内容は「宅配ピザを注文したい」というだけ。
綾小路は最初、間違いか、悪戯かなにかだと思うが、
どうも電話先の坂柳の様子がおかしい。
彼女は本当にピザを注文したいだけなのか?それとも――。
※pixivにも同タイトルで投稿しています。
夕暮れの色が校舎の窓に薄く沈み、
教室の中には帰り支度を終えた生徒たちのざわめきがわずかに残っていた。
綾小路清隆は自席に腰を下ろしたまま、特に急ぐ様子もなくノートを閉じ、
そのまま何もせず、ただ時間が過ぎるのを待つように静かに座っていたのだが、
そんな緩やかに流れる放課後の空気を不意に断ち切るように、
ポケットの中の携帯が短く振動し、
彼はほんのわずかに視線を落とすと、無言のままそれを取り出した。
「綾小路だ」
そう名乗った直後、携帯の向こうに流れた最初の沈黙は
ごく短いものでしかなかったはずなのに、妙に張りつめた気配を含んでいたせいで、
綾小路には不自然な間として強く意識され、
その直後に聞こえてきた落ち着き払った少女の声を耳にした瞬間、
彼は誰からの電話なのかを即座に理解しながらも、
同時に胸の奥に小さく、しかし無視し難い違和感を覚えた。
「お電話ありがとうございます。少々お願いがありまして」
坂柳有栖。
間違いなく彼女の声であり、その柔らかく整った発音も、
相手を試すような気品のある言い回しもいつも通りだったが、
綾小路はそのいつも通りという表面の下に、
言葉にしにくい硬さが混ざっていることを感じ取る。
ほんのわずかに、息を吸い直すような音が混じったのだ。
普段の坂柳であれば、呼吸すら意識させないほど滑らかに言葉を紡ぐはずなのに、
その一瞬だけ、喉の奥で何かを押し殺したような引っかかりがある。
そして次の瞬間、携帯越しにかすかな摩擦音が走る。
衣服が乱暴に掴まれた時に生じるような、乾いた布の擦れ。
「……余計なことは言うなよ」
声は低く、抑えられているにもかかわらず、明確な威圧を帯びていた。
直接的な暴力の音ではない。
だが、それ以上に生々しい、
すでに一度力を見せつけられた後の空気がそこにはあった。
坂柳は、それに対して何も返さない。
ただほんの一瞬だけ、言葉を発するまでの間が、通常よりわずかに長くなる。
「……それで、」
何事もなかったかのように続けられた声は、しかし完全に平常ではない。
わずかに呼吸が浅い。
そして、そのわずかが、綾小路には決定的な違和感として伝わった。
「坂柳か、こんな時間にどうした」
できるだけ平静な声音で返しつつ、綾小路は耳を澄ませる。
坂柳はこういう時間帯に私的な用件で連絡を寄越すような生徒ではないし、
しかもその第一声に妙な前置きがあるということ自体が、彼女らしくない。
「実は、宅配ピザをお願いしたく思いまして」
その言葉が耳に入った瞬間、綾小路は反射的に眉間を僅かに寄せる。
内容そのものが異様だった。
生徒が生徒に宅配ピザの注文を頼む。
それだけならふざけた悪戯、
あるいは間違い電話として切り捨ててもよかったはずなのに、
携帯越しの声が紛れもなく坂柳本人である以上、
その異様さは単なる非常識ではなく、
意図を持った不自然さとして綾小路の中に残った。
「……意味が分からない、寮から自分で頼めば済む話だろう」
「ええ、普段であればそういたします。
ですが本日は少々、手が離せない事情がございます」
手が離せない事情。
坂柳がわざわざそんな曖昧な表現を使うか。
必要なら必要。
無理なら無理と端的に言う生徒であり、こうしたぼかし方をする時は、
そこに聞かせたい相手と聞かせたくない相手が同時に存在している時だけだと、
綾小路はこれまでの接触から本能的に理解していた。
「なら後にしろ、オレに頼むほど急ぐ理由もないだろう」
その言葉に対して、坂柳はすぐには答えなかった。
ほんの一拍。
だが、それは意図的に作られた間ではない。
呼吸を整えるための、わずかな猶予。
携帯越しに、微かに空気を吸い込む音が混じる。
浅く、短い吸気。
そのあとに続く吐息もまた、いつものように均整の取れたリズムではない。
(呼吸が……乱れている?)
綾小路の中で、小さな確信が芽生える。
そして坂柳は、ようやく言葉を発した。
「……それが、どうしても今でなくては困るんです」
その今という一語に、坂柳はごく僅かだが明確な圧を乗せた。
携帯越しでも分かるほど意識的な強調。
その瞬間、電話の向こうで、何かがぶつかる鈍い音が響いた。
ガン、と、硬いもの同士が接触したような短い衝撃音。
続いて、わずかに乱れる息遣い。
それは坂柳のものだと、綾小路は直感した。
だが悲鳴はない。
助けを求める声もない。
代わりにあるのは、無理やり抑え込まれた静けさだけだった。
(屋外か……いや、半屋外の広い場所か)
教室の静けさの中で、その環境音はやけに鮮明だった。
そして、そのわずか後に、今度ははっきりと男の声が混じった。
「おい、まだかよ、変なこと言ってんじゃねえぞ」
低く、荒く、苛立った声。
威圧を隠そうともしない声。
綾小路の表情が僅かに変わる。
椅子の背にもたれていた体を起こし、携帯を持つ手にわずかに力が入る。
「……坂柳、お前はいまどこにいる」
問いは短く、しかし探りを悟られぬよう、
あくまで注文の都合を尋ねる口実を装って投げられる。
「校舎外です、少々見通しの良い場所におります」
「住所は」
「申し訳ありません、正確な場所までは把握しておりません。
ですが近くには資材がたくさん積まれておりまして、鉄骨も見えますし、
足元はまだ舗装が終わっていないようです」
工事現場。
綾小路は即座にそう判断する。
しかも坂柳は今、自分の置かれている場所を、
注文に必要な届け先情報として自然に紛れ込ませながら説明している。
つまり、彼女は監視下にあり、露骨な救援要請ができない。
「なるほど、なら場所を特定しないと届けられない、周囲に何か目印はあるか」
「クレーンが見えます、それから仮設の白い壁が長く続いておりまして、
夜間照明がいくつか立っております、ああ、それと車の音が頻繁に聞こえますから、
大きな道路が近いのだと思います」
一つ一つの言葉が、あまりにも出来すぎている。
いや、出来すぎているからこそ、これは偶然ではなく、
極限状態で絞り出された情報なのだと綾小路には分かった。
再び男の声。
今度はさらに近く、携帯を奪いかねない距離で響く。
「余計なこと言ってんじゃねえ、さっさとピザを注文しろ」
その瞬間、綾小路の中で疑念は完全に確信へ変わる。
坂柳は誰かに拘束、あるいは少なくとも監視されており、
その相手は明らかに友好的な存在ではない。
そして、この荒っぽさ。
この露骨な支配欲を声に乗せる人間に、綾小路は心当たりがあった。
(龍園だな……)
根拠はまだ薄い。
だが十分だった。
坂柳を狙い、屈服させることに強い意味を見出しそうな男。
勝利そのものより、相手の誇りを踏み砕く瞬間に価値を置く男。
その人物像にもっとも合致するのは龍園だった。
「分かった、では何を頼む」
綾小路はあくまで話を合わせる。
坂柳が電話を切られずに済むだけの自然さを維持しなければならない。
「マルゲリータと、照り焼きチキンをお願いいたします。
できれば大きいサイズで、人数はそれなりにおりますので」
人数はそれなり。
複数人いる。
龍園一人ではない。
「飲み物はいるか」
「ええ、炭酸の強いものが好まれておりますね、騒がしい方が多いものですから」
騒がしい方が多い。
複数の取り巻き。
やはり龍園のグループだ。
綾小路は机の上のメモ用紙を引き寄せ、素早く書きつける。
工事現場、鉄骨、資材、クレーン、仮設壁、大通り付近、複数人。
「坂柳」
「はい」
「お前は無事か」
生徒としてではなく、人としての確認を、
綾小路はいつもより平坦な調子に押し込んで訊く。
すると坂柳は一拍だけ間を置き、それからいつもの優雅な声音で答えた。
「ええ、いまのところは、とても愉快な歓迎を受けております」
「いまのところは」。
今この瞬間に動かなければ、次はどうなるか分からない。
「そうか、ならすぐ手配する」
「お願いいたします。できれば早めに」
その「早めに」に含まれた切迫を、綾小路は聞き逃さない。
通話が切れる。
携帯を置いた次の瞬間には、綾小路は静かに立ち上がっていた。
そして教室に残っていた堀北と平田に声をかける。
「教師と警備員を呼べ、すぐだ」
他のクラスメイトが何事かと顔を上げるが、綾小路は説明を後回しにした。
この手の場面で最悪なのは、慎重ぶって時間を浪費することだ。
坂柳があれだけ巧妙に情報を渡してきた以上、
いま必要なのは確認ではなく行動だった。
数分後、綾小路は坂柳の担任の真嶋と警備員3人を伴い、
学校の管理車両で校舎外へ出ていた。
周辺の工事現場を地図で洗い出し、校舎からの距離、
施設との位置関係、現在進行中の工事区画を照合する。
坂柳ほどの頭脳なら、彼らが短時間で辿り着ける範囲を見越して情報を出す。
ならば候補は多くない。
「ここだな」
綾小路が指したのは、校舎から車でそう離れていない再開発区画の一角だった。
大型道路に面し、夜間も仮設照明が残っており、
資材置き場と鉄骨の搬入スペースが広く取られている工事現場。
しかも夕方以降は人の出入りが減り、連れ込みには都合がいい。
到着した現場は、予想通り薄暗く、不気味なほど広かった。
仮設フェンスの向こうに積み上げられた資材。
風に鳴るシート。
未舗装の地面はタイヤ痕で荒れ、照明が作る濃い影がそこかしこに沈んでいる。
その奥から、男たちの笑い声が聞こえた。
荒く、下品で、気の緩んだ笑い。
勝利を疑っていない者の声。
真嶋は手で合図し、警備員とともに音の方へ進む。
鉄材の影を抜けた先、仮設の休憩スペースのように
使われている開けた場所で、その光景はあった。
簡易椅子に座らされた坂柳。
その周囲を囲む数人の男子生徒。
そして正面には、片手に携帯を弄びながら、椅子を軽く叩いている龍園翔。
「……ハッ、ずいぶん遅い宅配だな」
こちらに気づいた龍園が、獰猛な笑みを浮かべる。
その顔には驚きもあるが、それ以上に、
自分の優位をまだ崩されていないと思っている者の余裕が残っていた。
坂柳は顔を上げる。
その表情は乱れていない。
髪も服も大きくは崩れていない。
だが、腕の置き方や呼吸の浅さから、
ここに至るまでに相当な圧迫を受けていたことは明らかだった。
「綾小路くん、真嶋先生、思ったよりも早いお届けですね」
その言葉に、綾小路や真嶋は一瞬だけ安堵する。
少なくとも意識は明晰で、声も保てている。
「坂柳、こちらへ来い」
真嶋の声は低く、硬い。
坂柳は小さく頷くが、龍園が一歩前に出て、その動線を塞ぐ。
「おいおい、せっかく面白くなってきたところなんだが」
龍園は笑っていた。
だがその笑いの奥には、明らかな苛立ちがあった。
あと一歩で完全にへし折れると思っていた相手を、土壇場で取り返された怒り。
「面白い、だと」
真嶋は龍園を真正面から見据える。
「生徒を脅して電話をかけさせ、工事現場に連れ込んで囲むことがか」
「脅してねえよ、ただ少し、誰が上か教えてやってただけだ」
龍園は口角を吊り上げる。
「坂柳も大したもんだぜ。さっきまで蛇に睨まれたカエルみてぇに震えてたくせに、
まさかピザを注文すると見せかけて綾小路に助けを乞うとはな」
坂柳は屈したふりをしながら、綾小路へ状況を伝え、救援を呼ぶことに成功した。
「お前は勝った気でいただけだ。坂柳は最後までお前の手の内には入っていない」
綾小路の言葉に空気が張りつめる。
龍園の背後にいた石崎たちも、
さすがに状況のまずさを理解したのか、気まずそうに視線を泳がせる。
坂柳が静かに口を開く。
「龍園くん、あなたは勝利の演出に酔いすぎました。
相手に電話を許す時点で、自分が絶対に支配できていると思い込んでいた。
その慢心がいまの結果です」
その声音はかすかに疲弊を含みながらも、誇りだけは少しも折れていなかった。
龍園は舌打ちし、地面の石ころを蹴った。
「……チッ、つまんねえな」
「つまらなくしたのはお前自身だ」
綾小路が言い切ると同時に、警備員が前へ出る。
状況はすでに遊びでは済まない。
校舎外、工事現場への連れ込み、威圧、拘束に近い包囲。
どれも見逃せるものではなかった。
龍園はしばらく睨み返していたが、
やがて肩をすくめ、興が削がれたというように息を吐く。
「好きにしろよ、どうせ今回は綾小路の機転勝ちだ」
その言い方にはなお負けを認めきらない棘があったが、
少なくともこれ以上ここで抗う意思はないようだった。
綾小路は坂柳のそばへ歩み寄る。
「立てるか」
「ええ、問題ありません」
そう答えた坂柳の声は、表面上は崩れていない。
だが、ほんのわずかにだけ、呼吸の深さが戻りきっていない。
電話の中で見せていた乱れが、完全には消えていない証拠だった。
それは、あと数分遅れていれば、
状況が別の形へ転がっていた可能性を、静かに物語っていた。
坂柳はゆっくりと立ち上がる。
その動作は優雅さを崩していなかったが、
足元に一瞬だけ力の揺らぎが見え、綾小路はさりげなく手を差し出した。
坂柳はほんの一瞬その手を見て、それから小さく笑う。
「ありがとうございます。本当にピザのご手配が早くて助かりました」
その言い回しに、綾小路はようやくわずかに口元を緩める。
「届け先が分かりやすかったからな」
坂柳の瞳が静かに細められる。
それは、言葉を交わさずとも互いに通じたことへの、短くも確かな合図だった。
工事現場の吹く風は冷たく、鉄骨の間を抜けるたびに鈍い音を立てていたが、
その空気の中でなお、坂柳の背筋は真っすぐだった。
龍園に囲まれ、威圧され、屈服の証として電話をかけさせられながら、
それでも彼女は最後の一線だけは渡さず、
言葉の綾と状況描写だけで自分の居場所と危機を伝え切った。
そして綾小路もまた、その不自然さをただの気まぐれや悪戯で終わらせず、
坂柳の発するわずかな異変を見逃さなかったからこそ、この救出は成立した。
この学校では見えにくい他クラスの生徒の距離というものが、
その薄暗い工事現場では奇妙な形で証明されていた。
信頼と呼ぶには無骨で、情と呼ぶにはまだ乾いている。
それでも、助けを求める側がこの人なら気づくと判断し、
受け取る側がこれはおかしいと即座に動いたという事実だけで、
そこには確かに一本の線が通っていた。
工事現場を後にする直前、坂柳は一度だけ振り返り、
苛立ちを噛み殺した龍園の姿を見やってから、
いつもの静かで気品ある声音に戻って、
しかし今夜の出来事を皮肉ごと封じ込めるように、こう呟いた。
「勝利の祝宴というものは、始まる前に崩れるといちばん惨めですね」
その一言に、龍園の目が鋭く細まる。
だがもう遅かった。
彼が酔いしれていた完全な屈服は成立せず、
彼の勝利宣言はただの思い込みとして崩れ去り、代わりに残ったのは、
極限状況の中でも折れなかった坂柳の誇りと、
それを拾い上げた綾小路の機転だけだった。
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