がらりと軽い音を立てて、ラーメン屋の引き戸が開いた。
サムライソードは、昼飯を食べに来たごく普通の客のような、自然な足取りで店内へと足を踏み入れる。目的のターゲットが座るテーブルからは、緊張感の欠片もない、のんきな会話が漏れていた。
「なあ、アザリは結局なんで休んだんだ?」
チャーシューを口に放り込みながら、デンジが訊ねる。
「さあな。少なくとも俺に言った理由は嘘だろう」
アキは冷めた目で手元のコップを見つめながら応じた。
「ヌシらにうんざりしたのではないかあ? 特にデンジい、やつの胸元を凝視していたじゃろ」
「してねえよ! ちらっと見ただけだ、ちらっと! つうかパワー、お前こそ菓子全部食おうとして、ガスで眠らされてたじゃねえか」
「眠らされてないが?ワシが寝たかったから寝たんじゃ」
「うーん。二人はともかく、あのホテルでの出来事が影響している可能性はあるね。アキ君、今度アザリちゃんに直接話聞いてみない?」
「そうですね。…ただ、そういう感じでもなかったですけどね。あの電話の切り方は」
(アザリってやつがいないのは、無断欠勤したからなのか)
サムライソードは、彼らの他愛のない雑談を頭の中で咀嚼しながら、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めていく。そして、彼らの真横、手の届く距離でぴたりと足を止めた。
その刹那。
彼の懐から黒い拳銃が抜き放たれ、至近距離から四人に向けて、一切の躊躇なく弾丸が連射された。
乾いた銃声が店内に鳴り響き、同時に硝煙の臭いが立ち込める。
デンジの脳天に、一発の銃弾が正確に、容赦なく撃ち込まれた。彼は悲鳴を上げる暇さえ与えられず、頭部を激しく揺らして椅子から崩れ落ちる。
しかし、公安のデビルハンターたちもただでは死なない。アキは直感的に身を伏せてテーブルの陰に隠れ、姫野も腕で顔面を庇いながら後ろへ飛ぶ。そして、パワーは、放たれた弾丸を紙一重で頭を傾けて回避すると、サムライソードの顔面に拳を叩きつけた。
激しい音が響いたが、サムライソードは首を少し傾げただけで、大して堪えた様子も見せない。
「コン」
アキの呼びかけに応じて、家屋を丸ごと押し潰し、巨大な狐の頭部が虚空から出現した。その巨大な顎が、サムライソードの身体を一瞬で丸呑みにする。
しかし、次の瞬間、狐の悪魔は悲鳴を上げて苦しみ出した。
「早川アキ…! 私の口に、とんでもないものを入れてきたねえ…! 人でも、悪魔でもなっ…!」
狐の頭部が、内側から引き裂かれる。飛び散る肉片と血。その裂け目から現れたのは、もはや人間の形を保っていない異形だった。頭部に軍帽のような帽子と長大な日本刀が出現し、さらに両腕にも日本刀が出現する。
弾丸を肩に食らった姫野が、苦痛に呻き声を上げて倒れ込んでいる。アキは、自らの背の刀に手をかけ、変身を遂げたサムライソードを見据えた。
だが、この派手な殺し合いすら、最初からただの陽動に過ぎなかった。
店外の路地から、声が響く。
「ヘビ! 丸呑み!」
巨大な蛇の悪魔が出現し、地面に転がっているデンジの死体へと一直線に向かう。そして、躊躇いなく、その亡骸を大きな顎で丸呑みにした。爪を四枚も代償にする大技だが、マキマという理不尽な恐怖に背中を押されているプレッシャーが、沢渡からあらゆる迷いを消し去っていた。
目的は、ただ一つ。チェンソーマンの心臓。
それさえ手に入れれば、あとは逃げ切るだけだった。
蛇の悪魔がデンジの死体を完全に胃袋に収めたのを確認した瞬間、サムライソードは変身によって強化された脚力で、路地裏に待機させていた車に向けて一気に跳躍した。背後からアキの声が聞こえたが、もはや彼の耳には届かない。目的は達成されたのだ。
サムライソードは後部座席のドアを乱暴に開けて飛び乗った。ほぼ同時に、蛇を消算させた沢渡も、息を切らせながら助手席に滑り込む。
「出ます!」
運転席にいた手下の三島が叫ぶと同時に、アクセルが限界まで踏み込まれた。車はタイヤを軋ませ、急発進する。あっという間に、ラーメン屋の残骸はルームミラーの彼方へと小さく消えていった。
作戦の成功。車内には、一瞬だけ安堵と、高揚した興奮の空気が流れた。しかし、沢渡の表情は依然として、死人のように硬直したままであった。マキマという名の、脳裏に焼き付いて離れない恐怖の残像。
油断などできるはずがない。デンジの身体は、蛇の悪魔を呼び出せばいつでも取り出せる。今は、とにかくあの悪魔から逃げ切ることが最優先だ。
車は、都心の複雑な裏道を縫うように、猛スピードで走り続ける。
その時、ダッシュボードの無線機が、耳障りな音を立てて繋がった。
『こちらE班! C班の予備の無線から、最後のメッセージを受け取った!』
沢渡は身を乗り出し、無線を取る。
「何だ、話せ」
『マキマが、2人いるとのことだ!』
「何?」
どういうことだ。意味がわからない。沢渡が思わぬ報告に眉を顰めた、まさにその時だった。
運転席に座り、ハンドルを握っていた三島が、突然、漏らすような苦しげな声を上げた。
「あの、すみません…」
その声はどこか虚ろで、バックミラーに映る彼の瞳は、完全に焦点を失っていた。
「どうした? 三島」
後部座席からサムライソードが訝しげに尋ねる。
「なんか、変な感じが…頭が、割れるように…」
その言葉が三島の唇から完全に零れ落ちるよりも早く、三島の頭部が、内側から膨れ上がったかと思うと、一瞬で爆発した。
パン、と風船が弾けるような呆気ない音と共に、血と脳漿、骨の破片が激しくフロントガラスと車内にぶちまけられる。あまりにも突発的で、理不尽な死の光景に、沢渡もサムライソードも一瞬、思考が完全に停止した。
「! ハンドル!!」
沢渡の鼓膜を裂くような絶叫で、サムライソードは我に返った。
人間という制御を失った鉄の塊は、凶暴な慣性のままに暴走を始めた。
前方、わずか数十メートル先には、直角に近い曲がり角。
「くそがああ!」
サムライソードは必死に身を乗り出し、血塗れのハンドルを掴んで回したが、全ては手遅れだった。
車は猛スピードを維持したまま、歩道の縁石を乗り上げ、その先にある雑居ビルの分厚いコンクリート壁へと、正面から激突した。
凄まじい金属の座屈音と、ガラスが粉々に砕け散る轟音。
エアバッグが展開したものの、衝突の凄まじい慣性を殺しきることはできない。サムライソードは強打した頭部から血を流し、朦朧とする意識の中で、後部座席で完全に意識を失っている沢渡の姿を捉えた。
エンジンルームから、不穏な煙とガソリンの臭いが立ち込める。このままでは引火して全滅だ。
彼は最後の力を振り絞り、サイドガラスを叩き割ると、沢渡の身体を無理やり掴み、車外の冷たいアスファルトの上へと力任せに放り投げた。
その直後。
車体は、鮮烈な閃光に包まれ、腹に響く轟音と共に大爆発を起こした。
立ち上る黒煙が、何も知らない東京の灰色の空へと、ゆっくりと吸い込まれていく。