嵐の前のような不穏さが、ベレリアント戦争を戦う両軍を覆っている。
この時期のオルクセン総軍司令部は、ネニング平野を決勝点とする大作戦の準備で忙しい。祭りの前のような高揚感が参謀達を包み込み、司令部は毎日深夜まで活発だ。
だが、作戦準備のために敵の動向を探るうち、オルクセン軍の秀才参謀たちは「はて、妙な」と、口の上手い詐欺師と茶飲み話をしているような落ち着かない気分になるのだった。
「どうも敵軍、何かを企んでいるのじゃないか」
「敵の物資輸送力の試算を見たろう。攻勢に出るような力はないよ」
「しかしだ、敵は白エルフだそ。俺たちほど大喰らいじゃない。もしも無理をしてきたら」
「弾薬もなしで戦うのか? 我が軍の火力陣地に向かって。その時は、ロザリンド会戦を攻守、所を替えて再現してやるだけさ」
「うん、そうだな。そうだよな」
「ああ。何もかもうまくいってる。ネニング平野でも、先手を取るのは我が軍だ」
大鷲軍団の偵察結果まで加味した計算を確かめて、総軍参謀たちは確信を深めた。参謀作業室の首座に陣取る、彼らの首魁に目をやる。
そこに座す参謀の中の参謀、エーリッヒ・グレーベン少将は、机に書類の山を作り、その情報を呑み干すような勢いで読み込んでいる。
グレーベンは、作戦部長という管理職の身でありながら、自ら様々な報告書に目を通して、飽くところを知らない。時折り書類を読みながら葉巻をふかしたり、自ら文書を起案しながらトーストを齧るのが、休憩のつもりであるらしい。
時には細かな数字の検算まで自分でやって、部下の報告を確かめている時がある。
参謀としてはともかく、将校としては必ずしも美徳とはいえない。それでも若くして立身したのは、優秀、有能というより、異能といえる才幹の持ち主だからだ。「智謀、湧くが如し」と評されて、ごく短期間だけ連隊長職を務めた他は、一貫して参謀畑を歩んできた。
この戦争でも、オルクセン軍の戦略、作戦レベルの成功は、その九割が、元を辿ればこの牡の脳漿から発したものだといっていい。
その卓抜した才能と功績に見合うだけ、傲岸なところもあるグレーベンだが、今はその揺るがぬ自信家ぶりが、部下参謀たちの安心材料になっている。
今も、乾ききったトーストをコーヒーに浸しながら書類を読んでいる作戦部長のみっともない姿が、中佐、少佐連中には頼もしく思えた。
「部長があの分なら大丈夫だな」
「ああ。案ずるべきは、俺らの睡眠時間だけだ」
「今日は四時間は寝たいもんだが」
などと言い交わす参謀たちの小声は、その実、すべてグレーベンの耳に届いている。
(ふん、お前らは言われたことをやってろ。心配は俺の仕事だ)
いかにも自信満々、仕事の鬼という風の執務態度は、生来の性癖というだけでなく、グレーベンが意図して振る舞っている部分があった。
彼が大佐から少将に昇任したとき、岳父たるシュヴェーリン元帥に、こう言われたことがある。
<この世は劇場、誰もが皆、役者というではないか。まして将軍が不安そうにしたり、物思いにふけっていれば、司令部が不安に陥る。噂は軍を駆け巡って士気を押し下げ、勝利の計算を破壊してしまう。ゆえに将軍は、自分が演じたい役に相応しい振舞いを保たなければならんのよ>
宿将シュヴェーリンほどになれば、普段は陽気かつ鷹揚に振る舞い、時には敢えて激してみせて、硬軟自在の統率をする。未だ若いグレーベンが、彼なりに岳父の教えを守った結果が、今の彼の振る舞いであった。
ゆえに外面は自信に満ちていても、内には秘めたものがないではない。
(全局、うまくいき過ぎている……)という、奇妙な不安である。
エルフィンド軍は反撃能力を失い、ディアネンに籠っている。グレーベンが愛読する道洋の兵書は「少ない兵力で堅固に守っていては、大兵力に包囲されて虜にされるだけだ」と教えている。その教えに従うグレーベンは、ディアネンを両翼から包囲して、敵野戦軍を一挙に屠ろうとしている。
敵が賢明ならディアネンなど捨て去って、首都ティリアンまで思い切って退却し、できるだけ狭い土地で守るべきだ。ところが敵は、国土最大の平野を捨てる気はないらしい。なんとディアネンに女王が来て、断固防備の構えだという。
(こちらの望み通りに。しかし、万に一つ……)
グレーベンの背中に汗が浮く。数日前、第一軍隷下の将軍を全て集めた会合で、ディネルース・アンダリエル少将に言われたことが、心に懸かって離れない。
<グレーベン作戦部長。どうもこの作戦構想は、虫が良すぎやしませんか? これでは、エルフィンド軍はこちらに叩かれるまで木偶の坊のように突っ立っているだけの、まるで的だというようなものです>
その場の質疑ではグレーベンはディネルースの不安を一蹴した。偵察結果の数値をあげて、敵に攻勢を支える兵站がなく、できても限定攻勢だけで、たやすく排除できるの答えたのだ。
今もその論理は崩れていない。だが、ディネルースは、かつてロザリンド会戦でオルクセン軍を下した立役者の一角。対してグレーベンも、その部下の秀才参謀の大半も、実戦経験は今次戦争が初めてである。
歴戦の将軍の勘働き、いわゆる「戦の匂いをかぐ」というやつに、無意識の妬心が生じ、反論を焦った面があったのではないか。
そうグレーベンは内省する。論理を超えたところで、闇夜の霧のような不安が、寝ても覚めても離れない。
グレーベンが思い出すのは、やはり岳父シュヴェーリンの言葉だった。
<匂いを馬鹿にするものではない。百万の伝聞に勝る>
(俺は何かを見落としているのか? いや、間違いないはずだ。論理的には。しかし、仮に……理外の理というものがあったなら)
秀才を超えて天才の異名をとるグレーベンに、岳父は、また、こうも教えた。
<蛮勇、蛮勇、蛮勇。いまの世には、いかにも悪しきものだと思われているがな。ときに一片の蛮勇が、世のいかなる戦術原則をも打ち破ってしまうことがあるのだ>
(敵が、俺の計算の外側で動いたらどうなる。ふん、考えるだに馬鹿馬鹿しいが、あらゆる計算、原則を振り捨てて、一片の蛮勇……戦士の本能とかいうやつで、俺たちの喉元に食らいつくつもりであったなら……そう、例えば)
その時、聞き慣れぬ声がした。
「少将、グレーベン閣下。失礼いたします」
長考を切り上げさせられて、不機嫌な顔をあげたグレーベンの目前にいたのは、いかにも冴えない参謀少佐だ。グレーベンが厳選した総軍司令部参謀の一員ではない。
「何だ、オストナー」
ぶっきらぼうな応対に、第一軍司令部の作戦参謀、ヴィルヘルム・オストナー少佐はたじろいだ様子だ。
「も、申し訳ありません。お邪魔でしたか」
その様が、グレーベンの神経を逆撫でにする。
「早く言え」
「は、はい。第一軍のネヴラス防備計画を起案しました。来週分になります」
机に差し出されたのは、紙面十枚ほどの計画文書だった。一枚目の下端に署名欄は、連署、副署、正署の三つだ。
「こちらに陛下の決済を仰ぎたく。閣下の連署をお願いします」
「ふん、なんだ、わざわざ」
グレーベンは、ぱらぱらとめくるだけで、中身が先週分と変わりないことを確かめた。
「この忙しい時に、陛下や参謀長をわずらわすもんじゃない」
「は、まことに。ですが第一軍は陛下の……」
親卒だ、というオストナーの言葉は尻すぼみに消えた。
オルクセン軍の指揮機構の奇妙なところで、国王グスタフが総軍司令官と第一軍司令官を兼ねている。グスタフを支えるゼーベック総軍参謀長とグレーベン総軍作戦部長は、その下の第一軍の参謀長、作戦部長を兼任する建前だ。
実際のところでは、グスタフとゼーベックは陸海両軍と政府を統制する最高指導体、国王大本営レベルの活動が主となっている。グレーベンは総軍司令部を事実上、切り盛りしている。とてもその下の第一軍の細かな動きまで、目を配ってはいられない。その状況は、この戦争が佳境に入るにつれ、ますます顕著になっている。
「ふん、これでいいだろう」
グレーベンが返した書類に、オストナー少佐は目を丸くした。連署と副署の欄が斜線で消され、国王の御名が記されるべき正署欄に「代理決済エーリッヒ・グレーベン少将」と書いてある。
「は、はい。ですが規則上は」
「お前」
グレーベンはうんざりした気持ちでオストナーを見た。
「昔からちっとも変わらんな」
オストナーは戦慄したような顔になったが、グレーベンは気づかない。もう次の書類に目を落としているからだ。
「もう少し要領ってもんを覚えなきゃならんぞ。さ、もう行ってよろしい」
「はい、閣下。ご指導ありがとうございました」
気をつけの姿勢で敬礼を施したオストナーを見返しもせず、座ったままのグレーベンは形ばかりの敬礼を返した。
オストナーが退出してしばらく後、それまでの思考の糸口を辿れなくなったグレーベンが、コーヒーのおかわりを求めて立ち上がった頃合いに、部下の参謀が声をかけた。
「閣下、先ほどのオストナー少佐、あれでよろしいのですか」
少将と少佐の階級差があるとはいえ、あまりにぞんざいに扱い過ぎはしなかったかという諫言だった。グレーベンには気にもならない。
「いいんだよ。言わなかったか。あいつは俺の士官学校同期でな」
ああ、そうだったかと、部下参謀は安心したようだった。軽く扱っているのでなくて、古馴染みだから気安いだけなのだという。
グレーベンが少将に昇っているのが異常なだけで、彼らの年次で参謀少佐となれば、まずまずの出世といっていい。
「昔から、ああなんだ。腹が座らない奴でな。それでなけりゃ、総軍参謀に引き立ててやりたかったが」
そういいながら、洗いもしないカップにコーヒーをなみなみと注ぐと、グレーベンの思考は戦局全般に焦点を戻した。
そうだ、理外の理だ。俺もそれを突いたのだった。この戦争の始めには。常道の裏を掻いて、ファルマリア軍港を奇襲。敵艦隊を一挙に屠って、そのままファルマリアをこちらの補給路に組み込むという。例えば、そういうことか。
閃きを得て、グレーベンは手近な部下に命じた。
「おい、海軍総司令部に電報を打て。いいか、文案は任せるが、趣旨はな……」
その時には、今一つぱっとしない同期の少佐のことなど、グレーベンの脳裏には少しも残っていなかった。
(次話「決死の船」に続く)