研究所の照明が落ちた瞬間、夏油は躊躇なく呪霊を放った。
廊下を埋め尽くすように現れた呪霊達が一斉に羂索へ襲い掛かる。どれも研究所運営用ではない。純粋な戦闘用だ。普段なら表に出すことのない高位呪霊が次々と解き放たれ、非常灯の赤い光の中を黒い濁流のように駆け抜ける。
だが羂索は慌てなかった。
むしろ楽しそうに笑っていた。
「なるほど」
呪霊を躱す。
反転術式。
簡易結界。
術式。
長年積み上げた経験が戦闘を成立させる。
しかし。
羂索は気付いていた。
夏油は本気ではない。
いや。
本気で殺しに来ている。
それでも違う。
優先順位が違う。
この男は自分を殺すよりも五条悟を守る方を優先している。
だから深追いしない。
だから無理をしない。
だから危険だ。
羂索は呪霊を引き裂きながら後退した。
廊下の向こうで研究者達が避難している。
呪霊が誘導している。
実に効率的だった。
研究所全体が避難訓練済みなのだろう。
誰も叫ばない。
誰も混乱しない。
ただ静かに持ち場を離れ、資料を抱え、指定された場所へ移動していく。
羂索は笑った。
「教育が行き届いているな」
「お前には関係ない」
夏油が冷たく言う。
羂索は肩を竦めた。
その時だった。
別方向から強烈な呪力反応が走る。
羂索は思わず視線を向けた。
そこにいたのは優人だった。
五歳児。
人工生命。
研究者。
そして。
六眼。
無下限。
呪霊操術。
全てを持つ存在。
優人は研究者達を背後へ庇いながら立っていた。
羂索は一瞬だけ見惚れた。
美しい。
あまりにも美しい。
完成された才能だった。
五条悟と夏油傑。
その二人の可能性を凝縮したような存在。
この年齢で既に戦場へ立っている。
しかも怯えていない。
羂索は理解した。
器として理想的。
だが。
同時に。
研究者としても理想的だった。
惜しい。
あまりにも惜しい。
今奪ってしまえば、この頭脳が失われる。
今乗っ取ってしまえば、この未来が消える。
羂索は初めて本気で迷った。
だから結論は簡単だった。
まだだ。
今ではない。
もっと価値を引き出せる。
もっと学ばせられる。
もっと成長させられる。
その後でいい。
「面白いな」
羂索は心から言った。
「本当に面白い」
「褒めても何も出ないよ」
優人は即答した。
その返答に羂索は少し笑った。
なるほど。
頭の回転も速い。
ますます惜しい。
その時、通信が入った。
研究所内部の映像。
避難状況。
研究データ転送率。
優人が見ている端末へ表示されている情報が、羂索の目にも入る。
第二研究所。
バックアップ施設。
複数の避難拠点。
研究データ分散保存。
羂索は理解した。
失敗した。
今日ここへ来た意味はあった。
だが。
今日ここで奪うことはできない。
研究所は思った以上に組織化されている。
五条悟は思った以上に用意周到だ。
そして。
自分は知られている。
理由は不明。
だが確実だった。
羂索は一歩下がった。
夏油が動く。
優人も動く。
だが羂索は戦わない。
今は違う。
欲しいものを壊す時ではない。
集める時だ。
「今日は帰るよ」
羂索は言った。
「次はもっと準備して来る」
「来なくていい」
優人が即答する。
羂索は笑った。
「それは難しい相談だ」
空間が歪む。
結界術。
転移。
撤退準備。
夏油が呪霊を放つ。
優人が無下限を展開する。
だが間に合わない。
羂索の姿が消える。
研究所に静寂が戻った。
数秒後。
優人が息を吐いた。
「逃げた」
「逃がした」
夏油が訂正する。
そして苦々しい顔をした。
殺せなかった。
だが深追いもできなかった。
それが現実だった。
通信が開く。
画面の向こうに五条が映った。
呪霊に運ばれながら、相変わらず端末を操作している。
『みんな生きてる?』
「生きてる」
『研究者は?』
「避難完了」
『データは?』
「九十八パーセント転送成功」
五条が安堵したように息を吐いた。
『なら勝ちだね』
夏油は苦笑した。
「普通は敵を逃がしたら負けだろう」
『研究所は無事』
『研究者も無事』
『研究も無事』
『僕達も無事』
五条は笑った。
『だったら勝ちだよ』
その言葉に反論できる人間はいなかった。
エリオットですら黙る。
研究所五条の勝敗基準は最初から違う。
敵を倒したかではない。
未来を守れたかだ。
そして。
その頃。
遠く離れた場所で。
羂索もまた笑っていた。
「やはり五条悟だ」
車椅子。
病弱。
非戦闘員。
そんな評価は撤回しなければならない。
あれは王だ。
研究所という国の王。
だからこそ。
殺すより。
捕まえる方が価値がある。
羂索は静かに目を閉じた。
狙いは決まった。
優人ではない。
夏油でもない。
まずは五条悟。
王将を奪う。
盤面を崩すのはそれからだ。
羂索は笑った。
次の一手は、もう決まっていた。
羂索は資料を読み返していた。
同じものを三度目だった。
机の上には高専襲撃以降に集められた情報が並んでいる。
研究所。
東京結界。
人工生命。
呪力発電。
六眼システム。
そして五条悟。
羂索は椅子へ深く腰掛けた。
面白い。
本当に面白い。
何十年も生きてきたが、ここまで興味を引かれる人間は久しぶりだった。
五条悟。
六眼持ち。
無下限呪術保持者。
その肩書きだけなら見慣れている。
だが実物は違った。
まず弱い。
驚くほど弱い。
歩けない。
戦えない。
近接戦では学生にすら負けるだろう。
術師として見れば失敗作と言われても反論できない。
だが。
羂索は目を閉じた。
研究所で見た光景を思い出す。
羂索を認識した瞬間。
研究者達は避難を始めた。
研究データは転送された。
警備網は再編された。
夏油が動いた。
優人が動いた。
そして五条悟本人は戦場から消えた。
誰よりも早く。
誰よりも迷いなく。
まるで最初から決まっていたかのように。
「王か」
羂索は呟いた。
戦う王ではない。
守られる王でもない。
盤面を動かす王だった。
将棋で言えば王将。
チェスで言えばキング。
取られれば終わる。
だから最も守られる。
そして最も守られる価値がある。
羂索は少し笑った。
なるほど。
研究所が成立する理由が分かった。
あの男は戦えない。
だから全員が戦う。
あの男は歩けない。
だから全員が運ぶ。
あの男は弱い。
だから全員が守る。
そして。
その価値がある。
研究所の技術は、ほとんど全て五条悟から始まっている。
あの男が死ねば失われる知識が多すぎる。
だから全員が守る。
合理的だった。
「五条悟を中心に回る世界か」
羂索は資料を閉じた。
その瞬間、別の資料へ視線が移る。
優人。
羂索は自然と口元を緩めた。
こちらもまた面白い。
六眼。
無下限。
呪霊操術。
最高級の術式構成。
器として考えるなら理想的だった。
だが。
それだけではない。
研究者。
調査員。
交渉役。
保護対象。
護衛。
五歳児。
全部がおかしい。
読み返してもおかしい。
そして何より。
羂索は研究所での優人を思い出した。
研究者達を守っていた。
五条悟の命令を理解していた。
優先順位を把握していた。
盤面を読んでいた。
「惜しいな」
羂索は本音を漏らした。
器にするには惜しい。
頭脳が。
才能が。
未来が。
惜しい。
今すぐ奪うのは損失だった。
ならば。
もっと成長させればいい。
もっと学ばせればいい。
もっと働かせればいい。
その後で奪えばいい。
羂索は結論を出した。
優人は保留。
まだ使う。
まだ育てる。
まだ観察する。
その方が利益が大きい。
自然と視線が別の資料へ向いた。
夏油傑。
羂索は静かに笑った。
呪霊操術。
この術式だけは別格だった。
術式として完成されすぎている。
伸び代もある。
応用性も高い。
そして。
五条悟との関係。
羂索は研究所で見たものを思い出した。
夏油は五条を守った。
迷いなく。
当然のように。
命を賭ける覚悟で。
研究所の夏油も。
こちらの夏油も。
驚くほど似ている。
違う人生を歩いたはずなのに。
違う世界で生きたはずなのに。
どちらも五条悟を中心に回っている。
羂索は少し考えた。
面白い。
本当に面白い。
だからこそ。
利用価値がある。
器として考えるなら。
現時点では。
優人より上。
羂索は結論を出した。
夏油が第一候補。
優人は保留。
五条は研究対象。
順番は決まった。
そこで部下が入室した。
「研究所の警備ですが」
「どうだった」
「強固です」
「そうだろうな」
「五条悟の周囲から引き離すのは難しいかと」
羂索は頷いた。
その報告は予想通りだった。
夏油がいる。
優人がいる。
研究所全体がいる。
正面から奪うのは効率が悪い。
だから。
正面からはやらない。
羂索は立ち上がった。
「五条悟は研究所から引き離す」
部下が顔を上げる。
「どうやって」
「簡単だ」
羂索は笑った。
「夏油傑を使う」
研究所の夏油ではない。
こちらの夏油だ。
羂索は知っている。
五条悟は弱い。
だからこそ。
情に弱い。
人に弱い。
愛情に弱い。
研究所の夏油がいる。
家族がいる。
子供達がいる。
それでも。
こちらの夏油を放っておけない。
羂索は確信していた。
だから誘い出せる。
盤面は整った。
研究所への正面攻撃は失敗した。
ならば。
次は盤外戦。
羂索は静かに笑う。
王を奪う。
そのための準備は、もう始まっていた。
一方その頃。
研究所では。
「で、正妻への謝罪品候補その七です」
優人が真剣な顔で資料を開いていた。
「なんで七個もあるの」
五条が呆れる。
「足りないかもしれないし」
「増やす方向なんだ」
夏油は頭を抱えた。
数日後に自分達へ降りかかる災厄など知らず。
研究所は今日も平和だった。
マシュマロ
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