人通りの多い駅前通り。午後の光はやや傾き始め、建物の影が薄くゆっくりと伸びていた。行き交う人々のざわめきの中に、どこか忙しなく落ち着かない空気が混じっている。
「時間、少し過ぎてるな」
ややだらけた様子でベンチに腰掛けたまま、ソウルはぼそりと呟いた。白いニット帽のつばを軽く下げ、視線だけを上へ向けて空を仰ぐ。
「塚内さん、忙しい人だし……仕方ないよ」
隣に座るマカはソウルへとそう言いながらも、視線は落ち着かず、何度も通りの奥へと向けられていた。
「……お前がソワソワしてどうすんだよマカ」
「してない」
即答だったが、その声にはわずかな硬さが混じる。
今日の待ち合わせはとある一件以来、マカとソウルの後見人になってくれている警察の塚内警部との進路相談——雄英高校の受験についてだった。
小さいころから夢見て来た、ヒーローになるという夢。その現実的な一歩を前にして、マカの中にある緊張は隠しきれるものではなかった。
「……ほんとに雄英に行く気なんだな」
試すようなソウルの声。
「うん」
その問いにマカは迷いなく答えた。
ソウルは小さくため息をつき、ニット帽越しに頭を掻く。
「まぁ……止めねぇけどよ」
それ以上は言わない。
だが、その沈黙には「危ない橋だぞ」という無言の警告が滲んでいた。
そのとき——
「やめて——っ!」
鋭い悲鳴が、雑踏を切り裂いた。
ざわめきが一瞬だけ止まり、空気が張り詰める。
マカの視線が一瞬で変わる。
「……今の」
「行くな」
ほぼ同時だった。
だが、ソウルが止める間もなくマカの足はすでに声の場所へと動いていた。
「おい!」
振り返らない。人混みを縫うように駆け出す。
ソウルは舌打ちした。
「……クソ」
すぐに立ち上がり、ソウルは駆け出したマカのその背を追う。
裏通りに足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
表通りに満ちていたざわめきは、壁一枚隔てただけで嘘のように遠のき、この狭い空間には荒く乱れた呼吸と、何かを叩きつける鈍い衝突音だけが濃く残っている。音は湿ったように反響し、逃げ場のない圧迫感となって肌にまとわりついていた。
視線の先、地面に倒れた女性がいる。
身体は不自然に丸まり、かすかに上下する胸だけが、まだ意識が途切れていないことを示していた。
そのすぐ前で、男が腕を振るっている。
異様だった。
肥大した右腕は、単なる筋肉の膨張ではない。内側から何かに押し広げられているように歪み、皮膚の下で脈打つそれは一定のリズムを持たず、不規則に膨れ、収縮し——まるで制御不能の生き物のように蠢いていた。
ブンッ、と男が腕を振るう度びに空気が唸る。
重い。
速い。
そして——粗い。
「やめろ……っ、来るな……!」
男の声は震えていた。
——違う。
次の瞬間には、男は自分の腕を見下ろし、歪んだ笑いを漏らした。
「なんでだよ……なんで俺だけ、こんなことになってんだよ……ッ!!」
恐怖と混乱。
壊している側でありながら、自分の行動原理に理解が追いつけていない。
「……ヴィラン、か」
マカの声が低く落ちる。
その瞬間。
「行くな」
背後からの制止は短く鋭かった。
「魂を見た。個性の暴走で自分が今何をしているのも分かってねぇんだ」
「でも」
ソウルの言葉に、マカは悔しそうに唇をかんだ。
「警察……いや、ヒーローを呼べ。俺たちに出来るのはそんだけ──」
だが——
視界の端で、女性の指先がわずかに動く。
助けを求めるように。
そのほんの僅かな動きがマカの視界に映った瞬間、記憶が思考を追い越した。
血の匂い。
崩れ落ちる背中。
伸ばした手は、あと少しの距離で届かなかった。
名前を呼ぶ声すら、間に合わなかった。
——二度と、あんな思いはしたくない。
「……っ」
気づいたときには、マカの身体はすでに前へ走り出ていた。
判断ではない。
ほとんど条件反射に近い動きだった。
「あぁもう!このバカマカが!」
走り出したマカの姿を見て、そう悪態をついたソウルは一瞬の光の後に個性で自身を大鎌へと姿を替えた。
「——共鳴!」
大鎌へと姿を替えたソウルを掴んだマカがそう叫ぶと同時にマカとソウルの意識が、繋がる。
身体が軽い。反応が鋭い。一人分だった視界が広がる。
だが——同時に、違和感が走る。
呼吸が一つではない。
自分の奥に、もう一つ別のリズムがある。
踏み込み、視線、重心移動。
すべてが、わずかに噛み合っていない。
まるで、二人で一つの身体を無理やり動かしているような感覚。
「チッ……ズレてるな」
魂が繋がったおかげで、言葉に出さなくてもソウルの思っていることがマカには伝わっている。
これまで何度も試して、一度も成功していないマカの個性、【共鳴】。
それでも——今は止まれない。
ドンッ!!
男が踏み込む。
地面が鳴る。
ただの一歩であるはずの動作が、衝撃として空気を震わせ、足元から直接伝わってくる。重心の乗せ方は荒く、無理やり力を叩きつけているだけだが、それでもなお破壊力は圧倒的だった。
腕が振り上げられる。
来る。
マカは踏み込む。
だが——
やはりわずかに遅れる。
自分のタイミングではない。
半拍のズレ。
その差が、致命的になる。
振り下ろされる腕。
軌道が途中で歪む。
読めない。
避けきれない。
「前出すぎだ、バカ!」
ガンッ!!
激突。
刃が強引に割り込む。
衝撃が腕を通して全身に叩き込まれる。
重い。
押し潰される。
体勢が崩れる。
「ごめん!」
「謝ってる暇あったら合わせろ!」
距離を取る。
呼吸が乱れる。
——合わない。
身体は動くのに、思った通りにソウルと噛み合わない。
男が再び踏み込む。
ドンッ!!
さっきより速い。
勢いだけが増している。
マカは横へ動く。
正面は危険。
そう判断している。
だが——
遅れる。
踏み込みの瞬間、重心が浮く。
振り抜かれる腕。
「——っ!」
捻る。
だが完全には避けきれない。
ゴッ、と鈍い音。
避けきれなかった一撃が肩口を掠める。
衝撃が骨まで食い込み、遅れて熱と痛みが広がる。
体勢が崩れる。
追撃が来る。
速い。
間に合わない。
その瞬間——
「——下がれ!」
ガンッ!!
振り下ろされた腕を、大鎌が真正面から受け止める。
衝撃が空気を震わせ、刃越しに圧が全身へ流れ込む。
それでも——押し切られない。
わずかに軌道が逸れる。
致命の一撃が、外れる。
呼吸が乱れる。
ズレている。
だが——分かる。
二つのリズムが、噛み合っていないだけだ。
なら——
合わせるのではなく、重ねる。
相手に合わせる。
委ねる。
その瞬間。
一瞬だけ——すべてが噛み合う。
ズレていたはずのリズムがぴたりと重なり、身体が“自分以上に正しく動く”。
一秒にも満たない、偶然の中の奇跡。
「——今」
だが、その一秒で十分だった。
踏み込む。
地面を蹴る。
一直線に、男の間合いへと入る。
ソウルの刃が、男の軸を捉える。
崩れる。
——ここだ。
振り下ろす。
ほんのわずかに青白く光を纏ったソウルの一撃が男をとらえた。
ドッ——!!
重い音が地面に沈む。
男の身体が完全に崩れ落ちた音だった。
静寂。
「……安心しろ。峰打ちだ」
戦闘の終わりを告げるようにそう呟かれるソウルの言葉に、ようやくマカは力んでいた身体から力を抜いた。
遠くからサイレンの音が近づいてきた。戦闘の音を聞いた誰かが警察を呼んだのだろう。じきにヒーローもここへとやってくるはずだ。
現実が、遅れてマカ達に追いついてくる。
サイレンの音が近づくにつれて、張り詰めていた空気がゆっくりと現実へ引き戻されていく。
数分後には、現場にはパトカーとヒーローの姿があった。
規制線が張られ、倒れていた女性は担架に乗せられて運ばれていく。
暴れていた男は拘束され、集まったヒーローによって連行され既にこの場には居ない。慌ただしく動く大人たちの中で、マカとソウルだけがその流れからわずかに切り離されたように、その場の隅に立ち尽くしていた。
肩に残る痛みが、遅れてじわじわと広がってくる。
先ほどまで感じていた高揚は消え、代わりに残っているのは、鈍く重たい現実感だった。
そのとき。
「……どうして、勝手に動いたのかな」
静かな声が、背後からかけられる。
振り返ると、そこに立っていたのは警察の警部であり、マカとソウルの後見人の塚内直正だった。
声を荒げているわけではない。
怒鳴っているわけでもない。
それでも、その淡々とした言葉には逃げ場がなかった。
マカは一瞬、言葉を探す。
だが、うまく言葉が出てこない。
視線が、無意識に地面へ落ちる。
「助けたかった、は理由になる」
塚内は一歩、ゆっくりと距離を詰める。その歩幅は一定で、焦りも感情の揺れも見えない。ただ事実を確認するような、淡々とした動きだった。
「でも、それだけじゃ足りない」
その言葉が落ちた瞬間、マカの視界がわずかに揺れた。
血の匂い。
伸ばした手。
届かなかった距離。
指先が空を切る感覚。
「……っ」
呼吸が、浅くなる。
「確かに、あのときの君とは違う」
塚内の声は変わらない。
だが、その内容は確実に踏み込んできていた。
「助けられない。逃げるしかない。怖い。辛い」
マカの肩がわずかに震える。
否定したい。
だが、言葉が出ない。
「マカ。君は学生だ……ヒーローじゃない」
「一歩間違えば、あのときと同じようになっていたかもしれないんだよ?」
一拍。
ほんのわずかな間。
「それでも、マカは同じ選択をするのかな」
静かに、問いが落ちる。
答えを急かされているわけではない。
だが、逃げることは許されない問いだった。
マカの喉がわずかに動く。
何かを言おうとして、言葉にならない。
視線は落ちたまま、拳だけが小さく握られる。
そのとき。
一歩、前に影が差し込んだ。
視界の端に、白いニット帽が映る。
ソウルだった。
意識して動いたわけではない。
自然に。
気づけば、マカと塚内の間に立つ位置へと踏み出していた。
「……大人なんて信用出来ない」
低く、押し出すような声。
「ヒーローだって信頼出来ない」
ゆっくりと顔を上げる。
視線は逸らさない。
親指で、塚内を軽く指す。
「俺は魂は見れるが、心は読めねぇからな。お前らだって本当のところは怪しいもんだ。」
場の空気が、わずかに張り詰める。
吐き出されたソウルの言葉に塚内は苦笑いを浮かべ、名も知らぬヒーローたちは怪訝な表情を浮かべる。
それでも、ソウルは止まらない。
一度、小さく息を吐く。
「……でもよ」
その一言だけ、わずかに音が落ちる。
「あいつの言ってることは間違ってねぇ」
マカが顔を上げる。
ソウルは前を向いたまま続ける。
「無茶だった。普通に死んでてもおかしくない」
その言葉は冷たい。
だが、突き放しているわけではなかった。
事実として、置いているだけだ。
「……だがな」
わずかに視線を横へ流す。
担架で運ばれていく女性の方へ。
「お前らヒーローがもっと早く来てりゃ、こいつは動かずに済んだ」
一拍、間を置く。
「マカだけじゃねぇ」
ほんの少しだけ、声に棘が混じる。
「あの女だって、あそこまで大怪我せずに済んだはずだ」
沈黙が落ちる。
ヒーローの一人がわずかに表情を曇らせる。
誰もすぐには言葉を返さない。
塚内はその沈黙を受け止めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……どちらも、間違いではないよ」
その声は、先ほどよりもわずかに柔らかかった。
「理想としてのヒーロー。そして、現実としてのヒーロー」
「だからこそ、難しい」
視線をマカへ向ける。
まっすぐに。
「君は確かに人を救った」
一拍。
「でも同時に、自分とソウルを危険に晒した」
言葉は短い。
だが、逃げ道はない。
「ヒーローは、その両方を背負う仕事だ」
静かに、しかし確かに重さを持って落ちる。
マカは何も言わない。
言えない。
ただ、その言葉を受け止めるように、わずかに肩を揺らす。
「……だから、考えてほしい」
塚内はそれ以上踏み込まない。
答えを求めない。
ただ、言葉だけを置く。
「君が目指すヒーローを」
沈黙。
サイレンの残響だけが、遠くで響いている。
やがて、塚内はゆっくりと背を向けた。
それが、この場での終わりだった。
現場を離れる頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
塚内はその場に残り、報告と事後処理に追われることになった。
結局、進路の話は持ち越しだ。
低く差し込む橙色の光が街の輪郭をやわらかく滲ませ、長く伸びた影が、歩くたびにゆっくりと形を変えていく。さっきまで確かにそこにあった喧騒や緊張は、もう手の届かない場所に置き去りにされたようで、代わりに訪れた住宅街の静けさだけが現実感を伴って残っていた。
マカは無言のまま歩いている。
一定のはずの足取りは、どこか微妙に噛み合っていない。速くもなく、遅くもないそのリズムは、頭の中で何度も繰り返されている言葉に引きずられているようだった。
——助けた。
それは、確かだ。
でも——
次も同じように動けるのか。
そのとき、自分は生きていられるのか。
分からない。
それでも——
マカの心に、塚内の言葉が何度も浮かんでは沈む。
正しかったのか。
間違っていたのか。
考えれば考えるほど、答えは曖昧になっていく。
ただ一つだけ、確かなものがある。
——あのまま、見ていることはできなかった。
その感覚だけが、他のすべてよりも強く、胸の奥に残っていた。
「……なあ」
隣を歩くソウルが、ぼそりと声を落とす。
マカは顔を上げないまま、小さく返事をする。
「はい」
少しの間が空く。
ソウルはすぐには続けない。
言葉を選んでいるわけでも、ためているわけでもない。ただ、必要以上のことを言う気がないだけだった。
「……別に」
短く区切る。
「間違ってたとは言ってねぇ」
その言葉は、驚くほどあっさりとしていた。
だからこそ、余計な装飾がなく、そのまま真っ直ぐに落ちてくる。
マカの足が、わずかにだけ緩む。
完全には止まらない。
けれど確かに、その一言は何かをほどいた。
「……ただな」
ソウルは前を向いたまま続ける。
視線は一度もこちらに向けない。
「そのままでいいとも思ってねぇ」
厳しい言葉。
だが、否定ではない。
現実をそのまま置いただけの、揺るがない温度だった。
マカはゆっくりと顔を上げる。
視線は前へ。
けれど、意識は確実に隣の言葉へ向いている。
「……考えろ」
短く、切るように。
「どう動くべきか」
「どこまでやるべきか」
「どこで引くべきか」
一定の間隔で、言葉が落ちる。
「ヒーローになりたいんなら全部、自分で決めろ」
風が吹く。
夕焼けの光がわずかに揺れ、影の輪郭が歪む。
マカは小さく息を吸い込む。
胸の奥に溜まっていた重さが、完全ではないにせよ、少しずつほどけていく。
答えは出ていない。
でも——
進んでいいのかどうかだけは、分かり始めていた。
そのとき。
「……勘違いすんなよ」
不意に、ソウルが言葉を足す。
さっきよりも少しだけ低い声。
マカの足が、わずかに止まりかける。
ソウルは振り返らない。
前を向いたまま、淡々と続ける。
「お前がどっち選ぼうが、止める気はねぇ」
一拍。
「けど俺は無茶すんなって言うし、気に入らなきゃ文句だって言う」
ぶっきらぼうに、だが迷いなく。
「……でも」
ほんの少しだけ、間が落ちる。
その沈黙が、不思議と重い。
「置いてく気はねぇよ」
短い。
それだけだった。
それ以上も、それ以下もない。
大げさな言葉も、理由もない。
けれど、その一言だけで十分だった。
マカはゆっくりと顔を上げる。
言葉にはしない。
でも、その意味ははっきりと伝わっていた。
選ぶのは自分。
迷うのも自分。
それでも——隣には、いる。
その事実が、足を止めさせなかった。
「……うん」
小さく頷く。
さっきよりも、少しだけ迷いの薄い声だった。
二人の歩幅が、わずかに揃う。
沈黙が戻る。
だが、それは重たいものではなかった。
考える余白を残した、静かな時間だった。
しばらくして。
ソウルが、ぽつりと呟く。
「……健全なる魂は」
その言葉は常日頃からソウルとマカが口にしている、一種の口癖のようなものだった。
ソウルから放たれたその言葉に、マカが自然に続ける。
「健全なる精神と」
一瞬だけ、マカとソウル。二人の視線が交わる。
ほんのわずか。
けれど、確かに。
二人で、言葉を重ねる。
「「健全なる肉体に宿る」」
夕焼け空の中に、その声が静かに溶けていく。
未だ遠い理想。
届いていないもの、足りていないものの方が多い。
それでも——
その歩みを進める理由としては、十分だった。