魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
朝の柔らかな陽光が、ロズワール邸の清潔な客室を白く照らしていた。
僕はベッドの上でゆっくりと身を起こし、まずは何よりも先に、意識の奥底にある『リスト』をなぞった。そこには、僕の代わりに死を引き受けてくれる大兎たちの紅い灯火が、銀河のように密集して輝いている。
数万という圧倒的な『残機』の存在を確認して、僕はようやく、今日という一日を生き延びられる確信を得る。
「……よし、今日も異常なし」
小さく独り言ち、僕はベッドから降りた。そして慣れた口で呟く。
「『十命消費』」
僕は大兎の命を一つマナへと変換し、それをゲートへと慎重に流し込んだ。今の僕の課題は、依然として『アル・シャマク』の無意識下での維持だ。
「『アル・シャマク』」
そっと呟く。背後の空間が鏡のようにひび割れ、世界の影を切り取ったかのような不気味な闇の扉が顕現した。
その時、遠慮のないノックの音が響いた。
「おーい、アンちゃん! 朝だぜ、シャキッと起きろよな!」
扉を開けて入ってきたのは、相変わらず暑苦しい善意を全身から放つ男、スバルだった。
彼は僕の背後に浮かぶ禍々しい闇の扉を一瞥したが、特に驚く様子もなく、むしろ満足げに鼻を鳴らした。
「おっ、朝から気合入ってんじゃねーか! その調子で今日も一日、元気に健康に過ごそうぜ!」
「うん」
僕は冷淡な平熱の声で答えながら、スバルに促されるまま中庭へと向かった。そこには、すでにエミリアの姿があった。
「おはよう、スバル、アンタレス。今日もベアトリスとの特訓、頑張ってね」
エミリアが聖母のような微笑みを向けてくる。
「よーし、それじゃあ今日もいくぜ、ラジオ体操第一!」
スバルの号令と共に、軽快な音楽(を模したスバルの鼻歌)に合わせて体操が始まった。
僕は背後に『アル・シャマク』の扉を開き続けたまま、不格好に手足を動かした。腕を振るたびに、扉が揺らぎそうになる。それを権能によるマナの供給で強引に繋ぎ止める。
(……意識を体操に向けていても、扉が閉じないように。無意識レベルまで制御を落とし込む。これが出来なきゃ、本当の意味での『安全』は手に入らない……)
ベアトリスの「ゲートに流すマナの密度を高めろ」という言葉を反芻しながら、僕は必死に精神を集中させた。脇腹を伸ばし、ジャンプし、深呼吸をする。背後の異空間は、僕の動きに呼応して不気味に脈動しながらも、消えることなくそこに存在し続けていた。
「よし、締めだ! 皆さんもご一緒に!」
スバルが大きく両腕を広げ、天を仰いだ。
「せーのっ!」
「「「ビクトリー!!」」」
スバル、エミリア、そして僕の声が、朝の静かな庭園に重なり合った。
「――っ!!」
叫び終えた瞬間、スバルが弾かれたようにこちらを振り返った。その三白眼はこれ以上ないほど大きく見開かれ、驚愕と、それ以上に深い感動に震えている。
「あ、アンちゃん……! お前、今、一緒に『ビクトリー』って言ったか!? 今、言ったよな!?」
スバルは僕の肩をガシッと掴み、顔を近づけてきた。その勢いに、僕は思わずのけぞる。
「……え、あ、うん。言ったけど。それが何?」
「何って……お前、今まで何度誘っても『バカバカしい』とか『絶対やらない』とか言って拒否し続けてきたじゃねーか! それが、ついに……ついに俺たちと心を一つにしてくれたんだな! ああ、俺は今、猛烈に感動してるぜッ!!」
スバルは今にも泣き出しそうな顔で、僕の頭をクシャクシャとかき回した。
エミリアもまた、「良かったわね、アンタレス。スバル、すっごく嬉しそうよ」と、花が綻ぶような笑みを浮かべている。
僕はその暑苦しいまでの称賛を浴びながら、慌ててスバルの手を振り払い、顔を背けた。
「……別に、好きで合わせたわけじゃない」
僕は背後の『アル・シャマク』の扉を指差して説明した。
「これは特訓なの。体操の締めの発声っていう、一番集中力が切れやすい瞬間に合わせて、扉の維持を無意識レベルにまで落とし込めるか試しただけだよ。……今の『ビクトリー』は、マナの波形をどれだけ安定させられるかってだけの、ただのお試し。それ以上でも以下でもないから」
一気にまくし立てる僕の言葉。それは生存戦略に基づいた、完璧な合理性の主張のはずだった。
だが、スバルはそんな僕の「正論」を聞いて、「またまたぁー!」とニヤニヤとした不敵な笑みを深めただけだった。
ラジオ体操を終えた後も、僕の背後には『アル・シャマク』の闇が不気味に口を開け続けている。
大兎の命をマナへ変換してゲートに流し込み、異空間の扉を開き続ける。この維持作業は、今の僕にとって呼吸と同じくらい重要な生存活動だ。けれど、ただ突っ立って維持しているだけでは、本当の『無意識化』には程遠い。
(……もっと、別の作業をしながらでも完璧に制御できるようにならないと。不意にスバルが叫んだり、誰かに襲われた瞬間に扉が閉じたりしないように)
そう考えた僕は、屋敷の廊下を歩きながら、最適な『訓練』の内容を模索した。そして、目の前でテキパキと動く二人のメイドの姿が目に留まった。
青い髪のレムは床を磨き、桃色の髪のラムは……まぁ、それなりに窓を拭いている。
「ねぇ、ラム」
僕は、窓際でアンニュイな表情を浮かべていたラムに声をかけた。背後の闇の扉が、僕の歩みに合わせて静かに、けれど確実に追従する。
ラムは僕を一瞥し、不遜な笑みを口端に浮かべた。
「あら、アンタレスが話しかけてくるなんて珍しいわね。何か用?」
「……お願いがあるんだ。そのメイドの仕事、僕にも手伝わせて」
僕の突拍子もない提案に、ラムは僅かに眉を上げた。一方で、少し離れた場所で床を磨いていたレムの手が、ピタリと止まったのが分かった。
「一応聞くわ。どうして?」
「これを開けたまま、別の作業をこなしたいから。無意識的に展開し続けられるよう努めるのが、今の僕の課題なんだ」
僕は背後の扉を指し示した。
「まぁ、ちょっとした恩返しだと思ってよ。いつも部屋を綺麗にしてくれてることには感謝してるし」
ラムは僕の目をじっと見つめ、それから背後の『アル・シャマク』の扉を確認した。
やがて彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、近くにあったモップを僕に向かって、押し付けるように放り投げた。
「いいわ。存分にやりなさい」
「――姉様! いけません!」
鋭い声と共に、レムが僕たちの間に割って入った。彼女の青い瞳には、隠しきれない不信感と、僕に対する明白な拒絶が宿っている。
「レム。騒々しいわよ」
「ですがお姉様! この者を屋敷の仕事に携わらせるなんて……! ましてや、そのような不吉な術を使いながらなど、何が起きるか分かったものではありません!」
レムの視線が、僕の背後の闇を射抜く。彼女にとって、相変わらず僕はスバルを狂わせ、屋敷の安寧を脅かしかねない『大罪司教』という名の爆弾でしかないのだろう。
だが、ラムは妹の必死の訴えを、気だるげな仕草で受け流した。
「落ち着きなさい、レム。ラムには分かるわ。この子は今、ただ保身のための特訓に夢中なだけよ。……今のアンタレスからは、敵意も殺気も感じられない」
「姉様……。それでも、レムは納得できません」
「なら、レムが仕事を教えればいいでしょう? その鋭い目で一挙手一投足を追いなさい。アンタレス、貴女もそれで構わないわね?」
ラムに問われ、僕は担いだモップを軽く握り直した。
「……好きにすればいいよ。僕はただ、扉が維持できればそれでいいんだから。むしろ、意識することが増えて、特訓の助けになる」
僕は冷淡な平熱の声を返し、さっそく床にモップを滑らせた。
背後の異空間の扉が、僕の動きに合わせて不気味に脈動する。レムの突き刺すような視線が背中に刺さるのを感じるが、それさえも今の僕にとっては、集中力を高めるための心地よい『雑音』に過ぎなかった。
そんな僕の様子を、レムは冷徹な、それでいてどこか事務的な眼差しで見つめていた。彼女は僕の足元から頭の先までを検品するように眺めると、毅然とした態度で言い放った。
「アンタレス様。たとえ手伝いという名目であろうとも、ロズワール邸の掃除に携わるのであれば、相応の格好をしていただかなければなりません。制服に着替えていただきます」
「……え、制服? このままでも別に動けるし、汚れてもいい服なんだけど」
僕が戸惑いながら答えると、レムは一歩も引かずに言葉を重ねた。
「ロズワール邸の秩序を守るのもメイドの役目です。不相応な身なりで廊下を歩くことは、レムが許しません」
「…わかった」
断るのも面倒だし、ここでレムの機嫌を損ねて特訓の邪魔をされる方がリスクが高い。僕は渋々、彼女に連れられて着替えに向かうことにした。
―
「……何これ、ひらひらしすぎじゃない?」
鏡の前に立った僕は、自分の姿を見て思わず顔を引き攣らせた。
そこに映っていたのは、黒と白を基調とした、過剰なまでのフリルとレースで飾られたメイド服に身を包んだ齢十歳の幼女だった。頭にはヘッドドレスまで乗せられている。僕にとって、この「フリフリ」とした服装は中々落ち着かない。
「アンタレス様、動かないでください。リボンが曲がっています」
レムは僕の背後に回り、手際よく帯を締め上げていく。彼女の指先からは、僕という存在に対する依然とした警戒心が伝わってくるが、仕事に関しては一切の妥協がないようだ。
僕は恐る恐る、その場で足踏みをしてみたり、軽く身体を捻ってみたりした。
「……あれ。意外と、悪くないかも」
もっと動きにくいものだと思っていたけれど、驚いたことに、この服は身体の動きをほとんど阻害しなかった。むしろ、足捌きがしやすいように計算されているのか、かなり軽やかに動ける。
「……意外と動きやすいんだね、これ」
「当然です。ロズワール邸のメイド服は、美しさと機能性を両立させているのですから」
レムがどこか誇らしげに鼻を鳴らしたその時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「あ、アンちゃん! その格好、もしかしてアンちゃんもメイドさんになったの!?」
飛び込んできたのは、メイド見習いとして屋敷で働く少女、ペトラだった。彼女は僕の姿を見るなり、目をキラキラと輝かせて駆け寄ってくる。
僕は背後の異空間の扉が維持されていることを確認すると、平熱の声を返した。
「……違うよ。これはあくまで一時的な手伝い。別の作業をしながら魔法を維持する特訓をしてるだけだから。メイドになったわけじゃない」
僕の生存戦略に基づいた極めて合理的な説明を聞くと、ペトラはあからさまに肩を落とし、「えー……」と不満げに頬を膨らませた。
「そうなの? せっかく一緒にお仕事できると思ったのに、残念だなぁ」
がっかりするペトラの背後から、落ち着いた足取りで金髪のメイド、フレデリカが姿を現した。彼女は僕の着こなしをプロの目で一瞥し、隣に立つレムへと視線を向けた。
「レム、アンタレス様にその格好をさせたということは、これから何か仕事を任せるつもりなのですか?」
フレデリカの問いに、レムは表情を崩さず、事務的なトーンで答える。
「はい、フレデリカ様。まずは基本である『掃除』を。アンタレス様が特訓の一環として屋敷の清掃を希望されましたので、レムがその一挙手一投足の指導を行います」
「掃除! だったらアンちゃん、私と一緒にやろうよ!」
ペトラが再び身を乗り出し、僕の手を握ろうとして――僕の背後に控える『闇』を一瞥して、少しだけ手を引いた。
誘われた僕は、すぐに返事をせず、ちらりとレムとフレデリカの方を見た。
レムは僕の視線を受け僅かに眉を寄せたが、少しの思案の後、重苦しく口を開いた。
「……まあ、いいでしょう。監視の対象が近くにまとまっている方が、レムとしても好都合です」
「決まりね! それじゃあアンちゃん、早速やろ!」
僕はペトラに引かれるようにして廊下へと出た。
―
ロズワール邸の長い廊下に、規則的なモップの音と、時折響くレムの厳格な声が流れていた。
僕はメイド服の裾が汚れないよう注意しながら、指示された通りに床を磨き続けていた。手足に伝わる確かな疲労と、鼻を突く洗剤の匂い。
(……集中しろ。掃除に意識を割きながら、マナの供給を一定に保つんだ。大兎の命を変換する出力を、一ミリも揺らがせるな……。これらを無意識的に続けるんだ…)
僕は意識の隅にある『リスト』に並ぶ数万の紅い灯火をなぞり、そこから得たエネルギーを繊細なマナへと変えてゲートに流し込んでいた。
「アンタレス様、手が止まっています。その箇所はまだ曇りが残っています。磨き直しです」
すぐ隣で、レムが一切の妥協を許さない冷徹な瞳で僕を射抜いた。
彼女の持つ青い瞳は、掃除の不備を見逃さない『プロ』の厳しさと、僕に対する依然とした警戒心を湛えている。
「レム、アンタレス様はまだ慣れていらっしゃらないのです。あまり急かしては、かえって効率が落ちますわ」
反対側から、フレデリカが落ち着いた、けれど逃れようのない重みのある声で助け舟を出した。
「メイドの仕事は、呼吸と同じですわ。無駄な力を抜き、汚れの芯を捉えるのです。さあ、アンタレス様。もう一度、呼吸に合わせて腰を使ってくださいませ」
「……分かった」
僕は冷淡な平熱の声を返しながら、二人の熟練メイドに挟まれて黙々と作業を続けた。
時折、背後で脈動する異空間の扉が閉じていないか確認する。扉の維持と掃除の両立。この極限のマルチタスクこそが、今の僕にとって最高の生存訓練だった。
そんな僕の横で、同じようにモップを動かしていたペトラが、ふと顔を上げて話しかけてきた。
「ねえ、アンちゃん。その、魔法の特訓が終わってもさ、ずっとここで一緒に働かない?」
ペトラは期待に満ちた大きな瞳で僕を見つめた。
「アンちゃん、物覚えいいし、制服もすごく似合ってるよ! 私と一緒に、一人前のメイドさんを目指そうよ!」
僕はその無邪気な勧誘を、一瞬の迷いもなく切り捨てた。
「……嫌だよ。そもそも僕はメイドなんて柄じゃないし、これが終われば僕はここにいる意味がなくなる」
僕の生存戦略の中に、誰かに傅く『奉公人』としての未来は存在しない。今だって、自分にとって必要だからやっているだけだ。
だが、ペトラは僕の拒絶に怯むどころか、さらに身を乗り出して言葉を重ねた。
「えー、なんで! アンちゃんがここにいてくれたら、スバルがすっごく喜ぶよ!」
「……なんでそこでスバルの名前が出てくるのさ」
僕は心底呆れた溜息を吐き、モップの手を止めてペトラを凝視した。
あの暑苦しいまでの善意を振りまくトラブルメーカーの男。どうしてこの屋敷の住人は、何かにつけてあの男の機嫌を基準に動くのだろうか。
僕はふと、以前から抱いていた素朴な疑念を口にした。
「……前から思ってたんだけどさ。どうしてペトラは、僕にそんな親しげに話しかけてくるの?」
唐突な僕の質問にペトラは少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの、混じりけのない明るい笑顔を浮かべて答えた。
「だって、アンちゃんは友達だもん! 友達と一緒にいたいって思うのは、当たり前でしょ?」
「どうして、僕のことを『友達』扱いするの?」
僕の問いに、ペトラはモップを動かす手を止めて、不思議そうに首を傾げた。僕は彼女の澄んだ瞳を見据え、逃げ場を奪うように冷淡な平熱の声を重ねる。
「忘れたの? 僕はアーラム村の住民全員の命を掌握していた。君だって、その一人だったはずだよ」
意識の奥底で、かつて彼女たちの魂の根元を咥え込んでいた『牙』の感触を思い出す。それは僕が生き残るための『資源』であり、彼女たちを死の淵に繋ぎ止める呪いの鎖だった。
「自分の命を握られて、いつ『消費』されるか分からなかった相手を友達扱いするなんて、絶対におかしいよ」
僕の突き放すような言葉に、ペトラは少しだけ視線を伏せた。窓から差し込む陽光が、彼女の横顔を寂しげに照らす。
「……そうだね。確かに最初は、わけが分からなくて、すごく怖かった。魔女教の人たちに縄で縛られた時、もう死んじゃうんだって思ったりもした」
ペトラは当時の恐怖を思い出すように、自分の腕をそっと抱きしめた。
「でもね、ラインハルト様が来てくれて、すぐにスバルたちも助けに来てくれて、みんなを解放してくれて……その時、すごく安心したの」
「……それで?」
「その後、ラインハルト様がアンちゃんの掌握の糸を一本ずつ切ってくれた時、アンちゃん、すっごく痛がって泣いてたじゃない?」
僕の脳裏に、一本一本丁寧に命の糸を断ち切られた時の、あの嫌な痛みが蘇る。髪の毛を根元から無理やり引き抜かれるような、神経を直接逆なでされるあの拷問のような苦しみ。
つい顔をしかめていると、ペトラは思い出し笑いをするように、僕の顔を覗き込んできた。
「顔をぐしゃぐしゃにして、あんなに一生懸命泣いてるアンちゃんを見てたら……なんだか、毒気が抜かれちゃったっていうか。あぁ、この子も私と同じで、痛いのが嫌いで、死ぬのが怖いだけの女の子なんだなって思ったら、なんだか許しちゃったんだよね」
「…………」
僕は、あまりに身勝手な彼女の「許し」の理由に、言葉を失った。
僕が味わったあの地獄のような苦しみ、注射を恐れる子供のように泣き喚いたあの無様な姿。それが、この少女にとっては僕を『人間』として受け入れるための引金になっていたなんて。
「……つまり、僕が痛がって泣き叫んでいるのを見て、スカッとしたって事ね」
僕が不貞腐れたように鼻を鳴らすと、ペトラはペロッと舌を出して、悪戯っぽく微笑んだ。
「……えへへ、ちょっとだけね」
そう言って笑う彼女の表情には、一点の曇りもなかった。
僕は呆れたように深いため息を吐き、再びモップを床に滑らせた。全く、スバルの周りには、僕の想定を超えたお人好ししかいないらしい。
「……僕を許した理由は、なんとなく分かったよ。けど、友達扱いする理由は分からない。自分の命を握っていた相手なんて、普通は顔を見るのも嫌なはずだけど」
僕の生存戦略に基づいた冷徹な正論に対し、ペトラはモップの手を止めて、いつもの混じりけのない明るい笑顔を僕に向けた。
「うーん、でも、もう一カ月も一緒の屋根の下で過ごしてて、何度もこうしてお話ししたんだもん。もう友達で良いと思うよ、私は!」
「……そう」
僕は短く返事をして、再び床に視線を落とした。
すると、ペトラは何かを思いついたように、目をキラキラさせて身を乗り出してきた。
「あ、そうだ! 今度のお休みに、アーラム村に行ってみない? 村のみんなも、アンちゃんがこうして頑張ってるって知ったら、きっと喜ぶと思うな!」
その提案を聞いた瞬間、僕のモップを動かす手がピタリと止まった。
心臓の奥で、かつて掌握していた二百人以上の命の灯火が、恨めしげに明滅したような錯覚に陥る。
「……断るよ。全員が君みたいに、自分を殺そうとしていた相手を許せるような人間というわけじゃないからね。……僕が行けば、またあの時の恐怖を思い出させて、平穏を乱すだけだよ」
僕の拒絶は、保身に基づいた極めて合理的な判断だった。ラインハルトに糸を切られたとはいえ、僕が彼らの命を『資源』として私物化した事実は消えないのだ。
「そんなことないよ。村の人は結構、アンちゃんのこと許してたけど……。自分を殺そうとした相手といえば、そんな人がもう一人、この屋敷にいるんだよ?」
「知ってた?」とペトラは悪戯っぽく僕を見つめてくる。
「ああ、メィリィね。会ったことはないけど、聞いたことはある。……僕が言うのもなんだけどさ。君、命狙われすぎじゃない?」
「ほんと、困っちゃうよね!」
ペトラの本当に困っているのか分からないようなテンションの返事に、僕は呆れたような、それでいて底知れない戦慄を感じながら、深い溜息を吐き出した。
その時。
「――あ」
聞き慣れた、けれど今は一番聞きたくない男の声が響いた。
顔を上げると、そこには廊下の角から現れたスバルが、石像のように硬直して立ち尽くしていた。
「ス、バル」
僕は出来る限り動揺を隠した声で彼の名を呼んだ。
しかしスバルからの返事はなく、視線が僕の頭の先から、フリフリのついたスカートの裾、そして靴の先に至るまで、執拗なまでに往復しているのを感じて、背筋に嫌な汗が流れた。
彼は一歩、また一歩と無言で近づいてくると、獲物を鑑定する鑑定士のような鋭い(けれどどこかだらしない)目つきで、僕の周囲をゆっくりと一周した。
「な、なに……? そんな舐めるように見ないでよ。言っておくけど、これは特訓の一環なんだから。レムが着替えなきゃ掃除させないって言うから、合理的な判断として受け入れただけで――」
僕の言い訳を、スバルは力強い動作で遮った。
彼は僕の正面に立つと、無駄に輝く笑顔で親指を突き出した。
「最高だ。最高だぜ、アンちゃんッ!! 控えめに言って銀河系で一番似合ってる! 非の打ち所がねぇ、マジでヴィクトリーだッ!!」
「……っ!?」
あまりにストレートで暑苦しい称賛。
急激に顔が熱くなる。心臓がドクンドクンと脈打ち、視界がチカチカと点滅し始めた。
これはいけない。動揺は僕の制御を乱す。『アル・シャマク』を維持するマナが、羞恥心の奔流に飲み込まれてぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。
やがて、僕の精神的な動揺に呼応して、ゲートへのマナ供給が途絶え、背後にあった『アル・シャマク』の扉が、呆気なく霧散して閉じられた。
だが、今の僕はそれに気づく余裕さえなかった。
「~~ッ!!」
僕はモップを投げ出すと、スバルのニヤニヤ顔から逃れるように、全速力で廊下を駆け出した。
背後から「待てよアンちゃん、写真撮らせてくれよ!」という、デリカシーの欠片もない叫びが聞こえてきたが、僕は一度も振り返らずに自室へと飛び込んだ。
バタンと扉を閉め、鍵をかける。
僕は鏡の中に映る、顔を真っ赤にしたメイド姿の自分を睨みつけた。
「……最悪だ。屈辱すぎる。あんな、あんな羞恥プレイ、二度と受けてたまるか……!」
僕はヘッドドレスを床に叩きつけ、二度とこのフリフリの服には袖を通さないと、生存本能の最奥で強く誓った。メイド服なんて、僕の平穏な生活には必要ない不純物だ。
一息つき、呼吸を整えてから、僕はふと背後の空間に意識を向けた。
「……え? 扉が、ない?」
そこで初めて、僕はあるはずの異空間の入り口が跡形もなく消えていることに気が付いた。
「……嘘だろ。は、恥ずかしさで、制御が切れたっていうのか……?」
戦慄が走った。
もしこれが、スバルの称賛ではなく、戦場での「恐怖」や「絶望」だったらどうなっていたのか。もし、ラインハルトに追い詰められているような極限状態になれば、今の僕の制御なんて一瞬で吹き飛んでしまうだろう。
僕は『無意識下の維持』を目指している。そして、それは順調だった。そう認識していた。
だが、本当の意味での『無意識下での維持』とは、どんな精神的動揺があっても――それが恐怖であろうと、そして今日のような耐え難い羞恥心であろうと――決して扉を閉じない強固な規律が必要なのだ。
僕は床に落ちたヘッドドレスを、震える手で拾い上げた。
「……屈辱を飼い慣らせなきゃ、死の恐怖には勝てない」
スバルのあのニヤニヤした顔を思い出し、再び胃の辺りがムカムカとする。
けれど、死ぬことに比べれば、メイド服を着てニヤつかれる屈辱なんて、ただの安いコストに過ぎない。
「……仕方ない、よね。これも、僕の平穏を守るためなんだから」
僕は鏡を見ずに、再びメイド服のリボンに手をかけた。
羞恥心という最大の『雑音』に晒されながらも、『アル・シャマク』を維持し続ける。
それが、臆病な『傲慢』が導き出した、新たなる地獄の特訓メニューだった。
―
それ以降も、僕はロズワール邸での生活を続けた。
朝、スバルが「ビクトリー!!」と叫ぶ暑苦しいラジオ体操に付き合い、レムの冷徹な指導の下で廊下を磨き、昼下がりにはベアトリスから陰魔法の深淵を叩き込まれる。その合間に図書室で本を読み、スバルの無謀な鍛錬に付き合って「君、本当に死にたいの?」と毒を吐いたり、ガーフィールと軽く手合わせをしたりする。
その全ての瞬間に、僕は意識の裏側で『アル・シャマク』の扉を維持し続けていた。
(大兎の命を変換し、ゲートへの出力を一定に保つ。呼吸をするように、瞬きをするように、この『扉』を現実に繋ぎ止め続けろ……)
あらかじめ消費した大兎の命から得たエネルギーをマナへ返還しゲートへ流し込む。
本来の僕のゲートでは耐えられない出力を、権能による肉体強化で強引にねじ伏せる。気を引き締めはしない、むしろとことん気を抜いて、『アルシャマク』の扉の維持から意識を放す。
そうすることで、いずれ無意識的に維持が可能になる。そう信じて、この鍛錬を続けた。
そうして、ロズワール邸に来てから二カ月が経った、ある朝のこと。
「……ん」
ふかふかのベッドの上で、僕はいつものように目を覚ました。
そして、意識が完全に覚醒するより先に、背後に「それ」があることに気づいた。
「…………え?」
振り返ると、そこには世界の影を切り取ったかのような、不気味な闇の扉が静かに口を開けていた。
慌てて記憶を探る。……魔法を発動した覚えはない。寝起きのぼんやりした頭でマナを制御した記憶も、大兎のエネルギーをマナに変換しようと意識した感覚も、一切ない。
それなのに、『アル・シャマク』の扉は、そこにある。
まるで僕の背中から生えた翼か、あるいは心臓の鼓動と同じように、当たり前の存在としてそこに確立されていた。
(……無意識的に、維持し続けてる……?)
震える手で自分のゲートに意識を向ける。
そのせいで維持が無意識から外れてしまい、維持に意識を割く必要が出てしまった。しかし、それはつまり、先程まで本当に無意識で『アルシャマク』を維持していたことの証明に他ならない。
「……できた」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
陰魔法の極致の無意識化。それが、今、僕の肉体に刻み込まれたのだ。
狂喜しそうになるのを、僕はぐっと堪えた。ここで慢心して扉を閉じてしまうのは意味がない。僕はそのまま、普段通りの生活を装って一週間を過ごしてみることにした。
廊下でペトラに「アンちゃん、メイド服のリボン曲がってるよ!」と直されても、ラムに「バルスと一緒に掃除なんて、アンタレスも暇ね」と皮肉を言われても、僕の背後の扉は一ミリも揺らぐことはなかった。
スバルの無茶な特訓に付き合って、彼が「アンちゃん、今の見たか! 俺の新しい鞭さばき!」と騒ぎ立てても、扉は閉じない。ベアトリスの前で別の魔法を試行しても、扉は閉じない。
けれど、まだ拭いきれない不安が僕の胸をチリチリと焼いていた。
(……寝ている間は、どうなんだろう?)
もし眠りに落ちた瞬間にマナの制御が解け、扉が閉じてしまったら。
その瞬間に、異空間に隔離した大兎たちとの繋がりが断ち切られ、僕の『リスト』にある数万の残機はすべて消滅してしまう。それでは結局意味がない。
僕は、夕食後の休憩時間にソファでくつろいでいたスバルに歩み寄った。
「……スバル。一つ、試してほしいことがあるんだ」
「ん?なんだ、アンちゃん。俺にできることなら何でも言ってくれよ」
「……今夜一晩中、僕のことを見ていてほしいんだ」
スバルは持っていたカップを落としそうになり、それからいつものニヤニヤとした不敵な笑みを浮かべた。
「あらやだ積極的! ついにアンちゃんも俺の魅力に気づいちゃった? それとも、寂しくて一人じゃ眠れなくなっちゃった感じ? 添い寝の要求かな、これ!」
「……バカなこと言わないで。寝ている間も『アル・シャマク』が維持できているかどうか、確かめてほしいだけだよ。僕一人じゃ、寝てる間の自分の様子は見られないからね」
僕が冷めた声で理由を告げると、スバルのふざけた空気がスッと消えた。彼は僕の生存に対する執念の深さを悟ったように、三白眼を鋭く細めて頷いた。
「……なるほどな。無意識下の維持が、睡眠中も通用するかどうかのテストか。分かったぜ、それくらいお安い御用だ。お前が安心して眠れるように、俺がしっかり見張っててやるよ」
「……ありがとう。助かるよ」
そして、その日の深夜。僕の自室には、スバルだけでなく、付き添いとしてベアトリスも呼ばれていた。
「全く、スバルもアンタレスも、ベティーを夜通しの番犬代わりに使うなんて、不届き極まりないのよ」
ベアトリスは不満げにドリル状の金髪を跳ねさせたが、スバルの「頼むよベア子、アンちゃんの大事な特訓なんだ」という言葉に押し切られ、椅子に座って本を広げている。
「準備はいいかしら。お前のゲートに流れるマナの推移はベティーが監視してやるのよ」
「うん。……それじゃ、おやすみ」
僕はベッドに横になり、体内にある、あらかじめ消費しておいた大量の大兎のエネルギーに意識を向ける。そしてそれを呼吸するように、無意識的にマナへと変換し、『アルシャマク』の維持へと回す。
それを続けながら、ゆっくりと意識を沈めていく。背後で脈動する『アル・シャマク』の冷たい気配を感じながら、僕は深い眠りへと落ちていった。
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日が、僕のまぶたを叩いた。
ゆっくりと目を開け、僕はまず何よりも先に背後の空間を確認した。
「……あ」
そこには、昨夜と変わらず、世界の影を切り取ったかのような不気味な闇の扉が、静かに口を開けていた。
僕は飛び起きるように身を起こし、部屋の隅で椅子に座ったまま、酷い隈を作って虚空を見つめているスバルに問いかけた。
「スバル! どうだった!? 扉は、ずっと開いてた!?」
僕の声に、スバルはビクッと肩を揺らしてこちらを振り向いた。その顔は明らかに寝不足だったが、彼は力なく、けれど確かな満足感を込めて親指を立てた。
「……完璧だぜ、アンちゃん。一晩中……マジで一瞬たりとも、その穴が揺らぐことはなかった。お前が寝返りを打とうが、いびき……はかいてなかったけど、とにかく、完全に眠りこけてる間も、その術式はピクリともしなかったよ」
「本当……?本当に……?」
「ああ。ベア子もずっと見てたんだ。間違いねぇよ」
スバルの言葉を補強するように、隣で欠伸を噛み殺していたベアトリスが、信じられないものを見るような、どこか寒気を覚えたような瞳で僕を凝視した。
「……通常、眠りにつけば精神の制御は解け、魔法の効果は霧散するものなのよ。それなのに、意識が途絶えてもなお、お前の本能がずっとマナを供給し制御を続けていたかしら。……もはや才能なんて言葉では生ぬるい。執念が理を上書きしている……ベティーは今、お前に少しばかりの畏怖の念を感じるのよ」
「畏怖……」
陰魔法を専門とする精霊に、そう言わせた。
眠っていても、意識がなくても、僕の生存の防壁は決して閉じない。僕を死から遠ざける無限のストックは、もう誰にも、僕自身の油断にさえ奪われることはないのだ。
「……やった。やったんだ……!」
僕は込み上げてくる熱い感情を抑えきれず、顔を覆った。
スバルの暑苦しい善意も、ベアトリスの厳しい指導も、そして僕が耐えてきた屈辱も。そのすべてを薪にして、僕はついに『絶対的な安全』への鍵を手に入れたのだ。
「あは、はは……っ!」
僕は、今度こそ演技ではない、心の底からの歓喜に震えながら、勝利の笑みを漏らした。
しかし、ここですぐに検証を止めてはいけない。今日が偶々できただけの日の可能性がある。これは偶然ではなく必然であると、それを証明しなければならない。
「ねぇ、スバル。ベアトリス」
僕は、隈のひどい顔で親指を立てるスバルと、不機嫌そうにドリルを揺らすベアトリスを見上げ、慎重に言葉を選んだ。
「一晩だけじゃ、まだ確信が持てないんだ。……念のために、あと数日間、僕が眠っている間の監視を続けてほしい。本当に無意識下で維持し続けられるのか、完全に証明したいんだ」
僕の要求に、スバルは引き攣った笑顔を浮かべた。それもそうだろう、彼は一晩中一睡もしていないのだ。
「そんな顔しないで。睡眠不足の疲労くらい、僕の権能で治してあげるからさ」
その言葉を口にした瞬間、スバルの動きが、文字通り氷ついたように止まった。
僕の権能は、誰かの命を『消費』して、エネルギーへと変換する力だ。このエネルギーは生命の根源に近しいもの。そのため、睡眠不足の疲労を回復するくらい朝飯前だ。
だから良かれと思って「治してあげる」と言ったのだが、スバルの三白眼に、一瞬だけ、僕の本質に対する根源的な忌避感が過ったのを僕は見逃さなかった。
けれど、スバルは大きく深呼吸をすると、その嫌悪を強引に飲み込み、いつもの馬鹿正直な笑顔を僕に向けた。
「……あー、分かったぜ。アンちゃんのためなら、何度だってやってやるよ。お前が安心して眠れるようになるまで、俺がしっかり見張っててやるからな!」
「スバルがやるなら、ベティーも付き合ってやるかしら」
スバルの言葉に続くように、ベアトリスもそっぽを向きながら同意した。
僕は二人の様子に、内心で「本当に、救いようのないお人好したちだなぁ」と、毒のような、けれど不思議と熱を帯びた呆れを感じた。
「……軽い感謝くらいは言っておくよ。じゃあ、いくよ」
僕は意識の奥底にある『リスト』から、大兎の灯火を二つ選び取った。
「『二命消費』」
低い宣言と共に、二匹の大兎の命が僕の内側で熱に変わる。
僕はそのエネルギーをマナではなく、純粋な『活力』として二人の身体へと流し込んだ。
「――っ、おおお!? なんか一気に目が冴えてきた! これ、三日三晩不眠不休でゲームしてもいけそうな気がするぜッ!!」
「……マナの流れがスムーズすぎるかしら。お前の権能の理不尽さには、相変わらず感心しないのよ」
スバルは騒がしく跳ね回り、ベアトリスは驚愕を隠すように鼻を鳴らした。
それから数日間。
僕たちは、昼間はベアトリスの指導の下で陰魔法の研鑽を積み、夜は僕の部屋で、スバルたちが僕の眠りを見守るという奇妙な共同生活を続けた。
僕は毎晩、意識を闇の底へと沈めながら、背後の『アル・シャマク』の扉にマナを送り続けた。
眠り、夢を見て、完全に意識が途切れる。
その間も、僕の生存本能は大兎のエネルギーをマナに変換し、制御し、異空間への入り口を現実に繋ぎ止め続けていた。
そして、ついにその日が来た。
「……完璧だぜ、アンちゃん。一週間、一分一秒たりとも扉が揺らぐことはなかった。お前がどんなに深い眠りに落ちていても、その異空間の扉は、確かにそこに存在し続けていたぜ」
数日間の監視を終えたスバルが、隈を完全に消し去った晴れやかな顔で、僕に告げた。
無意識下での『アル・シャマク』の維持。僕を死から遠ざける、無限に等しい残機との恒久的な接続。
それが今、完全に証明されたのだ。
「……良かったな、アンタレス。これで本当の意味で、お前はもう『自由』だ」
スバルの声は、どこまでも優しかった。
僕を『災厄』としてではなく、ただ一人で怯え続けていた子供として、その解放を心から祝ってくれているのが分かった。
「…………あ」
その瞬間、僕の胸の奥で、ドロリとした熱い感情が爆発した。
それは、生存への執念でも、勝利への悦びでもない。ただの、救いようのない安堵。
僕という命を資源として扱い続ける存在を、どこまでも真っ向から信じ抜き、防壁となってくれた男に対する、言葉にならない『肯定』の重みだった。
僕は考えるよりも先に、目の前のスバルに飛びついていた。
「わっ、アンちゃん!?」
驚愕の声を上げるスバルの首筋に、僕は顔を埋め、その小さな腕で彼の身体を力一杯抱きしめた。
分厚い胸板から伝わってくる、力強い拍動。
これまでは『資源』としてしか見ていなかったその鼓動が、今は世界で最も暖かく、逃げ場のない檻のように僕を包み込んでいた。
「…………」
しばらくの間、僕は彼の温もりをただ噛み締めていた。
あの日、アスファルトの上で感じたあの冷たさが、この瞬間にようやく、過去のものとして上書きされた気がした。
だが、すぐに僕の脳内にある生存計算機が、冷徹な再起動を果たした。
(――いけない、流されすぎた)
僕は咄嗟に我に返ると、赤くなった顔を隠すようにスバルの胸を突き放し、思いっきり深呼吸をして己を落ち着かせた。
「……特訓はこれで終わり。証明も済んだ。だったら、早速始めようよ」
僕は背後に口を開けた、不気味な闇の扉を指差した。
「大兎を、今すぐこの『異空間』に閉じ込める。僕の絶対的な『資源』にするんだ。……スバル、準備はいい? もう、後戻りはできないからね」
僕はかつてないほど自由で、そして最も『傲慢』な笑みを浮かべて、次なる生存戦略の幕を開けた。
―
ロズワール邸の広大な庭園。雪解けの進む芝生の上に、僕とスバル、そしてベアトリスが三角形を描くように立っていた。
空気は張り詰め、鼻腔を突くのはマナの過剰な集束による独特の焦げたような臭いだ。
「……準備はいいよ。いつでも始められる」
僕の声に、スバルが力強く頷き、親指を立てて見せた。
「おう! 信じてるぜアンちゃん。ベア子、タイミングは任せたからな!」
「言われるまでもないかしら」
ベアトリスはドレスの裾を揺らしながらドリル状の金髪を跳ねさせた。
「いくらお前が陰魔法の極致を習得したからと言っても、今回は『聖域』で封印した『大兎』を動かすのよ。一瞬の油断も許されないかしら」
「……分かってるよ」
僕は自嘲気味に呟くと、いつも通り『千命消費』して肉体を強化する。そして、強化されたゲートを全開にし、世界の理を切り裂くイメージを固定する。
「「『アル・シャマク』」」
僕とベアトリスの声が重なった瞬間、庭園の空間が鏡のようにひび割れ、二つの巨大な闇の扉が顕現した。ベアトリスの扉の向こうには、真っ白な吹雪の中で永遠の飢餓に狂い、共食いを続ける大兎の群れが見える。
「引き寄せるかしら!」
ベアトリスの操作で、二つの闇の扉がゆっくりと、磁石が引き合うように近づいていく。僕もまた、自らの扉を彼女のそれへと微調整しながら寄せていった。
万が一にも大兎が外の世界――僕たちのいる庭園へ溢れ出さないよう、二つの扉は触れ合うほどに密着させられている。傍から見れば、ただ一つの大きな闇が空間に静止しているようにしか見えないだろう。
「……流れてきた」
扉が重なった瞬間、ベアトリスの異空間から、僕の異空間へと、白い濁流が雪崩れ込んでくるのを感じだ。マナを通じて、数えきれないほどの生命の拍動が、僕の魂の最奥を満たしていくような感覚。
その間も、万が一が起こらないよう、僕は扉の維持に全神経を集中させた。
やがて、ベアトリスの扉の向こうから白い影が消え、僕の異空間の中に、数え切れないほどの大兎が納まった。
「……終わったよ。移動、完了だ」
「……ふぅ、一仕事だったかしら。ベティーの完璧な仕事ぶりに感謝するのよ」
しかし、今終わったのは移動だけ。ベアトリスが封印していた大兎は、空間の隔たりによって僕の掌握の糸はとっくに切れているため、このままでは三大魔獣の一角を押し付けられただけで終わる。
そうならないために、僕は闇の中に無造作に右手を突っ込んだ。
ガチリ、と指先に伝わる凶暴な咬合力。
「相変わらず、食い意地が張ってるね」
僕は右腕に噛みついたままの一匹の大兎を、強引に闇の外へと引きずり出した。
強化された僕の皮膚は、三大魔獣の牙さえ通さない。僕はその小さな白い毛玉をむんずと掴み、その心臓に意識を集中させた。
ドクン。
「掌握……完了」
これでこの一匹は、完全に僕の『持ち物』になった。
「『千名消費』」
続けて、僕は左手を自分の扉の奥へと向けた。指先に凝縮させるのは、先ほど消費した千の大兎の命、怨念にも似た莫大なエネルギーだ。
僕は、掌握した手元の一匹以外の大兎たちがひしめく異空間の深淵に向かって、漆黒のエネルギー弾を放った。
闇の中で、数万の悲鳴が上がる間もなく、白い群れは一瞬にして消し炭となって吹き飛んだ。生き残りはいない。
「ほら、お帰り」
僕は手元に残った、僕と繋がっている一匹を、空になった異空間の闇へと放り投げた。
闇に落ちた一匹は、着地するなり、その生態に従って猛烈な勢いで分裂を始めるだろう。
早速、目の前の異空間の中で、投げ入れられた一匹の大兎が激しく身震いし、その肉体が盛り上がるようにして二匹、四匹と猛烈な勢いで分裂を始めた。
これで、僕の『リスト』にある紅い灯火は、僕が何もしなくても勝手に増え続け、僕の生存を永遠に保証し続ける『無限の貯蔵庫』として完成したのだ。
僕は満足げに一度だけ頷くと、背後に口を開けたままの闇の扉を意識の端に追いやり、スバルたちの方へ向き直った。
「……全部終わったよ」
僕が告げると、スバルは深く、長く溜息を吐き出し、眩しそうに目を細めて天を仰いだ。
「……ああ。そうみたいだな」
その横顔には、これまでの地獄のようなループを乗り越え、ようやく掴み取った平穏を噛みしめるような、形容しがたい安堵の色が浮かんでいた。
僕はそんなスバルを静かに眺めながら、自分自身の『次』の作業へと意識を切り替える。
「……異空間に大兎を納めることができたら、世界中にばら撒いた大兎をまとめて消費する約束だったね」
スバルが「あ……」と声を漏らすのを無視して、僕は自らの指先に絡みつく、目に見えない無数の『糸』の感触を研ぎ澄ませた。僻地や沼地に配置した、九万を超える命の灯火が、僕の脳裏で一斉に明滅している。
僕は祈るように、そして処刑を宣告するように、その数字を口にした。
「『九万六千四百十四命消費』」
その瞬間、世界が鳴動したような錯覚に陥った。
これまでにラインハルトを薪にした時や、大罪司教たちを処理した時とは比べ物にならないほど膨大で、暴力的なまでの『命のエネルギー』の濁流が、僕の細い血管へと一気になだれ込んできたのだ。
「――――っ!!」
全身の細胞が歓喜の産声を上げ、幼児の肉体が至高の領域まで満たされていく。
一歩間違えれば、その暴圧だけで周囲を消し飛ばし、かつてラインハルトを消費した時のように、触れることさえ拒絶するほどの理不尽な威圧感を放っていただろう。
だが、僕はその膨大なエネルギーを一気に身体強化に回すことを拒み、少しずつ使用することにした。
僕は溢れ出しそうになる熱量を、内側へと、ゲートのさらに奥底へと、少しずつ取りだしながら、残りを静かに保持し続けることに全神経を注いだ。
それが出来たのは、この数カ月間、あらゆる状況下で『アル・シャマク』の扉を無意識下で維持し続けるという、地獄のような特訓を繰り返してきたからだ。意識を逸らしながらもマナの出力を一定に保ち、巨大な力を内側に留めておく制御技術は、すでに僕の肉体に、呼吸と同じレベルで刻み込まれている。
何より、僕には忘れたくても忘れられない「反省」があった。
かつてリーファウス街道で、「落ち着かないから」という理由で命のエネルギーを無駄撃ちしたせいで、大罪司教たちの強襲に手も足も出ず、死の淵を彷徨いかける羽目になったあの日の不甲斐なさだ。
(……もう、あんな無様な姿は晒さない。僕の平穏を脅かす不測の事態に備えて、この力は『少しずつ計画的に使う』のが、最も効率的な生存戦略なんだから)
僕は、体内で渦巻く万能感の暴風を、表面上は一滴も漏らさぬよう完璧に飼い慣らしてみせた。
威圧感が薄くなった僕の姿を見て、スバルは「お、急におとなしくなったな?」と、何も気づかない様子で少し間抜けな顔を見せてくる。
僕は背後の闇の扉を無意識下で維持しながら、スバルたちの方へ向き直った。
「……これで、僕がここにいる必要は無くなったね」
僕に対し、スバルは「……ああ」と、力なく、けれどどこか納得したように悲しそうに相槌を打った。
その三白眼には、ようやく掴み取った勝利への安堵よりも、目の前の小さな少女を失うことへの、重苦しい寂しさが滲んでいる。
ベアトリスは何も言わない。けれど、そのハの字に曲げられた眉が、彼女の心中を物語っていた。
「……約束だもんな。お前が一人で大兎を管理できるようになれば、どこへ行っても邪魔しない、追いかけないって……」
スバルは頭をガシガシとかき回し、無理やり笑顔を作って見せた。
「待ってろ。皆を呼んでくるから。最後にちゃんと、お別れの挨拶くらいしようぜ」
スバルは屋敷の方へ踵を返そうとする。
その背中を見て、僕の胸の奥で、生存戦略とは無縁の、どろりとした奇妙な感情がせり上がってきた。
「――! 待って」
「……アンちゃん?」
僕は、歩き出そうとするスバルの服の裾を、咄嗟に掴んでいた。
スバルが驚いたように振り返る。どうして彼を引き留めたのか、僕には分からない。ただ、ここで彼を行かせてしまったら、取り返しのつかない喪失を味わう気がした。
僕は自分の中で渦巻く正体不明の感情に戸惑い、少しだけ顔を赤らめながら、視線を足元に落として、ぼそぼそと呟いた。
「……ここでの生活は、悪くなかった」
「え?」
「ベッドの寝心地は良いし、ご飯も美味い。お風呂だって、気持ちよかった」
僕は自分の指先を弄りながら、心の底に溜まっていた「本音」を、言葉にして吐き出していく。
「メイドの仕事も、楽しくなかったと言えば嘘になる。……ペトラやエミリアと、どうでもいい話をするのも、ガーフィールと軽い手合わせをするのも……」
そこまで言って、僕は一瞬だけ言い淀み、それから投げ出すように付け加えた。
「……スバルとのラジオ体操だって、その、正直、嫌じゃなかった」
スバルは、驚愕に目を見開き、それから次第にその顔を、泣き出しそうな、けれどこれ以上ないほど幸福そうな笑みで崩していった。
僕はそんな彼の顔を見ないようにしながら、最後の一言を口にした。
「だから……その」
言い淀む。
「もう少しだけ、さ」
視線が泳ぐ。
言葉が喉まで出かかる。
言え、言うんだ。ここで言わなければ、終わってしまう。
「何の用もないけれど、ここにいてもいい、かな?」
言った。言ってしまった。
用が終わればすぐに帰るだとか言ってた癖に。
自分勝手ではないだろうか。柄にもないことを言っている自覚はあるのだろうか。
だけど、スバルの声が、温かな湿り気を帯びて響いた。
「……ああ、当たり前だろ! 好きなだけ居ろよ! 用なんて無くてもいい、我らエミリアたん一味の一員なんだからなッ!!」
スバルは僕の頭をクシャクシャとかき回した。あまりにも当然のように。僕の心配が全て杞憂だと証明するように。
僕は相変わらず暑苦しいその手の温もりを感じながら、誰にも見えないように、深く、心から湧き出る気持ちを噛み締めるように、笑みを浮かべた。
「スバル、ちょっといいかな。……しゃがんで」
「お? なんだなんだ、アンちゃん。ついに俺への愛の告白か?」
スバルは茶化しながらも、僕の目線に合わせてその大きな身体を折り曲げた。僕は彼の首に腕を回して抱き着き、その耳元に顔を寄せる。
「ねぇ、一つ……誰にも言っていない秘密を打ち明けてもいいかな?」
「お、いいぜ、どんと来い! このナツキ・スバル、口の固さには定評があるんだ」
スバルは期待に満ちた顔で、僕の言葉を待つ。
僕は近くにいるベアトリスも聞こえないような、彼にしか聞こえない小さな声で告げた。
「……実は僕、転生者なんだ。スバルと同じ日本から来たんだよ」
その告白を聞いた瞬間、スバルは目を見開いた。だが、驚きはすぐに、何処か納得したような苦笑へと変わる。
「……やっぱりか。正直、そうなんじゃないかと思ってたんだ。お前、時々この世界にあるはずのない語彙を明らかに理解してたしな」
「……バレてたんだね。でも、秘密はまだまだあるんだ」
「え、マジで? アンちゃんの秘密、もっと知れちゃうのか?」
スバルは同じ故郷を持つ仲間を見つけた喜びに、瞳を輝かせて身を乗り出してきた。僕はそんな彼の無防備な耳元に、今度こそ致命的な爆弾を落とした。
「前世……あくまで前世の話だけれど。僕は男だったんだ」
「…………」
「今生で、女性として生まれ変わったけどね」
スバルの思考が、完全に停止したのが分かった。
これまで「可哀想な女の子」として守り、抱きしめ、メイド服姿を見て鼻の下を伸ばしていた相手の正体が、中身は元同性であったという事実。その情報の濁流に、彼の脳細胞は一瞬で焼き切れたのだ。
数秒の沈黙の後、スバルは弾かれたように顔を上げ、夕闇の空に向かって絶叫した。
「はああああああああああああああああああっ!?!?」
静かな庭園に、彼の魂の叫びが木霊する。
僕はその無様な姿を見上げながら、悪戯が成功した子供のような、あるいは全てを掌の上で転がしている大罪司教のような、最高に『傲慢』で平穏な笑みを浮かべるのだった。