銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
首相官邸の地下深くに設けられた既存技術外事象評価セルの会議室は、分厚い隔壁によって外界の喧騒から完全に切り離されている。
長机の上には、赤城山の石室から回収された古びた木札――《時渡りの通行手形》に関する非公開の解析レポートと、出雲の地下に眠る《魂の庭》との定例対話記録が、厳重な管理コード付きのファイルに収められて並んでいた。
冷めた紅茶のカップをソーサーに置いた矢崎薫総理は、向かいに座る沖田室長と、パイプ椅子に浅く腰掛けて資料をめくっている月刊ムーの三神編集長へ視線を向け、ふと思い出したように口元を綻ばせた。
「そういえば、この前の出雲での定例対話でね。三代将軍の家光公から、とても興味深い昔話を伺ったのよ」
タブレット端末の画面をスクロールしていた沖田が、指を止めて顔を上げた。
「家光公……徳川三代将軍の、ですか」
「ええ。赤城山に埋められていたあの木札を、ご自身が初めてお使いになった時の顛末よ」
沖田は手元のファイルに目を落とした。初代・家康と十五代・慶喜があの通行手形を用いて「時の向こう側の人間」を呼び出していた事実はすでに確認されているが、その間の歴代将軍たちがどのように秘宝を引き継ぎ、いかなる距離感で運用していたのかについては、まだ空白の部分が多い。
三神が、眼鏡の奥の目をきらりと光らせて身を乗り出した。
「ほう。天下の体制を盤石にした三代将軍が、未来人とどのような対話をなさったのか。それはぜひとも拝聴したいですね」
矢崎総理は、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「家光公はね。その時呼び出した未来の人間から、『生成AI』というものについて詳しく説明を受けたそうなの」
会議室に、数秒間の奇妙な空白が落ちた。
「…………生成AI、ですか?」
沖田が、自分の耳を疑うように眉根を寄せた。
隣で缶コーヒーを手に取ろうとしていた三神も、その手を止めて目を丸くしている。
「……徳川家光公が、ですか?」
「ええ。ご本人の口から、はっきりとそう仰ったわ」
「あの、我々が普段使っているチャットボットのような、文章や回答を自動生成する人工知能のことですよね?」
「ええ。当時の言葉に置き換えながら聞いたそうだけれど、特徴を伺う限り、間違いなく現代の生成AIのことだったわね」
三神は一拍置いた後、堪えきれないといった様子で肩を震わせて笑い出した。
「いやあ、これは一本取られましたね! まさか江戸初期の三代将軍が、何百年も先の人工知能の概念をご存じだったとは! 歴史学者が聞いたら卒倒どころか泡を吹いて倒れますよ」
もちろん、江戸時代にコンピュータが存在したわけではないし、家光が実際に画面を見たわけでもない。ただ、時の向こうから招かれた現代人が、自分たちの時代の「知恵の借り方」としてそれを口にしたというだけの話だ。
だが、矢崎総理の表情には、単なる珍談を紹介する以上の静かな色が浮かんでいた。
「しかもね、三神さん。その生成AIの話を聞いたことがきっかけで、家光公はあの《時渡りの通行手形》に対する考え方と扱い方を、根本から改められたらしいのよ」
笑いを収めた三神が、鋭い観察者の顔に戻って顎に手を当てた。
「……扱い方を変えた。それはまた、どういう経緯で?」
「なんでも、寛永十一年の夜のことだったそうよ――」
***
寛永十一年(一六三四年)。江戸城、奥の書院。
深夜の静寂が城内を深く包み込む中、三代将軍・徳川家光は、人払いをした一室でただ一人、文机の上に広げられた膨大な書き付けに目を落としていた。
燭台の蝋燭が時折パチリと小さな音を立てて爆ぜ、揺れる炎が若き天下人の横顔を照らし出している。
机上に並んでいるのは、諸大名の江戸参勤に関する記録の数々であった。いずれの大名がいつ江戸へ上り、どれほどの期間屋敷に留まり、いつ領国へと帰還したか。さらには道中の宿場の混雑具合や、召し連れる家臣の数、それに伴う各藩の財政負担の推計までが細かく記されている。
諸大名が江戸へ参勤し、将軍に拝謁して奉公を務めること自体は、祖父である大御所・家康の代からすでに慣行として行われてきた。
だが、その時期や滞在の長さ、負担の割合にはいまだ曖昧なばらつきが残っている。大坂の陣から二十年近くが過ぎ、戦国の気風が遠のきつつある今だからこそ、曖昧な慣習を明確な「天下の法」として定め、揺るぎない制度へと鋳直す必要があった。
家光は、手にしていた筆を静かに筆架へと戻し、小さく息を吐いた。
「……天下を治めるとは、太刀や槍で敵を討ち平らげることだけではないのだな」
誰に聞かせるでもない独り言が、夜の畳の上に吸い込まれていく。
祖父・家康が乱世を終わらせ、父・秀忠が幕府の礎を固めた。三代目である自分の役目は、生まれながらの将軍として、誰一人として徳川の威光に逆らえぬ盤石の仕組みを後世まで残すことにある。
しかし、法を厳しく定めれば大名たちの懐を締め上げ、不満の火種を生む。かといって緩めれば、遠国の雄藩が密かに力を蓄え、再び天下を乱す隙を与えかねない。その加減をどこに置くべきか、家光はここ数ヶ月、胸の内でずっと秤を揺らし続けていた。
ふと、家光は視線を上げ、部屋の隅の違棚の奥に収められていた、黒塗りの小さな桐箱へと目を向けた。
立ち上がってその箱を取り出し、座に戻って組紐を解く。
蓋を開けると、紫の袱紗の上に、古びた一枚の木札が静かに横たわっていた。
《時渡りの通行手形》。
徳川将軍家の当主と、ごく一部の宿老にのみ口伝で継承されてきた、門外不出の秘宝である。
家光が父からこの箱を譲り受けた際、聞かされた説明はひどく抽象的で、雲を掴むようなものだった。
――この札は、時の彼方より『賢者』を招く通行手形である。
――祖父・家康公もまた、天下の行く末を案じられた折、この札を用いて未来の知恵に耳を傾けられた。
――ただし、いかなる者が現れるかは天のみぞ知る。ゆえに濫用は慎むべし。
家光は、木札を指先でつまみ上げ、燭台の光にかざした。
表面には『御時渡御免』『通行一人』『往き限り』という墨書があるだけの、何の変哲もない関所の通行手形に見える。
「……大御所様も、この小さな板切れをお使いになられたというのか」
胸の内に、わずかな躊躇いがよぎる。
そもそも、数百年先の世に住むという人間を呼び出したところで、今の江戸や諸大名の込み入った事情が通じるものなのか。それに、いかに大御所様が頼りにされた秘宝とはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ未来の者を、手放しで『賢者』などと敬ってよいものだろうか。
だが、それ以上に、若き将軍の胸の奥には抑えがたい好奇心が疼いていた。
自分たちが懸命に築き上げているこの世の先で、人間はどのような暮らしをし、どのような知恵を持っているのか。それを一目見てみたいという誘惑には抗いがたかった。
「……まあ、よい。取って食われるわけでもあるまい」
家光は、まるで城下へお忍びで繰り出す時のような、少し悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「時の向こうにおる賢者とやらが、いかほどの面構えをしておるか、検分してやるとしよう」
文机の中央に木札を置き、家光は背筋を伸ばして端座した。
そして、口伝として教えられた通りの文言を、低く落ち着いた声で紡ぎ出した。
「――往き限り。戻りなし」
「――時の向こうより、一人、言葉を」
声が部屋の闇に溶けた直後。
木札の表面が、まるで蛍火を集めたかのように淡い青白い光を放ち始めた。
風もないのに燭台の炎が大きく揺らぎ、書院の空気が陽炎のように歪む。やがて机の向かい側、誰もいなかったはずの畳の上に光の粒が渦を巻き、一人の人間の輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた。
家光は、反射的に脇差の柄に手をかけかけたが、すぐにそれを止め、威厳を保ったまま正面を見据えた。
「……参ったか」
***
光が収まったそこに座っていたのは、白髭を蓄えた仙人のような老学者でもなければ、黄金の甲冑を纏った未来の武将でもなかった。
年の頃は三十半ばほど。
灰色の柔らかい布地でできた、筒袖の奇妙な上下の衣服――二〇二〇年代の日本でスウェットと呼ばれる部屋着――を身に纏った、ごく普通の男だった。
男――田中直人は、自宅のソファで缶ビールを片手に歴史小説を読んでいたはずの自分が、突然、薄暗い和室の畳の上に座らされていることに気づき、目を白黒させて周囲を見回した。
「……え? あれ?」
高い格天井。金箔の貼られた襖絵。揺れる灯明の火と、鼻をくすぐる伽羅の香の匂い。
そして目の前には、漆黒の艶やかな小袖に立派な肩衣を着けた、ただならぬ気品を放つ若き武家が、鋭い眼光でこちらを見据えている。
「……なにこれ。大河ドラマのセット? 江戸城?」
田中がぽかんと口を開けて呟くのを、家光は眉をひそめて観察した。
見たこともない仕立ての粗末な着衣に、武士とも町人ともつかぬ奇妙な髪型。言葉の訛りも独特だが、意味はしっかりと聞き取れる。
「そなたが、時の賢者か」
家光が重々しく問いかけると、田中はビクッと肩を揺らし、慌てて自分を指差した。
「……はい? 俺ですか?」
「他に誰がおる。余が札にて招いたのは、時の向こうに住まう賢者のはずじゃが」
「賢者!? いやいやいや、とんでもない! 俺はそんな大層な人間じゃないですよ!」
田中はぶんぶんと両手を振って否定した後、ふと自分の手のひらや周囲の空気感を見つめ、ポンと手を打ってあっさりと納得した。
「……ああ、なんだ。これ、夢か!」
家光が片眉をピクリと上げた。
「夢、と申したか?」
「ええ。最近、休みの日にずっと江戸時代の小説読んだり歴史ゲームばっかりやってたからなあ。ついにこんなリアルな明晰夢を見るようになったのか。いやあ、人間の脳ってすごいですね!」
田中がすっかり腑に落ちたという顔でうんうんと頷くのを見て、家光は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
木札がどのような理屈で人を呼ぶのか、家光自身にも皆目見当がつかない。だが、向こうがこれを夢の出来事だと思い込んでいるのなら、無理に正して怯えさせるよりもずっと話が早い。
「……ふむ。まあよい。夢の中の出来事と思うて、気楽に申してみよ」
「はい、そうさせてもらいます! いやあ、それにしてもよく出来た夢だなあ……」
武家の礼法も知らぬげに胡座をかき直し、感心したように部屋を見回す田中のあまりに屈託のない態度に、家光は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。日頃、城内で平伏し、顔色を窺う家臣ばかりを相手にしている将軍にとって、この無礼なまでの気安さはむしろ新鮮で心地よかった。
「では聞くが、そなたは未来の世において、いかなる役目を務めておる?」
「役目って、仕事のことですか? 俺はただの会社員ですよ」
「かいしゃいん? いかなる職じゃ」
「会社っていう組織に雇われて働く、ごく普通のサラリーマンです。パソコンに向かって事務処理したり、企画書作ったり……」
聞き慣れぬ異国の言葉のような響きに、家光が怪訝な顔をすると、田中は「ああ、そうか」と頭を掻き、江戸時代の人間に通じそうな言葉を必死に探し始めた。
「ええとですね、そちらの時代の言葉で言うなら……大きな商家に雇われて、毎日算盤を弾いて帳簿を付けたり、取引先への書状を下書きしたりする、手代や番頭みたいな仕事ですかね」
「ほう。商家の算用や文書を扱う者か」
「まあ、だいたいそんなところです。天下を動かすような偉い人じゃなくて、本当にどこにでもいる平社員ですよ」
家光は、少しだけ顎を引いて考え込んだ。
祖父・家康から伝わる秘宝が呼び出した相手が、未来の天下人でも、名高い軍師でも、深遠な学問を極めた碩学でもなく、ただの商家の書き役のような男だという。正直なところ、最初はわずかな期待外れを感じないでもなかった。
「ならば、そなたの世には、そなたよりも遥かに博識な学者が大勢おるのだな」
「そりゃあもう、山ほどいますよ! 大学の教授とか、専門の研究者とか。俺なんか、ちょっと歴史が好きなだけの一般人ですからね」
「……ふむ。されど、その普通の人間が、どのような暮らしをして、いかにして知恵を得ておるのかには興味がある。そなたの世では、何か調べたい事柄がある時、どのようにして知恵を探るのじゃ?」
家光の問いに、田中は少し考える素振りを見せた。
「昔なら図書館で分厚い本を調べたり、詳しい先生に聞きに行ったりしてましたけど……今の時代なら、やっぱり真っ先に『インターネット』で検索しますね」
「いんたあねっと? それは書物の名か?」
「いえ、書物じゃなくて、世界中の人たちが書いた記録や知識が、目に見えない網の目みたいに繋がっている仕組みがあるんです。手元の小さな板みたいな道具を使えば、家にいながらにして、遠く離れた場所の記録や昔の出来事を一瞬で引き出して読めるんですよ」
「家にいながらにして、天下の記録を瞬時に引き出す、と……」
家光は、思わず目を見張った。幕府が諸国の絵図や記録を一つ集めるのに、どれほどの早馬を走らせ、何十日もの日数を費やしているか。それが瞬きする間に手元で見られるというのなら、まさに神仙の術に等しい。
「ええ、めちゃくちゃ便利ですよ。しかもね、ここ最近は『生成AI』っていう、もっとすごい仕組みまで当たり前に使われるようになってきてて」
「せいせい、ええあい……? また奇妙な名じゃな。それは何をするものじゃ」
「簡単に言うと、そのインターネットの莫大な知識を全部読み込んで学習した、目に見えない『知恵袋』みたいなものです。こっちが普通の言葉で質問を投げかけると、まるで博識な人間が隣に座っているみたいに、スラスラと自然な文章で答えを返してくれるんですよ」
田中は、身振り手振りを交えて熱心に説明した。
難解な古文書や異国の言葉を瞬時に分かりやすく翻訳させることもできれば、長い報告書の要点を数行にまとめさせることもできる。さらには政治や歴史の疑問について尋ねれば、古今東西の事例を引いて、もっともらしい策や解説を即座に提示してくれるのだという。
家光は、深く感嘆の息を漏らした。
「……なんと。未来の世には、いかなる問いにも即座に答える、万能の賢者がおるというのか」
「あ、いや、人間じゃないんですけどね。あくまで機械の中で動いている計算の仕組みというか、プログラムなんで」
「人ではないものが、人のように言葉を紡ぎ、知恵を授けると申すか」
「そうなんです。俺も仕事で調べ物をする時なんか、毎日そいつに相談してますよ」
自分たちの時代から見れば、まさに夢物語のような技術だ。家光は、未来の世の計り知れない発展ぶりに圧倒されかけた。
だが、その直後。田中はポリポリと頬を掻きながら、苦笑交じりにこう付け加えたのだ。
「――ただまあ、そいつ、結構な頻度でシレッと間違えるんですけどね」
家光の眉が、ピクリと動いた。
「……間違える? 天下の知識をすべて読み込んだ賢者であろうが」
「ええ。知識の量はとんでもないんですけど、時々『ハルシネーション』って言って、事実とは違うことをもっともらしく答えちゃう癖があるんですよ。例えば、歴史のマイナーな事件について質問したりすると、実際には存在しない史料の名前をでっち上げて紹介してきたり、有名な武将が言ってもいない名言を、さも史実であるかのように堂々と解説してきたりするんです」
「……なんと。無きものを、有ると申すのか」
「そうなんですよ。しかもタチが悪いことに、文面がすごく流暢で理路整然としてるから、一見すると完璧な正解に見えちゃうんです。『私は知りません』って素直に言えばいいのに、知らないことでも言葉の繋がりだけで、いかにも本当っぽい嘘を自信満々に語り出すんですよね」
家光の表情から、先ほどまでの単純な感嘆の色が消え、代わって為政者としての鋭い思索の光が宿った。
「……知らぬ事柄であっても、己の無知を認めず、さも知り尽くしているかのように言葉を飾る、か」
「はい。だから、生成AIが出してきた答えを、そのまま鵜呑みにして仕事に使うと大恥をかくんです。あいつらは悪気があって嘘をついてるわけじゃなくて、そういう仕組みで言葉を並べてるだけなんで。使う側の人間が『これ、本当かな?』ってちゃんと疑って、元の正しい記録と照らし合わせて裏を取らないと駄目なんですよね」
田中が何気ない世間話として語ったその言葉は、家光の胸の奥底に、雷に打たれたような強烈な気づきをもたらした。
悪意はなくとも、膨大な知識を持つ者が、もっともらしく誤りを語ることがある。
しかも、その言葉が流暢で理にかなっていればいるほど、聞く者は容易くそれを真実だと信じ込んでしまう。
(……待てよ。それは、この木札が呼ぶ『時の賢者』とて、全く同じことではないか?)
家光は、目の前で呑気に笑っている部屋着姿の男を、改めてじっと見つめた。
この男は、寛永の世から見れば、間違いなく数百年先の未来を知る「時の賢者」だ。だが、男自身が認めた通り、彼は未来のすべてを把握している神ではない。ただの一介の働き手だ。
「……ひとつ問うが、そなた自身はどうじゃ。そなたも、知らぬことや曖昧なことを、誤って口にすることがあるのか?」
家光が真剣な眼差しで尋ねると、田中は「えっ、俺ですか?」と目を丸くし、それから大きく頷いて笑った。
「そりゃあ、しょっちゅうありますよ! 人間だもの、うろ覚えのまま適当なことを言っちゃうこともありますし、昔学校で習った知識がそもそも間違ってた、なんてこともザラにあります」
「……ほう」
「だから、俺が今こうやって喋ってる歴史や未来の話も、あんまり全部が全部、正しいとは思わないでくださいね。ただの歴史好きのサラリーマンの雑談ですから」
家光は、しばらくの間、言葉を発さずに田中を見つめた。
城内の学者や僧侶、あるいは諸大名たちは、将軍の前で自らの言葉を「疑え」などとは決して言わない。誰もが自分の進言こそが正しく、確かなものだと見せかけようと必死になる。
だというのに、この未来から来た名もなき男は、あっけらかんと「自分の言葉をそのまま信じるな」と言い放った。
「……自らの言葉を疑え、と申すか」
「ええ。大事なことを決める時は、誰かの受け売りじゃなくて、やっぱり自分で確かめないと危ないですからね」
家光の唇の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「……ふっ。面白いことを申す」
祖父から受け継いだ秘宝がもたらした、最初の、そして最大の収穫が、この瞬間に家光の内で静かに形を成した。
***
未来の暮らしぶりやその奇妙な知恵袋の話でひとしきり座が温まったところで、家光はふと、文机の上に広げっぱなしになっていた参勤の記録へと視線を落とした。
「……ところで、異国の夢の客人よ。実は今、余もひとつ頭を悩ませておる政(まつりごと)の案があるのじゃ」
「へえ、お殿様がですか? どんなことなんです?」
田中は、まだ目の前の若い武家が誰であるかに気づいていない。江戸城らしき立派な書院にいる以上、幕府の重臣か、あるいはどこかの大藩の若殿様くらいの夢だろうと気楽に構えていた。
「諸大名を、定めた時期に江戸へ参らせる仕組みについてじゃ」
家光は、机上の巻物に軽く指を添えながら語り始めた。
「今も諸大名は、折に触れてここ江戸へ参り、奉公を務めてはおる。されど、いつ上府し、どれほど江戸の屋敷に留まり、いつ国元へ帰るかという定めが、家によってまちまちでな。これをこのまま放置しておけば、いずれ奉公を怠る者や、国元で勝手に兵を養う者が出ぬとも限らぬ」
「はあ、なるほど……」
「そこで余は、諸大名を二つの組に分け、一年ごとに江戸での奉公と国元での政務を交互に務めさせるよう、法度(はっと)として明確に定めようと思うておる。妻子はそのまま江戸の屋敷に置かせ、大名自身が江戸と領国を毎年行き来する仕組みじゃ。……これを行えば、徳川の世を長く泰平に保つ要石(かなめいし)になると思うてな」
家光が淡々と自らの構想を語るにつれ、聞いていた田中の表情から、徐々に気楽な笑みが消えていった。
「……え?」
田中は、眉をひそめて瞬きを繰り返した。
大名が一年おきに江戸と領国を往復する。妻子は江戸に住まわせる。それを慣習ではなく、武家諸法度という明確な制度として義務付ける。
「……あの、ちょっと待ってください。それって……」
「うむ? 何かおかしなところがあるか」
「……『参勤交代』、ですよね?」
その言葉が田中の口から飛び出した瞬間、今度は家光の方がわずかに目を見開いた。
『参勤交代』という呼び名そのものは、まだ幕府の公文書でも固まりきっていない概念だ。それを、なぜこの未来の男が即座に言い当てたのか。
「ほう……。そなた、その名を知っておるのか」
田中は、ゴクリと生唾を飲み込み、目の前に座る若き武家の顔を、頭のてっぺんからつま先まで改めて凝視した。
江戸城の奥座敷。天下の諸大名に法度を定める立場。そして、参勤交代の制度化をまさにこれから行おうとしている時代――。
田中の中で、歴史小説やゲームで親しんできた知識の点と点が、猛烈な勢いで一本の線に繋がった。
「……え、嘘でしょ。ちょっと待ってくださいよ」
「どうした、急に顔色を変えて」
「だ、だって、参勤交代を武家諸法度に組み込んで制度化したのって……寛永十二年……ってことは……」
田中は、畳の上に両手をついて、ずいっと前のめりに身を乗り出した。
「あなた、もしかして……徳川三代将軍の、徳川家光様ですか!?」
家光は、突然の大声に少しだけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに鷹揚に頷いてみせた。
「……いかにも。余が家光じゃが。……なぜ、今の話だけで余の名が分かったのじゃ?」
「ええええええええっ!? ほ、本物の家光様!? 竹千代様!?」
「……うむ、幼名まで知っておるのか」
「知ってますも何も、超・超・超有名人ですからねーーーっ!!!」
田中が頭を抱えて絶叫に近い声を上げるのを見て、家光は呆気にとられたようにポカンと口を開けた。
「……余が、有名? そなたの生きる、何百年も先の未来の世でか?」
「そりゃあもう! 日本で学校に通った人間なら、徳川家光様の名前を知らない奴なんて一人もいませんよ! 子供たちが勉強する『歴史の教科書』っていう本に、顔絵付きでデカデカと載ってますから!」
家光の表情が、ぴくりと動いた。
「……未来の童(わらべ)どもが学ぶ書物に、余の名が載っておる、と?」
「はい! 初代・家康公が幕府を開いて、三代・家光公が『参勤交代』や『鎖国』の仕組みを完成させて、江戸幕府の支配体制を盤石に固めた名君だって、絶対にテストに出る超重要人物として習うんですよ!」
熱弁を振るう田中の言葉を聞きながら、家光はしばらくの間、何も言わずに押し黙っていた。
偉大すぎる祖父・家康の背中。実直に幕府を守り抜いた父・秀忠の重圧。
戦を知らぬ世代として将軍の座に就き、「果たして自分は祖父や父のように天下の重きに耐えうる器なのか」と、夜ごと人知れず悩み続けてきた若き将軍。
その自分が、数百年後の見知らぬ未来において、祖父と並び称されるほどに名を残し、幕府の礎を固めた将軍として国中の子供たちにまで知られているという。
やがて、家光の引き締まっていた頬が、少しずつ、どうしようもなく緩み始めた。
「……そうか」
「はい! もう誰もが知る大将軍ですよ!」
「ふむ……。後の世にまで、そのように余の名が轟いておるか」
家光は、こみ上げてくる喜色をなんとか威厳の下に押し隠そうと、わざとらしく咳払いを一つして、少しだけ胸を張った。
「……ふっ。まあ、悪い気はせぬな」
その、天下人らしからぬほど素直で嬉しそうな横顔に、田中も思わず頬を緩めた。
だが、そこで家光はふと何かを思い出したように、いたずらっぽく片方の目を細め、田中の顔をじろりと見据えた。
「――されど、待てよ」
「え? なんです?」
「そなた、つい先ほど余に申したばかりであろうが」
「へ? 何をです?」
「未来の世には、ありもせぬ事柄を、さも真実であるかのように自信満々に語る『せいせい・ええあい』なる曲者(くせもの)がおる、と」
田中の表情が、ピシリと凍りついた。
「……あ」
「さらには、そなた自身も、うろ覚えの誤りを口にすることがあると白状したな。……ならば、余が後の世で名君として名を残しておるという今の話も、余を喜ばせるためのもっともらしい偽り(ハルシネーション)ではないのか?」
「いやいやいや! ちょっと待ってください家光様! これは本当ですって! 嘘じゃありません!」
家光は、ぴくりとも笑わずに厳しい真顔を保ってみせる。
「ほう。ならば、それが偽りでないという証しを立ててみよ」
「えええっ!? 証しって言われても、今手元にスマホも教科書もないし……! あ、でも『生まれながらの将軍』っていう演説! 祖父や父とは違って、自分は生まれながらの将軍だから、大名たちを家臣として扱うぞ、って宣言した話とか! あと、春日局(かすがのつぼね)様! 乳母の春日局様がすごくお力を持っていたこととか、俺、日本史大好きだからちゃんと正確に覚えてますって!」
顔を真っ赤にして、必死に自分の知識の正当性を証明しようとまくし立てる田中の姿を見て。
家光は、数秒間だけ真顔で耐えたものの、ついに堪えきれなくなって、腹を抱えて声を立てて笑い出した。
「――ふっ、くくっ……! ははははは! よい、もうよい! 今の話は冗談じゃ!」
「えっ……? じょ、冗談……?」
田中が呆気にとられて目を瞬かせる。
「すまぬな。そなたが先ほど『賢者の言葉も疑え』とあまりに面白いことを申すゆえ、さっそくその教えの通りに疑って試してみたくなったのじゃ。ははは、いや、見事な慌てぶりであったぞ!」
「うわあ、びっくりしたあ……! 急に目がマジになるから、手討ちにでもされるかと思いましたよ……!」
胸を撫で下ろしてへたり込む田中に、家光は目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、実に愉快そうに笑みを向けた。
「家光様って、そんな悪戯っぽい冗談も仰るんですね」
「当たり前じゃ。将軍とて、血の通うただの人であるからのう」
張り詰めていた身分と時代の壁が、その屈託のない笑い声によって完全に溶け去った瞬間だった。
ひとしきり笑いが収まると、家光は居住まいを正し、穏やかながらも真剣な眼差しで改めて田中に問いかけた。
「して……その後の世において、余が定めようとしておる『参勤交代』は、どのように評されておるのじゃ? 包み隠さず申してみよ」
田中は、少し背筋を伸ばし、記憶の引き出しを探りながら慎重に言葉を選んだ。
「そうですね……。一番大きく言われているのは、やっぱり幕府が全国の大名をしっかり統制するための、すごくよく出来た仕組みだった、ということです。大名が毎年江戸と領国を往復することになるから、反乱を起こすような余裕がなくなった、と習います」
「ふむ。まずは狙い通り、ということじゃな」
「はい。それと、意外な良い影響として、全国の大名が大勢の家来を連れて移動するおかげで、五街道をはじめとする道がすごく綺麗に整備されて、途中の宿場町がめちゃくちゃ栄えたって言われてますね。江戸の文化や品物が地方に伝わって、日本全体の経済が回るようになったんだとか」
家光は、深く感心したように頷いた。
「……なるほど。人が行き交い、銭が落ちれば、道も宿も自ずと栄えるか。そこまでの広がりは、まだ細部まで計算し切れておらなんだ。良き視点じゃ」
「ただ……」
田中は、少しだけ言いにくそうに言葉を濁した。
「ただ、何じゃ。憚らず申せ」
「えっと……大名行列って、何百人、大藩だと何千人も連れて何十日も歩くわけじゃないですか。それに加えて江戸の屋敷の維持費もかかるから、時代が下るにつれて、各藩のお財布事情……つまり財政が、めちゃくちゃ苦しくなったとも言われてますね」
家光の表情が、わずかに引き締まった。
「……うむ。やはり、負担の重さは後の世まで響くか」
「はい。借金まみれになる藩も多かったみたいです。……でも、そのおかげで江戸時代っていうのは、二百五十年以上も大きな内乱や戦が起きない、世界的に見ても奇跡的な『平和な時代』になったわけですから。どっちが良かったのかは、一口には言えない気がしますね」
「……二百五十年、戦のない泰平の世が……」
家光は、その数字の重みを噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じた。
応仁の乱から数えれば百数十年、血で血を洗う戦乱が当たり前だったこの国で、二百五十年もの間、民が戦火に怯えることなく暮らせる世が続く。それは、祖父・家康が夢見、自分が今まさに背負っている統治の果てにある、ひとつの確かな到達点だった。
「あ、すみません! なんか偉そうに語っちゃいましたけど、さっきも言った通り、俺は学者じゃないんで細かい年数や理屈は間違ってるかもしれませんからね!」
田中が慌てて手を振って付け加える。
家光は静かに目を開き、首を横に振った。
「いや、構わぬ。細かい数字の正誤などどうでもよい。……後の世を生きるそなたのような普通の民が、徳川の世を『長く平和であった』と当たり前のように記憶しておる。その事実を知ることができただけで、余には十分すぎるほどの価値がある」
田中は少し照れくさそうに頭を掻き、それからふと疑問に思ったように尋ねた。
「それで、家光様。今の話を聞いて、参勤交代の制度化はどうなさるんですか? やっぱり予定通りやるんですか?」
すると家光は、何を当たり前のことを聞くのかというように、涼やかな笑みを浮かべた。
「それを決めるのは、未来のそなたではない。今の世を生きる余じゃ」
「……あ。そっか」
「そなたの世でどう評されておるかは、大いに参考になった。街道が栄えるという利も、諸藩が窮乏するという弊害も、心に留めておこう。……されど、今の諸大名の気質を見極め、いかなる法を定め、その結果として生じるすべての責を負うのは、他の誰でもない、この余である」
家光は、先ほど田中から教わったばかりの言葉をなぞるように、力強く言った。
「時の賢者が『こうなる』と申したからとて、己の頭で考えることを放棄してそれに従うだけでは、天下の政は務まらぬ。……そうであろう?」
田中は、パッと顔を輝かせて大きく頷いた。
「はい! まさにその通りです! いやあ、さすが本物の家光様だ、俺なんかの拙い話から、一番大事なところを完璧に汲み取っちゃうんだから!」
「ふっ。そなたこそ、見かけによらずなかなかの名軍師じゃぞ」
「いやいや、夢の中で天下の将軍様に軍師扱いされるなんて、明日から会社で自慢したいくらいですよ!」
二人は顔を見合わせ、再び声を合わせて笑った。
***
政治の重い話が一区切りつくと、家光は文机から離れ、少し寛いだ様子で未来の庶民の暮らしについて尋ね始めた。
「時に、先ほどそなたは『歴史の教科書』で誰もが余の名を学ぶと申したな。未来の世では、武士や僧侶だけでなく、町人や百姓の子に至るまで、誰もが文字を読み書きできるのか?」
「ええ、まあ基本的には全員読めますね。六歳になったら、男の子も女の子も全員『学校』っていう場所に行って、文字や計算、歴史なんかを最低九年間は勉強する決まりになってますから」
「なんと、民の童が皆、九年も学問を修めるのか……!」
家光は心底驚いたように目を丸くした。「して、食い物はどうじゃ。未来の世でも、やはり米を食うておるのか?」
「めちゃくちゃ食べてますよ! 白米は毎日お腹いっぱい食べられますし、料理の種類もすごいですよ。お寿司に、天ぷらに、牛丼に、あとカレーライスとか!」
「……寿司や天ぷらは分かるが、その『かれえらいす』とは何じゃ?」
「ええと、南蛮のさらに向こうの天竺(インド)あたりから伝わった、いろんな薬草や香辛料を煮込んだ辛い汁がありましてね。それを温かい白いご飯の上にたっぷりかけて食べるんです。日本の国民食って言われるくらい、子供から大人までみんな大好きなんですよ」
「天竺の辛い薬汁を、白米にかけて食う……? そのような奇妙なものが、本当に美味いのか?」
「これがもう、たまらなく美味いんですよ! 二日目の少しとろみがついたやつなんか最高で……」
田中が身振りを交えて熱弁するのを、家光は「なんとも想像がつかぬが、そこまで申すなら一度くらいは食うてみたいものよな」と楽しそうに目を細めて聞いていた。
何百年という途方もない時間を隔てていても、そこに生きる人間は、白い飯が美味いと喜び、日々の仕事に追われ、物語や歴史を楽しんで生きている。遠い神の国のように思えた未来が、自分たちと地続きの、温かい人間の営みの場であることが、家光にはたまらなく嬉しかった。
だが、楽しい語らいの時間は、永遠には続かない。
ふと、家光は田中のスウェットの袖口が、淡い青白い光を放ちながら、わずかに向こう側の襖が透けて見えるほど薄くなっていることに気づいた。
「……む」
「え? どうしました?」
「そなたの手を見るがよい。姿が、少しずつ薄くなっておる」
田中が自分の両手を見下ろすと、確かに指先の輪郭が陽炎のように揺らぎ、半透明になり始めていた。
「あっ、本当だ……。そっか、そろそろ目が覚める時間なんだな」
「どうやら、札の力が尽きるらしい」
田中が名残惜しそうに自分の手を握ったり開いたりするのを見て、家光もまた、胸の奥にふっと涼しい風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。
「……少し、名残惜しいな」
家光がぽつりと漏らすと、田中は驚いたように顔を上げた。
「えっ、家光様がですか?」
「うむ。まだ、その『かれえ』とやらの詳しい製法も聞いておらぬし、そなたの世の話をもう少し聞いていたかった」
天下の将軍が見せた、年相応の青年のような素直な寂しさに、田中の目元がじんわりと緩んだ。
「……ありがとうございます。俺の方こそ、今夜は本当に楽しかったです」
田中は、透け始めた体で居住まいを正し、家光に向かって真っ直ぐに言った。
「正直に言うと、歴史の本で読む家光様って、大名を取り潰したり、厳しい法律を作ったりする、もっと近寄りがたくて怖い人なんだと思ってました。……でも、こうして実際にお話ししてみたら、すごく真面目に国のことを考えてて、冗談も通じる、めちゃくちゃ魅力的なお殿様でした。夢の中とはいえ、あなたにお会いできて本当に良かったです」
家光は、少し照れくさそうに鼻頭を掻いて苦笑した。
「ふっ……余を鬼か何かのように思うておったとは、心外じゃな」
「いやあ、だって天下の三代将軍様ですからね!」
田中の身体が、胸元まで光の粒子へと変わり始める。もう数呼吸もすれば、完全に消えてしまうだろう。
その時、家光ははっと気づいて声を上げた。
「――待て。そういえば、まだそなたの名を聞いておらなんだ!」
「あっ、そういえば名乗ってませんでしたね!」
「申せ! そなたの名は、何と言う!」
消えゆく光の中で、田中は大きく胸を張り、晴れやかな笑顔で答えた。
「田中直人(たなかなおと)です! どこにでもいる、ただの会社員です!」
家光は、その響きを己の記憶に深く刻み込むように、ゆっくりと口の中で反芻した。
「……田中、直人か」
「はい!」
「よき名じゃ。……達者で暮らせよ、直人。もしまたこの札がそなたの夢に繋がることがあれば、その時は続きを聞かせてくれ」
「はい! 家光様も、どうかお体に気をつけて! お元気でーっ!」
大きく手を振る田中の姿が、ふっと光の粒となって弾け、書院の空気の中へと溶け込むように消え去った。
同時に、文机の上で輝いていた《時渡りの通行手形》の光もすっと収まり、部屋には再び、燭台の蝋燭が揺れるだけの静かな夜が戻ってきた。
家光は、しばらくの間、誰もいなくなった向かいの畳の上をじっと見つめていた。
「……田中直人、か」
数百年後の世から訪れた、名もなき一人の男。
彼は、天下を動かす秘策を授けてくれたわけではない。未来の武器の作り方を教えてくれたわけでもない。
だが、彼の飾らない言葉と、未来の『せいせい・ええあい』なる奇妙な知恵袋の話は、家光に何物にも代えがたい大切な道理を教えてくれた。
家光は、視線を文机の上の木札へと戻した。
その古びた木札をそっと拾い上げ、袱紗で包み、再び黒塗りの桐箱の中へと収める。
「……時の賢者とて、人であれば誤る。人ならぬ仕組みとて、もっともらしい偽りを語る、か」
この秘宝は、確かに稀有な力を持っている。
だが、もし後世の将軍たちがこの札の力を過信し、「未来の者がそう言ったから」と己の思考を放棄して政を委ねるようになれば、徳川の世は内側から腐り果てるだろう。
この箱には、札そのものだけでなく、それを扱うための『戒め』を添えて残さねばならない。
「聞くべき言葉には耳を傾ける。……されど、最後に疑い、考え、決断を下すのは、今この世を預かる余の役目じゃ」
家光は、桐箱を脇へ置くと、再び文机の上の参勤の書き付けを自らの手元へと引き寄せた。
筆を取り、墨を含ませる。
未来の教科書に自分の名が載っているからやるのではない。今、この寛永の世を泰平に保つために必要だからこそ、自らの意志で法を定めるのだ。
深夜の江戸城で、若き三代将軍の筆が、迷いなく和紙の上を走り始めた。
***
「――というお話だったそうよ」
首相官邸地下の会議室に、矢崎総理の静かな声が響き、数百年前の夜の回想は幕を閉じた。
沖田室長は、組んでいた腕を解き、深い感銘を受けたように大きく息を吐いた。
「……なるほど。歴史の教科書の裏側に、まさかそのようなやり取りが隠されていたとは……」
一方、三神編集長は、パイプ椅子の背もたれに身を預け、天井を仰いで愉快そうに拍手をしていた。
「いやあ、素晴らしい! 実に素晴らしいエピソードじゃないですか! 天下の徳川家光公が、スウェット姿の現代人とカレーライスや生成AIのハルシネーションについて語り合い、しかもそこから政治の要諦を掴み取られたとは!」
「三神さん、少し声が大きいですよ」
沖田が苦笑交じりに窘めるが、三神の興奮は収まらない。
「……ところで総理、その教訓は後の将軍たちにも伝わったのですか?」
矢崎総理が頷いた。
「ええ。家光公はね、あの夜の一件の後、《時渡りの通行手形》を受け継ぐ将軍たちへ、一つの戒めを口伝として残されたそうなの」
「どのような戒めですか?」
沖田がメモを取る手を止めて顔を上げた。
「ええ。『時の向こうより招かれし者を、決して神や無謬(むびゅう)の賢者と思うべからず。彼らもまた誤りを語る人なり。言葉は参考にとどめ、天下の政は必ず己の責にて決すべし』……とね」
沖田は、手元の徳川幕府に関する資料へ目を落とした。
「……家光公以降の将軍たちが、未来人の助言を絶対視しなかったのは、この戒めも受け継いでいたからかもしれませんね」
「そうでしょうね」
三神は、机上の木札の写真を指先でトントンと叩いた。
「これほど神秘的な秘宝なら、現れた者を神託の使者として崇めても不思議ではありません。それなのに、最初に学んだのが『賢者を疑え』だった。……なんとも痛快な話ですよ」
三神は眼鏡のブリッジを押し上げ、少しだけ真面目な顔になった。
「ただ、別の見方もできます。家光公と田中さんの出会いそのものが、《時渡りの通行手形》に組み込まれた安全機構だったのではないか、と」
沖田が眉を寄せた。
「安全機構、ですか?」
「ええ。時の賢者を神託だと信じ込みそうな人間に、あえて『賢者も誤る』と気づかせる相手を呼ぶ。もし札が接続相手を選んでいるなら、歴史への不用意な干渉を防ぐ仕組みとも考えられます」
「……未来から得た情報を、盲目的に使わせないようにするわけですね」
沖田が考え込む。
「まあ、あくまで仮説ですけどね」
三神は肩をすくめた。「本当にただの偶然で、歴史好きの普通の会社員が呼ばれただけかもしれません」
「なるほど。その説も面白いですね」
矢崎総理は小さく笑った。
「ただ、偶然だったとしても、その言葉から戒めを見いだしたのは家光公ご自身よ」
矢崎総理は、机の上の《時渡りの通行手形》の報告書と、世界各地で起きているアーティファクト事案のファイルへと目を向けた。
「……考えてみれば、今の私たちも同じ立場ね。海底の超AIにも、《魂の庭》の偉人たちにも知恵を借りている。けれど、判断の責任まで預けるわけにはいかないわ」
「ええ。それを四百年も前の将軍が実践していた。しかも発端は、令和の会社員が話した生成AIの愚痴ときた! これだから歴史の裏側は面白いんですよ」
三神が、心底楽しそうに笑う。
「まったく、奇妙な巡り合わせですね」
沖田も、いつになく柔らかい苦笑を浮かべた。
重苦しい安全保障の議題が続く地下会議室に、ほんの少しだけ温かな空気が流れる。
矢崎総理は、再び紅茶のカップを手に取りながら、ふと微笑ましい記憶を思い返すように言った。
「……それにしても家光公、その田中という方から『未来の教科書に名前が載っていて超有名だ』と聞かされた時のことをお話になる時、本当に嬉しそうな顔をなさっていたわよ。天下の将軍様とはいえ、自分の頑張りが後の世で認められていると知るのは、あんなにも誇らしいものなのね」
「三代将軍ともあろうお方が、いち会社員の言葉にそこまで喜ばれるとは、少し意外な気もしますが」
沖田が目を瞬かせる。
「いやいや沖田さん、逆ですよ」
三神が、楽しそうに人差し指を立てた。
「お追従(ついしょう)を言う家臣でも、利害関係のある大名でもない、何百年も先の赤の他人の庶民が、自分の名前と仕事を覚えていて『有名だ』と目を輝かせてくれたんです。為政者にとって、これ以上に純粋で嬉しい褒美が他にありますか?」
「……確かに、そうね。私も百年後の国民に『あの時の総理はよくやった』と言ってもらえるなら、今の胃の痛みも少しは報われる気がするわ」
矢崎総理が自嘲交じりに小さく笑うと、沖田と三神も声を合わせて笑った。
今この瞬間も、日本のどこかの街で、田中直人という会社員は「先日、江戸城で徳川家光とカレーやAIの話をする妙にリアルな夢を見た」と、同僚に笑い話として語っているのかもしれない。
そして出雲の《魂の庭》では、かつて天下を治めた三代将軍が、自分を怖がらずに友のように語りかけてくれた奇妙な部屋着の男のことを、今も懐かしそうに思い返している。
数百年を隔てた、たった一夜の出会い。
二人が互いの名を覚えている限り、あの夜の笑い声は、遠い時の向こうで確かに生き続けていた。
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