明治強者加茂憲倫   作:カツオのタタキ

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第十話 幕引き

羂索の足元に転がっていた刀が、わずかに震えた。

 

 拾い上げる。

 

 その刃は濡れている。血を吸い、鈍く沈むような光を帯びていた。1級呪具【村雨】。斬撃と同時に対象の血を奪い取る術式が付与された刀。切断した瞬間から吸収は始まり、流出した血すら刃へ引き寄せられる。傷は深くなり、再生は遅れ、量そのものを削られる。単なる刃ではない。“削る”のではなく、“奪う”ための呪具。

 

 羂索はそれを当然のように握り直す。

 

 対する憲倫の指先から血が滑り出る。流れ出た赤はそのまま形を持ち、刃となる。血刃。温度、粘度、密度――すべてが最適化され、刃として成立する。

 

 踏み込む。

 

 同時だった。

 

 空気が裂ける。刀と血刃が衝突し、硬質な音が弾ける。何度も、何度も。刃と刃が交錯し、火花の代わりに血が散る。羂索の太刀筋は鋭く、迷いがない。人体の構造を熟知した斬撃は、無駄なく急所へ届く。憲倫の血刃はそれを受け、流し、角度を変え、逆に滑り込む。斬り合いではない。削り合い。互いに一瞬の隙を探り続ける。

 

 そして。

 

 その均衡が、崩れる。

 

 羂索の刃が、わずかに沈んだ。

 

 防がれたはずの軌道が、ほんの僅かにずれ、空間に“空き”が生まれる。

 

 そこに、入る。

 

 次の瞬間。

 

 結果だけが、先にあった。

 

 憲倫の左腕が、肩口から切り離されている。

 

 認識が、遅れる。

 

 腕が飛んでいる。

 

 自分の腕が。

 

 空中にある。

 

 遅れて、断面が現れる。

 

 肉が裂け、骨が断たれ、神経が露出する。

 

 その全てが一瞬で起きているにも関わらず、“そうなっている”という事実だけが先に存在している。

 

 そして。

 

 爆ぜる。

 

 血が、噴き上がる。

 

 空気を叩き、音を生み、視界を赤く染める。

 

 だが。

 

 その血が、落ちない。

 

 噴き上がった赤が、空中で止まる。

 

 滴にならない。

 

 散らない。

 

 そのまま、形を持つ。

 

 そして。

 

 奪われる。

 

 村雨の刃が、吸い寄せる。

 

 血が、刃へと引き込まれる。

 

 空中に留まっていたはずの血が、流れを変え、吸われていく。まるで重力が逆転したかのように、すべてが刃へと集まる。

 

 量が、削られる。

 

 ただ流出するのではない。

 

 奪われている。

 

 羂索はそのまま踏み込む。だが同時に、血刃が動く。噴き上がった血がそのまま刃となり、軌道を変え、返る。羂索は身体を捻り、最小限の動きでそれを外す。

 

 一歩、二歩。

 

 距離を取る。

 

 間合いが開く。

 

 その僅かな時間で、憲倫の肩口が“再構築”を始める。残された血が一斉に収束し、骨格を再現し、肉を繋ぐ。反転術式。だが村雨に奪われた分、再生はわずかに遅れる。完全ではない。それでも、戦闘に支障のない形で腕は戻る。

 

 憲倫は追わない。

 

 ただ、立つ。

 

 血はなお流れている。

 

 止めない。

 

 止める必要がない。

 

「……距離が離れたなら」

 

「こちらの番だ」

 

 羂索の足が止まる。

 

 違和感。

 

 視界が、揺れる。

 

 空気が、歪む。

 

 熱が、上がっている。

 

 ほんの僅か。

 

 だが確実に。

 

 呼吸が、重くなる。

 

 次の瞬間、それに気づく。

 

 霧。

 

 赤い霧。

 

 地に広がった血、噴き上がった血、そのすべてが熱を帯び、蒸発している。液体であったものが粒子へと変わり、空間を満たしていく。

 

 血界霧織。

 

 生成ではない。

 

 血の温度を引き上げ、蒸発させ、霧へと変換する術。

 

 空間を“血そのもの”で満たす。

 

 視界が曇る。

 

 距離が狂う。

 

 感覚が鈍る。

 

 呼吸のたびに微細な血が体内へ入り込み、わずかに重さを増す。

 

 だが。

 

 それ以上に致命的なのは。

 

 この霧のすべてが、制御されているという事実。

 

 粒子一つに至るまで。

 

 すべてが憲倫の支配下にある。

 

 触れた瞬間、位置が知れる。

 

 動いた瞬間、軌道が読まれる。

 

 隠れるという選択肢が、消える。

 

 そして。

 

 その中に、浮かんでいる。

 

 百斂。

 

 圧縮された血の塊。

 

 複数。

 

 静止している。

 

 だが、それは“待機”ではない。

 

 配置。

 

 射線。

 

 重なり。

 

 すべてが計算されている。

 

 どこへ動いても、当たる。

 

 どこにいても、届く。

 

 霧がある限り、距離は意味を失う。

 

 羂索は理解する。

 

 踏み込めば撃たれる。

 

 退けば囲まれる。

 

 止まれば終わる。

 

 だが。

 

 止まらない。

 

 村雨を握る手に力が入る。吸い上げた血が、刃の内側で脈打つ。

 

 憲倫は動かない。

 

 ただ立っているだけだ。

 

 それでも。

 

 場そのものが、すでに戦いを終わらせに来ていた。

 

霧が、わずかにうねる。

 

 憲倫の周囲に浮かんでいた百斂のいくつかが崩れた。圧縮されていた血が解放され、そのまま細分化される。粒子ではない。刃だ。細く、鋭く、そして無数。

 

 苅祓・網羅刃。

 

 圧縮した血を一斉に展開し、無数の狩祓へと変換する術。単なるばら撒きではない。軌道を持ち、速度を持ち、滞留し、再加速し、角度を変える。刃は一度通り過ぎて終わるものではなく、空間に残り、遅れて作用し、網のように張り巡らされる。回避した地点に、後から刃が到達する。逃げ場を奪い、行動の選択肢そのものを削るための技。

 

 血界霧織の中では、その性質はさらに強化される。霧状の血が感知を担い、刃は視覚に頼らずとも標的の位置を補足し続ける。動いた場所に、刃が集まる。避けるほどに、囲まれる。

 

 羂索が踏み込む。

 

 一歩。

 

 その瞬間、足元にあったはずの空間に刃が滑り込む。二歩目で軌道を変える。だが遅れて別の刃がそこを塞ぐ。前後左右、上下、すべてに刃がある。完全な包囲。

 

 それでも。

 

 止まらない。

 

 村雨が振るわれる。刃に触れた血が吸われ、霧がわずかに削れる。刃そのものも完全には残らない。触れれば奪われる。削り取られる。わずかな隙間が生まれる。

 

 羂索はそこを通る。

 

 最短で。

 

 最小で。

 

 だが、完全には抜けられない。肩を掠める。脇腹を裂く。浅いが、数が多い。削られる。

 

 その中で。

 

 別の圧が生まれる。

 

 霧の奥で、血が一点に収束する。粒子が戻り、密度が上がり、空間がわずかに歪む。

 

 百斂。

 

 圧縮。

 

 そして。

 

 撃たれる。

 

 ――穿血。

 

 一直線。

 

 音もなく、兆しもなく、ただ“到達する”。

 

 羂索の身体が反応する。初動で外す。軌道をずらす。

 

 だが、それで終わらない。

 

 穿血が、曲がる。

 

 わずかに軌道を変え、再び狙い直す。

 

「穿血--終尾」

 

 圧縮された血弾に軌道制御を持たせ、対象を追い続ける派生技。一度外した程度では意味をなさない。位置が補足されている限り、弾は再び狙いを修正し続ける。血界霧織の中ではその精度はさらに上がり、逃げ場は減る。

 

 羂索が動く。

 

 初撃を外す。

 

 次が来る。

 

 軌道を読む。

 

 さらに変わる。

 

 連続。

 

 追尾。

 

 空間が圧縮される。

 

 だが。

 

 羂索の視線が、わずかに細くなる。

 

 見ている。

 

 弾ではない。

 

 “流れ”を。

 

 圧縮される瞬間。

 

 解放される瞬間。

 

 その間に生じる、わずかな直線。

 

 

 

「……なるほど」

 

 

 

 身体を沈める。

 

 踏み込みの角度を変える。

 

 

 

「厄介だが――」

 

 

 

 次の瞬間、前へ出る。

 

 逃げるのではない。

 

 突っ込む。

 

 穿血の“初速”に合わせる。

 

 まだ曲がらない、発射直後の一瞬。

 

 そこを抜ける。

 

 

 

「初速さえ見切れば」

 

 

 

 背後で、軌道が変わる。

 

 追ってくる。

 

 だが、既に距離はズレている。

 

 

 

「その後は、どうとでもなる」

 

 

 

 身体を捻る。

 

 再追尾を外す。

 

 服を裂かれる。

 

 皮膚を浅く削られる。

 

 だが、致命には届かない。

 

 

 

「追ってくるだけなら」

 

 

 

 もう一歩。

 

 踏み込む。

 

 

 

「脅威にはならないね」

 

 

 

 霧の中で、羂索は止まらない。刃を捌き、弾を外し、空間を読み切る。削られながらも、動きは鈍らない。

 

 対する憲倫は、動かない。

 

 ただ立ち、撃ち続ける。

 

 だが、その静止の中で、すでに次の手は組まれている。

 

 霧が、さらに濃くなる。

 

 圧が、増す。

 

 戦場そのものが、ゆっくりと形を変え始めていた。

 

――その瞬間だった。

 

 霧の中で、光が弾ける。

 

 羂索の視界の端、浮かんでいた百斂に穿血が衝突する。圧縮された血同士がぶつかり、弾かれる。

 

 反射。

 

 追尾をし、少しずつ速度の落ちていた穿血が再度加速する。

 

 初速の速度を取り返すように速さ増し、角度だけが変えられる。

 

 理解が、一拍遅れる。

 

 回避のために外した身体が、そのまま“新たな射線”に置かれている。

 

 間に合わない。

 

 避けられない。

 

 穿血が、到達する。

 

 腹部――

 

 肝臓を、正確に貫く。

 

 “刺さる”ではない。

 

 “通過する”。

 

 圧縮された血の塊が肉を裂き、骨格を震わせ、そのまま体内を突き抜ける。

 

 次の瞬間。

 

 内部で、爆ぜる。

 

 衝撃が内臓全体に波及する。肝臓が潰れ、周囲の臓器を巻き込み、体内で“破裂”に近い現象が起きる。血管が一斉に逆流し、内圧が暴れ、神経が焼き切れるような激痛を叩き込む。

 

 呼吸が、消える。

 

 肺が空気を拒絶する。

 

 横隔膜が痙攣し、身体が強制的に折れる。

 

「――ッ、ァ……ッ」

 

 声にならない。

 

 吐くことすらできない。

 

 ただ空気だけが漏れる。

 

 視界が白く飛び、遅れて暗く沈む。

 

 膝が落ちかける。

 

 だが。

 

 止まる。

 

 羂索の身体が、無理やり立ち直る。

 

 崩れかけた重心を強引に引き戻し、倒れるという選択を捨てる。血が喉までせり上がる。それでも吐かない。吐けば終わると理解している。

 

 腹部に手を当てる。

 

 ぬるい。

 

 いや、熱い。

 

 内部から溢れ出る血が、掌を濡らす。

 

 だがその目は、痛みを見ていない。

 

 術を見ている。

 

 構造を見ている。

 

 霧の向こうで、憲倫の声が落ちる。

 

「――穿血・巡界」

 

 空間に配置した百斂を“鏡”として利用し、穿血の軌道を反射させる技。直線でしか速度を活かせないという弱点を、外部構造で補う。回避した先にで再加速し威力、速度を取り戻した一撃が別角度から到達する。

 

 羂索の口元が、わずかに歪む。

 

「……はは」

 

 呼吸は乱れている。

 

 だが笑う。

 

「ずるいな…」

 

 肝臓を撃ち抜かれながら。

 

 なお、立っている。

 

 なお、分析している。

 

腹部の奥で、潰れた感触が残っている。肝臓は原型を失い、血は内側で滞留し、呼吸はまだ戻りきらない。それでも羂索の指先がわずかに動く。反転術式。崩壊した臓器の輪郭を掴み直し、欠損した構造を再構築する。血管を繋ぎ、流れを戻し、壊れた組織をあるべき形へ押し戻す。痛みは消えない。だが機能は戻る。

 

「……は……ッ」

 

 短く息を吐く。踏み込む。迷いはない。霧を裂くように距離を詰める。

 

 その先で。

 

 憲倫は動かない。

 

 ただ立っている。

 

 霧の中心で。

 

 血が、静かに脈打っている。

 

「どうした、顔色が悪いようだが」

 

 低い声。

 

「ここからだぞ」

 

 霧が濃くなる。

 

 血界霧織。

 

 それは単なる視界妨害ではない。憲倫の血を加熱し蒸発させ、空間そのものに拡散させる術。粒子となった血はすべて制御下にあり、触れたものの位置、速度、圧、微細な変化を“遅延なく”術者へと返す。空間そのものが感覚器となる。

 

 その中心で。

 

 赤鱗躍動。

 

 血流を加速させ、身体能力を引き上げる術。

 

 だが今はそれだけではない。

 

 体内の血と、空間に満ちた血が“接続”されている。

 

 内と外の境界が消える。

 

 身体は、空間へ拡張される。

 

 感知と運動が直結する。

 

 遅延が消える。

 

 

 

「――赤鱗躍動・極」

 

 

 

 発動。

 

 

 

 次の瞬間。

 

 憲倫の姿が消える。

 

 視界から。

 

 羂索の認識が、遅れる。

 

 すでに懐。

 

 拳が来る。

 

 防御に入る。

 

 だが――

 

 間に合わない。

 

 身体の“位置”がずれる。

 

 防御が成立する前に、成立条件そのものが崩される。

 

 その瞬間。

 

 憲倫の呪力が、黒く光る。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 打撃と呪力がほぼ同時に衝突した際にのみ発生する現象。時間差は極限まで圧縮され、空間が歪み、威力は飛躍的に増幅される。再現性は極めて低く、本来は偶然に近い。

 

 

 

 だが。

 

 

 

 今、この一撃は。

 

 

 

 偶然ではない。

 

 

 

「ここだ」

 

 

 

 二撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 空間が“潰れる”。

 

 

 

 拳が触れた一点で、世界が引き絞られる。

 

 

 

 衝撃が爆ぜる。

 

 

 

 腹部。

 

 

 

 再生したばかりの肝臓が、再び。

 

 

 

 完全に。

 

 

 

 粉砕される。

 

 

 

「――ッッ!!」

 

 

 

 呼吸が断たれる。

 

 内臓が耐えきれず崩壊し、血が一斉に逆流する。

 

 

 

 ――この一撃。

 

 

 

 それ自体が異常。

 

 

 

 黒閃を“狙って出した”。

 

 

 

 血界霧織による完全な位置把握。

 

 赤鱗躍動による身体制御。

 

 呪力操作の極限精度。

 

 

 

 すべてが揃って。

 

 

 

 “外させない”。

 

 

 

 それが、本質。

 

 

 

 三撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 黒閃の成立により、呪力操作が最適化される。精度が跳ね上がり、再現性が一気に現実的な領域へと引き上げられる。

 

 

 

 叩き込む。

 

 

 

 下から。

 

 

 

 内臓を押し潰し、衝撃が背骨を打ち抜く。

 

 

 

 四撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 横から。

 

 

 

 骨格を歪ませ、内臓を圧殺する。

 

 

 

 血が霧に弾ける。

 

 

 

 五撃目。

 

 

 

 黒閃。

 

 

 

 上から。

 

 

 

「――終わりだ」

 

 

 

 叩き潰す。

 

 

 

 地面へ。

 

 

 

 空間が歪み、地が砕ける。

 

 

 

 羂索の身体が叩き込まれる。

 

 

 

 沈む。

 

 

 

 完全に。

 

 

 

 腹部は原型を留めない。

 

 内臓は潰れ、血が溢れ、骨格が歪み、呼吸は成立しない。

 

 

 

「……ッ……ァ……」

 

霧の中、立ち上がろうと藻掻く羂索を前に憲倫は静かに口を開く。

 

「終わりだ」

 

 羂索は応じない。だがその顔には薄ら笑いが貼り付けられていた。

「...あぁ」

 

羂索の指が組まれる。その瞬間、空気が変わる。結界術の起こり。“力”ではない。“構造”が組み替えられていく感覚。空間の骨組みが再編される。

 

それとほぼ同時に憲倫の呪力が立ち上がる。だがその起こりの段階で、手が止まる。血の流れが一瞬だけ静まり、立ち上がりかけた領域は解かれる。迷いではない。すでに結論が出ている。

 

「領域展開」

 

 世界が閉じる。空間が切り取られ、外界との連続性が断たれる。圧が変わる。音が鈍る。外の気配は完全に消える。攻撃は来ない。術式はない。必中も必殺も存在しない。ただ、囲われている。その一点だけが確かに存在する。

 

 一歩踏み出す。足裏に伝わるのは地ではない。閉じられた構造の内側という感覚。手を伸ばし、触れる。硬い。否、密度。圧縮された空間そのもの。力が逃げない。干渉が通らない。血を流し霧を触れさせても、外へ繋がらない。境界は完全に遮断されている。視線を巡らせても外は見えず、気配も拾えない。結界の外側という概念そのものが、この内部からは切り離されている。

 

 理解はすでに終わっている。対象限定、強度特化、内外遮断。術者は外に残る。それだけの構造。

 

「まだこんなに力が残っていたとは...」

 

 血が静かに揺れる。霧は消えていない。支配も崩れていない。それでも届かない。その結果だけが、静かに確定する。

 

 沈黙が落ちる。

 

 胸の奥で、何かがわずかに軋む。静継の顔がよぎる。寺の柱が折れ、屋根が崩れた音が遅れて蘇る。あの女の、怯えた視線。自分の足で歩かせていたはずの距離が、今はどこにも繋がっていない。ここで終わらせるはずだった。終わらせられたはずだった。指先に力が入る。血がわずかに濃くなる。

 

 だが、暴れない。

 

 叩かない。

 

 怒りを、形にしない。

 

 ただ、受け止める。何を失い、何を取り逃がしたかを、正確に。

 

 呼吸を一つ、深く落とす。乱れはそこで止まる。霧の粒子が再び一定の律で揺れ始める。感情は消さない。だが、溢れさせもしない。使うために、残す。

 

 視線が結界へ戻る。密度、歪み、継ぎ目。触れずともわかる情報を積み上げる。壊せる。だが今ではない。時間が足りない。順序が違う。

 

「……待っていろ」

 

 誰にともなく、低く落とす。

 

 それは誓いではない。手順の確認だ。

 

 一方、領域の外側。羂索はゆっくりと息を吐く。結界の維持に呪力を注ぎ込み続けているため、全身に負荷がかかっている。視界に映るのは閉じた領域の外殻だけで、その内部は一切観測できない。

 

「……はぁ、流石に骨が折れるな」

 

「ここまでやらないと逃げられない相手ってのも、どうかしている」

 

 軽く肩を回す。疲労はあるが、意識は明瞭だ。

 

「本当はね、君の体を貰うつもりだったんだ」

 

「ここまで完成された器、そうそう無いからね」

 

「だからわざわざ正面から測ったんだけど……」

 

 わずかに首を振る。

 

「――やめだ」

 

「こんな化け物と、これ以上まともにやり合う気はない」

 

 息を吐く。

 

「正直に言うとね」

 

「もう二度と戦いたくないよ、君とは」

 

 恐怖ではない。合理の判断。

 

「この体の術式も……ここで終わりだ」

 

 芻霊呪法を切り捨てる。それ縛りとして差し出し、領域の強度を維持する。

 

「呪力も……ほぼ全部使った」

 

 残るのは最低限。逃走に必要な分のみ。それでいい。目的は達している。

 

「……まあ」

 

「これで十分だ」

 

 間を置いて、ほんのわずかに口元が歪む。

 

「まぁ、最低限欲しいものは手に入ったし」

 

 羂索は静かにその場を離れていく。

 

 閉じられた領域の内側。憲倫は動かない。ただ立っている。読みは当たっていた。構造も意図もすべて理解している。それでも届かない。その事実の上に、失ったものと奪われたものを静かに並べる。そして、崩さない。次に使うために。

 

 

数刻。

 

 

 

 

 閉じられた空間の中で、静かな時間が流れる。外界と断絶された領域はやがて軋みを増し、わずかな歪みを露わにする。供給を断たれた結界は持続できない。継ぎ目のないはずの境界に、微細な亀裂が走る。

 

 やがて。

 

 音もなく、崩れた。

 

 圧が解け、空間が元の位相へと戻る。外界との連続が回復する。

 

 その中心に。

 

 憲倫が立っている。

 

 姿勢は変わらない。周囲の景色はすでに戦場のそれではない。半壊した寺。折れた柱。崩れた屋根。焼け焦げた木材の匂い。

 

 そして。

 

 生き残った者たち。

 

 恒一がいる。全身に傷を負いながらも、辛うじて立っている。言緒もまた、壁に寄りかかるようにして息を整えている。

 

「当主殿……!」

 

「ご無事で……!」

 

「……憲倫様」

 

 声が重なる。

 

 だが。

 

 憲倫は応じない。

 

 視線は遠く、何かを測るように一点へ向けられている。声は届いている。だが、今はそれに応じる優先度ではない。

 

 思考が進んでいる。静かに、正確に。

 

 憲倫の血。それは単なる資源ではない。術式の媒体であり、感覚の延長でもある。自身の血が存在する位置は、距離が離れていても完全には断たれない。精密な座標ではない。だが方向と大まかな距離は把握できる。数km程度であれば、なおさらだ。

 

 そして。

 

 羂索は、その血を全身に浴びている。

 

 それはつまり――繋がっている。

 

 憲倫の視線が、わずかに動く。方角が、定まる。遠く、ここから数km先。逃走経路の先。そこに、確かに“ある”。

 

 逃がした。だが、切れてはいない。

 

 憲倫が、口を開く。

 

「……今回は逃亡を許した私の負けだ」

 

「だがらこれはくれてやる」

 

 血が、動く。

 

 体内で生成される。反転術式。失った分を補うためではない。攻撃のために。

 

 量が増える。

 

 常識を超えて。

 

 地面が、鳴る。

 

 足元の一点から――井戸を掘ったように、血が噴き上がる。

 

 どくり、と脈打つたびに、赤が湧く。押し上げられ、溢れ、周囲へ広がる。瞬く間に地は赤に染まり、深さを増していく。粘度を帯びた液体がうねり、意思を持つように形を変える。

 

 十リットル。

 

 二十リットル。

 

 四十。

 

 六十。

 

 八十。

 

 百。

 

 なおも止まらない。

 

 百二十リットルを超えたあたりで、ようやく増勢が鈍る。空中に溜まった血は、もはや“溜まり”ではない。小さな池だ。

 

 それが。

 

 一点へと収束する。

 

 圧縮。

 

 密度が上がる。

 

 温度が上がる。

 

 空気が震える。

 

 恒一と言緒が息を呑む。理解は追いつかない。ただ、本能で察する。触れてはならない領域。

 

 憲倫は動かない。ただ、狙いを定める。見えない先。だが、確かにそこにいる。その一点へ。

 

 血が、収束する。

 

 針のように。

 

 否、それ以上。

 

 質量と速度を両立した“貫通体”。

 

 極限まで圧縮された一滴。

 

 それを。

 

 放つ。

 

「――穿血」

 

 音が遅れる。放たれた瞬間には、すでに消えている。空気が裂ける。衝撃が遅れて追う。一直線。数km先へ。逃げる先を、正確に撃ち抜く。

 数km先。

 

 羂索が歩いている。

 

 呼吸は荒い。呪力も底に近い。だが意識は途切れていない。

 

 ふと。

 

 足が止まる。

 

 違和感。

 

 皮膚が粟立つ。

 

 振り返る。

 

 見えない。

 

 だが。

 

 来る。

 

 理解が一瞬で追いつく。

 

「――化物め」

 

 次の瞬間。

 

 衝撃。

 

 視界が弾ける。

 

 何かが消し飛ぶ。

 

 空間が歪み、爆ぜる。

 

 大地が抉られ、木々が薙ぎ払われる。

 

 轟音が遅れて広がる。

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護廷の開祖が今一度、目を覚ます。▼呪いが廻る混沌とした世界で・・・


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原作を鑑賞しようとする室町時代の術師 vs 原作に干渉させてこようとする世界(作者:祝いの王)(原作:呪術廻戦)

室町時代の術師オリ主が原作時間軸に無理やり転生して原作を鑑賞しようとする話。▼なお原作キャラとはたくさんエンカウントするし、無自覚に干渉してしまう模様。


総合評価:1167/評価:7.5/連載:4話/更新日時:2026年05月04日(月) 00:56 小説情報

固定術師(作者:初心者 一作目)(原作:呪術廻戦)

千年前――平安時代。▼ 呪いが最も猛威を振るった時代に、一人の転生者が生まれた。▼ 彼の術式は『状固呪術』。▼ 自身の状態を固定することで、老化せず、傷つかず、死にすら近づかない術式だった。▼処女作なので暖かく見守ってください


総合評価:160/評価:4.75/連載:15話/更新日時:2026年05月07日(木) 13:52 小説情報


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