラがここに来てからさ」
唐突に、話題が変わる。
「親父、若く見えるんだ」
視線は空へ向く。
焦点は、ここではない。
「まるで、お袋が生きていた頃みたいでさ……」
お袋。
ヘイリーのことだろう。
名前だけが、記憶から浮上する。
「あの頃は—」
言葉がゆっくりと紡がれる。
「家の周りにも緑があって」
「星も、もっと綺麗に見えた」
「人も、今よりずっと多かったんじゃないかな」
断片的な記憶。
だが、丁寧に拾い上げられていく。
まるで、失われた時間を縫い合わせるように。
「今となっては……全部砂に埋ちまったがな」
乾いた笑い。
「親父もあの頃は若くてさ……ここもフサフサだった」
頭を指す。
わずかな軽さ。
ハーラの口元が、かすかに歪む。
「メルソンはどうしたの?」
空気の緩みを感じ取り、ハーラは尋ねる。
「ああ、親父はここのオーナーだからな」
「“客”の対応に追われてるんだよ」
含みのある言い方だった。
チャドは続ける。
「ここより南にずっと行ったところに街がある。ノーザンテリファーって」
大まかな方角だけが示される。
「昔は金鉱で栄えていたが」
「金を掘った連中は空に押し出されちまった」
指が、空を指す。
「今となっては連邦の高官が、一帯を押さえてる」
構造だけが語られる。
「許せない……」
小さく。
丸められたアルミをさらに固く握る。
何かが熱を帯びていた。
「時代ってのは、移ろうもんさ……」
チャドは肩をすくめる。
「まあ、この変わりようはナンセンスだがな」
そう言うと男は、まだ豊かな頭をかく。
似ているな……。
ハーラはそう直感した。
男は続ける。
「でもな」
「移ろう時代を俺たちは止められない。」
「あの街で最後まで残って抵抗した奴らがそうさ」
そう吐き捨てた。
「それでも」
視線が戻る。
「移ろう時代の一幕一幕を、俺たちは保存できる。」
明るくなる声色
「若かった親父とお袋を俺が覚えているように」
「家に二人の写真が残っているように」
「どんな時代になっても、変わることのない記憶が、俺たちを生かしてくれる。」
チャドはハーラに向き直る。
「お袋にしたって、親父の髪にしたってな」
彼は軽く笑った。
先ほどとは裏腹に、彼女の反応は冷静だった。
どこか腑に落ちた様子。
視線は、メッサーへ。
機体の奥に、何かを見ていた。
うつろう時。
記憶。
言葉が胸の奥で反復する。
「ねえ、メッサーの……」
そう言いかけた。
その時
彼が立ち上がる。
「オーリー!」
声が響く。
ハーラは顔を上げる。
ゴミ山の向こう。
メルソンに手を引かれた少年。
気づいた瞬間、走り出す。
勢いよく飛び込む。
父の胸へ。
強く抱きしめられる。
そんな親子の様子を
少女はただ眺めていた。
U.C.10?年
偽造貨物船ヴァリアント 格納庫隣接上部通路
???海域 南西部
「お前、また来てたのか」
声がした。
振り向かなくても分かる。
ロッドだった。
「……別に」
ハーラは視線を前に戻す。
隔壁の窓。
外は海だ。
どこの海かは分からない。
ただ、暗い。
底の見えない、沈みきった色。
「“別に”って顔じゃないけどな」
ロッドは隣に立つ。
距離は近い。
だが、触れない。
窓に映る自分の顔。
静かで、何も考えていないように見える。
「そう?」
「あぁ」
ロッドは腕を組む。
それ以上は踏み込まない。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
波の音だけが、鋼鉄の壁越しに低く響く。
船の内側にいながら、外の不安だけが伝わってくる。
「眠れないのか?」
「……ちょっと」
本当は違う。
眠れないんじゃない。
眠りたくない。
目を閉じれば、思い出すから。
「訓練のことか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「……」
答えない。
言葉にした瞬間、形になってしまう気がした。
ロッドは、それ以上追わなかった。
ただ隣に立っている。
それだけで、逃げ場がなくなる。
「ロッドは」
気づけば、口が動いていた。
「怖くないの?」
「何が」
「戦闘」
一拍。
呼吸が浅くなる。
「死ぬことじゃなくて」
ハーラは一度、言葉を切る。
「誰かを……殺すこと」
ロッドはすぐには答えなかった。
窓の外、海が揺れている。
まるで、言葉を選んでいるように。
「怖いな」
やがて言った。
あっさりと。
「最初の一機は、三日くらい飯が食えなかった」
「……」
「二機目からは食えるようになった」
そこで一度、言葉が途切れる。
「それが……正しいのかどうかも、分からなかった」
感情はない。
ただの事実。
だからこそ、重い。
「でも」
続ける。
「俺がここにいる理由は変わらなかった」
ハーラは視線を上げる。
ロッドは、ずっと外を見ている。
「俺には妹がいる」
「不法移民キャンプへの支援のために、今も地球に残ってる」
「……あいつが地球を追われないようにするために」
「俺はここにいる」
それだけ。
理由としては、あまりにも単純で。
逃げ場がない。
ハーラは前を向く。
暗い海。
自分の理由。
見たいものがある。
それだけで、いいのか。
ロッドが腕を解く。
「お前は」
「何のために乗ってる?」
「見たいものがあるから」
即答だった。
迷いはない。
……はずだった。
「何を」
「みんなが辿り着く場所」
少しだけ間が空く。
ロッドの沈黙が、重さを増す。
「辿り着けなかった場合は」
空気が止まる。
「お前はどうする」
答えは、ない。
考えたことがなかった。
考えないようにしていた。
「……」
沈黙が、そのまま答えになる。
「まあ」
ロッドは言った。
「今すぐ答えなくていい」
少しだけ、声が柔らぐ。
「ただ」
「お前がいなくなったら困る奴がいることは、覚えておいてくれ」
「誰?」
「俺とヘンドリクス」
即答。
「ヘンドリクス?」
「あぁ、一番困るさ」
「なんで?」
「小隊で一番冷静なのがお前だから」
ハーラは、わずかに眉を寄せる。
「別に、冷静じゃないし」
「そう見える」
「それって」
「そう見えることが大事なんだよ」
ロッドは振り向かない。
「ヘンドリクスは、お前がいると落ち着く」
「本人は絶対に認めないけどな」
それだけ言って、歩き出す。
「俺は寝る」
「ハーラも早く寝ろ」
「……うん」
足音が遠ざかる。
完全に消えるまで、ハーラは動かなかった。
ひとりになる。
波の音。
暗い海。
辿り着けなかった場合。
その問いが、胸の奥に沈む。
答えは、出ない。
だが
ポケットに手を入れる。
コンパクト。
冷たい。
開く。
自分の顔。
冷静に見える顔。
「……」
私がいなくなったら。
誰が、困る?
ロッド。
ヘンドリクス。
その名前が浮かんだ瞬間。
胸の奥が、わずかに揺れた。
違う。
逃げるようにコンパクトを閉じる。
波が、また揺れた。
同日 深夜
偽装貨物船ヴァリアント 後部格納庫内
油の匂い。
金属の匂い。
打音が響く。
規則的で。
少しだけ、荒い。
「こんな時間に何やってんだ」
声をかける前に言われる。
ヘンドリクス。
背中だけで分かる。
「整備の時間、とっくに終わってるでしょ」
「誰かさんが、もっと上手く操縦してくれてたら」
「こんな時間にはならなかったんだがな」
軽口。
だが、どこか柔らかい。
「……で、お前はなんだ。寝れねぇのか」
少しだけ、声が落ちる。
「……ちょっと」
「だからってここには来ないだろ」
「通りかかっただけ」
「……嘘が下手すぎないか」
頭を掻く。
呆れている。
でも、追い返さない。
「さてはロッドに何か言われたな」
「別に」
「“別に”って顔してねぇんだよな」
沈黙。
「……ちょっとだけ」
ハーラはクレートに座る。
冷たい金属。
だが、嫌じゃない。
「ヘンドリクスは、何のために戦ってるの?」
手が止まる。
「そりゃ打倒連邦政府だろ」
「ロッドは違うこと言ってたよ」
沈黙。
「……あいつは余計なこと言いすぎなんだよ」
小さく、吐き出す。
「正直、組織の掲げる理念が本当に正しいかは分からない」
「だが……」
少しだけ、力が入る。
「状況の中に居場所ができた以上、俺はその居場所を守る」
「ただそれだけだ」
迷いはない。
ハーラは、じっと見ていた。
「もし……守りきれなかったら?」
空気が止まる。
「たとえ死ななかったとして……」
「そこで助けを求め続けてるとしたら」
「ヘンドリクスは、どうするの?」
長い沈黙。
工具を握る手が、止まっている。
そして。
「その時は、迎えに行く」
迷いはない。
その一言だけで。
十分だった。
ハーラの胸が、わずかに揺れる。
「それ、ロッドも聞きたかったんじゃないかな」
少しだけ、笑う。
「……お前さ」
低い声。
「そういうとこ、ずるいよな」
息を吐く。
「俺を困らせたいのか」
「別に」
即答。
その瞬間。
ヘンドリクスが、ほんの少しだけ笑った。
「ほんと変なやつだな」
「よく言われる」
短いやり取り。
だが、温度がある。
「もういいだろ……早く寝ろ」
「ヘンドリクスもね」
ハーラが立ち上がる。
去っていく背中。
ヘンドリクスは見ない。
見ないまま。
工具を持ち直す。
だが。
打音が変わる。
さっきより、柔らかい。
ほんの少しだけ。
優しくなっていた。
U.C.105年 4月29日 深夜
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸
アデレードより北西に2200km...
「ハーラ……ハーラ……!」
肩を掴まれ、前後に揺さぶられる。
骨に直接響くような振動で、沈んでいた意識が無理やり引き上げられる。
まぶたが重い。
貼り付いたように動かないそれを、指先でこじ開けるみたいにゆっくり持ち上げる。
視界は、水の中から覗いているみたいに歪んでいた。
その奥で、リリの顔が揺れている。
輪郭がにじみ、目と口だけが不自然に動いている。
何かを言っている。けれど音が届かない。
一度、強く瞬きをする。
まつ毛に溜まった涙が弾け、視界が少しだけ輪郭を取り戻す。
喉の奥で、空気が擦れる。
呼吸が浅く、細い。
ゆっくりと首を横に向ける。
関節が錆びついたみたいにぎこちない。
部屋の入り口。
チャドが、廊下との境目に立ち尽くしていた。
一歩踏み出しかけたまま、
止まってしまったような姿勢。
体重は片足に乗り、もう片方は宙に浮いたままにも見える。
視線だけが、こちらを捉えている。
何かを言おうとして、飲み込んだ顔。
その表情が、胸の奥に細い棘のように刺さる。
理由は分からない。
けれど、嫌な予感だけが、静かに広がっていく。
冷たい水を、胸の内側に垂らされているみたいに。
「早く……!」
リリの手が腕に絡む。
引かれる。
体を起こす。
自分の体が、他人のものみたいに重い。
階段を降りる。
手すりに触れる。
指先に伝わる木の感触が、やけに冷たい。
一段
二段
足を置くたびに、底が抜けるような不安がある。
踏み外せば、そのまま下へ吸い込まれていきそうな感覚。
リビングに入る。
空気が違う。
扉一枚を隔てただけなのに、空間そのものが沈んでいるみたいに重い。
肺に入ってくる空気が、わずかに粘ついているように感じる。
ソファ。
メルソンがこちらを見る。
ほんの一瞬だけ、視線が合う。
すぐに逸らされる。
逃げるように横へ滑る視線。
その一瞬の動きが、異様にくっきりと目に焼きつく。
足が止まる。
呼吸が一拍、遅れる。
ゆっくりと、顔をテレビへ向ける。
首が重い。
視線を動かすだけで、首の奥が軋む。
画面。
黒地に、白い文字。
「マフティー・ナビーユ・エリン捕縛」
均等に並んだ文字列。
感情を削ぎ落とされた、無機質な並び。
まるで墓標に刻まれた名前みたいだった。
その瞬間。
耳の奥で、何かがぷつりと切れる。
音が消える。
世界に薄い膜が張られたみたいに、すべてが遠ざかる。
ドクン。
心臓の音だけが、内側から叩きつけるように響く。
もう一度。
さっきよりも強く、速く。
胸の内側で暴れる。
息を吸う。
けれど空気が入ってこない。
喉の入り口で、見えない何かに引っかかっている。
もう一度吸う。
短く途切れる。
壊れたポンプみたいに、不規則に動く。
膝が震える。
細かく、小刻みに。
止めようと力を入れると、逆に揺れが大きくなる。
力が抜ける。
糸を切られた人形みたいに。
視界が落ちる。
床が近づく。
「ハーラ!」
腕を掴まれる。
引き戻されるような感覚。
けれど、自分の体の境界が曖昧になる。
肩に触れる手の温度だけが、やけに鮮明だった。
頭の中で言葉が弾ける。
全滅した。
私がいれば。
違った。
遅かった。
もう、いない。
思考がガラスみたいに割れて、破片になる。
一つの文にならない。
ただ回る。
呼吸しろ、と体が命じる。
肺が勝手に動こうとする。
けれどリズムが合わない。
吸う
止まる
吐く
足りない。
自分の呼吸音が、遠くのトンネルから響いてくるみたいに聞こえる。
頭が締め付けられる。
内側から膨らむような痛み。
視界の端が暗くなる。
胃の奥が、ぎゅっと掴まれる。
そこに何かを詰め込まれて、無理やり押し上げられる感覚。
こみ上げる。
一度引いて、次はもっと強く押し寄せる波。
抗えない。
喉を焼くような熱を伴って、せり上がる。
「っ……!」
体が前に折れる。
吐く。
何度も。
喉を削るような感触と一緒に、胃の中のものが逆流する。
酸味が広がる。
床に落ちる音が、やけに大きい。
「大変!」
リリの足音が遠ざかる。
その振動が、床を通して伝わる。
代わりに、重たい足音。
チャドがしゃがむ。
背中に手が当たる。
大きくて、少し固い手。
一定のリズムで上下にさすられる。
その動きに合わせて、体が小さく揺れる。
嗚咽が漏れる。
一度出ると止まらない。
喉が勝手に震える。
体の奥に溜まっていた何かが、まとめて引きずり出されるみたいだった。
砂漠の夜は、さらに深く沈んでいた。
窓の外を撫でる風は乾いているのに、刃物みたいに冷たい。
ガタガタと窓枠を揺らす音が、部屋の静けさを削っていく。
窓に映る自分は小さく見えた。
ハーラはソファに座らされていた。
クッションが沈む。
体重を受け止めきれず、わずかに沈み込む感覚。
吐瀉物の痕跡は消えている。
チャドが片付けたのだろう。
それでも空気は変わらない。
重さだけが、部屋に沈殿していた。
リリに握られた手。
指と指が絡む。
その温もりだけが、わずかに現実を繋ぎ止める。
もう片方の手で、ズボンの布を掴む。
指先に力が入りすぎて、布が歪む。
爪が食い込む。
喉の奥に、胃液の味がこびりついている。
何も出てこないのに、吐き気だけが残る。
涙が溢れる。
頬を伝う。
顎から滴り
膝に落ちる。
ここに来てから、ずっと。
泣いてばかり。
何もできない。
ただ、泣くだけ。
そんな自分が、ひどく醜く思える。
奥歯を噛む。
顎が軋む。
それでも涙は止まらない。
メルソンはテーブルの角を見ていた。
焦点が合っていない。
視線だけがそこに置かれているみたいに、動かない。
チャドの手も止まっている。
拭きかけの床に、濡れた布が置かれたまま。
時計の針が刻む音。
カチ、カチ、と。
その間隔が、妙に歪んで聞こえる。
沈黙。
一つ。
また一つ。
空気の上に積もっていく。
重なって、押し潰す。
その沈黙を破ったのは
「人を、殺した。」
ハーラの声だった。
乾いている。
ひび割れた地面みたいに。
三人の視線が集まる。
逃げ場はなかった。
「みんなの目指す未来を見たいから」
「家族の力になれるなら」
言葉が落ちる。
ぽつり、ぽつりと。
大粒の雨みたいに
止めようとしても止まらない。
「なのに……なのに……」
喉が震える。
「こんなのって、ないじゃん……」
砂漠の向こうにあった未来。
確かに、あったはずのもの。
それが、手の届かない場所へ消えた。
自分は死ななかった。
終わらなかった。
生き残った。
それだけ。
仲間が死ぬのを、見ているしかなかった。
何もできずに。
あのゴミ山で死んでいれば。
せめて誰かを守れていれば。
誇りを持って終われたかもしれない。
なのに
生き残った。
醜く
無様に
「……もう、会えない……」
仲間に。
家族に。
残ったのは、
消えない罪と、
押し潰されるほどの後悔。
言葉を吐き出しきると、内側が空になる。
胃も
心も。
空洞みたいに。
それでも手はズボンを掴み続ける。
離したら、崩れてしまいそうで。
メルソンは何も言えなかった。
反対した。
彼女にこのニュースを見せることを
あの日のように「生きろ」と言える状況ではない。
自分の選択が、彼女をここに縛った。
死なせたくなかった。
ただ、それだけの願い。
その結果が、これだ。
もし本当に彼女のためなら、
あのとき送り出すべきだったのではないか。
答えは出ない。
ただ、過去の自分の軽さを、
静かに噛みしめることしかできなかった。
片手で眼を覆う
この現実から
彼女から眼を逸らしたかった。
悲しみと後悔で満たされた空間の上を
未だかつてない巨大な時間だけが砂漠の冷たい風に乗せられて
茫漠とした星空と共に流れていった。
止めどなく
止めどなく
川を満たす水の流れのように…
U.C.10?年
???海 ???海域 北部
偽装貨物船ヴァリアント 食堂室
「え、志願? パイロット候補にかい?」
静まり返った食堂室に、ハサウェイの声が落ちた。
金属の壁に反響して、わずかに遅れて耳に戻ってくる。
逃げ場のない音だった。
「はい……」
対面の椅子に、ハーラは小さく座っている。
背もたれに体を預けることもできず、浅く腰掛けたまま。
その姿は、ここにいること自体がまだ許されていないようにも見えた。
「そうか、やってくれるのか!」
イラムの声が一瞬、空気を軽くしかける。
だが
その言葉を、ハサウェイは静かに手で制した。
わずかな動き。
それだけで、場の温度が落ちる。
「パイロット“候補”と言っても、緊急時には君も実戦に駆り出されるだろう」
穏やかな声。
だが、その奥にあるものは冷たい。
「時によっては、訓練が十分でない状態のままかもしれない」
言葉が、一つずつ積み上げられていく。
逃げ道を塞ぐように。
「想像してほしい」
一拍。
「360度がディスプレイで覆われた空間」
「敵の砲撃が、背後から飛んでくるかもしれない」
ハーラの視界が、わずかに歪む。
見たこともないはずの光景が、頭の中に浮かびかける。
「いや、動き方を間違えれば、味方からの誤射だってあり得る」
その言葉で、像は崩れる。
代わりに残るのは、得体の知れない恐怖。
「そんな緊迫した状態で、長時間、密閉空間に閉じ込められる」
ハーラの指が、オレンジのカーゴパンツを強く握る。
布越しに、自分の体温が逃げていくような感覚。
胸の奥を、何かに掴まれている。
逃げたい、ではない。
ただ、動けない。
ハサウェイは、淡々と続ける。
「パイロットは、この組織の矛であり、盾とならなければならない」
「君がしくじれば、君の親しい組員が死ぬかもしれない」
その言葉は、脅しではなかった。
「ハサウェイ! ちょっと言い過ぎだよ!」
エメラルダの声が割り込む。
空気を切るように。
「君だって理解しているはずだ」
即答だった。
迷いがない。
「あくまでパイロット“候補”かもしれない」
「だが、死ぬときにパイロットになったことを悔やむようでは遅い」
「これくらいの覚悟は必要だ」
その言葉に、わずかに熱が混じる。
抑え込まれていたものが、滲む。
食堂室に、再び沈黙が落ちる。
誰も、言葉を継げない。
イラムも、エメラルダも、ただ見ているしかなかった。
「それでも、志願するのかい?」
逃げ道はない。
用意されてもいない。
ハサウェイの視線が、真っ直ぐにハーラを貫く。
試すように。
見極めるように。
ハーラの唇が、わずかに震える。
喉が乾く。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
怖い。
それは確かだった。
さっきの言葉が、まだ体の内側に残っている。
閉じ込められる感覚。
逃げられない空間。
誰かを殺すかもしれない現実。
それでも。
それでも
指に力を込める。
震えを押さえ込む。
ここで目を逸らせば、全部が終わる気がした。
「はい」
声は小さい。
だが、確かに前へ出た。
逃げずに。
熱を帯びた瞳が、ハサウェイの目の奥、その一点を捉える。
揺れないように。
逸らさないように。
「そうか……」
ハサウェイの肩から、わずかに力が抜ける。
ほんの一瞬だけ。
だが、その変化は確かにあった。
「とはいえ、まだ候補になれるとは限らない」
現実に引き戻すように、言葉が続く。
「一週間後、君にはシミュレーターでの訓練を受けてもらう」
「そこで、君にパイロット候補としての資質があるか判断することになるだろう」
ハーラの背筋が、すっと伸びる。
自然と。
「それまでは、教官としてエメラルダをつける」
「頼めるな」
「任せなよ」
エメラルダが軽く応じる。
そのまま、ハーラの肩に手を置いた。
温かい。
現実に引き戻すような、確かな重さ。
「とはいえ、志願してくれた勇気には敬意を表するよ」
「僕たちも、その勇気に全力で応えさせてもらう」
ハサウェイが手を差し出す。
ためらいのない動き。
受け入れる側の手。
ハーラの胸が、大きく脈打つ。
怖さは消えていない。
むしろ、さっきよりはっきりしている。
それでも
ここにいていいのだと、初めて思えた。
必要とされている。
その実感が、恐怖の隙間に入り込む。
ハーラは、そっと手を伸ばす。
触れる直前、ほんのわずかに止まる。
それでも。
逃げない。
そのまま
静かに、ハサウェイの手を取った。
その瞬間。
この場所に、自分の居場所が生まれた気がした。
U.C.105年 4月30日 朝
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
クンディラ・リッジ
アーチボルド邸より西に2km…
「本当にここで待つのか」
後部座席に座ったハーラは窓の外を眺めながらゆっくりと首を縦に動かす。
その動きはひどく鈍く、まるで重さを引きずっているようだった。
メルソンはその様子をバックミラー越しに確認する
「そうか…」
短く呟き、ドアを開けた。
ギィ、と軋む音。
同時に、熱気と砂が一気に車内へ流れ込んでくる。
車体がわずかに揺れ、舞い上がった埃が光の中でゆっくりと漂った。
やがて静寂が戻る。
ハーラは、その埃が沈み、ドアトリムに積もっていく様子を、ただ目で追っていた。
時間だけが、そこに留まっているようだった。
「外に連れてってあげたほうがあの子も気が楽になると思うの…」
リリの言葉が、遠くでくぐもる。
だが、ハーラの表情は変わらない。
メルソンの足取りは重かった。
「メルソンの旦那!」
ウッドデッキから身を乗り出した中年の男が声をかける。
「車に乗せてる子、新しい孫ですかい?」
「口を閉じろ、カトゥッロ」
冷たくいうとそのまま食料品店へと入っていった。
「今日はつれないねぇ…」
カトゥッロと呼ばれた男は肩をすくめる。
ドアトリムに積もった埃は朝の光に溶けるように消えていった。
あれからハーラは体勢を変えることなく。
ただ、窓の外を眺めていた。
眺めるのをやめてしまえば、また自分を責め始めてしまう。
だから、やめられなかった
小さく咳払いをするたびに喉の奥に違和感が残る。
胃酸で焼かれた喉はまだ治っていないらしい。
視線が揺れる。
雲を追っていた視線はやがて窓に薄く反射した自分へと移る。
ところどころはねた髪
色落ちした青は、濁った翡翠のようにくすんでいる。
気に入ってたのにな
自分の顔に行き着く前に視線が逸れる。
きっとひどい顔をしているのだろう。
そう感じた。
息が浅い。
車内の空気が、急に薄くなったような錯覚に襲われる。
ドアを開けた。
熱と光が押し寄せる。
砂が肌に当たる。
細かい針で撫でられるような感触。
思わず目を細めた。
周りを見渡す。
車の小さな窓から眺めていたせいだろう。
集落は広く感じた。
道を行く人々はまばらで
脇に並ぶ木造建築は吹き付ける風によりどれも砂を被っていた。
だがどこか活気を感じる町であった。
クンディラ・リッジ
町の名前だろう。
食料品店の看板を見た後視線を右にずらす。
男がいた。
ウッドデッキのロッキングチェアに深々と腰掛けパイプを燻らせている。
目があう。
気まずい沈黙
男は微笑むと隣の椅子をトントンと叩く。
ハーラは躊躇した。
しかし他に行く当てもなかった。
渋々座る。
「見ない顔だな…」
チャドよりも年配だろうか、
髪と髭を長く伸ばし、無造作にまとめている。
「あんた…メルソンの旦那の知り合い?」
口ぶりからして親しいのだろう。
「ん……」
言葉が喉に引っかかる。
「客人ってところだな」
その口調にハーラは覚えがあった。
メルソンに似ている。
チャドが仕草で似るなら、この男は話し方で似ていた。
違うとすれば若干目の前の男のほうが声が高いくらいだろうか。
「一人旅ってやつか?」
そんなハーラの考えに割り込むようにメルソン3号が発する。
「どっから来たよ?」
「……」
呆れた
答えたくなかった。
沈んだ気持ちには彼のテンションは場違いであった。
「そうか…まだ名乗ってなかったな」
彼は見当違いな気を効かせる。
「俺はカトゥッロ」
「この町で"一番"、メルソンの旦那と仲がいい」
警戒を解くように彼はゆっくりと言葉を搾る。
「んであんたはどっからきた?」
前言撤回
本家よりも面倒くさい男であった
しかし名乗られた以上黙ることは出来ないと感じた。
「…ダバオ」
口が勝手に言う
咄嗟に出てきたのはきっと彼のことが頭をよぎったからだろう。
「ダバオか…そりゃ随分と遠いな」
答えてくれたのが嬉しかったのか。
カトゥッロは言葉を味わうように相槌を繰り返す。
「ダバオって言ったらこの間また人狩りがあったんだろ」
「嬢ちゃんも逃げてきた口かい?」
半分正解
勘のいいところも似ていた。
「嬢ちゃんさ…」
反応の悪い少女に男は頭をかく
「ま、いいや」
軽く切り替える。
「突然だが嬢ちゃんよ、自分のルーツって興味ないか…?」
ハーラの反応を待たずに男は続ける。
「ルーツって言っても自分の出身じゃねぇぞ」
「自分の先祖がどっからきたかって話」
ギアが上がる。
「俺はこう見えても、西洋の血を受け継いでてな」
日に焼けた腕を叩く
「旧世紀でいうところの、ラテンって呼ばれた民族の血が濃いらしい」
「って言っても、俺は純血でもないこの土地の先住民との間に生まれた混血だがな」
ハーラは膝を抱え、椅子の上で丸くなる。
騒がしさに、思考がかき消されていく。
指先で、色の抜けた髪をくるくると弄ぶ。
2人の態度の差に流石に熱が冷めたのか男は先ほどよりも冷静な口調で話しかける。
「宇宙世紀になり民族という言葉が表す集団の規模はデカくなっちまったが」
「肌の色という壁は人間は完全には乗り越えられたないらしいな」
「ほら見ろよ」
そう言って彼は新聞を見せる
マフティー・ナビーユ・エリン
大きく書かれた文字に心臓が跳ねた
がそこを隠すように指が一面の端を叩く
サイド2 新築コロニー”ティアレッジ”
東洋系の受け入れ拒否を宣言
東洋系…ハサウェイ…母も東洋系と言っていた
記憶がジワリと染み出す。
ハサウェイ…
マフティー…
「……!」
思わず新聞から目をそらす。
自責が押し寄せるのを感じた。
「ん?」
カトゥッロは新聞の上から覗くように見る。
新聞を雑に畳む。
そしてハーラの顔を覗き込む。
不審に思われたか…
警戒する。
しかし男の反応は予想とは違った。
「へー嬢ちゃんもラテン系か」
男は感心したように漏らす
「目だよほら目!」
指で目を指しながら男は言う
「嬢ちゃんのその黄色の目!ヘーゼルアイって言うんだろ」
「黄色の目はラテンの特徴だ」
「嬢ちゃん…いい目を持ってるなぁ」
男は顔を離すと自分の目を再び指差す
「俺はご覧の通りブラウンになっちまった。なんたって混血だからな」
「だから嬢ちゃんみたいに綺麗な目を引き継げてるのは羨ましいよ」
自嘲気味に
綺麗な目…
自分の目なんて気にしたことがなかった。
ハーラは自分の目の感触を確かめるように瞼を触った。
「ここにいたか」
聞き馴染んだ声
メルソンだった。
「おい!カトゥッロ、お前ハーラに変なこと吹き込んでないよな!」
パイプを吸っていたカトゥッロが横で咳き込む
「なんも言ってねぇよ…なぁ!嬢ちゃん!」
ハーラはそう言う彼に圧倒される
「そっとしといてやれ…そいつは」
言葉が詰まる。
「…日射病気味なんだ」
「帰ろう、夕飯だ」
そう言うと2人は車へと向かう。
「おぉ!俺もお邪魔させていただこうかな…」
「アガっ!」
そう言いかけたカトゥッロの頭に木材が直撃する。
彼の妻だった。
「あんた、家事は?」
「はい……」
彼の声は今日一番弱々しかった。
ドアトリムに腕を乗せる
揺れる振動が腕越しに伝わる。
また窓の外を眺めていた。
「あいつになんか言われたか?」
メルソンの声がした。
「何も…」
短く答える
彼を思い出す。
コンパクトを開く
蜘蛛の巣のように割れた鏡に映る自分の顔
ひどいと言うにはあまりに穏やかな表情。
そんな様子をメルソンはバックミラー越しに見る。
リリの言う通りかもな…
西に大きく傾いた太陽は静かに車の中を温めていた。
U.C.105年 4月30日 夜
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸
アデレードより北西に2200km…
廊下を、軽い足音が駆けてくる。
規則正しく、弾むようなリズム。
イナラだ。
「ハーラおねぇちゃん!」
扉越しにくぐもった声。
次の瞬間、遠慮のない勢いで扉がわずかに開いた。
「おねぇちゃん!」
声が、部屋の空気を一気に塗り替える。
「どうしたの?」
手にしていたコンパクトを、静かに閉じた。
先ほどまで頭に残っていた、カトゥッロの言葉。
その残滓を、無邪気な声が塗り替えようとする。
「あそぼ!」
言葉に合わせて、栗色の髪が跳ねる。
イナラはそのまま床にしゃがみ込み、スケッチブックとクレヨンの箱を広げた。
ハーラは少し躊躇するがやがてゆっくりと床に腰を下ろす。
箱の中に手を伸ばすと、指先に触れたのは
半分に折れた、青だった。
その欠片を、つまみ上げる。
理由は特に無い
胸の奥で、名前のつかない感情が静かに渦を巻く。
どこにも行けないそれを、
せめて形にしようとするように
線を引く。
迷いなく。
ただ、無心に。
線と線がつながる。
閉じる。
その瞬間
「おねぇちゃん!見て見て!」
肩を叩かれた。
「猫ちゃん!」
顔を上げる。
スケッチブックの端。
そこには、猫らしきものが描かれていた。
関節という概念を知らないかのような、歪な楕円の連なり。
太い線で描かれた顔は、どこか不格好で
その瞬間。
記憶が、軋む。
波紋のように広がる過去。
ハーラの唇が、無意識に動く。
「四春……」
U.C.10?年
ユーラシア大陸 東端
旧ホンコンシティ ホンコン島 銅鑼湾 怡和街
秘密結社「マフティー・ナビーユ・エリン」ホンコン地区活動拠点
「ったく!なんでよりにもよって猫なんて拾ってくる!」
苛立ちを隠さない声が、室内に響く。
「どうなんだよ、マフティー」
視線が集まる。
だがハサウェイは、何も言わない。
「同感だ」
代わりに口を開いたのはイラムだった。
「第一に、我々の目的は地球連邦政府に宇宙移民法の完遂を要求することだ。
この先、武力を行使せざるを得ない局面も来る。
そのとき、たとえ猫だろうと無関係の命を巻き込むことは
地球環境の保全を掲げる我々の理念に反する」
一拍。
「……そういうことだろ、ハサウェイ」
視線が向けられる。
「ああ……そうだ」
短い肯定。
それ以上は何も語らない。
今朝、東区で捨てられていた猫が見つかった。
命に別状はなかった。
だが、それを見つけた組員は見過ごせず、拠点の一角で密かに世話をしていたという。
「この拠点も、いつまでも安全じゃない」
ガウマンが口をひらく
「摘発されるとなれば移動を強いられる」
「そんな状況で、こいつを連れていけるのか」
言葉は正しい。
だからこそ、重い。
だが
誰一人として、目の前の小さな命から視線を外せなかった。
ハーラも同じだった。
理解している。
ガウマンやイラムの言葉は、正しい。
それでも。
一度人の手に触れた命が
再び野生で生きていけるとは思えなかった。
沈黙が落ちる。
「俺が面倒を見る」
その静寂を破ったのは、ウェッジだった。
「おい……」
呆れを含んだ声。
「わかってる」
ウェッジは言葉を続ける。
「こいつはもう、“待てば餌が来る”って覚えちまったんだ。
それを外に戻せば、待ち続けてそのまま死ぬ」
誰も否定しない。
「俺の船なら、多少はどうにかなる」
そして、わずかに笑った。
「それに」
間。
「この組織には、幸運の女神が必要だろ?」
ダンボールの中の小さな命を、そっと持ち上げる。
頼りない呼吸。
それでも確かに、生きている。
「飼うんじゃなくて、保護するってこと」
ハーラが呟く。
「そうだ!」
「……言い方の問題だな」
ガウマンも、完全には否定しなかった。
「そうなると名前だな」
軽口のようにイラムが言う。
「もう決めてある」
ウェッジは猫の背を撫でる。
「 今日からこいつはフォーチュン(四春)だ!」
time rewinds...
U.C.105年 4月25日 昼
偽装貨物船ヴァリアント 後部格納庫内
「ファースト・ギャルセゾン発進! 続いてサード、発艦準備を急げ!」
「客員、機体への地形データの入力を怠るな!」
「人員はAキャビン、物資はBキャビンだ!」
整備班の慌ただしい足音と、積載されるカーゴの金属音が格納庫に響く。
すべてが動いている。
止まっているのは、自分だけのようだった。
ハーラは、格納されたメッサーの脇に置かれた折りたたみ式のアウトドアチェアに、パイロットスーツを着崩したまま腰掛けていた。
この先、補給ポイントを経由しながらオーストラリア大陸を縦断し、アデレードを目指す。
このヴァリアントともしばらく離れる。
気づけば、格納庫の隅々までを焼き付けるように視線が動いている。
理由は、分からない。
ただ、見ておかなければならない気がした。
その時、足元に柔らかいものが触れる。
視線を落とす。
四春だった。
両足の間を、8の字を描くように何度も体を擦り付けている。
「……見送り?」
小さく、笑うように言う。
そっと指を差し出す。
四春はその匂いを確かめると、迷いなく身を預けてきた。
温かい。
柔らかい。
その感触が、やけに指に残る。
拾った頃は、片手に収まるほど小さかったのに。
今では、ずいぶんと重くなった。
少しだけ、だらしなくて。
それが、なんだか安心できた。
記憶をなぞるように、毛並みに沿って手を動かす。
手を止めるたびに、四春は顔を上げる。
何かを確かめるように。
離れていないかを、確かめるように。
「……そんな顔しないでよ」
思わず、こぼれる。
「行きづらくなるじゃん」
笑ったつもりだった。
けれど、声は少しだけ掠れていた。
「ハーラ! 出番だぞ!」
呼び声が飛ぶ。
現実が、引き戻す。
「……うん、今行く」
立ち上がる。
ヘルメットを掴む。
足が、自然と前に出る。
ふと。
視線が、後ろへ引かれる。
アウトドアチェアの上。
四春が、座っていた。
行儀よく。
ただ、じっと。
鳴かない。
動かない。
ただ、見ている。
その視線に、足が止まる。
理由は分からない。
けれど
戻らなければいけない気がした。
ハーラは引き返す。
歩幅が、さっきより少し小さい。
ヘルメットを床に置く。
しゃがみ込む。
目線を合わせる。
近い。
さっきよりも、ずっと近い。
指を伸ばす。
最後のひと撫で。
ゆっくりと。
時間を確かめるみたいに。
帰ってきたら。
また、こうして触れられる。
そう、信じているはずなのに。
どうしてか。
少しだけ、手が離れにくかった。
「……いってくるね」
小さく、言う。
返事はない。
ただ、見ている。
そのまま、立ち上がる。
今度は振り返らない。
振り返ったら、動けなくなる気がした。
機体へ向かって走る。
足音が、やけに大きく響く。
格納庫の喧騒が、少し遠くなる。
また会える。
そう思っている。
疑っていない。
それでも。
さっきの温もりだけが、指先に残っていた。
消えないまま。
ずっと。
あの子は
今どうしているのだろうか。
答えのない問いだけが、静かに巡る。
「ハーラおねぇちゃん!おねぇちゃん!」
遠くから、声が引き戻す。
「おねぇちゃんってば!」
肩が揺れる。
「あれ……?」
視界が戻る
砂漠の夜
現実
「イナラの話、聞いてた?」
頬を膨らませる少女。
「もう一回お願い」
やさしく言うと、
「おねぇちゃんは、本物の猫見たことある?」
予想外の問いだった。
猫なんてどこにでもいる。
そう思っていた。
それでも、頷く。
「いいなぁ……」
小さな声。
「イナラも見てみたいなぁ」
その一言で、理解する。
「どこで見れるのかなぁ。動物園かな!」
足をぶらつかせながら、夢想する姿。
その無垢さが、痛いほど眩しい。
教えたい。
四春のことを
自分たちのことを
「私が飼ってた猫の話、聞きたい?」
小さく、差し出すように言う。
ぱっと、顔が輝く。
「うん!うん!」
何度も頷く。
「じゃあ、こっちにおいで」
手で抱き寄せる。
温もり。
抱き寄せられたイナラは徐にハーラの手を撫でた
「おねぇちゃんの手大きい!」
私の手は、汚れているんだよ。
心の中で呟いた言葉をかき消すように、イナラがハーラの膝に頭を預けてくる。
「おねぇちゃん、いい匂いがする。おひさまの匂い」
その瞬間
「本当のおねぇちゃんみたいだって」
ハーラの脳内にリリの言葉が反響する。
彼女たちにとって、ハーラはマフティーでも、パイロットでもなかった。
ただの、優しくて少し寂しげな「お姉ちゃん」。
子供たちの純粋な瞳に映る自分を見るうちに、ハーラは気づかされる。
過去の罪を数え続けることよりも
目の前の小さな手を握り返すことの方が
ずっと難しく
そして尊い
彼女はそっと、震える指でイナラの柔らかい髪を撫でた。
失わなかったもの。
スケッチブックの端。
歪な猫が、
まるでそれを知っているかのように
静かに、姉妹を見守っていた。
U.C.105年 4月30日 深夜
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
クンディラ・リッジ
パブリックハウス「オールド・ランタン」
低くくすぶるような灯りが、店内を橙色に染めていた。
砂漠の夜気を引きずった客たちのざわめきと、
グラスが触れ合う乾いた音が、ゆるやかに混じり合っている。
「どうしたんですかい、旦那。いきなり呼び出すなんて」
卓についたカトゥッロが、開口一番に放つ。
メルソンは答えない。
ただ、提供されたスクーナーグラスを手に取ると、
注がれたビールを、行き場のない言葉ごと喉へ流し込んだ。
苦い。
舌に残る泡のざらつき。
喉に落ちていく重み。
いつもなら、何でもない味のはずだった。
だが今日は、その苦さがやけに残る。
飲み込んだはずのものが、どこにも消えていかない。
「昼間は悪かったな……」
小さく、押し出すように呟く。
「らしくないねぇ……俺に謝るなんて、らしくない」
カトゥッロは笑いながら、口の中で「らしくない」と繰り返す。
その声音には、わずかな違和感が混じっていた。
メルソンはため息をつき、頭を掻く。
「カトゥッロ。お前のところの娘、今年でいくつになる」
「今年で……19ですかねぇ」
指折り数える仕草。
どこにでもある、ありふれた日常の一コマ。
「連絡は取ってるのか……」
「えぇ……週末には必ず」
「そうか……」
それだけで、言葉が途切れる。
カウンターの上に、沈黙がゆっくりと積もっていく。
メルソンはグラスの縁を指でなぞりながら、
どう切り出すべきか、頭の中で言葉を巡らせていた。
だが、形にならない。
「実にらしくねぇな、旦那。相談があるから呼び出した――そうなんでしょ?」
沈黙。
肯定も否定もない。
それが、そのまま答えだった。
カトゥッロは、痺れを切らしたように長い髭を撫でる。
「あの昼間の嬢ちゃん、違いますかい?」
「あぁ……」
短い返事。
それ以上は続かない。
「日射病ねぇ……」
わざとらしく肩をすくめる。
「なんとなく分かってますよ。彼女、軍人でしょ……」
「手を見れば分かりますよ。同業者くらい」
メルソンは、わずかに首を振る。
「少し違う……」
そう言って、天井に吊るされたテレビを小さく指差した。
画面には、黒煙を上げるアデレード市街。
崩れた建造物。
走る影。
遠くの出来事のはずなのに、
その光景は妙に生々しく映る。
カトゥッロの表情が固まる。
「本気ですかい?」
思わず声が大きくなる。
すぐに我に返り、周囲に頭を下げる。
「俺たちを地球から追い出そうとしてる連中ですよ」
低く、抑えた声。
だが、その奥にははっきりとした拒絶があった。
「それは組織であって、彼女自身じゃない」
メルソンは視線を外さずに言う。
「あんた……本気で言ってるのか?」
「本気だ……」
その目には、迷いがなかった。
カトゥッロは息を吐く。
「そうか……あんな子が」
理解と納得は、別のものだった。
「でも、なんでここに」
「さぁな……」
答えにならない答え。
カトゥッロは小皿のナッツを取り、掌の上で転がす。
乾いた音が、わずかに響く。
「俺は、あいつとあいつの仲間を引き裂いちまった」
メルソンの声は低い。
「自分のエゴのせいで……」
「その結末がこれさ」
視線は、カウンターの木目に落ちていた。
過去から目を逸らすように。
「……」
カトゥッロの手が止まる。
「後悔してるんですかい?」
「あぁ……かもな……」
曖昧な肯定。
だが、その曖昧さこそが本音だった。
「それは無責任ってもんでしょ」
メルソンは顔を上げる。
「無責任?」
「でしょうに……あんたは、あの子を危険も承知で家に受け入れた」
「なのに今さら、後悔しただって?」
拳が机に叩きつけられる。
鈍い音。
「確かにねぇ……引き留めなければ結果は違ったかもしれねぇ」
「過去を悔やむのなんて簡単でしょうに」
「でもねぇ……そんなことしたって、明日は来るんですよ。ほらっ!」
立ち上がり、時計を指す。
5月1日、深夜。
針はすでに、0時を回っていた。
「一度引き留めたなら、最後まで可愛がってやんなさいよ」
席に座り直しながら、吐き捨てるように言う。
「それに……あの子にはもう、あんたしかいないかもしれないでしょ……」
その言葉は、静かに突き刺さった。
メルソンは何も言えない。
ただ、受け止めるしかない。
「でも、あいつの気持ちは……」
かろうじて出た言葉。
「直接、聞いたらどうです?」
即答だった。
「だが……」
「俺はもう行きますからね、旦那。支払い頼みますよ」
それ以上は聞かない、というように。
カトゥッロは空のグラスを残し、店を出ていった。
扉が閉まる。
外の夜気が、一瞬だけ入り込む。
再び、店内のざわめきが戻る。
だが――
メルソンの周りだけ、音が遠かった。
残されたグラスを、両手で握る。
冷たい。
現実だけが、そこにあった。
グラスを強く握る。
指先が白くなる。
苦さが、喉の奥に絡みついたまま、離れなかった。
U.C.10?年
「あぁ、ハーラ!」
呼ばれて振り返る。
「ハサウェイ?」
慎重に、喉から言葉を取り出す。
その名前を呼ぶたび、どこかで一拍遅れる自分がいる。
「メッサー6のことだが」
そう言うと、彼は私の背後へ目をやる。
「はい……今なら」
心臓の鼓動が、わずかに速くなる。
理由はわかっている。
だからこそ、知らないふりをした。
「そうか」
彼は何事もないように続ける。
「テール・スタビライザーだが、推力について改善の兆しは見えないそうだ。」
「やはり、換装しかないだろうな」
「そうですか……」
視線を落とす。
目を合わせれば、余計なものまで見透かされそうで。
彼は体の向きをこちらに向ける。
「ダナンの連絡員を介して、この先のポイントでの補給を要請している。」
「しかし、彼らのことを考えると、我々の到着までに間に合わせるのは現実的ではないだろう。」
「しばらくは鹵獲したもので堪えてもらうことになるが……」
言葉はすべて正しい。
だから、安心する。
そこに、私個人が入り込む余地はない。
「操縦訓練は?」
視線が合う。
近い。
「すでにマクシミリアンには話をつけてある」
「明後日、安全な海域に出たと同時に、ギャルセゾンの追随のもと操縦訓練を行う。」
「と言っても、実際に操縦する訳ではない」
「まずは、実際に飛行する機体の雰囲気に慣れてもらう」
「シュミレーターとは違うと言うことを体に教え込むんだ」
「操縦は僕が引き受けるが、よかったかい?」
一瞬、時間が止まる。
近くにいる理由が増えることに、
ほんの少しだけ期待してしまった自分に気づく。
「……はい」
それ以上は言えなかった。
ハーラの返事に、彼は微笑む。
ああ、この人は。
誰にでも、こうやって笑うのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに冷える。
「気負うなよ、君はこれまでの訓練で優秀な結果を残してきたじゃないか」
「期待している」
そう言うと、彼は来た通路を駆け足で戻っていった。
引き止める理由は、ない。
期待している。
その言葉が、頭の中で繰り返される。
訓練に対しての言葉。
それ以上でも、それ以下でもない。
わかっている。
それでも。
胸の奥に、熱が残る。
消えきらない。
指先で頬に触れると、わずかに温かい。
こんなことで揺れる自分が、ひどく幼く思える。
……違う。
そうじゃない。
ただ、あの言葉が
少しだけ、自分に向けられたものだと錯覚しただけだ。
小さく息を吐く。
髪に触れる指が、わずかに震えていた。
期待している……か。
その言葉ひとつで、足取りが軽くなるなんて。
そんな自分を、誰にも知られたくない。
知られてはいけない。
ここでは。
それでも。
ほんの少しだけ。
嬉しかったことは、否定できなかった。
ハーラの足取りは、軽くなりかけて
すぐに、元に戻った。
U.C.105年 5月1日 昼
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド私営クリーンセンター
アデレードより北西に2200km。
あるはずのものが、消えている。
メッサー6。
金属の巨体。
だが、それだけではなかった。
あれは、自分の延長のようなものだった。
その不在が、現実として静かに横たわっている。
抉られた地面だけが残る。
深く。
鋭く。
簡単には埋まりそうにない形。
「寂しいか?」
遠くから声がする。
振り向かなくてもわかる。
「"別に..."」
言葉は静かだった。
だが、視線は動かない。
窪みから離れない。
「"別に"って顔じゃないと思うがな」
そういうとメルソンは窪みの縁にこしかける。
踏み込まない距離。
「その……気分はどうだ……」
メルソンは珍しく、言葉を選んでいる。
ハーラは少しだけ考える。
だが、すぐにやめる。
「わからない」
それ以上の言葉は、まだ形を持たない。
胸の奥の触れられない部分を知る限りの言葉がめぐる。
メルソンは何も言わない。
それでいい、と思えた。
風が砂を運ぶ。
乾いた音が、足元を流れていく。
「メルソン」
「……なんだ」
「私のこと……どうすればよかったと思う?」
その問いは、静かに落ちた。
逃げ場のない場所に。
男の呼吸が、わずかに止まる。
「ここに来た日から、ずっと考えてる」
「私が死んでいたら、もっとよかったのかな」
軽い声だった。
感情が、ほとんど乗っていない。
それが逆に、重く響く。
しばらくの沈黙
徐に
「分からない」
「俺に聞いたって……」
メルソンは言い淀む。
視線が、窪みに落ちる。
「ヘイリー……」
ふと、零れた名前。
ハーラの視線が向く。
「俺の妻だ」
「もういないがな」
その言葉に、余計な説明はない。
「……あいつは最後まで強い女性だった」
風が、少しだけ強くなる。
「最後まで俺を励まし続けてくれた。病床に伏しているのはあいつの方なのにな」
記憶をなぞるような声。
「でもあいつはな、息を引き取る前にこう言ったんだよ」
わずかな間。
「怖いから手を握っててくれってな」
静かに落ちる言葉。
砂の音だけが残る。
「その時思ったんだ。」
「どんなに強い人でもな、人である限り死ぬことはみんな怖いんじゃないかってな」
ハーラの指先が、わずかに強張る。
無意識に。
あの日墜落する機体のコックピット
イグニションポッドの発火レバー
力を込めた瞬間
死ぬのが怖かった
決して運が良かったからじゃない
「メルソン……私、いつまでここにいていいの?」
答えを知るのが怖くて、伏し目がちに尋ねた。
メルソンは遠くの地平線を見つめた。
「砂漠に終わりがないように」
「ここにも期限なんてない」
「お前が『いらない』と思うまで」
「俺たちはお前の家族だ」
それ以上の言葉はなかったが、ハーラには分かった。
彼は、ハーラの過去を詮索しない。
彼女が何を失い
何を悔いているかを知った上で
ただそこに「居場所」を置き続けてくれている。
張り詰めていた心の糸が、音を立てて緩んだ。
ハーラはメルソンの隣で、静かに砂漠の風を吸い込んだ。
それは墜落したあの日、絶望の中で吸った風よりも、ずっと軽やかだった。
沈黙。
風が鳴る。
砂が鳴る。
ハーラは窪みに視線を落とした。
そこにあったもの。
失ったもの。
それでも。
あのとき、自分は。
生きることを選んだ。
「守りたいなら生きろ」
「そして忘れるな」
メルソンの声が過ぎる
それが生き残ったものの定めだとするなら
自分がこれからすべきことをこの場所はゆっくりと教えてくれた。
「それとも...ここに来たことを後悔してるか?」
メルソンも目を伏せていた。
ハーラと同じく答えを知る事を恐れる目
「……後悔は」
言葉を選んだ。
「してない」
小さく。
だが、確かに。
メルソンは何も言わない。
ただ、肩から力が抜ける。
ほんのわずかに。
「そうか」
低く、短く答える。
それ以上は、踏み込まなかった。
気づけば2人は同じ方向を見ていた。
「これ……」
差し出された手。
無骨な金属製のブレスレットだった。
「メッサーを解体した時に中のパーツを溶かして作ったものだ」
「お前を守ってくれた相棒だろ」
「忘れてやるなよ」
説明は、それだけ。
ハーラは受け取る。
腕につける。
違和感はない。
最初からそこにあったみたいに、すっと馴染んだ。
メルソンはそれを一瞬だけ見て、視線を外す。
それでいい。
「昼飯の時間だ」
ぶっきらぼうに言う。
「そういえばな、お前がここにきた時からリリが嫌いなものはないかって心配してたぞ」
「ない」
「そうか」
メルソンはそういうと立ち上がる。
ハーラもそれに続く。
数歩進んだところで振り返った。
窪み。
砂が、流れ込んでいる。
少しずつ。
完全には消えない。
だが、残り続けるわけでもない。
それを確かめるように見つめてから、
ハーラは前を向く。
メルソンは振り返らない。
もう、確かめる必要はない。
傷ついた心は、完全に治ったわけではない。
けれど、この砂漠の家族となら
その傷を抱えたまま
笑い合える日が来ることを信じられる。
そんな気がした。
U.C.105年 5月1日 夜
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
アーチボルド邸より西に2km…
「先月28日に発生したアデレードでの、反地球連邦政府組織『マフティー・ナビーユ・エリン』による連邦議会襲撃事件を受け――」
テレビから流れる声は、妙に澄んでいた。
感情を削ぎ落とした、均一な音。
「先ほど、地球連邦政府および連邦軍参謀本部が合同で声明を発表しました」
リビングにいる誰もが、動かない。
空気が、わずかに重い。
「声明によりますと、今回の襲撃は同組織の実働部隊による計画的な行動であると断定しています」
言葉が、逃げ場を与えずに落ちてくる。
「さらに注目されているのは、組織名にもなっている事実上の指導者『マフティー・ナビーユ・エリン』の正体についての記載です」
「軍は、この人物が宇宙軍独立第13部隊『ラー・カイラム』艦長、ブライト・ノア大佐の実子――」
一瞬、間が空く。
わずかな溜め。
「ハサウェイ・ノア氏であると公表しました」
その名が、部屋の奥まで沈んだ。
「さらに、ハサウェイ・ノア氏の処刑に――」
音が途切れる。
リビングを、深い沈黙が包んだ。
それは、何かを失った静けさではない。
衝撃が、言葉になる前に止まっているだけの沈黙だった。
ハサウェイ・ノア。
一年戦争の英雄「アムロ・レイ」の盟友「ブライト・ノア」の息子。
その名前が、こんな形で突きつけられるとは。
メルソンの手にあったティースプーンが、ゆっくりと傾く。
指先から力が抜けていく。
金属が床に触れ、小さく乾いた音を立てた。
その音だけが、やけに鮮明だった。
リリは、隣に座るハーラに視線を向ける。
問いかけではない。
ただ、確かめるように。
壊れていないかを。
しかしハーラは、その視線に応えなかった。
ただ、画面を見ている。
まっすぐに。
その奥に
過去を見ているかのように。
U.C.10?年
偽造貨物船ヴァリアント 前部格納庫内
油と金属の匂い。
まだ熱を持つ機体が、低く軋む。
「ハーラ、お疲れさん」
振り向くと、エメラルダがいた。
「疲れただろう? ほら、飲みなよ」
差し出されたペットボトル。
透明な水が、かすかに揺れている。
「ありがとうございます」
受け取る手に、まだ戦闘の余韻が残っていた。
わずかに震えている。
「聞いたぜ、初陣で1機撃墜なんだってな。やるじゃねぇか」
ガウマンの声が飛ぶ。
周囲の視線が、一斉に集まる。
「まるでどこかの誰かさんみたいだな」
ヘンドリクスが肩をすくめる。
「それってハサウェイのことだろ」
ゴルフが割り込む。
「僕がどうしたって?」
ゴルフが声にならない声を上げる
「ハーラ。先の戦闘では見事な活躍だった」
真正面からの言葉。
「君のようにパイロットに志願してくれる人は、なかなかいなくてね」
一歩、距離が近い。
「我々のために戦ってくれてありがとう」
視線が合う。
「そ、そんな……」
頬が一気に熱を帯びる。
逃げ場がない。
「なかなかないぞ、ハサウェイ直々にそう言ってもらえるなんて」
ロッドの声が背後から飛ぶ。
「もっと胸張りなよ」
エメラルダの手が肩を叩く。
現実に引き戻される。
ハサウェイは、わずかに微笑む。
そして声を上げる。
「改めて、ハーラをメッサー6のパイロットとして歓迎する!」
格納庫に声が反響する。
その中心に、自分が確かにいた。
U.C.105年 5月2日 朝
オーストラリア大陸 グレートサンディ砂漠
クンディラ・リッジ
アーチボルド邸
乾いた風が、砂を撫でていく。
「本当に知らないか!」
声が、空気を切る。
「背はこのくらいで、金髪に青のメッシュが入った」
「だから……知らないな……」
何度目かのやり取り。
同じ答え。
「そうか……」
ヘンドリクスの肩が落ちる。
足元の砂が、わずかに崩れる。
ここまで来たのに。
その思いだけが、胸に沈んでいく。
視界が、色を失っていくようだった。
ふと、顔を上げる。
古びた看板。
「クンディラ・リッジ」
見覚えのない地名。
だが、ここが境界のように思えた。
ウッドデッキに腰を下ろす。
体が、重い。
「なぁ……にぃちゃん」
背後からの声。
振り返る。
男がいた。
「女の子を探してるんだってな」
ロッキングチェアが、ゆっくりと揺れる。
木が軋む音が、妙に長く残った。
「喧嘩別れってやつかい?」
「そんな関係じゃ……仲間なんだ。色々あって、ここに置いてきてしまって」
言いながら、自分の言葉にわずかな違和感を覚える。
“置いてきた”
その言葉が、胸の奥に引っかかったまま沈まない。
男は笑った。
「置いてっただって? そりゃ彼女さんもカンカンだろうな」
パイプの煙が、ゆっくりと広がる。
乾いた空気の中で、それだけがやけに重く見えた。
ヘンドリクスの指先に、力が入る。
男はそれに気づいたのか、小さく咳払いをする。
「探してる女って、こんな髪型か?」
長い髪を持ち上げ、無理やりツインテールの形を作る。
「あんた、知ってるのか?」
声が、少しだけ前のめりになる。
男は、目の前の青年をじっと見る。
試すように。
確かめるように。
「ここより東に2kmほど行ったところに、ゴミ処理施設がある」
「そこに行けばわかるんじゃねぇかな」
その言葉を聞いた瞬間、ヘンドリクスの視界が一瞬だけ開ける。
考えるより先に、体が動く。
東へ。
ただ、それだけを頼りに。
足が、もつれる。
それでも止まらない。
「おい、待ちな!」
背後からの声。
「にぃちゃん……その足で行くつもりか?」
言われて初めて、自分の足元を見る。
血が、滲んでいる。
砂に吸われ、色を失いながらも、確かにそこにある。
気づいた瞬間。
遅れて、痛みが追いつく。
重さと、疲労が一気にのしかかる。
それでも
「乗ってけよ。金は取らねぇからさ」
差し出された言葉に、ほんの一瞬だけ迷う。
だが、頷いた。
U.C.105年 5月2日
アーチボルド邸
玄関の呼び鈴が鳴る。
静かな家の中で、その音だけが浮いていた。
わずかに扉を開ける。
カトゥッロだった。
「今夜はお前と飲んでる暇はないぞ」
扉を開けながら、ぶっきらぼうに言う。
「まぁ待てよ旦那、ハーラに会いたいって男が来てるんだ」
その声は、わずかに重い。
言葉の奥に、何かを含んでいる。
メルソンは小さく唸る。
短く、低く。
そして、リリとチャドに視線を送る。
言葉はいらない。
それで伝わる。
外に出る。
乾いた空気が、わずかに温度を持って頬に触れた。
「ヘンドリクス・ハイヨーと言います」
立っている男は、どこか歪んで見えた。
姿勢が崩れているわけではない。
だが、何かが削れている。
「何しにきた」
短く、冷たく。
「人を探してて」
息が少し荒い。
「金髪のブルーのメッシュを入れた女性、見ませんでしたか……?」
「知らないな……」
間を置かずに返す。
ヘンドリクスの表情が、わずかに固まる。
「でも、この方がここに来れば分かるって」
「それはそいつが勝手に言ったことだろう」
突き放す。
距離を保つための言葉。
メルソンの目は、相手の全身を見ていた。
傷。
歩き方。
呼吸。
そして、言葉の選び方。
信用できるか?
答えは、まだ出ない。
「お願いします。教えていただけませんか?」
一歩、踏み込む。
「身元を明らかにしてから来てくれ」
チャドが割り込む。
正論。
逃げ場のない言葉。
「……!」
ヘンドリクスの喉が詰まる。
言えない。
言えば、すべてが崩れる。
その迷いが、空気に滲む。
「お願いします……」
小さく、押し出すような声。
「俺の大切な……家族みたいなものなんです!」
そう言って、メルソンの手を掴む。
強くはない。
だが、離さない。
“家族”
その言葉が、メルソンの内側に触れる。
一瞬だけ。
ほんのわずかに。
揺れる。
そのとき。
「もういいよ」
風のような声。
冷たくも、優しくもない。
ただ、まっすぐな声。
全員の視線が、そちらへ向く。
「ハーラ……」
ヘンドリクスの足が動く。
一歩。
また一歩。
崩れそうな足。
それでも、止まらない。
距離を詰めるたびに、現実が近づいてくる。
手を伸ばす。
触れる前に、確かめるように。
幻ではないかと。
空気を掻き分けるように。
呼吸が震える。
喉が閉まる。
そして。
抱きしめた。
力いっぱい。
壊れそうなほどに。
「すまない……! 本当に……すまなかった!」
言葉が、止まらない。
「迎えに戻れなくて……ごめんよ……」
繰り返す。
何度も。
同じ言葉を。
ハーラは、その腕の中で空を見ていた。
視線は遠い。
だが、逃げてはいない。
腕の力が、少し強くなる。
その重さで。
ようやく、現実が沈んでくる。
この世界でたった一人、自分の「生存という罪」を分かち合える相手。
ヘンドリクスの啜り泣きを、ハーラは己の罪を噛みしめるように受け入れた。
癒えなくていい。
許されなくていい。
互いの存在が、仲間への裏切りを思い起こさせる「傷跡」であるなら
その痛みを分かち合うことでしか、二人は生を繋ぐことができない。
瞳が揺れる。
「ごめん……私も……何にもできなくて……」
声が、ほどける。
「ごめん……ごめんなさい……」
言葉が溢れる。
止まらない。
ハーラの中にあったものが、形を持たずに流れ出す。
もういない“家族たち”の気配が、背後に重なる。
ハーラの腕が、ゆっくりとヘンドリクスを受け入れる。
二人の間にあった時間が、ようやく繋がったように見えた。
その様子を、メルソンは少し離れた場所から見ていた。
何も言わない。
ただ、視線だけがそこにある。
握られていた自分の手。
いつの間にか、力が抜けていた。
指先がわずかに震えていることに、遅れて気づく。
終わったのか。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
張り詰めていたものが、音もなく緩んでいく。
それが安堵だと理解するまでに、少し時間がかかった。
視線を逸らす。
二人の姿を、これ以上見てはいけないような気がした。
自分が立ち入る場所ではない。
そう思いながらも、完全に背を向けることはできない。
ほんの一瞬だけ。
もう一度だけ、確かめる。
ハーラがそこにいることを。
確かに、自分の意思でここに立っていることを。
それを確認して、ようやく息を吐いた。
短く。
だが、深く。
肩の力が抜ける。
気づかれない程度に。
誰にも見せないように。
「……よかったな」
誰に向けたものでもない、小さな声だった。
風に紛れて、すぐに消える。
それでも、その言葉だけは確かにそこに残った。
メルソンは視線を外す。
もう、確かめる必要はなかった。
風が、三人の間を通り抜ける。
乾いた砂をさらいながら。
しかしその温度は、どこか柔らかい。
やがて、ヘンドリクスの腕の力が少しだけ緩む。
名残を残しながら。
ハーラもまた、ゆっくりと距離を取る。
完全には離れない。
まだ、その温度を手放さないように。
「じゃあロッドも」
「あぁ、救難信号が出てないってことはそう言うことだろう」
「みんないなくなっちゃった」
「あぁ、そうだな」
2人は視線を落とす。
「ヘンドリクスはこれからどうするの」
「さぁな、今更帰る場所なんて」
その瞬間
遠くで、声が弾ける
「ハーラおねぇちゃん!」
無邪気な足音が、砂を蹴る。
オーリーとイナラだ。
2人は足に飛びつく
しかし、ヘンドリクスに気づくと足の陰に隠れた
ヘンドリクスは、小さく息を吐いた。
そして、わずかに笑う。
「……居場所、見つかったんだな」
その言葉は、どこか他人事のようで。
同時に、自分自身に向けたものでもあった。
ハーラは、静かに手を差し出す。
「おいでよ……」
一度だけ、振り返る。
過去の方へ。
もう戻らない場所へ。
そして、向き直る。
「家族が歓迎するよ」
彼女の足にまとわりつくイナラとオーリー。
その小さくて温かい存在を、ハーラは今の自分の「翼」だと感じていた。
二度と空は飛べない。
メッサーも、ハサウェイも、エメラルダも、もういない。
腕に輝く、メッサーの欠片のブレスレット。
砂漠の風は相変わらず乾いているが、ヘンドリクスの手を引くハーラの指先には、確かな力が宿っていた。
砂に消えていく窪み。
空に消えた閃光。
それらすべてを抱えて、少女は砂漠の家へと歩き出す。
影が二つ重なり、やがてメルソンたちが待つ扉の光の中に、静かに溶けていった。
〜終〜
最後までご視聴頂きありがとうございました。
このような素敵なキャラクターに出会わせてくれた「閃光のハサウェイ」という映画と原作の生みの親である富野由悠季監督、劇場版の監督であられる村瀬修功監督、そして素敵なキャラクターに仕上げて下さったPablo Uchidaさんに感謝するばかりです。