そんな彼の目の前に、クラスメイトの三峰 栞にそっくりな人物が現れて――彼女は自分のことをドッペルゲンガーだと名乗った。
調査も全然しようとしないオカルト研究部の部長と不眠症に悩まされる部員と本物と偽物の話。
0
心霊写真は高性能なスマホカメラの普及に次第に撲滅されつつあり、本当にあった怖い話はレギュラー番組から不定期特番に格下げをされ、最近の流行はもっぱらモキュメンタリーホラーである。
もちろん、俺がモキュメンタリーホラーが嫌いというわけでもない。
ちゃんと作り込まれたものはこれは本当に起きたことなのかもしれない、俺の知らない世界では本当に起こりうるものなのかもしれない、そんなふうに怖がることも俺にだって当然ある。
でも、それは作り物だから。
それが本物かもしれないと思わせることに重きを置いている作品であるが故に、やっぱりオカルトを否定しているように思えてしまう。
まあ、世の中は心霊以外にもいくらでもオカルトはある。
未確認飛行物体だったり、超能力だったり、魔術だったり、世の中には秘められているものは心霊以外にもいくらでもあるのかもしれない。
でも、それらは俺の前には生まれてこの方現れることがなかった。
だから、俺はオカルト研究部に入ったのだろう。
それが俺の前に現れないのが、ただ俺の巡り合わせが悪いなんてものではなく、そもそもオカルトなんてものが存在しないが故の必然的なものだと証明したかったからこそ。
親愛なるオカルト部長はそんな話を語った時に、「いつか向井も夢を見れるようになると良いね」と笑ったけれども。
その時、俺は不眠に悩まされていて、そもそもの意味で夢を見れていなかったのだけれども。
少なくともその時、俺が夢を見れるなんてかけらも思っちゃいなかった。
その時は。
俺の目の前にオカルトが現れたのは、オカルト研究部に入って本当にすぐのことである。
俺が否定したかったそれは、なんでもないことのようにあっさりと姿を現した。
つまり、俺の巡り合わせが悪いとか、そういうわけではなかった。
ただ、俺はその現象をどう呼称すればいいのか、今となってもわからない。
今となってもあやふやなままちゅうぶらりんで誰もそれを定義しようとしないから、きっとどうでもいいことなのだろう。
ただ、そのとき、俺たちはオカルトの向こう側を垣間見ることに成功したということさえ分かっていればいい。
その時、その現象を俺は『ドッペルゲンガー』と呼称していた。
1
その日、いつものように眠れなかった俺はゲーミングチェアに腰掛けて、電源の入っていないモニターをぼんやりと眺めていた。
時刻は二時を少し回ったぐらい、つまりは丑三つ時。怪異が現れやすい時間というけれど耳が痛くなるほど静かな夜だった。
そんな夜になぜ布団に入り込まず、耳が痛くなるような静けさの中、一人ぼんやり椅子に座っているかと言われればただ、眠れなかっただけである。
眠れなかった、そう眠れないのだ。
高校に四月に入学してからもう一ヶ月が経つ。
高校デビューに失敗したとか、別にそういうこともなかったのに、不思議と眠れない夜が続いている。
何故だろうか? そんな高校で気を張った生活をしていただろうか?
正確な理由ははっきりとわからない。
ただ、夜になると目が冴えてしまい、どうしても眠れないのだ。
眠れないにしても、布団に入って目を閉じてれば少しはマシだとわかっているのに、どうしても落ち着かずにいつものモニター前という定位置に腰掛けている。
暗闇の中、虹色に光るキーボードをにらみつけながら、なんでこいつはアホみたいに輝いているんだろうと思っていたりする。設定を変えれば消せるんじゃないかと思ったが、安物のキーボードの説明書は何にも書いちゃいなかった。
そうしているうちに空が白み始めて、その時間になってようやく眠気が降りて来る。ようやくかと伸びを一つ入れて、少しだけベッドに入ってごく僅かの睡眠をとり学校に向かう。
大体そんな日々だった。
そのうち体が壊れるんじゃないかと思うけれど、一回ぶっ壊れた方が綺麗に治せるんじゃないかとも、根拠なくそう思っている。
趣味であったナンプレの問題集も最近は開かれず、机の片隅に放置されている。
今、それに手を伸ばすことはない。
こんな夜中にやったら、頭に血が上って不眠が余計悪化するに決まっていたし、そんなことがわかっていれば触れることができるはずもない。
ため息をついて、窓の外を見やる。そろそろ新聞配達の原付が、街中を動き始める頃合いだろう。
背もたれに体重をかけると、ゲーミングチェアがぎいっと悲鳴をあげた。
原付の音に、再び意識が浮上する。
スマホを開くと、先ほどより数分時刻が進んでいるように思えた。一つため息をついて立ち上がる。新聞を配るのは彼らの仕事だから、それを責めることはできない。
その代わりに家の外に出ようと思ったのは、良い暇つぶしになると思ったから。
目標はたった今届けられたであろう新聞、玄関の扉を開けるとさっと冷たい風が身を包んだ。
一枚羽織ればよかったと思いつつ、郵便受けに歩みを進める。
玄関から少し離れた位置。投函された反対側からカパリと大きな口を開け、中身を確認する。
案の定、微かに遠くに聞こえる原付が新聞を届けてくれたらしい。
ふと、何かに見られているような気がして、俺は顔を上げた。
家の前の通りは車一つ分の通りしかない。向かい側には街路灯があって、そのすぐ隣にゴミを集めるための網が折り畳まれている。
そこの街路灯に照らされて、見覚えのあるセーラー服に身を包んだ女性が立っていた。
こんな時間に、深夜二時過ぎにだ。
そんな時間に、俺も通っている学校の、しかも女子高生が俺の家の前にいる。
もしかして今、俺は夢を見ているのだろうか。
そもそも、彼女はいつからそこにいたのだろうか?
俺が新聞を取りに出てきた時にはそこに立っていただろうか?
わからない、いきなりテレポートでもしてきたとか、タイムスリップで時差がある場所に飛んできてしまったとか、そういう非日常的な説明をしてくれた方が納得できるかもしれない。
俺の家の前に、こんな深夜に、いつからかわからないけれど、とにかく女子高生が立っている。
明らかに異常なことが起きていた。
互いに身動きもせず、黙って視線をぶつけ合う。
まるで互いが鬼のだるまさんがころんだをやっているかのように、ただ視線だけを動かして相手を探っていく。
影はある、足もある、その顔には生気もちゃんとあるように見えた。呼吸もちゃんとしているのだろう、微かに胸元が動いているのも確認できる。
どうにも、幽霊ではなさそうだ。
というか、彼女は俺の知っている人物ではなかったか?
今更ながら気づく、詰まりそうだった呼吸を我知らず深く吐いた。
ああ、そうだ。
彼女はクラスメイトの
セミロングぐらいのカールのかかった栗色の髪の毛、男女問わず元気に話しかける快活な性格をしていて人気のある人物。
ただ、いつもの性格は鳴りをひそめ、そこにぬっと立ち惚けているから、少し俺が気がつくのも遅れたのだろう。
そうとなれば、俺が動き始めるのも早かった。
「こんな時間に何やってるんだよ、三峰……」
そう言いながら彼女に歩み寄る。彼女にもその声が届いたのか、口元がぼそぼそと動いたけれども、何も聞こえなかった。
「俺が言うのもなんだけれど、早く家に帰って寝た方がいいぞ。ここの近所に住んでるのか? もしかして鍵を忘れて閉め出されたとか?」
また彼女は返事をしたのか、けれどもやっぱりどうにも聞こえず、さらに距離を詰める。
やっぱりどうにも様子がおかしい、夢の中を歩いているかのような感覚だった。
「……本当に大丈夫か?」
「本当に大丈夫か?」
被せるように飛んできた声に心臓が大きく跳ね上がる。いつもの彼女と同じ声色、なのにそれがどうしてものっぺりと聞こえてくるのが気持ち悪くて。
そう、抑揚がついていないのだ、そこに感情が伴っていないのだ。
「マジで、冗談はやめろよ三峰」
「マジで、冗談はやめろよ三峰」
山彦のように、彼女はただ言葉を繰り返す。
まるで決められたプログラムのように、同じ言葉を繰り返す。
地面が大きくぐらりと揺れるよう感じがしたけれど、きっと揺れているのは俺の体なのだろう。
言いようのない気持ち悪さが身をにまとわりついてきて振り払えない。
「お前は……三峰じゃないのか?」
「お前は……三峰じゃないのか?」
ああ、そうなのだろう。
彼女は三峰であって三峰ではない、そんな直感があった。俺の目の前にいるのは何者なのか、知らないうちに世界の裏側を覗き込んでしまったのだろうか。
不用意に、丑三つ時に外へと誘われてしまったばっかりに。
彼女は何者なんだろうか。ドッペルゲンガーとでも言うのだろうか。
三峰擬きは街路灯の下で身じろぎもせず、こちらをじっと眺めている。そこが定位置であると言わんばかりに、これがルールであると言わんばかりに。
多分、彼女からの能動的なアクションはないのかもしれない。
そう考えると、少しだけ気分が落ち着いてきた。
このまま後退りをして、家に引きこもって朝を待てば全て解決する、そんな気がした。
しかし、その動きを俺の理性的でない部分が拒んでいる。
こんな負けっぱなしが許されて良いのかと、危害を加えてこないようなドッペルゲンガー如きに敗走するべきなのだろうかと。
どうしようもないむかつきが胸の中にある。半分はこの時間まで眠れなかったことによる情緒の不安定さもあったかもしれない。ただ無性に、こんな意味不明な出来事に巻き込まれているのが許せなかった。
それが、俺が待ち望んでいた非日常だとしても。ぎゅっと一度手を握り締め、一歩前に踏み出す。
「お前が本当に三峰だったら……すまん」
今更、彼女が夢遊病なんじゃないかという考えが頭をよぎったものの、もう俺の動きは止められなかった。再び反復しようと動く彼女の顔に、こいつは何をしようとしているんだろうと言う疑問が一瞬浮かんで。
「お前が本当に三峰だったら……ッ!?!?!!?」
それ以上先の言葉繰り返されることはなかった。一瞬にして跳ね上げられた俺の両腕、それに従うように舞い上がったスカート、クマがプリントされた可愛いパンツ。
先程の鉄面皮はどこにやら、一瞬にして真っ赤に沸騰した彼女の顔が目前にあった。
なんだ、やっぱりこいつにも感情があるじゃん。
丑三つ時、閑静な住宅街にパンッと一度大きな音が響いて。
そのまま、それっきり。
2
「おまっ…向井ぃその頬はどうしたんだよおっ」
そこまで言って笑いを抑えきれなくなったのか、オカルト研究部部長が部室の床でぎゃははと笑いながら腹筋を抑えてローリング、丹念に制服で床を磨き上げている。
ひーっひーっ吐息も絶え絶えに笑い転げているのを冷たい目で見つめるが、部長には何の効果もないようだった。
俺の頬っぺたには出来立ての赤い紅葉、都合十二時間越しの一撃。
「……だから今日は部活に来たくなかったんですよ」
全てが嫌になり、部室を出ようとする。
放課後になって、昨日あった出来事をわざわざ語ってあげようと思っていたのに。
なんなら気分が悪いのだ、だからさっさと家に帰って休もう、そうしよう。
まあベッドに入り込んだところで眠れやしないのだけれども。
なんとなくいつもより調子が悪く思えたのは、やはり昨日の出来事のせいだろう。
結局あの後も一睡もできなかったのだ、いつもより少し世界が遠のいているような気がした。
とにかく家に帰って布団に潜り込みたいという気持ちだった、今なら少しは寝れるんじゃないかという希望的観測は咄嗟に肩にしがみついて止められる。
「まあまて、なっ……部員の活動は共有されるべきだろう……ぶふぉっ」
「吹き出しながらいうことじゃないでしょうよ」
本当災難だったんですよ、と言いながら仕方なくいつもの定位置に腰を下ろす。
一番奥にある窓に背を向けた部長の席と、対角にある入り口に一番近い席。そこが自分の居場所だった。
笑い疲れたのが部長もひいひい言いながら、席へと這っていく。がたんがたんと途中の積んであった書籍や使われていない椅子を崩していくが、それを直そうともしなかった。
またこれだ、ほとんど二人で運営されているのにこの部室はいつまでたってもきれいにならない、きっと今崩れた山の修復作業も俺に押し付けられるのだろう。
白い目を向けるも、部長は一向に気にしない。
「ほらじゃあ、何があったのか聞こうじゃないか」
いつものようにポケットから喉飴を取り出して、部長はそう言った。
「やっぱりね、丑三つ時は何かが起こるものなんだよ」
がははと自慢げに笑いながら、何を書いてるかわからない扇でバッサバッサと仰いでいる。
あほ……だろうか? 入部したての時に正解を教えてもらった気がするが、どうにも思い出せない。
「ほら、昨日も言ったろう? オカルトに一番近づけるのは丑三つ時だって、だから君も外に出る気になったんじゃないか?」
「……そうでしたっけ?」
本当に何も覚えちゃいなかった。ガクッと部長が肩を落とすのを見ながら、もしかしたら無意識にオカルトに近づけると思っていたのかもしれないと結論づけた。
「それにしてもドッペルゲンガー、ね……」
部長は満足げにうんうんと頷いている。部長が言うとおりなのだろう、今日一日中考えていたそれのことを思い返す。それが本当にオカルトだったかは別として、現象として近しいのはそれだ。
山彦ならば、同じ人の形をとったりしないだろう。
「で、哀れな向井はドッペルゲンガーに反抗を試み、無惨に頬に跡を残したと」
ドッペルゲンガーが可哀想じゃないか?と首を傾げる部長に対して全力で抗議する。
あんな夜中に他人を怖がらせたんだから、無害なはずはないと。
「でも、話を聞く限り向井が何もしなければなんもならなかったと思うんだけどなぁ……で、そのあとどうなったんだい?」
「はっきり言って覚えてないんです」
強烈なビンタを受けもんどりを打って倒れ、しかし意識がハッと目覚めた時には、先ほど街路灯下にいた彼女の人影は、もう周りに見えなかった。
まるで夢を見ていたかのように。
けれどもそれが事実だったかのように、家に引き返して鏡をのぞき込んでみれば頬にはくっきりと跡が残っていて。
それが夢ではなく現実であったと声高高に主張していた。
「まあ、跡は朝には消えたんですけどね」
「ん? でも今ちゃんと頬に残ってるじゃないか?」
「これは二度目なんですよ」
二度目?と首を傾げる部長に仕方なく説明を始める、俺の本当に恥部になりうる話を。
授業も終わり、帰りのHRも終えた放課後、そそくさと教室を出て部室に向かおうと立ち上がったところで、
「おーっす! むかいっち、今日は元気がないねえ!」
ばしーんと背中に衝撃が走り、びくりと体を震わせる。ああ、彼女が来てしまった、今一番話すべきで、話したくない相手がわざわざ近寄ってきてしまった。
「おうおう、なんだいなんだい。まるでお化けを見るような目じゃないか」
正真正銘、本物の
深夜のあいつと打って変わって、溌剌とした性格で笑顔も輝いて見える。
「ああ……やっぱりこっちが本物なんだな……」
「本物?」
可愛らしくこてんと首を傾げる三峰に、なんでもないと告げる。
変なのと呆れたような顔をしたものの、「それにしてもほんと顔色悪いよー?」と彼女はすぐさま優しさを見せていた。
「相変わらず寝れないの? ゲームやりすぎでねー?」
「そんなことはないんだけどな、昨日は色々あって……」
彼女はまるで昨日のことは何も知らないかのように話していた。
やっぱり別人なのだろう、念の為、昨日の夜何してた? と探りを入れると友達と通話してすぐ寝ちゃったよーと気さくな返事が返ってくる。
まあ、そうだろうな。
それ以上、深掘りできる気はしなかった。
たとえ、あれがもし本人だったとしても、「昨日、俺の家の前に立っていたよね?」とか聞けるはずがなかった。
もし勘違いだとしたら痛い奴認定されること間違いなしだろう。
また明日な、と適当に話を切り上げる。
そのとき、たまたま彼女の顔を直視してしまったから、彼女がまだ何かを語りたそうにしているのに振り返り際に気づいてしまった。
ああそうか、けれども話題がすっと思いつかないで、ただとっさに言葉をつなごうとして、頭に浮かんだ言葉をなんも考えもなしに漏らしていた。
「……クマがプリントされたパンツ」
少なくとも、何の問題もない台詞だったはずだ。
ただの名詞でしかなく、何言ってるんだこいつはと聞き流されるはずだったそれは。
一瞬の沈黙のうち、ぼっと真っ赤に染まった三峰の顔を見て、俺は致命的な失敗を悟ったのだ。
ああ、デジャヴ。思わず教室の天井を見上げる。
睡眠不足なのが全部悪いような気がした、きっと俺は悪くないはずなのだ。
「なんでむかいっちが知っているーーーッ!!!!」
バシーンと頬に走った景気のいい衝撃は、深夜に食らったものと比べ数倍の痛みがあるような気がした。
3
夜が吹けるにつれ目は冴えていき、今日も今日とて眠れない夜。
またもや丑三つ時である。部長の「それは一回きりなのかね」という言葉を真に受けたわけではないけれども、俺の行動は決まっていた。
原付が遠ざかっていくのを確認して、俺は窓の外を覗き込んだ。今日も、いる。
街路灯の下に見覚えのある人影。
「……ほんと、何なんだろうね」
パーカーをつっかけつつ、そんな独り言が漏れたけれども誰も答えてくれやしない。
GWも通り過ぎ、次第に暖かくなってきたとはいえ少し肌寒い夜。
「結局、お前は本物なのか?」
昨日のようなこだまは帰って来ず、ん?と足を止めたところで。
「本物だったら、向井君は嬉しいの?」
と予想しなかった返事が返ってきて、ひゅっと息が漏れた。学校内での、三峰が俺を呼ぶ時ではない苗字の君付け。
もしかしたら、いつもはキャラを被ってるだけなのかもしれないけれど、ほんの少しだけ傷ついたような気がした。
返答しないで立ち竦んでいると、三峰は少し首を傾げて俺の家を指差した。
「向井、じゃないの?」
ああ、と思わず嘆息を漏らす。
知らないのか、俺のことを。ただ彼女は表札を指差して俺を『向井』だと推察したのだ。
未だ距離を図りきれないまま、俺は首を縦に振った。
「……あってるよ、俺は
そのままお前は? と問いかけるのも不思議な気分だった。少なくとも俺は相手が誰かを知っているのだから。
問いかけるべきなのは名前ではなく、そもそも人間なのか?と問うべきだったのかもしれない。
ただ、彼女の答えは。
「私、私はね……ドッペルゲンガー」
「ドッペル、ゲンガー」
きっと鏡があったのなら、そこには恐ろしく間抜けな顔をした自分が写っているに違いがなかった。
太陽が東から登って西から沈むぐらいの自明の理だと言わんばかりに、彼女は淡々とそれを語っていたけれども、どうしてもすんなりと飲み込めない。
「……なんかもう、全部どうでも良くなってきたな」
長い夢を見ているような気がしてる、あの三峰が俺のことを驚かせようとしているのかもしれない。
なのに、それを裏付ける証拠は何もなくて、ポケットに突っ込んだ手で太ももをつねってもこの溺れそうな夜は何も変わりはしなかった。
「百歩譲って、百歩譲って、お前がドッペルゲンガーだとしよう。だとしたら昨日のあれはお前なのか? なんで今日は俺とちゃんと会話しようとする?」
一番先に浮かんだ疑問はそれ。
なんで今日の自称ドッペルゲンガーは俺と普通に会話をしようとしているのだろうか?
昨日の彼女と今日の彼女は、連続性を本当に持っているのだろうか。
「向井君はドッペルゲンガーをなんだと思う?」
「……?」
帰ってきたのはよくわからない質問だった。
「世界に三人いる自分とそっくりな存在、二人に出会ったら死ぬ、ぐらいかな」
「じゃあ、向井君は私をどうすればドッペルゲンガーだと認識出来たと思う?」
「お前はドッペルゲンガーなんだろう?」
「そうだよ、そうだけど、私が何もしなかったら本物じゃないと分からなかったんじゃない?」
まるで偽物だと気づいて欲しかったかのような台詞。
でも、確かにその通りではあった。
もしドッペルゲンガーを本物と見分けられないのならば、それは本物と言っても差し支えはないのだから、確かに本物ではないと示すための筋が必要なのかもしれない。
ドッペルゲンガーがドッペルゲンガーであることを示すために、わかりやすい見分け方をが必要だった。
昨日の例だとこだまのように反復することで、本物との違いを示さなければいけなかったということだろうか?
それが本物であるが故に、本物であることを捨てなければいけないというのは、なんとなく皮肉なものを感じるけれども。
「それなら、俺の家の前じゃなくて成り代わった本人の前に行けよ」
まあ、そんなもの俺の前に現れなければいいだけなのだけれども。
比較対象の問題なのだ。俺ではなく三峰本人の前に現れれば、なにもしなくても異常性の証明になるはずだ。
「オカルトを信じてない人にオカルトを信じさせてあげるのも私の仕事なの」
当然の理論のように彼女はそんなことを言うけれど、なんとなく引っかかるものがあった。
俺がオカルトを信じていない?
「まるで俺のことを知ったような口を聞くな」
それを聞いて彼女はクスクスと笑う。
「でも、そうでしょう? 私がドッペルゲンガーだと主張してるのに、向井君は一向に信用していないんだから」
そう言って不意に距離を詰めて、彼女は俺の瞳をじっと覗き込んだ。
思わず身動きを止める、ついっと伸ばされた彼女の指が軽く鼻に触れた。
「私が今日ここに来たのは、仕返しも含めてなの。人のパンツを覗いておいて、それの謝罪もせずにただ疑問をぶつけるばかり、順序があるんじゃないの?」
「す、すいませんでした……?」
「わかれば宜しい」
ふっと指先が遠ざかっていき、彼女はトントンっと軽く跳ねて俺から距離をとった。
「それじゃあ、ごきげんよう。また明日」
ただただ俺はその場に立ちすくむ。
聞き捨てならない台詞。また明日、また明日来る予定なのか。
「……三峰のところに行けよな」
その言葉は誰にも拾われず、雲ひとつない夜空に飲み込まれるばかり。
「へえ……また現れたんだ」
どうでもいいことかのように部長はオカルト雑誌を片手に、ふああと大きな欠伸をしていた。
「もうちょっと真面目に考えてくださいよ」
「そうは言っても、オカルトはオカルトとして受け入れて心から楽しめばいいと思うんだけどねえ」
ようやく雑誌から目を離して俺の目と向き合った。
「向井君はその存在を否定するために、僕に相談してるのかい?」
実際のところどうなんだろうか、俺は何故部長に相談しているのだろうか。
「オカルト研究部のドンとして、気になるものはないんですか?」
「はっきり言ってしまえば、ない。僕はそれをあると信じているからね、信じているからこそ真実を目にしたくないんだよ」
例えば、彼女が本当に三峰 栞だとすると。
そんな仮定を口にした。
夢遊病という筋もあるだろう、ただ彼女が偽って自分の前に立っているという筋もあるのかもしれない。
そんな想定は確かに心の中にあって、部長はそれを見透かすようにいうのだ。
「そういうものがあった、それで良いじゃないか? 君もそうなんだろう? 三峰栞にこのことを相談できたのか? 昨日も今日も俺の家の前に立っていたんじゃないかって尋ねることはできたのか?」
ゆらゆらと逆光の中で部長は宣う。
詭弁だ、そんなことを彼女本人に言えるはずない。異常者だって思われること間違いなしだろう、そう分かってるからこそ言えなかったのに、その言い訳すら口から出て来なかった。
本来なら自分はそうするべきだと分かっていたからだろう。
俺はオカルトを否定する立場にあるべきなのだから、なのにそれをしなかったのは部長の言う通り、俺は幻想のベールを剥がしたくなかったからではなかったか。
「なあ向井君、君は良い夢を見れているか?」
悪魔の囁きのように、部長の言葉が滑り込む。
ああ、俺は確かに夢を見ているのかもしれない。
本当に皮肉なことに、こんなにも不眠症に悩まされているのに。
それなのに、俺が夢を見ていることはきっと本当なのだ。
4
あの日以降も、ドッペルゲンガーとの逢瀬は続いていた。
部長の言葉を鵜呑みにしたわけでもないけれど、彼女の存在を否定しようとしないまま、たわいのない馴れ合いが続く日々。
彼女はドッペルゲンガーであるが故にか、ほとんど自分から話題を振ることはなかった。
基本的には俺から自分の成り立ちを、人間関係を語る日々。
それを聞いて彼女がさらに細かく掘り下げる。
冷静に考えれば彼女が俺のことを知ろうとするなんて不思議なことなのだ。
知るべきなのは俺のことではなく、三峰本人のことなのに。
それを尋ねても、彼女は困ったように小さく笑うばかりで、ただはぐらかされていた。
そんな構造はもしかして新しいドッペルゲンガーの創造に役立つのかもしれないと思っていたけれども、結局止めることはなかった。
もしかしたら、俺が語るのをやめたら彼女はここから去ってしまうと思っていたのかもしれない。
全く女々しいことに、引き止める努力もしないまま、彼女の需要を埋めることでしか、俺はそこにいられないと思っていた。
全く逆なのに。ここからいなくなるのは、彼女だと言うのに。
新聞が届く、外を伺って彼女の存在を確認して家を出る。
少し喋って彼女はどこへともなくさっていき、また朝がくる。
唯一の例外は雨が降った時だった。
ドッペルゲンガーは雨を嫌うのか、その時は姿を現さない。
「梅雨になれば、向井君ともおさらばね」
雪女みたいだな、と声にも出さず思っていた。
相変わらず眠れない日々が続いていたけれども、その一端をドッペルゲンガーが担っていたのも事実で、訳もなく彼女が消えれば眠れるんじゃないか、なんて気もしていて。
「……結局、お前はなんのために俺の前に現れたんだよ」
「前にも言ったでしょ、私のお仕事はオカルトを信じていない人にそれを信じさせることだって」
確かに彼女は二日目の時にそのようなことを言っていた。今の俺はオカルトを信用しているのだろうか?
答えは考えるまでもない、彼女を否定しようとしない時点で、きっとそれがあることを認めたいと思っているのだから。
「ねえ、皮肉じゃない? 向井君は眠れないから夢を見れないのに、眠れなかったからこそ夢を見ている」
「……本当に良い夢だよ、ずっと続けば良いのに」
分かっていたはずだ、夢から覚める時がいずれ来ることぐらいは。
けれども、それは思いもよらない形で。
結局、眠れない日々は見えないところでちゃんと身体にダメージを与えていたのだ。
昼下がりの数学の授業。
たまたま指名されて、黒板に向かう途中に足を不意に蹴っ飛ばされたような感じがして。
後から思えば、それは自分の足に自分で蹴つまずいただけだった。
平常ならば、すぐさま転ぶこともなく立ち直れただろうけれども、情けないことにそのままよろめいて、他人の机に寄りかかって。
もう一度、大きく視界がぐらりと揺れたような気がした。
必死に踏ん張っていたはずの右手は振り払われて、視界いっぱいに広がってくる教室の床。
ああ、ようやく寝れるんだな。
クラスメイトの声を遠くに聞きながら、そんなに騒がなくても良いのにと、他人事のようにあっさりと意識を手放した。
気づけば、ぼんやりと天井を眺めていた。
鼻にツンと香る消毒液の香り、周りを囲むカーテンとぼんやりとスマホを眺める人影。
「……学校でスマホは禁止だろ、三峰」
「まあまあ、むかいっちをここまで運んできた分でちゃらにしといてくれよ」
たははと笑い飛ばしながら、彼女はスマホをポケットに戻した。
時計を確認しようと周りを見渡すが、ベッドはカーテンで囲まれていて確認する術がない。
その様子に気づいたのか、彼女は「ここに来てからまだそんなにたってないよ」と呟いた。
「まだ五限目終わってないしね、ここにきて十分も立ってないんじゃないかな」
「へえ、三峰は戻らないのか?」
「私はサボりっ、保健委員の仕事を務めた報酬ってやつ?」
むかいっちを一人で運んできたのもそう、と私を褒めろと言わんばかりに胸を張っていたから素直にありがとうと頭を下げると、三峰はうむうむと鷹揚に頷いた。
「ってか本当びっくりしたよ、いきなり床にぶっ倒れたかと思えば床で眠りこけてるんだから。いつも眠そうに見えてたし、前も言ったけどいい加減夜更かしやめなー?」
無理に体を引き起こすと、三峰はまだ寝とけと言わんばかりに体を押し倒してくる。
しばらくの押し合いへし合いののち、情けないことにどう足掻いても彼女に力負けしていることに気づいた俺は、仕方なくベッドに体を沈ませた。
「と言うか、むかいっちと話すのだいぶ久しぶりじゃない? あの時以来?」
そう呟く彼女からふいっと視線を逸らした。
確かに、そうかもしれない。あのビンタされた時以降、学校内では三峰とはまともに会話をしていない。
もし、あのドッペルゲンガーが三峰本人だとしたら別なのだけれども。
どうやらそう言うわけでもなさそうだった。
友人達と明るく話す三峰を遠巻きに眺めることはあれど、何を話せばいいかもわからず、あの輪に飛び込む勇気もあるわけでもなく、まあ良いかと次に先送りする日々。
「で、ね。てっきりあのビンタでむかいっちに嫌われちゃったんじゃないかなーって思っててね」
「それは、関係ない」
だから三峰の台詞はあまりに予想外で、思わず間髪入れずに否定してしまった。
呆気に取られたのか三峰は目をぱちくりと瞬かせていた。あれは間違いなく俺の落ち度であったし、それを気に障られていても困る。
一つため息をついて、言葉を漏らす。
「三峰は悪くないだろ、ただ訳のわからない言葉を呟いた俺が悪いだけなんだから」
「それもそうなの、かな? でもでも、うん、引っ叩いちゃったのは私が悪いし、でも私が悪くないってむかいっちは認めようとしないのは許せないし……」
三峰は暫くうんうんと悩みながら彼女の髪をもみくちゃにしたのち、よし!と何かを吹っ切ったように立ち上がった。
「喧嘩両成敗のあいこということにしよう!」
「はあ……」
「では私が左頬を差し出すからなるべく優しくしてね……」
そう言いながら、瞼を閉じて顔をこちらに差し出してくる。
なんも分かってないと思いつつ、けれども俺も彼女の流儀に乗ることにした。
軽くほっぺを引っ張るだけ、流石に女性に手をあげるのは論外だ。三峰の頬の柔らかさを暫く堪能したのち、パッと手を離す。
ポッと顔を染めて彼女が一言。
「結構むかいっちって……大胆なんだね」
「うるせえよ」
お前がやれって言ったんじゃないか、そう呟くとワハハと言いながら彼女は俺の背中をバシバシと叩いた。
「じゃあ、これで私達の関係も元通りに戻るんだよね」
彼女の縋るような視線に、俺は気付かないふりをした。
元通りの関係も何も、俺とお前になんの関係もありゃしないと思っていたけれども、それを言ったら全部終わりな気がして何も言えやしなかった。
「ね、流石に私も鈍くないんだよ? あのビンタした日以降、むかいっちが私からなんとなく距離を取ろうとしているってことぐらいさ」
つまり、当たり前のことだった。
彼女には状況を推察するための情報が致命的なまでに欠損を起こしているのだから。
ただ起きたことといえば、ある放課後の日に俺をビンタしたとだけ。
それ以降、距離が離れていると考えれば、もはや原因はそれしかないだろうってことも俺にすら簡単に理解ができた。
「引っ叩いたことが悪くないって言うならさ、その原因を私に教えてよ」
掻き消えるような声で、そんなことを言う。
二人っきりの保健室、俺に逃げ場なんてものはなくて、ただただ選択を突き付けられる。
全部言ってしまえばいい。そんな夢物語、ありえないと笑い飛ばされるだけなのだから。
それを俺の思い出の中に留めておきたいと言う独占欲はあったけど、きっとそれもこれまでの日々を語らない為の言い訳に過ぎないような気がした。
きっと、今まで逃げていたことの代償なのだろう。
言わなければきっと大きな傷になるような気がした。三峰は俺が何にも言わなかったことを表面上は納得するだろうけれども、事実を語ってくれなかったことをずっと引きずるだろう。
もしくは都合の良い建前を口にすれば良かったのかもしれない、けれども寝不足の脳みそはその為に必死に働き出す気力もなく、ただ詰まっているのは出来事だけ。
それを言うか、言わないかをただ迫られる。
沈黙を切り裂いたのは、俺の口ではなかった。
五限目の終了を告げる鐘の音、それを聞いた瞬間、三峰は弾かれたかのように俯いた顔を上げた。
「やっぱり、ダメだよね」
たははと笑って、彼女は立ち上がる。
次の英語の田村には体調不良で保健室で休んでるって伝えるよ、となんでもないように無理に取り繕った笑顔のまま三峰は立ち去ろうとして。
その寸前で、彼女の右手にかろうじで手が届いた、届いてしまった。
驚きで三峰が目を見開くのを見ながら、やってしまったとため息をつきつつ天井を見やる。
残念なことに、これから俺がどういう行動をすればいいか指示するカンペは、どこにも張り付いてやいなかった。
でも、どうしようもない。決めたからにはやるしかない。
「……本当にくだらないし、三峰が信じてくれるとも俺ですら信じていない話になるんだけど、それでも聞いてくれるか?」
彼女の驚きに揺れる瞳に問いかける。
言葉はなく、ただまた同じ席に戻ったことで彼女の意思はわかった。
「三峰は、ドッペルゲンガーって知ってるか?」
「……信じられない」
その言葉と裏腹に三峰の目は期待で爛々と輝いていた。がっと伸びてきた両手が俺の両肩を鷲掴みにする。
「そういう、面白そうなことは早く教えてよ!」
ガクガクとゆらされながら、俺はどうしてこうなったんだろうと思い返していた。
てっきり笑い飛ばされると思っていたのに、なんなら三峰の偽物と毎日話してるとか気持ち悪いとか、そんなに幻覚を見るほど私のことを思ってたの気持ち悪い……とか道端に落ちている酔っぱらいの吐瀉物を見るような目で見られるかとでも思っていたのに。
「ん、私の幻覚を見るぐらいむかいっちが私の好きってことなんでしょ?」
「人の思考を勝手に読むなよ……」
何が嬉しいのか、三峰はにひひとわらった。
「まっ、いいでしょう。これでむかいっちが私を避けていた理由もわかったしね」
ちらっと俺の顔を見て、予想以上に顔と顔が近いことに今更気づいたのか、ババっと元の定位置へと彼女は戻っていた。
気を取り直したようにこほんと咳払いをして指を立てる。
「まっ、少なくともそれは私じゃないね。夢遊病なんてものはなった気がしないし、ついでに言えば私には妹でも姉でも双子も存在しない」
だって私、健康優良児だもんねーと見えない何かをなぐつけるモーション、それに合わせてパシパシパシとあらかじめ想定した考えを次々に潰していく。
それを見ながらふむ、と顎に手を当てつつ。
こいつ、いい加減に教室に戻る気は無いのだろうかと全然別のことを考えていた。
六限目の始まりを告げる鐘はとうになっているのに、全然話を切り上げるそぶりを見せない。
都合の良いことにそういうときに限って彼女は俺の思考も読もうとしないし、はよ帰れよという冷たい視線すら跳ね除けていた。
気分上々、向かう所敵なしと言った様子の彼女はなんでも無いことのように言った。
「つまり、私がドッペルゲンガーを倒せば良いってことだよね?」
「何が何でそうなるんだよ!!」
物事の帰結が一切わからなかった、なのに逆に俺がなにをいってるかわからないかのように彼女は可愛らしく首を傾げた。
「え、でもそうでしょ? 私からむかいっちを取り上げたのはそいつが悪いじゃん?」
「俺は誰のものでもねえよ!?」
またまたそんなと、いつものようにたははと笑っているが、至って真面目な目をして、というか全然目が笑っていなかった。
「まあでも倒せるか別として、私がドッペルゲンガーと会えるかどうかは別として、それと会ってみたいと思ってるのも本当のことだからね」
「ドッペルゲンガーと会ってみたいって、物語の中だったらドッペルゲンガーと会うってことは死ぬってことなんだぞ?」
「大丈夫だよ大丈夫、まだ一度も会ったことないから一度ぐらいは猶予あるだろうし」
「三回会ったら死ぬ計算のくせに一回を軽く見過ぎだろう!?」
こいつはRPGだったらエリクサーをポンポン使うタイプだろう、きっと。
その一回の消費すら恐れている俺は、やっぱり根本的にオカルトに巡り会えない運命なような気がした。
今回がたまたまついていただけで、素質というものがあるのなら三峰のような人物に備わっているものなのだろう。
「と言うわけで、学校終わったらむかいっちの部屋に突撃します!」
「……もう本当に意味がわからん」
「でも、今日は金曜日ですよ?」
「本当に、何一つ理由になってない」
明日が土日とは言え、いきなり関わりの薄い男の家に押しかけて深夜二時まで居残るとか、何を言ってるんだ。
まあ、確かに靴も隠して自分の部屋に閉じ込めておけば、家に入るところさえ見つからなければ一日くらいなら親にはバレなくもないだろうな、と冷静に算段をつけるあたり俺も相当三峰の流れに飲み込まれているような気がした。
ねえ、おねがあいと手を擦り合わせて頼み込む三峰を見て思わず深くため息をつく。
どうせ、拒否してもこいつは深夜に俺の家までやってこようとするのが、脳裏にありありと思い浮かんだ。
そんな夜道をほっつき歩かせるぐらいなら、まだ部屋にいてもらったほうが安全のような気がして。
「……仕方ないな」
その言葉を聞いて、三峰がパッと笑顔を咲かせるのを見て思わず、ああこれで良かったのだなんて思ってしまって。
それを見てふと思っていたのだ。
あのオカルト研究部の部長より、ずっと三峰の方が『らしい』なんて思ってしまったのだ。
それを突き詰めようとする行動力も。
ドッペルゲンガーに対する好奇心も。
部員に降りかかった現象に対する関心も。
もし真相にたどり着いたのならば、厚かましく部長にも教えてあげようじゃないかと。
そのときの俺は何も知らないまま、そんなことを考えていた。
5
彼女が、オカルト研究部部長より素質があるなんて言ったやつをぶっ飛ばしてやりたい。
「……ほんと、何しにきたんだよこいつ」
本来ここにいるべきではない存在、つまりは三峰のことだけれども、彼女は人のベッドを不当に占有した挙句、ぐおがぁぐおがぁとあまりに漢らしい寝息を立て、情けないことに寝相のせいでベッドから毛布も蹴落とされ、制服は乱れに乱れ、哀れなことに慎ましい臍まで大胆に曝け出している。
あまりに目も当てられず、とりあえず毛布を拾い上げお腹を隠す。
ひとまず落ち着いたのかスースーとおとなしい寝息に戻ったのを見て、普通にしてれば可愛いのにとため息をつく。
本当に何をしにきたんだこいつは。ちゃぶ台の方に目をやるとその上には広げっぱなしのナンプレの問題集、候補数字をやたらと詰め込んだ挙句、最後まで解けてもいない。
これぐらいなら楽勝よと三峰は意気揚々と取り掛かったが、そのページだけではなくそこに至るまでの問題全てに無様な敗北を喫していた。
その横に添えられたのは晩御飯用に買ったカップヌードルの残骸とパーティー開けしたものの結局ほとんど手をつけなかったポテチ、その横で完全に温み切ったコーラ。
コーラを飲みさえすれば夜更かしできると三峰は主張したが、結果は言うまでもない。
彼女の健やかな生活リズムは誰にも止められなかった。
部屋の片付け、俺がやらなきゃいけないんだろうな。
なんかこいつ、部屋の片付けも出来なそうだし。
呆れた目線をじっと投げかけるも、意識のない三峰は当然反応を示さない。
というか、そんな場合ではない、慌てて首を振る。
「起きろ、三峰!時間だぞ!」
再度ペシペシと顔を叩く、親にバレないように小声で。
もういつもの時間が差し迫って居た。というか、いささか通り過ぎている。
原付の音もとうに通り過ぎていった後。
窓の外を見やると、今日も雲ひとつない夜空が広がっている。
雨ではない、ならば今日も来るはずだ。
あのドッペルゲンガーが、本物の三峰ではない限りは。
その懸念を晴らすのも今日の目的だったはずなのに、彼女は一向に起きる様子を見せないばかりか「むかぃ……やさしくして……」とわけわからない寝言を漏らすばかり。
もうどうしようもない、諦めて立ちあがろうとしてある予想が一瞬頭をよぎる。
もしかしてこいつ、狸寝入りしているのか?
彼女がここで俺を引き留め、いつもの時間に俺が間に合わなければ、ドッペルゲンガーが姿を消す理由にはなる。
その二人が同時に存在することはできないが、存在しうるという可能性は続けさせることもできるだろう。
あまりに捨て身の作戦だ、三峰のあまりの強かさにごくりと唾を飲む。
それにしても、ここまで無様を晒してまでやることなのだろうか。
何はともあれ、パーカーを引っ掴む余裕もなく部屋を飛び出す。
限りなく可能性は低いと言わざるを得ないが、もしかしたら三峰の策略であるかもしれないのだから、それに付き合ってる余裕はない。
「あら、今日はだいぶ遅かったのね」
まあ、そんなことはなかったのだけれども。
息を荒げて飛び出してきた俺を、ドッペルゲンガーは何やら不思議なものを見るような目で眺めて居た。
俺の部屋の窓を見上げる。部屋の中の様子は伺えないけれども、どう考えても三峰がここに先回りできる余裕はなかった。
やっぱり別人なのか、結局夢は覚めることはないのか。
ふーっと息を整え、彼女へと向き直る。
「色々あって、な……うん、待たせたのなら悪かった」
今まさに俺の家の中に三峰本人がいるんだよ、とは彼女には言わなかった。
彼女は興味なさそうにふん、と鼻をならして「少し、歩きましょうか」と先を歩き始めた。
初めてのことである、呆気に取られて立ち惚けて居たものの、あっという間に後ろ姿が遠くなっているの気づいて慌てて駆け寄った。
家の前から離れてしまったのならば三峰との合流は、おそらく無理だろう。
スマホも置きっぱなしで慌てて家を飛び出してきたから、彼女への連絡手段もない。
まあ、仕方ない。あいつが全部悪いんだから、後から何で起こしてくれなかったのとか責められても、きっとどうにでもなるだろう。
不眠に悩まされて居たけれど、こんな時間に夜を散歩することは今までなかった。
単純に警察に捕まって補導されるのが怖かった、というのもある。
まあそもそも、家の外に出たいと思わなかった、というのが一番大きな理由かもしれないけれど。
しかしながら、不思議なことに警察に補導されるんじゃないかという恐怖心は今のところ鳴りを潜めて居た。
きっと、本物ではない三峰と歩いているという非現実感がそれをすっぽりと覆い隠して居たのだろう。
浅い夢の中を歩いている、そんな気がした。
はじめて歩く夜の町は、いつもと違った異世界のようだった。
オカルト世界の住人の背中を追っているのだから、もうお前はとっくに異世界に滑り落ちているのだと言われたとしたら、きっと納得してしまったのだろう。
不眠症に悩まされている異邦人は夜空を見上げる。
天敵である街の火も掻き消えて、星々は煌々と輝いて居た。
自販機のブーンと唸りを上げる音。それを止めようとしているのか、目の前の彼女が順番にボタンを押しつつ通り過ぎていく。
俺たちの目前を小さい黒い塊がサッと通り過ぎていって、俺は思わず足を止めた。
「あれは、野良猫だよ」
振り返るまでもなく、彼女はそういった。
本当にそうなのだろうか?
疑問に思うも、きっと彼女の方が俺よりこの町の夜に詳しいような気がして、それを否定する気にもならなかった。
どこまでも続くような街路灯の列を、俺たちはぼんやりと辿っていた。
終着点はどこにあるのだろう。疑問に思うけれども、それを口にすることはない。
きっと、いつかは辿り着くだろう。
そんな気がした。
町と町を分断する川がある。
それを繋ぐようにドラマの舞台にもなった大橋があって、彼女はその中央でようやく立ち止まった。
「今日でお別れなの」
と、よくある世間話のように彼女はそう切り出した。
すとんとその言葉が自然に胸に落ちて、じわじわと広がっていく。
梅雨になればお別れと、以前にも彼女は語っていたし、遅かれ早かれの話だろう。
梅雨入りのニュースはまだ流れていなかったけれども、天気予報は雨は来週からずらっと続いていた。
「……少しだけ、寂しくなるな」
「本当に少しだけ?」
彼女は目下を流れる川を眺めながら笑みを溢した。
少しだけ、ではないのだろう。
気恥ずかしさから過小報告しただけで、もし俺の心をのぞけるなら、ポッカリと穴が空いてるのを確認できたに違いない。
「まあでも、これで向井君も明日から眠れるようになるんじゃない?」
その穴を綺麗に避けて、彼女はそんなことを言う。別に彼女由来の不眠ではないと言うのに、まるで眠れないのは私が原因と言わんばかりで、その図々しさに少しだけ腹が立った。
「別に、今日も明日も、俺は何も変わらないよ」
負け惜しみだ、彼女が眺めているものを覗き込もうと隣に並んで川を覗き込む。
ゆらゆらと揺れる水面、月もない夜空は何も映す価値はないと言わんばかりに漆黒がキラキラと瞬いている。
ここに落ちたら、きっとこの時間に落ちたら、誰も助けに来ないだろうし、助からないだろう。
なんとなく身が惹かれるような気がして体を乗り出して、それを引き止めるように首をぎゅっと引っ張る感覚。
隣から手が伸びていた。
何考えてるの、と視線で訴えかけているような気がして、「寝不足でね」と言い訳にならない言い訳を重ねる。
「……本当に重症ね」
よっと、川を覗き込むのをやめて彼女は俺から数歩距離をとった。
「オカルトの存在を信じてもらおうと思ったけど、向井君には劇薬だったかもしれないわ」
「そんなことはないだろ」
まあ、もしかしたら、彼女が俺の目の前に現れなかったという想定すれば、俺の不眠症はとうに治っていたのかもしれないけれど。
きっと夜を楽しみに待つなんてことはなかったのだ、オカルトに見切りをつけてなんとなく高校生活に適応していたのかもしれない。
けれども、今ここを歩けているのは間違いなく幸せなことだと断言できてしまう。
「だって俺は今、夢を見ているよ」
「そう、向井君も夢を見れるようになったのね」
眠れないのに、俺は夢を見れるようになった。
オカルトの存在を信じれるようになった。これを成長と言えるのかは首を傾げるけれども、きっとかけがえのないピースの一つになるだろう。
川を駆け降りてきた風が、二人の間を通り抜けていく。
セーラー服のスカートが大きく揺れるも、あの時のように内側が見えることはなかった。
俺も彼女も同じことを思い出したのか、二人揃って笑い始める。
懐かしい日々! 一月も経たないうちの出来事なのに、あの日のことをずっと遠くのことのように思えた。
あの日を起点にした夜の密かな集いを、俺が忘れることはないだろう。
気付けば、彼女が俺のほんのすぐ近くの場所に立っていて、これから何が起こるのかなんて聞かずともわかった。
彼女は俺にキスをして、俺は彼女にキスをした。
あの大橋の上で、物語の最終幕として。
そのまま偽物は去っていき、俺は日常に帰るのだ。
きっと何事もない日常生活が帰ってきて、この不眠症も治るような気がした。
俺はオカルト研究部にて部長と何気ない日々を送るだろう、オカルトを否定する立場ではなく、それがあると信じられるのだからきっと今より居心地のいい場所になるだろう。
ドッペルゲンガーという現象に関して解明できなかった三峰とは、いつものクラスメイトの関係に戻るだろう。
あれはなんだったのかと二人揃って首を傾げて、それ以上踏み込むこともないまま何気ない会話を繰り広げ、学年が上がりクラスもわかれてきっと疎遠になっていくだろう。
全部、そうなるような気がした。
でも、そんなエンディングは訪れない。
三峰はいささか寝坊したものの、俺が部屋を飛び出してからしばらくして目を覚ました。
ここはどこだろうか? 寝起きの頭で考える。見覚えのない部屋だ、私はどうしてここにいるのだろうか。
それでも次第に意識が覚醒してくる。
机の上に広げられたナンプレ、食べ刺しのポテチ、なにはともあれコーラのペットボトルを引っ掴み、急いで喉に流し込む。
そうだ、私は向井の家にやってきていたのだ。
私のドッペルゲンガーがいると言う話を聞きつけて。
それを見てみたいという願望と、ほんの少しだけ邪な感情を胸にやってきたのだと。
しかし、変なことに周囲に向井の姿が見えない。どうにも家全体が静まり返っているようだ。
向井のスマホは机の上に置きっぱなしのようだ、もしかしてトイレだろうか。
数分待つも帰ってくる様子は見せない。
チラリと時計を確認する。時間は二時二十分、予定時刻を大幅に過ぎている。
もしやと思い、窓から玄関先を覗くも誰も見えなかった。
何かがおかしい。
向井はドッペルゲンガーと今日も遭遇したのかもしれないが、いつも玄関近くで会話していたという話だ。
あそこに見えないのは何故だ、いつもと違うことが起きたのか?
もしかして私という変数がここにやってきたから何かが変わってしまったのだろうか。
心の中で疑念がむくむくと鎌首をもたげる。そうなったからにはもう三峰の動きは早かった。
部屋に持ち込んだ靴を引っ掴み、廊下へと滑り出る。
なるべく早く、なるべく足音を出さずに。
来た時に確認した、向井が普段使いしている様子だった靴は、スマホの明かりで照らすもどう探しても見当たらなかった。
心臓の鼓動が痛いほど煩かった。
何かを致命的に失敗してしまったような、そんな感覚があった。
鍵もかけられていない扉から外に出て、すぐさま走り始める。
まるで夢の中を走っているようだった、あまりに静かな町がその裏付けなような気がした。
いつもよりずっと遅い、体が全然前に進まない。
ひたすら目的地もわからないまま、三峰は走り続ける。
どこかへ行ってしまった向井を探すために、もうどこかへ行ってしまったのかもしれないという妄想を必死に掻き消すために三峰は遮二無二走り続ける。
だから、そこにたどり着いたのも偶然。
その時、その瞬間に、偶然間に合ってしまった。
一瞬の触れ合いのち、すぐさま離れる。
「……どうした?」
そこでようやく俺は彼女の異変に気付いた。
彼女は信じられないものを見たかのように目を見開いていた。
俺ではなく、その後方にある何かを見ているようで。
何気なく振り向いたところで、俺もまた動きを止めた。
ぴくりとも動かない三峰が、俺たち二人をぼんやりと見つめていた。
誰も動かない、誰も動けない。
まるで、この均衡を崩してはいけないと神様に定められていたかのように。
一番最初に痺れを切らしたのは偽物の方だった。
ぎゅっと靴を踏み締めるような音を聞いて、あわてて視線を戻すと彼女は俺に背中を向けて走り始めていた。
逃げられる。
咄嗟の反応だった。普通に見送るはずだったのに、その考えも抜け落ちて、俺も慌てて走り始めて手を伸ばす。
ぎゅっと伸ばされた手の先がスカーフ届いて、次の瞬間、背後からドンと衝撃が走った。
振り返るまでもない、後ろには一人しかいないのだから。
「どけっ! 三峰!」
「どきませんっ!!」
大きな声で叫び返される。
まるでそれを追わせては行けないかのように、その先は地獄だと言わんばかりに。
瞳は恐れからか、ゆらゆらと揺れていた。まるで雷を恐れる子供のように三峰はガタガタと震えている。
その様子に思わず、三峰を跳ね除けようもいう気力もかき消されていた。
視線を戻すともう彼女の背中は見えない。
どちらにしても、今から走り始めたとしても追いつけなさそうだった。
「……離せよ、もういいって」
俺に巻きついた三峰の腕を引き離すも、彼女はまたすぐに服の縁にしがみ付く。
彼女が何をそんなに恐れているのかわからなかった、自分のドッペルゲンガーがいると言った時はここまで怖がる様子もなかったのに。
大丈夫だってと目線を合わせて諭し続ける。
しばらくして余裕もできたのか、彼女は恐る恐る尋ねかけてきた。
「むかいっちは……むかいっちは誰と会ってたの?」
「……誰って、お前のドッペルゲンガーだろ」
「あれは、あれはね、絶対そんなもんじゃないよ」
何を言ってるのか信じられないとフルフルと首を横に振っているけれど、どうしてもその意味がわからなかった。
手元に残った彼女が身につけていた青色のスカーフをぼんやりと見つめる。
穴に通すだけのスカーフだから、これに手を伸ばしたのは失敗だった。
ただ、不思議なことが一つあった。
俺がさっきまで目にしていた時のそれは、赤色だったはずなのだ。
スカーフは学年ごとに色が分けられる、つまり俺たちの学年は青色ではなく赤色のはずで、それを目にしていているのなら、俺と三峰とは違う学年だ、という判断は付いていたはずだ。
その筈なのに、俺はそれに気づかなかった。
その、スカーフを赤色だと認識していたから。
それがどうしても、理解できなかった。
スカーフは確かに実在しているのに、どうにもそれが本物ではないような気がして。
「三峰にはあいつが何に見えてたんだ?」
「……言いたくない……でも、間違いなく……私ではなかった」
彼女は、本当にドッペルゲンガーだったのか?
俺にとっては三峰に見えたけれども。
それ故にドッペルゲンガーだと思っていたけれども、ただそう認識していただけなのだろうか。
寝不足の頭では、何一つ理解ができない。
スカーフを目前に持ち上げて、じっと眺める。
ふっとある疑念が思い浮かび、そして。
「はっくしょん!!」
俺は一つ大きなくしゃみをした。
6
風邪を引いた、一言で言えばそうなのだ。
寝不足で免疫能力が落ちてたのもあるだろう、彼女を追うために何も羽織らずに外に飛び出たのもあるだろう。
とにかく、原因はなんでもいいけれど、あの日のオチとして俺が得たものは、風邪だけだった。
三峰はあの日、あの出来事の後、しばらく俺にしがみついたままで、仕方なく俺の家まで帰ってきた。
ぼんやりとした思考の中、何かを話したそうにしている三峰にも構う気にもなれず、彼女が先ほど横になっていたベッドに身を投げ出して。
ああ、なんか女の子の匂いするなと思った次の瞬間には、プッツリと意識が闇に落ちていった。
次に俺が目を覚ますと、彼女の姿はもう見えなかった。机の上は相変わらずちらばったまま、広げられたナンプレ本の片隅に帰りますと一言丸文字で書いてある。
ああ、そうなんだと誰にいうでもなく呟いて、再びベッドに潜り込み。
もう女の子の香りなんてかけらもしないな、なんて思っているうちに再度ブラックアウト。
次に目を覚ますと夜中の二時である、遠ざかる原付の音に急かされるように無理矢理体を起こす。
ここに至って、ようやく自分の体調がおかしいんじゃないかと気付き始めた。
念の為、窓の外を見やるも昨日の宣言通りに彼女が姿は見えなかった。そりゃそうだろうと思いつつ、ふらつく足取りで一回のリビングへ向かう。
自分用の晩ごはんだけ、律儀にラップしてキッチンの片隅に置いてあった。
それを電子レンジで放り込み、鍋に入れられた味噌汁を前に少し考え、再加熱のめんどくささから断念。
今日初めての食事。
温められた青椒肉絲を口に運んで首を傾げる。
何故か、全然味がしない。疑問に思いつつ、なんとか全部胃に流し込む。
ガサガサと引き出しを漁り、体温計を取り出す。
しばらくして示された温度は38.4℃。完璧に風邪を引いていた。
とりあえず風邪薬を水で流し込み、ラインで親と三峰に風邪を引いたとだけ送って、今度は自分の部屋の扉を開けっぱなしにしたまま、再度ベッドに潜り込む。
今までの負債を取り返すかのように、また眠る。
夢は、見なかった。
眠る、眠る、眠り続ける。
休日である日曜も、学校が再開した月曜も眠って眠って、その睡眠の狭間であの日の出来事のことを、彼女が何者なのかについて考え続ける。
ある仮説はすでに立っていた。
あまりに非現実的な仮定の元、理論を超越したそれは、けれども一番しっくりくるものだった。
その仮説を三峰に伝えることはなかった。彼女から体調を心配するラインは来ていたけれど、今のところ、そっけない返事しか返していない。
一笑に付される考えだと、我ながら思う。
お前は、オカルトなんて信じていないのではなかったか?
なのに、それを否定できない。
その考えを肯定されるんじゃないかと恐れて、三峰に共有することもできない。
どうしようかと、一人でぼんやり考える。
窓の外は雨模様。先週見た天気予報の通り、今週はずっと雨が降り続くに違いない。
三峰はオカルト研究部の、厚かましいことに部長の席に腰掛けて待ち人が来るのを待っていた。
しかし、その蛮行を誰も咎めるものはいなかった。この部は基本的に幽霊部員しか居ないのだから。
ちゃんと毎日やってくるのが部長と向井のみであることを、彼女はちゃんと知っていた。
くるりと席を回転させて窓の外へと視線を移す。
雨、雨は嫌いだと彼女は憎々しいものを見るかのように、ガラスの外を浮かんでいる雨雲を睨みつける。
ほんと、嫌な気分。
雨が降ると何が嫌って、いくら水たまりを避けようと知らないうちに靴に入り込んでくるのが嫌だし、髪が湿気で纏まらないのも嫌だったし、本を読むときになんとなくページが皮膚にベタついている感覚があるのも嫌だった。
要するに全部嫌い、ずっと冬ならいいとすら思っている。
土曜からずっと降り続いてる雨は、時たま止むことはあれど、晴れ間を見せることはなかった。
本当にもう、この天気のように彼女の気分もどんどん沈んでいく。
これから行わなきゃ行けないこともそうだ。全く、本当に損で嫌な役回りだ。
向井は、いつもの時間通りに来た。
三峰は笑顔を取り繕って語りかける。
「やあやあむかいっち、だいぶ待たせるじゃないか」
「……何をやってるんですか」
怪訝な視線をぶつけられてチクリと心が痛むがそれを我慢、何事もなかったかのように口を開く。
「先に部長と私との間に答え合わせを済ませてね。で、その結果をむかいっちにも伝えてあげようと思ってね」
机の上に手を組んで、その下から向井を覗き込む。
病み上がりで立っているのも億劫なのか、彼もまた定位置である部長席の対岸へと腰掛けた。
「ドッペルゲンガーの正体、むかいっちはわかった?」
「……まあ、なんとか想定は付いてましたよ。ここに来て確信になりましたけど」
「そう、まあむかいっちが手に入れたスカーフと私がここにいるってことでまあ大体は予想がつくよね」
それは、実在する人である。
また、制服のスカートを着用していたことから女生徒である。その色から、三年生であることが推察される。
それに当てはまる存在は数あれど、彼の付近の人物で色濃く疑惑で囲まれているのはたった一人。
「「ドッペルゲンガーの正体は、オカルト研究部の部長である」」
綺麗に声がはもって、彼女は思わず笑みを浮かべた。
「結局、あれはドッペルゲンガーなんてものじゃないらしいんだ。ドッペルゲンガーというより、どちらかと言えばシェイプシフターなんだろうね」
まあ間違いなく彼女は人間らしいけど、と付け加える。
「あの部長は他人の認識をずらすことができる。そういう能力を持っていた、ESPの一部なのかな?」
やってることは、至極単純なのことだった。
体を変化させるわけではなく、
ちゃんと人がそこに存在しなければいけない、尚且つそれを掛けられるのは自分だけという縛りはあるけれど、まさしくオカルトに足を突っ込んだ能力と言えるだろう。
「つまり、俺は三峰と部長を誤認していただけだったと?」
三峰が見たのはなんだったんだろうという呟きに返事をすることはない。
でも、なんとなく変な感覚があった。
けれどもその答えが見つからないまま、引っ掛かりを覚えつつ三峰は話を続ける。
「そういうことなんだろうね、いやはや照れるなー」
たははと笑い声を上げるも、向井の反応は鈍かった。
なんというか変な感覚だ、こちらを一向に見ようとしない。
照れているのだろうか? 少しだけ顔が赤く見えた。
まあしばらく休んでいたし、睡眠も取れて血色も良くなったのだろうと話を続ける。
「私はなんで部長がそんな事をしたのかわからないけど、オカルトを一切信用しようとしないむかいっちに夢を見させてあげたかったんじゃないかという説を押すね」
「夢を見させるため、ですか」
「まあ私からしてみれば馬鹿らしい事だけどね、むかいっちのことを騙してまでやることではないよね〜」
そう、彼女のことを笑い飛ばす。
全く、オカルトの存在を信用させたいのであれば、直接能力を証明させて仕舞えばよかったのに。
彼女はそれをしなかった。
そうすることで、彼女自身が常人でない扱いをされるのを恐れていた。
だからそうなるのだと、ため息をつく。
わざわざ迂遠な方法を取るしかなかったのだ。傷つく事を恐れて、そんなオカルトがあると信じさせる事で、自分の存在を肯定させようとした、勝手な人。
「で、ね。そんな嫌な部長がいる部活なんてさ、嫌でしょう? そういうふうに部員を支配してさ、むかいっちをオカルト信奉者に変えて、自分の手が届く範囲のコマとして置こうとするやつなんてさ」
だから話を、つけたんだとなんでもないことのように三峰は言う。
「むかいっちにこの事を全部話してやるってさ、そうする事で部活を離れるだろうけれど、それを引き止めることもしないように」
これが一番スマートな解決方法だろう。
向井はオカルト部長と縁を切り、平穏な学校生活を取り戻す。すれ違っても話をすることのない、無関係な他人へと元通りに。
それが一番、いいはずだ。
「どう思うんです?」
「……え?」
「部長は、それが俺にとっての一番の幸せだと思いますか?」
しばらく目を伏せていた向井の視線は、知らないうちにこちらを貫いていた。
どう思うもなにも、それが一番幸せだと思っているのに。そこまで考えたところで、思考が止まる。
「言い方を変えましょうか」
いつもの定位置から腰を浮かせて、ふらりふらりと彼がこちらへ近づいてくる。
向井は彼女の肩に手を置き、宣告する。
「オカルト研究部部長の松葉 みなみは、どう思っているんですか?」
もう、あの日と同じように逃げることはできなかった。
7
部長が俺のことを『むかいっち』なんて慣れない呼び方をした時点で、何かを間違っているのだと理解した。
おそらく今までのように、三峰のように見られていると錯覚しているのだろう。
まったく、どっからどう見ても部長にしか見えない。
夜な夜な俺のことをどうやって錯覚させていたのか、まったく理解できなかった。
そこらへんはやっぱり、オカルトならなんでもありというべきなのだろうか?
思わず飛び出した「なにやってるんです?」なんて疑問をぶつける台詞も、部長にあっさりとあっさりと受け流されて、仕方なく話の流れに乗った。
予想はしていなかった流れだが、良い部分ももちろんあった。
彼女なりの本音と建前、それに虚勢をはってるのがわかったのだから十分。
俺に言わせて貰えば、部長が超能力者だろうが、もしくはそれに準ずる異能を持っていようがいまいが、そこらへんははっきり言ってどうでもいい。
ただ、どうしても部長に確認したかった。
人のことをわかったような口で語るくせに、俺と直接向き合うとしない彼女に、どうしても確認したかったのだ。
「部長は、あの時あの場に三峰が現れない方が良かったと思ってるんですか?」
今となってはありえないif。
俺が三峰にドッペルゲンガーの話をして、彼女が家にやってきたからこその現在は、間違いなく部長の未来予想図と外れていたのだろう。
「ねえ、部長。もしあのまま橋の上で別れてたら俺はオカルト研究部を続けていたんじゃないんですか? それこそ部長が望んでいたことなんじゃないんですか?」
返事はない、けれども俺の推理が大幅に外れている気はしなかった。
そうなのだ、部長の予定では間違いなく俺は変わらずにそこにまだいたはずで。
「俺が部活を辞めることを納得しているなんて、全部嘘っぱちじゃないですか」
彼女がなんのために毎日俺の家の前にやってきたのか、俺はそれをまだ知らない。
俺にオカルトがあることを信じて欲しかったのだろうか?
それがないとわかるや否や、俺がこの部活からいなくなるとでも思っていたのだろうか?
不眠症に悩まされている俺のために夢を見させてあげたかったのだろうか?
そうすることが部長の責務だとおもっていたのだろうか?
答えはわからない、きっと彼女が動機を教えてくれることもないだろう。
けれども、部長の行動によって、俺には確かに何かを得た。
「ねえ部長……俺はね、このしばらくの間、ずっと楽しかったんですよ」
楽しい夢を見た。
眠れない夜という代償を払っていたとしても。
それだけじゃ足りないんじゃないかと思えるぐらい、幸せな夢を見たのだ。
「きっと部長も、楽しかったんじゃないんですか?」
彼女はゆっくりと、深く頷いた。
それだけで十分だった。
夢から完全な神秘なんてものは失われてしまったのかもしれないけれど。
その幸せな夢を共有している人がもう一人増えたとすれば、きっとお釣りが来るぐらいだろう。
ふっと笑みを浮かべて、彼女から離れていく。
もう、俺がここで語る事はない。
席の近くに置きっぱなしだった鞄を拾い上げ、振り返る事なく問いかける。
「そう言えば部長、部長の変身する能力ってどうやって変身先を決めるんです? やたら三峰が恐れていたんですけど、人によって見ている姿は変わってますよね、あれ」
「……僕の能力は、『相手が一番会いたい人』に変身する能力だよ」
思わずなるほど、と手を叩く。
俺が初めから彼女を彼女のように見えていたのは、ただの偶然だったのか。それを自分から語り始めたらとんでもない墓穴を掘るところだった。
部室の扉に手をかける。
今日はもう、ひどく疲れた。
病み上がりで学校に来て、酷く眠かった。
まだいくらでも話したい事はあるのだ。なんでキスしたのかとか無粋な質問はきっと聞けないだろうけれども、それ以外にも彼女とたくさん話したい事はある。
ただ、今日は限界だった。
「また、明日」
振り返って彼女を見やる。
俺に何かを言おうとして。それなのになにも言葉にできない部長に背を向ける。
明日以降もオカルト研究部の日常は変わらない、きっと明日になれば元通りの日常が帰ってくる。
これが、この話の結末だ。
俺が、退部届を出す事はないだろう。
家に帰って、早く寝る。
夢を見るために、俺はゆっくりと廊下を歩き始めた。