明治強者加茂憲倫   作:カツオのタタキ

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第十話 幕引き

羂索の足元に転がっていた刀が、わずかに震えた。

 

 拾い上げる。

 

 その刃は濡れている。血を吸い、鈍く沈むような光を帯びていた。1級呪具【村雨】。斬撃と同時に対象の血を奪い取る術式が付与された刀。切断した瞬間から吸収は始まり、流出した血すら刃へ引き寄せられる。傷は深くなり、再生は遅れ、量そのものを削られる。単なる刃ではない。“削る”のではなく、“奪う”ための呪具。

 

 羂索はそれを当然のように握り直す。

 

 対する憲倫の指先から血が滑り出る。流れ出た赤はそのまま形を持ち、刃となる。血刃。温度、粘度、密度――すべてが最適化され、刃として成立する。

 

 踏み込む。

 

 同時だった。

 

 空気が裂ける。刀と血刃が衝突し、硬質な音が弾ける。何度も、何度も。刃と刃が交錯し、火花の代わりに血が散る。羂索の太刀筋は鋭く、迷いがない。人体の構造を熟知した斬撃は、無駄なく急所へ届く。憲倫の血刃はそれを受け、流し、角度を変え、逆に滑り込む。斬り合いではない。削り合い。互いに一瞬の隙を探り続ける。

 

 そして。

 

 その均衡が、崩れる。

 

 羂索の刃が、わずかに沈んだ。

 

 防がれたはずの軌道が、ほんの僅かにずれ、空間に“空き”が生まれる。

 

 そこに、入る。

 

 次の瞬間。

 

 結果だけが、先にあった。

 

 憲倫の左腕が、肩口から切り離されている。

 

 認識が、遅れる。

 

 腕が飛んでいる。

 

 自分の腕が。

 

 空中にある。

 

 遅れて、断面が現れる。

 

 肉が裂け、骨が断たれ、神経が露出する。

 

 その全てが一瞬で起きているにも関わらず、“そうなっている”という事実だけが先に存在している。

 

 そして。

 

 爆ぜる。

 

 血が、噴き上がる。

 

 空気を叩き、音を生み、視界を赤く染める。

 

 だが。

 

 その血が、落ちない。

 

 噴き上がった赤が、空中で止まる。

 

 滴にならない。

 

 散らない。

 

 そのまま、形を持つ。

 

 そして。

 

 奪われる。

 

 村雨の刃が、吸い寄せる。

 

 血が、刃へと引き込まれる。

 

 空中に留まっていたはずの血が、流れを変え、吸われていく。まるで重力が逆転したかのように、すべてが刃へと集まる。

 

 量が、削られる。

 

 ただ流出するのではない。

 

 奪われている。

 

 羂索はそのまま踏み込む。だが同時に、血刃が動く。噴き上がった血がそのまま刃となり、軌道を変え、返る。羂索は身体を捻り、最小限の動きでそれを外す。

 

 一歩、二歩。

 

 距離を取る。

 

 間合いが開く。

 

 その僅かな時間で、憲倫の肩口が“再構築”を始める。残された血が一斉に収束し、骨格を再現し、肉を繋ぐ。反転術式。だが村雨に奪われた分、再生はわずかに遅れる。完全ではない。それでも、戦闘に支障のない形で腕は戻る。

 

 憲倫は追わない。

 

 ただ、立つ。

 

 血はなお流れている。

 

 止めない。

 

 止める必要がない。

 

「……距離が離れたなら」

 

「こちらの番だ」

 

 羂索の足が止まる。

 

 違和感。

 

 視界が、揺れる。

 

 空気が、歪む。

 

 熱が、上がっている。

 

 ほんの僅か。

 

 だが確実に。

 

 呼吸が、重くなる。

 

 次の瞬間、それに気づく。

 

 霧。

 

 赤い霧。

 

 地に広がった血、噴き上がった血、そのすべてが熱を帯び、蒸発している。液体であったものが粒子へと変わり、空間を満たしていく。

 

 血界霧織。

 

 生成ではない。

 

 血の温度を引き上げ、蒸発させ、霧へと変換する術。

 

 空間を“血そのもの”で満たす。

 

 視界が曇る。

 

 距離が狂う。

 

 感覚が鈍る。

 

 呼吸のたびに微細な血が体内へ入り込み、わずかに重さを増す。

 

 だが。

 

 それ以上に致命的なのは。

 

 この霧のすべてが、制御されているという事実。

 

 粒子一つに至るまで。

 

 すべてが憲倫の支配下にある。

 

 触れた瞬間、位置が知れる。

 

 動いた瞬間、軌道が読まれる。

 

 隠れるという選択肢が、消える。

 

 そして。

 

 その中に、浮かんでいる。

 

 百斂。

 

 圧縮された血の塊。

 

 複数。

 

 静止している。

 

 だが、それは“待機”ではない。

 

 配置。

 

 射線。

 

 重なり。

 

 すべてが計算されている。

 

 どこへ動いても、当たる。

 

 どこにいても、届く。

 

 霧がある限り、距離は意味を失う。

 

 羂索は理解する。

 

 踏み込めば撃たれる。

 

 退けば囲まれる。

 

 止まれば終わる。

 

 だが。

 

 止まらない。

 

 村雨を握る手に力が入る。吸い上げた血が、刃の内側で脈打つ。

 

 憲倫は動かない。

 

 ただ立っているだけだ。

 

 それでも。

 

 場そのものが、すでに戦いを終わらせに来ていた。

 

霧が、わずかにうねる。

 

 憲倫の周囲に浮かんでいた百斂のいくつかが崩れた。圧縮されていた血が解放され、そのまま細分化される。粒子ではない。刃だ。細く、鋭く、そして無数。

 

 苅祓・網羅刃。

 

 圧縮した血を一斉に展開し、無数の狩祓へと変換する術。単なるばら撒きではない。軌道を持ち、速度を持ち、滞留し、再加速し、角度を変える。刃は一度通り過ぎて終わるものではなく、空間に残り、遅れて作用し、網のように張り巡らされる。回避した地点に、後から刃が到達する。逃げ場を奪い、行動の選択肢そのものを削るための技。

 

 血界霧織の中では、その性質はさらに強化される。霧状の血が感知を担い、刃は視覚に頼らずとも標的の位置を補足し続ける。動いた場所に、刃が集まる。避けるほどに、囲まれる。

 

 羂索が踏み込む。

 

 一歩。

 

 その瞬間、足元にあったはずの空間に刃が滑り込む。二歩目で軌道を変える。だが遅れて別の刃がそこを塞ぐ。前後左右、上下、すべてに刃がある。完全な包囲。

 

 それでも。

 

 止まらない。

 

 村雨が振るわれる。刃に触れた血が吸われ、霧がわずかに削れる。刃そのものも完全には残らない。触れれば奪われる。削り取られる。わずかな隙間が生まれる。

 

 羂索はそこを通る。

 

 最短で。

 

 最小で。

 

 だが、完全には抜けられない。肩を掠める。脇腹を裂く。浅いが、数が多い。削られる。

 

 その中で。

 

 別の圧が生まれる。

 

 霧の奥で、血が一点に収束する。粒子が戻り、密度が上がり、空間がわずかに歪む。

 

 百斂。

 

 圧縮。

 

 そして。

 

 撃たれる。

 

 ――穿血。

 

 一直線。

 

 音もなく、兆しもなく、ただ“到達する”。

 

 羂索の身体が反応する。初動で外す。軌道をずらす。

 

 だが、それで終わらない。

 

 穿血が、曲がる。

 

 わずかに軌道を変え、再び狙い直す。

 

「穿血--終尾」

 

 圧縮された血弾に軌道制御を持たせ、対象を追い続ける派生技。一度外した程度では意味をなさない。位置が補足されている限り、弾は再び狙いを修正し続ける。血界霧織の中ではその精度はさらに上がり、逃げ場は減る。

 

 羂索が動く。

 

 初撃を外す。

 

 次が来る。

 

 軌道を読む。

 

 さらに変わる。

 

 連続。

 

 追尾。

 

 空間が圧縮される。

 

 だが。

 

 羂索の視線が、わずかに細くなる。

 

 見ている。

 

 弾ではない。

 

 “流れ”を。

 

 圧縮される瞬間。

 

 解放される瞬間。

 

 その間に生じる、わずかな直線。

 

 

 

「……なるほど」

 

 

 

 身体を沈める。

 

 踏み込みの角度を変える。

 

 

 

「厄介だが――」

 

 

 

 次の瞬間、前へ出る。

 

 逃げるのではない。

 

 突っ込む。

 

 穿血の“初速”に合わせる。

 

 まだ曲がらない、発射直後の一瞬。

 

 そこを抜ける。

 

 

 

「初速さえ見切れば」

 

 

 

 背後で、軌道が変わる。

 

 追ってくる。

 

 だが、既に距離はズレている。

 

 

 

「その後は、どうとでもなる」

 

 

 

 身体を捻る。

 

 再追尾を外す。

 

 服を裂かれる。

 

 皮膚を浅く削られる。

 

 だが、致命には届かない。

 

 

 

「追ってくるだけなら」

 

 

 

 もう一歩。

 

 踏み込む。

 

 

 

「脅威にはならないね」

 

 

 

 霧の中で、羂索は止まらない。刃を捌き、弾を外し、空間を読み切る。削られながらも、動きは鈍らない。

 

 対する憲倫は、動かない。

 

 ただ立ち、撃ち続ける。

 

 だが、その静止の中で、すでに次の手は組まれている。

 

 霧が、さらに濃くなる。

 

 圧が、増す。

 

 戦場そのものが、ゆっくりと形を変え始めていた。

 

――その瞬間だった。

 

 霧の中で、光が弾ける。

 

 羂索の視界の端、浮かんでいた百斂に穿血が衝突する。圧縮された血同士がぶつかり、弾かれる。

 

 反射。

 

 追尾をし、少しずつ速度の落ちていた穿血が再度加速する。

 

 初速の速度を取り返すように速さ増し、角度だけが変えられる。

 

 理解が、一拍遅れる。

 

 回避のために外した身体が、そのまま“新たな射線”に置かれている。

 

 間に合わない。

 

 避けられない。

 

 穿血が、到達する。

 

 腹部――

 

 肝臓を、正確に貫く。

 

 “刺さる”ではない。

 

 “通過する”。

 

 圧縮された血の塊が肉を裂き、骨格を震わせ、そのまま体内を突き抜ける。

 

 次の瞬間。

 

 内部で、爆ぜる。

 

 衝撃が内臓全体に波及する。肝臓が潰れ、周囲の臓器を巻き込み、体内で“破裂”に近い現象が起きる。血管が一斉に逆流し、内圧が暴れ、神経が焼き切れるような激痛を叩き込む。

 

 呼吸が、消える。

 

 肺が空気を拒絶する。

 

 横隔膜が痙攣し、身体が強制的に折れる。

 

「――ッ、ァ……ッ」

 

 声にならない。

 

 吐くことすらできない。

 

 ただ空気だけが漏れる。

 

 視界が白く飛び、遅れて暗く沈む。

 

 膝が落ちかける。

 

 だが。

 

 止まる。

 

 羂索の身体が、無理やり立ち直る。

 

 崩れかけた重心を強引に引き戻し、倒れるという選択を捨てる。血が喉までせり上がる。それでも吐かない。吐けば終わると理解している。

 

 腹部に手を当てる。

 

 ぬるい。

 

 いや、熱い。

 

 内部から溢れ出る血が、掌を濡らす。

 

 だがその目は、痛みを見ていない。

 

 術を見ている。

 

 構造を見ている。

 

 霧の向こうで、憲倫の声が落ちる。

 

「――穿血・巡界」

 

 空間に配置した百斂を“鏡”として利用し、穿血の軌道を反射させる技。直線でしか速度を活かせないという弱点を、外部構造で補う。回避した先にで再加速し威力、速度を取り戻した一撃が別角度から到達する。

 

 羂索の口元が、わずかに歪む。

 

「……はは」

 

 呼吸は乱れている。

 

 だが笑う。

 

「ずるいな…」

 

 肝臓を撃ち抜かれながら。

 

 なお、立っている。

 

 なお、分析している。

 

腹部の奥で、潰れた感触が残っている。肝臓は原型を失い、血は内側で滞留し、呼吸はまだ戻りきらない。それでも羂索の指先がわずかに動く。反転術式。崩壊した臓器の輪郭を掴み直し、欠損した構造を再構築する。血管を繋ぎ、流れを戻し、壊れた組織をあるべき形へ押し戻す。痛みは消えない。だが機能は戻る。

 

「……は……ッ」

 

 短く息を吐く。踏み込む。迷いはない。霧を裂くように距離を詰める。

 

 その先で。

 

 憲倫は動かない。

 

 ただ立っている。

 

 霧の中心で。

 

 血が、静かに脈打っている。

 

「どうした、顔色が悪いようだが」

 

 低い声。

 

「ここからだぞ」

 

 霧が濃くなる。

 

 血界霧織。

 

 それは単なる視界妨害ではない。憲倫の血を加熱し蒸発させ、空間そのものに拡散させる術。粒子となった血はすべて制御下にあり、触れたものの位置、速度、圧、微細な変化を“遅延なく”術者へと返す。空間そのものが感覚器となる。

 

 その中心で。

 

 赤鱗躍動。

 

 血流を加速させ、身体能力を引き上げる術。

 

 だが今はそれだけではない。

 

 体内の血と、空間に満ちた血が“接続”されている。

 

 内と外の境界が消える。

 

 身体は、空間へ拡張される。

 

 感知と運動が直結する。

 

 遅延が消える。

 

 

 

「――赤鱗躍動・極」

 

 

 

 発動。

 

 

 

 次の瞬間。

 

 憲倫の姿が消える。

 

 視界から。

 

 羂索の認識が、遅れる。

 

 すでに懐。

 

 拳が来る。

 

 防御に入る。

 

 だが――

 

 間に合わない。

 

 身体の“位置”がずれる。

 

 防御が成立する前に、成立条件そのものが崩される。

 

 その瞬間。

 

 憲倫の呪力が、黒く光る。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 打撃と呪力がほぼ同時に衝突した際にのみ発生する現象。時間差は極限まで圧縮され、空間が歪み、威力は飛躍的に増幅される。再現性は極めて低く、本来は偶然に近い。

 

 

 

 だが。

 

 

 

 今、この一撃は。

 

 

 

 偶然ではない。

 

 

 

「ここだ」

 

 

 

 二撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 空間が“潰れる”。

 

 

 

 拳が触れた一点で、世界が引き絞られる。

 

 

 

 衝撃が爆ぜる。

 

 

 

 腹部。

 

 

 

 再生したばかりの肝臓が、再び。

 

 

 

 完全に。

 

 

 

 粉砕される。

 

 

 

「――ッッ!!」

 

 

 

 呼吸が断たれる。

 

 内臓が耐えきれず崩壊し、血が一斉に逆流する。

 

 

 

 ――この一撃。

 

 

 

 それ自体が異常。

 

 

 

 黒閃を“狙って出した”。

 

 

 

 血界霧織による完全な位置把握。

 

 赤鱗躍動による身体制御。

 

 呪力操作の極限精度。

 

 

 

 すべてが揃って。

 

 

 

 “外させない”。

 

 

 

 それが、本質。

 

 

 

 三撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 黒閃の成立により、呪力操作が最適化される。精度が跳ね上がり、再現性が一気に現実的な領域へと引き上げられる。

 

 

 

 叩き込む。

 

 

 

 下から。

 

 

 

 内臓を押し潰し、衝撃が背骨を打ち抜く。

 

 

 

 四撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 横から。

 

 

 

 骨格を歪ませ、内臓を圧殺する。

 

 

 

 血が霧に弾ける。

 

 

 

 五撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 上から。

 

 

 

「――終わりだ」

 

 

 

 叩き潰す。

 

 

 

 地面へ。

 

 

 

 空間が歪み、地が砕ける。

 

 

 

 羂索の身体が叩き込まれる。

 

 

 

 沈む。

 

 

 

 完全に。

 

 

 

 腹部は原型を留めない。

 

 内臓は潰れ、血が溢れ、骨格が歪み、呼吸は成立しない。

 

 

 

「……ッ……ァ……」

 

霧の中、立ち上がろうと藻掻く羂索を前に憲倫は静かに口を開く。

 

「終わりだ」

 

 羂索は応じない。だがその顔には薄ら笑いが貼り付けられていた。

「...あぁ」

 

羂索の指が組まれる。その瞬間、空気が変わる。結界術の起こり。“力”ではない。“構造”が組み替えられていく感覚。空間の骨組みが再編される。

 

それとほぼ同時に憲倫の呪力が立ち上がる。だがその起こりの段階で、手が止まる。血の流れが一瞬だけ静まり、立ち上がりかけた領域は解かれる。迷いではない。すでに結論が出ている。

 

「領域展開」

 

 世界が閉じる。空間が切り取られ、外界との連続性が断たれる。圧が変わる。音が鈍る。外の気配は完全に消える。攻撃は来ない。術式はない。必中も必殺も存在しない。ただ、囲われている。その一点だけが確かに存在する。

 

 一歩踏み出す。足裏に伝わるのは地ではない。閉じられた構造の内側という感覚。手を伸ばし、触れる。硬い。否、密度。圧縮された空間そのもの。力が逃げない。干渉が通らない。血を流し霧を触れさせても、外へ繋がらない。境界は完全に遮断されている。視線を巡らせても外は見えず、気配も拾えない。結界の外側という概念そのものが、この内部からは切り離されている。

 

 理解はすでに終わっている。対象限定、強度特化、内外遮断。術者は外に残る。それだけの構造。

 

「まだこんなに力が残っていたとは...」

 

 血が静かに揺れる。霧は消えていない。支配も崩れていない。それでも届かない。その結果だけが、静かに確定する。

 

 沈黙が落ちる。

 

 胸の奥で、何かがわずかに軋む。静継の顔がよぎる。寺の柱が折れ、屋根が崩れた音が遅れて蘇る。あの女の、怯えた視線。自分の足で歩かせていたはずの距離が、今はどこにも繋がっていない。ここで終わらせるはずだった。終わらせられたはずだった。指先に力が入る。血がわずかに濃くなる。

 

 だが、暴れない。

 

 叩かない。

 

 怒りを、形にしない。

 

 ただ、受け止める。何を失い、何を取り逃がしたかを、正確に。

 

 呼吸を一つ、深く落とす。乱れはそこで止まる。霧の粒子が再び一定の律で揺れ始める。感情は消さない。だが、溢れさせもしない。使うために、残す。

 

 視線が結界へ戻る。密度、歪み、継ぎ目。触れずともわかる情報を積み上げる。壊せる。だが今ではない。時間が足りない。順序が違う。

 

「……待っていろ」

 

 誰にともなく、低く落とす。

 

 それは誓いではない。手順の確認だ。

 

 一方、領域の外側。羂索はゆっくりと息を吐く。結界の維持に呪力を注ぎ込み続けているため、全身に負荷がかかっている。視界に映るのは閉じた領域の外殻だけで、その内部は一切観測できない。

 

「……はぁ、流石に骨が折れるな」

 

「ここまでやらないと逃げられない相手ってのも、どうかしている」

 

 軽く肩を回す。疲労はあるが、意識は明瞭だ。

 

「本当はね、君の体を貰うつもりだったんだ」

 

「ここまで完成された器、そうそう無いからね」

 

「だからわざわざ正面から測ったんだけど……」

 

 わずかに首を振る。

 

「――やめだ」

 

「こんな化け物と、これ以上まともにやり合う気はない」

 

 息を吐く。

 

「正直に言うとね」

 

「もう二度と戦いたくないよ、君とは」

 

 恐怖ではない。合理の判断。

 

「この体の術式も……ここで終わりだ」

 

 芻霊呪法を切り捨てる。それ縛りとして差し出し、領域の強度を維持する。

 

「呪力も……ほぼ全部使った」

 

 残るのは最低限。逃走に必要な分のみ。それでいい。目的は達している。

 

「……まあ」

 

「これで十分だ」

 

 間を置いて、ほんのわずかに口元が歪む。

 

「まぁ、最低限欲しいものは手に入ったし」

 

 羂索は静かにその場を離れていく。

 

 閉じられた領域の内側。憲倫は動かない。ただ立っている。読みは当たっていた。構造も意図もすべて理解している。それでも届かない。その事実の上に、失ったものと奪われたものを静かに並べる。そして、崩さない。次に使うために。

 

 

数刻。

 

 

 

 

 閉じられた空間の中で、静かな時間が流れる。外界と断絶された領域はやがて軋みを増し、わずかな歪みを露わにする。供給を断たれた結界は持続できない。継ぎ目のないはずの境界に、微細な亀裂が走る。

 

 やがて。

 

 音もなく、崩れた。

 

 圧が解け、空間が元の位相へと戻る。外界との連続が回復する。

 

 その中心に。

 

 憲倫が立っている。

 

 姿勢は変わらない。周囲の景色はすでに戦場のそれではない。半壊した寺。折れた柱。崩れた屋根。焼け焦げた木材の匂い。

 

 そして。

 

 生き残った者たち。

 

 恒一がいる。全身に傷を負いながらも、辛うじて立っている。言緒もまた、壁に寄りかかるようにして息を整えている。

 

「当主殿……!」

 

「ご無事で……!」

 

「……憲倫様」

 

 声が重なる。

 

 だが。

 

 憲倫は応じない。

 

 視線は遠く、何かを測るように一点へ向けられている。声は届いている。だが、今はそれに応じる優先度ではない。

 

 思考が進んでいる。静かに、正確に。

 

 憲倫の血。それは単なる資源ではない。術式の媒体であり、感覚の延長でもある。自身の血が存在する位置は、距離が離れていても完全には断たれない。精密な座標ではない。だが方向と大まかな距離は把握できる。数km程度であれば、なおさらだ。

 

 そして。

 

 羂索は、その血を全身に浴びている。

 

 それはつまり――繋がっている。

 

 憲倫の視線が、わずかに動く。方角が、定まる。遠く、ここから数km先。逃走経路の先。そこに、確かに“ある”。

 

 逃がした。だが、切れてはいない。

 

 憲倫が、口を開く。

 

「……今回は逃亡を許した私の負けだ」

 

「だがらこれはくれてやる」

 

 血が、動く。

 

 体内で生成される。反転術式。失った分を補うためではない。攻撃のために。

 

 量が増える。

 

 常識を超えて。

 

 地面が、鳴る。

 

 足元の一点から――井戸を掘ったように、血が噴き上がる。

 

 どくり、と脈打つたびに、赤が湧く。押し上げられ、溢れ、周囲へ広がる。瞬く間に地は赤に染まり、深さを増していく。粘度を帯びた液体がうねり、意思を持つように形を変える。

 

 十リットル。

 

 二十リットル。

 

 四十。

 

 六十。

 

 八十。

 

 百。

 

 なおも止まらない。

 

 百二十リットルを超えたあたりで、ようやく増勢が鈍る。空中に溜まった血は、もはや“溜まり”ではない。小さな池だ。

 

 それが。

 

 一点へと収束する。

 

 圧縮。

 

 密度が上がる。

 

 温度が上がる。

 

 空気が震える。

 

 恒一と言緒が息を呑む。理解は追いつかない。ただ、本能で察する。触れてはならない領域。

 

 憲倫は動かない。ただ、狙いを定める。見えない先。だが、確かにそこにいる。その一点へ。

 

 血が、収束する。

 

 針のように。

 

 否、それ以上。

 

 質量と速度を両立した“貫通体”。

 

 極限まで圧縮された一滴。

 

 それを。

 

 放つ。

 

「――穿血」

 

 音が遅れる。放たれた瞬間には、すでに消えている。空気が裂ける。衝撃が遅れて追う。一直線。数km先へ。逃げる先を、正確に撃ち抜く。

 数km先。

 

 羂索が歩いている。

 

 呼吸は荒い。呪力も底に近い。だが意識は途切れていない。

 

 ふと。

 

 足が止まる。

 

 違和感。

 

 皮膚が粟立つ。

 

 振り返る。

 

 見えない。

 

 だが。

 

 来る。

 

 理解が一瞬で追いつく。

 

「――化物め」

 

 次の瞬間。

 

 衝撃。

 

 視界が弾ける。

 

 何かが消し飛ぶ。

 

 空間が歪み、爆ぜる。

 

 大地が抉られ、木々が薙ぎ払われる。

 

 轟音が遅れて広がる。

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総合評価:1568/評価:7.18/連載:7話/更新日時:2026年04月12日(日) 12:49 小説情報

1万の竜に滅ぼされる世界に転生した。(作者:絶望の未来)(原作:FAIRY TAIL)

▼フェアリーテイルをエクリプス編の途中まで見ていた少年がフェアリーテイルの世界に落とされる話。


総合評価:644/評価:7.69/連載:5話/更新日時:2026年03月29日(日) 14:42 小説情報

『最強』へと至る道(作者:まるもも)(原作:呪術廻戦)

何番煎じか、っていうくらいの転生小説。▼主人公は平安生まれ。


総合評価:1014/評価:7.07/連載:4話/更新日時:2026年04月01日(水) 00:00 小説情報


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