『黒瀬玲は、ただのカメラマンのはずだった』   作:Waiemu

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【第二話】米花美術館殺人事件

 

米花町に引っ越してきて二週間が経った。

 

俺は喫茶ポアロを完璧に回避する生活ルートを確立していた。商店街の交差点を一本西に逸れて、八百屋と魚屋の間の細い路地を抜け、コンビニの裏手を回り込んで駅前に出る。歩く距離は三分長くなるが、安室透の半径五十メートルに踏み込まずに済む。

 

それで十分だと思っていた。

 

朝、メールを開いて、依頼を見るまでは。

 

『米花美術館 撮影業務委託のお願い』

 

差出人は米花美術館館長、落合徳治郎。本文によると、米花美術館は来月閉鎖、取り壊しが決定しており、その前に館内全展示の記録撮影を残したい。閉鎖まで時間がない。撮影は二日間。報酬は良い。フリーランスのカメラマンを探していたところ、近隣在住で実績のある俺の名前が候補に上がった、とのこと。

 

俺はメールを三回読み返した。

 

米花美術館。

 

前世の記憶が即座にラベルを引っ張ってきた。コミックス3巻、米花美術館オーナー殺人事件。甲冑の騎士。落合館長。窪田、飯島の学芸員二人。ダイイングメッセージ「クボタ」。書けないボールペン。天罰の絵の前で殺されるオーナー。

 

俺は依頼メールを閉じた。

 

開いた。

 

閉じた。

 

開いた。

 

閉じた。

 

二週間前のポアロの教訓を、俺はちゃんと学習しているはずだった。米花町で原作の現場に近寄るな。それが鉄則だった。

 

しかし依頼の文面を読み返すと、現実的な事情も同時に脳裏に並んだ。引っ越し費用で口座は痩せている。近隣在住の同業者から仕事を蹴ったとなれば業界の評判に響く。米花美術館は取り壊し前で、建築写真として撮れる最後の機会でもある。職業上の純粋な興味も否定できない。

 

そして決定的な一点。

 

落合館長は被害者ではない。被害者はオーナーだ。俺はオーナーじゃないし学芸員でもない。撮影を依頼された外部のカメラマンだ。原作で殺されるポジションにはいない。

 

俺はメールに返信した。

 

『お引き受けいたします』

 

 

撮影当日。

 

俺はレンタカーで米花美術館に到着した。秋の昼前、空気は乾いて、街路樹の影が路面に伸びていた。建物は予想通りの古典様式で、正面の石段の両脇に獅子の像が据えられていた。

 

機材を降ろす。三脚、長玉、広角、ストロボ一式、予備バッテリー、SDカード。荷物を抱えて石段を上がる。受付で名前を告げると、すぐに館長室へ案内された。

 

落合館長は写真で見たより穏やかな雰囲気の老紳士だった。白髪、痩身、上品な口調。

 

「お忙しいところ恐れ入ります、黒瀬さん」

 

「いえ、こちらこそ、こんな急な依頼を、ありがとうございます」

 

「閉館まで日がなくて、慌てております。撮影してほしいのは常設展示のすべてと、館内の建築意匠です。スケジュールはお任せします。二日間、自由にご使用ください」

 

館長は俺に館内図を渡した。一階展示室、二階展示室、地下収蔵庫、別館の中世美術コーナー、屋上テラス。順路は記載されている。

 

「特にこの中世美術コーナーは、当館の目玉でしてね」

 

館長が指したのは『地獄の間』と書かれた区画だった。

 

俺の心臓がわずかに跳ねた。

 

「中世絵画と、当時の甲冑を展示しております。鑑賞中の事故を防ぐため、ロープと札で順路を仕切っておりますので、撮影の際はご注意ください」

 

甲冑。

 

原作で犯人が中に入って、オーナーを殺害する、それ。今、館長が穏やかな口調で説明している、それ。

 

「黒瀬さん」

 

館長の声で俺は意識を引き戻した。

 

「あ、はい」

 

「お顔が、少し、青いようですが」

 

「あ、いえ、大丈夫です、車酔いが少し、残っていまして」

 

「そうですか。では、よろしくお願いいたします」

 

館長室を出た俺は、廊下の途中で立ち止まって深呼吸を三回した。

 

落ち着け、黒瀬玲。

 

お前は撮影で来ただけだ。事件は起きるが、お前は被害者でも犯人でも目撃者でもない。撮影に集中して、二日間で全部撮って、報酬を受け取って帰る。それだけでいい。原作知識は意識の奥底にしまえ。今のお前は、引っ越したばかりの近隣在住のカメラマンで、米花美術館の撮影依頼を受けただけの男だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

俺は機材を担ぎ直して順路を歩き始めた。

 

 

最初の展示室は順調だった。

 

油彩画、彫刻、陶芸。三脚を立て、ライティングを調整し、長玉と広角を使い分けて構図を組む。仕事中の俺は別人のように落ち着いている。被写体としての作品の質感、額装の経年変化、展示室の光の落ち方、それらが脳の前面に並んで、原作知識のラベルは奥に押し込まれた。

 

二時間ほどで一階の常設展示を撮り終えた。順路の矢印に従って二階に上がり、廊下の奥の中世美術コーナーへ向かう。

 

途中、廊下の角で人とぶつかりかけた。

 

「あ、すみません」

 

「いえ、こちらこそ」

 

ぶつかりかけた相手は男性二人組だった。一人は学芸員らしき若い男、もう一人はスーツの中年男性。すれ違いざまに後者の声が聞こえた。

 

「この館は古いカビだらけだ。落合さん、あんたもいい加減、現実を見たらどうかね」

 

「ホ、ホテルでも建てたほうが、街の活性化にもなりますし、ねぇ館長」

 

学芸員らしき男の声だった。媚びるような口調。あ、これは飯島の方か、それとも窪田か、原作の細部が記憶の表層に浮上しかけて、俺は慌てて意識を引き戻した。

 

要らない。要らないんだ。お前は撮影しに来ただけだろ。救おうなんて考えるな。相手は数時間後に死ぬ人間だ。

 

俺は廊下の壁に寄って二人をやり過ごした。スーツの中年男性、つまりオーナーであろう人物は、俺を一瞥もせず通過していった。学芸員らしき男は、俺の機材を見て、わずかに眉を寄せたが、何も言わずに通り過ぎた。

 

俺は廊下の奥に向かって歩き出した。

 

 

『地獄の間』

 

入口に掲げられた札を見て、俺は数秒立ち止まった。

 

中世絵画の展示室だった。壁に掛けられた油彩画は、いずれも宗教画系統で、地獄の責め苦、悪魔、最後の審判、煉獄の業火。重い画題が並ぶ中、奥の壁に一際大きな絵が掛けられていた。

 

『天罰』

 

俺の足が止まった。

 

天罰。原作でオーナーが死体として発見される、その絵の前で。

 

絵の手前には立入禁止のロープと『D-3』と書かれた札が置かれていた。鑑賞順路の都合で、この絵の正面のスペースには入れないようになっている。

 

俺は絵を遠目から見上げた。

 

正義の騎士が悪魔を剣で串刺しにしている構図。中世らしい筆致、宗教的な象徴、画家の署名は判別不能。鑑賞対象としては優れた作品だ。

 

ただし、この絵の本当の意味は、表面の構図の通りではない。

 

悪魔は正義の騎士に葬られたが、その邪悪な返り血を浴びた騎士は、やがて悪に身を染めていく。それがこの絵の含む本当の意味だ、と、原作で誰かが、推理の最後で語っていた。

 

要らない。

 

知らないフリをしろ、黒瀬玲。

 

俺はカメラを構え直した。三脚を据え、構図を取り、絞りを決め、シャッターを切った。

 

『天罰』の絵を一枚、収めた。

 

絵を見つめたまま、俺は深く呼吸した。

 

仕事だ。これは仕事だ。

 

俺の指が、自分の意思とは別に、次の構図のために絵の周辺を撮影し続けていた。展示室全体、立入禁止ロープ、『D-3』の札、絵の側面、絵の背景の壁、何枚も何枚も。

 

撮りすぎだ。

 

絵を一点で十数枚も撮っている。仕事の癖というより、原作知識が「この場所が現場になる」と告げていて、俺の指が無意識に証拠保全モードに入っている。

 

俺は一度カメラを下ろした。

 

「……仕事に、戻ろう」

 

呟いてから、自分が口に出していたことに気付いた。

 

廊下の方向を見た。

 

誰もいなかった。

 

俺は機材を畳んで、別の展示エリアに移動した。

 

 

昼食を館外の喫茶店で済ませて、午後二時に戻った。

 

順路に沿って二階の他の展示を撮影し、屋上テラスの建築意匠を撮り終えた頃には、すでに午後四時を回っていた。

 

館内のスタッフ用通路を歩いていると、向こうから三人組がやってくる足音が聞こえた。

 

俺は機材を抱えて壁際に寄った。

 

すれ違いざま、俺の視界に入ったのは、まだ高校生くらいの黒髪の女性、その隣に短髪のラフなジャケットの中年男性、そしてその二人の足元で、こっちを見上げている黒髪の小学生だった。

 

俺の足が止まった。

 

「あれ?」

 

小学生の声だった。

 

「お兄さん、こないだの喫茶店の」

 

俺は石になった。

 

毛利蘭。毛利小五郎。江戸川コナン。三人揃って、米花美術館に、来ていた。

 

そりゃそうだ。原作通りなら、彼らがこの事件の中心にいる側だ。撮影の俺と、鑑賞の彼ら、行動圏が重なるのは当然のことだった。にも関わらず俺は、撮影に集中するあまりこの可能性を完全に頭から除外していた。

 

「あら、お知り合い?」

 

蘭さんが優しく俺を見上げた。

 

蘭さん、と俺は前世の記憶のラベルが擦れる感覚を覚えた。今、頭の中で蘭さん、と呼んでしまった。蘭、毛利蘭、コナンの幼馴染、帝丹高校二年生、空手都大会優勝、十七歳。

 

「この前ね、ポアロでお話したお兄さんなんだよ。樽が好きで、グラッパ飲むんだって」

 

「へえー」

 

蘭さんは興味深そうに俺を見た。

 

「カメラマンさんなんですね。お仕事ですか?」

 

「あ、はい、館の撮影を依頼されまして」

 

「すごい、プロのお仕事中にお邪魔してすみません」

 

「い、いえ、こちらこそ」

 

中年男性、毛利小五郎は俺を一瞥して、興味なさそうに「ふうん」と漏らし、コナン君の頭を軽く小突いた。

 

「おい坊主、行くぞ。あの『地獄の間』とかいうの、館長が見せてくれるんだろ」

 

地獄の間。

 

俺の意識が固まった。

 

「お兄さんも行く?」

 

コナン君が俺を見上げて言った。

 

俺の口は、勝手に動いた。

 

「あ、いや、俺はもうそこは撮影を終えたので」

 

「ふうん」

 

「……それより、その」

 

止めろ。

 

「気を付けて、ください」

 

止めろ止めろ止めろ。

 

「?」

 

「その、足元、ロープが張ってあって躓きやすいので」

 

「あ、ありがとうございます」

 

蘭さんは丁寧にお辞儀をして、コナン君と小五郎を伴って通路の奥へ消えていった。

 

俺は壁に寄りかかって深呼吸を三回した。

 

「気を付けて、ください」

 

何だ今のは。

 

何を言おうとした。

 

足元のロープ、なんて誤魔化しは、考えてから言ったわけじゃない。最初に喉から出たのは「気を付けてください」で、その後の理由付けが咄嗟に捻り出された。普通の発言として処理可能なギリギリのライン。だが、もし聞き手のうち一人でも俺の不自然さに気付いていたら、もし聞き手のうち一人でも俺を観察対象として登録していたら。

 

コナン君が、廊下の角を曲がる前に、一度だけ振り返った。

 

俺と目が合った。

 

笑顔だった。

 

俺は地下の収蔵庫の撮影に降りた。

 

スタッフ用の階段を降りながら、俺の口は勝手に動いていた。

 

「……失敗、だ」

 

「気を付けてください、なんて言うなよ、俺」

 

「あたかも何かあるような口調で警告するなんて、もう犯人視点だろ」

 

「わざわざ疑われるようなことを言って、お前は何がしたい」

 

「コナン君、見てた、あの目、見てたぞ」

 

地下に着いて俺は振り返った。

 

階段の上に、誰もいなかった。

 

ほっとする一方で、自分が地下に降りる間、ずっと声に出していた可能性に気付いて、もう一度血の気が引いた。

 

俺は地下の収蔵庫の入口の前で、自分の頬を両手でぱんと叩いた。

 

仕事に戻ろう。仕事をしている間は俺は別人だ。ファインダーを覗いている間、原作知識のラベルは意識の奥に押し込まれる。撮影に集中しろ、黒瀬玲。撮影に。

 

 

地下収蔵庫の撮影を終えて、俺は一階のロビーに戻った。

 

時刻は午後五時を回っていた。閉館時間が近い。

 

ロビーの正面入口の方が、少し騒がしかった。スタッフが何人か集まり、声を潜めて話している。受付の女性が困惑した表情で電話をかけている。

 

俺は気付かないフリをして、機材を片付け始めた。

 

しかしロビーを横切る時、嫌でも視界に入った。

 

『地獄の間』の方向から、警備員らしき男性が早足でロビーに戻ってきた。顔色が悪い。スタッフの一人と何か小声で話す。

 

「館長………お呼びを…」

 

「………く……はい…」

 

俺の手が止まった。

 

ロビーの空気が、明らかに、変わっていた。

 

普段の閉館前のロビーの空気ではない。何かが起きた、起きていたとしても閉館までは隠したい、しかし隠しきれない、というスタッフ全員の動揺の波が、廊下を伝って俺のいるロビーに到達していた。

 

俺は機材バッグのファスナーを閉めながら、目の端で警備員を観察した。

 

警備員はもう一度『地獄の間』方向に戻り、しばらくして館長と一緒に再び現れた。館長の顔は青白かった。彼らは俺の脇を通過してロビーから出て行った。

 

正面玄関の方から、サイレンの音が近づいてきた。

 

警察。

 

俺は機材を抱えてロビーの隅のソファに座った。

 

座って、二、三分動かなかった。

 

頭の中で原作の流れが再生されていた。事件発生は午後四時三十分頃。死体発見は閉館後。そう、閉館前の今、死体は『地獄の間』の中で、もう発見されている。

 

蘭、小五郎、コナン君は、まだ館内のどこかにいる。

 

事件は、起きた。

 

俺は撮影を依頼された外部のカメラマンとして、この場に居合わせている。

 

つまり、俺は、参考人だ。

 

 

到着した警察は米花警察署の所轄だった。山高帽の中年が指揮を執っているのが、ロビーの奥のガラス越しに見えた。目暮警部だ、と俺の脳内のラベルが鳴った。

 

ロビーに居合わせた館内の人間は、全員順番に事情聴取を受けることになった。スタッフ、清掃員、警備員、そして外部の撮影業者である俺。

 

順番が回ってきて、俺は若い刑事に呼ばれた。

 

「黒瀬さん、ですね」

 

「は、はい」

 

「少しよろしいですか。今日の館内での行動、お聞きしたいので」

 

「はい」

 

刑事は受付脇の小部屋に俺を案内した。

 

机を挟んで対面した刑事は、俺の機材バッグを一瞥した。

 

「……ずいぶん、ご立派な装備ですね」

 

「あ、仕事で、毎回、必要なので」

 

「お仕事は」

 

「フリーランスのカメラマンです、今日は、こちらの館長から、依頼を受けて、閉館前の館内記録撮影を、二日間、契約で」

 

「ご契約のメール、見せていただいても」

 

「あ、はい、もちろん」

 

俺はスマホを取り出してメールを見せた。落合館長から来た依頼メール、撮影業務委託契約書のPDF、報酬の振込予定。すべて正規の文書。刑事は確認して、「失礼しました」と一言。

取り調べは20分ほどで終わった。

 

すると、ロビーの方が、少し騒がしくなった。

 

警察と館長と、刑事数名が、奥の事務室から戻ってきた。死体は既に運び出されたあとで、現場検証は続いている。閉館時間は過ぎ、館内には警察関係者と、解放されたスタッフの一部、そして俺だけが残っていた。

 

毛利蘭、毛利小五郎、コナン君も、ロビーの一角にいた。聴取はとっくに終わっているらしく、三人は目暮警部と話している。

 

毛利小五郎が、何やら推理を披露しているらしい。声が大きいので断片的に聞こえる。

 

「答えは簡単ですな……それは窪田さん、あなたが犯人だからですよ!」

 

俺は聴いていて、苦笑したくなった。

 

原作通り、ここで小五郎は窪田犯人説を主張する。書けないペンのトリックは、まだ提示されていない。

 

「調べさせれば分かることですよ!」

 

毛利小五郎の声が、ロビーに響いていた。

 

俺は機材バッグを抱えてロビーの隅で、その様子を眺めていた。

 

そのまま立ち去ろうと思ったのに、俺の目が、ロビーの床の隅に転がっている、一本のボールペンを、捉えた。

 

『米花美術館50周年記念』のロゴ入り。

 

原作で犯人のトリックの核心になる、書けないボールペン。

 

俺は機材を抱えて、ロビーの出口に向かおうとした。

 

向かおうとして、足を、止めた。

 

止めるべきだった。けれど、口が、勝手に動いた。

 

「コナン君」

 

声をかけた。

 

コナン君が振り返った。

 

「あ、お兄さん」

 

「……あのさ」

 

止めろ。

 

「あそこに、ボールペン、落ちてるよ」

 

俺は通路の床を指さした。

 

実際に、そこに『米花美術館50周年記念』のペンが落ちていた。原作ではコナン君が自力で発見するペン。俺が指さしたことで、コナン君の発見が早まった、というだけの、わずかな差。

 

ただの、わずかな差。

 

「あ、ホントだ」

 

コナン君は走っていって、ペンを拾った。

 

刑事の方に駆け寄る。

 

「おじさーん、こんな所にボールペン落ちてるよ!」

 

「な、なに!?」

 

ロビーの空気が、わずかに、変わった。

 

刑事がペンを受け取り、ロゴを確認している。「米花美術館50周年記念」のペンですな、と頷く。関係者なら誰でも持っているもの、と説明が入る。

 

コナン君は、拾ったペンの感触を覚えているように、自分の指先を、軽く、合わせていた。

 

俺は機材を抱えて、その場を立ち去ろうとした。

 

立ち去ろうとして、足を、また止めた。

 

止めるべきだった、けれど、口が、また勝手に動いた。

 

「コナン君」

 

「?」

 

「あの、ダイイングメッセージの紙ね」

 

「うん」

 

「なんか、白い筋、みたいな、書いた後の凹みが、残ってる、気がするよ」

 

俺は、軽く、笑って、言った。

 

「俺、カメラマンだから、紙の表面の凹凸、よく見えるんだ」

 

職業的な、自然な言い訳。

 

誤魔化したつもりだった。

 

完璧に、誤魔化した、つもりだった。

 

コナン君の目から、表情が消えた。

 

「……白い筋」

 

「うん」

 

「書いた後の、凹み」

 

「うん」

 

「『クボタ』の文字、以外に、何か、書かれた跡が、残ってるってこと?」

 

「いや、その、可能性として、ね」

 

コナン君は、無邪気な小学一年生の顔のまま、頷いた。

 

「お兄さん、すごいね」

 

「あ、いえ、ぜんぜん」

 

「カメラマンって、紙のことも、詳しいんだね」

 

「撮影で、紙質とかよく見るから、たまたまだよ」

 

コナン君は、にっこり笑って、目暮警部の方に走っていった。

 

走りながら、俺の方を一度、振り返った。

 

探偵の目をしていた。

 

 

俺は機材を抱えて、ロビーの隅に戻った。

 

戻って、壁に寄りかかって、息を吐いた。

 

吐いてから、ようやく自分が何をしたかに意識が追いついた。

書けないペンの存在を教えた。ダイイングメッセージの紙に別の凹みが残っている可能性も教えた。事件解決の核心となる手がかり二つを、外部のカメラマンが未発覚の段階で、小学一年生に丁寧に解説してしまったのだ。

 

「……あ……俺……何して、んの?」

 

ロビーの中央で、コナン君が、目暮警部と小五郎に何か耳打ちしている。

 

警部は最初、面倒くさそうに頷いていたが、コナン君が紙を指さして説明し始めると、表情が変わった。警部が紙を取り出して、明かりに当てる。

 

「んー?」

 

小五郎の声だった。

 

「あれー? なんか変な跡ついてるよ!」

 

コナン君の声だった。

 

「ほら、字の上に、インクの出ないペン先で、グリグリえぐったような跡が……」

 

小五郎が紙を覗き込んだ。

 

「これってもしかして、もともと書いてあった文字を書けないペンで消そうとした跡……だったりしてー♡」

 

コナン君の声が、得意げに、小学一年生らしい無邪気さを纏って、ロビーに響いた。

 

俺の額に、汗が、噴き出した。

 

俺が教えた。完璧に、教えた。今コナン君が披露している『紙の凹み』のヒントは、十分前に俺がコナン君に手渡したものだ。

 

 

「!?」

 

目暮警部が顔を上げた。

 

「そうか!! これはオーナーが書いた文字じゃない!!」

 

小五郎が一気に推理を引き継いだ。

 

「犯人によって最初から書かれていた文字だったんだ!!」

 

「ええっ!?」

 

目暮警部が驚いた。

 

「でも、なんでオーナーはわざわざそんな札を取ったんだ?」

 

「フフフ……それは意外に簡単ですよ……」

 

小五郎が、得意げに、推理を展開した。

 

「つまり犯人はオーナーにきっとこういったんだ!! 『後ろの札を見てみろ! 犯人の名前が書いてあるぞ!』ってね!!」

 

「……」

 

俺はロビーの隅で、機材バッグの取手を、無意識に、握りしめていた。

 

小五郎の推理が、原作通りに、淡々と進んでいく。書けないペンのトリック、ペン先のすり替え、犯人の特定、すべてが。

 

そして最後に、小五郎が、ロビー全体に響く声で、宣言した。

 

「という事は……犯人は書けないボールペンを現在、持っている人物……つまり……あなたという事になりますな……落合館長……」

 

ロビーが、しんとした。

 

館長が、ロビーの一角で、立っていた。

 

俺は気付いていなかったが、館長は事件発覚後、ずっとロビーに居合わせていたらしく、すぐ近くで小五郎の推理を聞いていた。

 

館長の顔は、白く、なった。

 

「か、館長……」

 

警備員の一人が、小さく、呟いた。

 

 

目暮警部が館長に向き直った。

 

「では聞かせてもらいましょうか? 犯行のあった午後四時三十分頃のあなたのアリバイを……」

 

「その時刻といえば……」

 

落合館長が、静かに、口を開いた。

 

「ちょうど待ち合わせをしていた頃です……」

 

「!?」

 

刑事の一人が反応した。

 

「あの、はらわたの腐った悪魔をまっていました頃ですよ……この部屋で甲冑に身を包み……」

 

俺は息を止めた。

 

館長の声は、穏やかだった。穏やかなまま、自分の犯行を、認めていた。

 

「後は探偵さん……あなたのいったとおりですよ……」

 

小五郎は腕を組んで、頷いた。

 

「フン……しかし、まーうまい具合に映像に残ったもんですな……」

 

「……偶然ではありませんよ……」

 

館長が、目を伏せた。

 

「オーナーにスキを見せたように前に倒れるタイミング、札をはる位置、ペンを置く場所、オーナーの性格……何回もここでビデオに録って練習しましたからね……」

 

「何回もってもしかしてまさか……」

 

「そして、その行動がカメラにどう映るかさえも計算づくでしたよ……」

 

「警備員が深夜、動く甲冑を見たっていうあのウワサは……館長……あなたが……」

 

「はい……愚かな事だとは思いましたが、すべては彼を葬り去るためにやった事……」

 

館長の声が、暗く、沈んだ。

 

「私利私欲のためにこの聖なる美術館をつぶし、我が子のような美術品を私から取り上げようとしたあの悪魔をね……」

 

ロビーの誰もが、口を閉ざしていた。

 

「そして勝手に作品を売りとばした窪田君……君にも罰を与えたかった……」

 

「フン……それで窪田さんに罪をきせ、あの絵になぞってオーナーに天罰を食らわしたってわけか……」

 

小五郎が、ふっと、呟いた。

 

「だが絵とはちがって、あなたにも天罰が下ったようですよ……」

 

館長が、静かに、首を振った。

 

「いえ、あの絵のとおりですよ……」

 

ロビーの空気が、変わった。

 

「知ってましたか? あの絵が含む本当の意味を……」

 

館長の視線が、ふっと、ロビーの一角を彷徨った。

 

俺は、息を、止めた。

 

止めたが、遅かった。

 

館長の言葉より先に俺の口が無意識に動いていた。

 

「……正義の騎士も、いずれ、悪に、染まる、絵だ」

 

呟きだった。

 

ロビーの隅の、機材バッグを抱えた俺の口から、漏れた、独り言だった。

 

俺の唇は、自分でも、止められなかった。前世で何度も読んだ場面、何度も繰り返した解釈、原作で語られる『天罰』の絵の真の意味。それが、館長の言葉を待たずに、俺の喉から、先に、零れた。

 

館長の言葉が、続いた。

 

「あれは……悪魔は正義の騎士に葬られたが、その邪悪な返り血を浴びた騎士は……やがて悪に身を染めていくという事を意味しているんです……」

 

俺の呟きと、同じ、内容だった。

 

俺の呟きの方が、わずかに、早かった。

 

 

「私もまた……悪魔になってしまったのですよ……理由はどうあれ私は殺人者……」

 

館長は淡々と続けた。

 

「その証拠に純真な小さな正義の目は欺けなかった…」

 

館長の視線が、ふっと、コナン君に向いた。

 

「小さな正義の目?」

 

小五郎が首を傾げた。

 

コナン君は、無邪気な小学一年生の顔のまま、館長を見上げていた。

 

 

 

 

ロビーが、ざわめき始め緊張がふっと溶けていく。

 

事件は解決した。館長は警察に身柄を確保された。刑事たちが書類を取り出し、関係者たちが安堵と困惑の混じった声を交わし始めた。

 

毛利小五郎は、新聞記者にでも語るような調子で、大声で自分の推理を反芻していた。

 

「いやぁ、まさかなぁ、館長が犯人とはなぁ!」

 

ロビーの一角で、蘭さんがコナン君の頭を撫でながら、何か話していた。

 

俺は機材を抱えて立ち上がった。

 

外に出るしかない。これ以上ロビーにいる理由はない。

 

正面玄関に向かって歩き出した時、後ろから声がした。

 

「お兄さん」

 

振り返った。

 

コナン君だった。

 

コナン君は俺の方に小走りで近寄ってきた。

 

「お兄さん、お疲れ様」

 

「あ、コナン君、ね、お疲れ、さま」

 

「ねえお兄さん」

 

「は、はい」

 

「さっき、なんでボールペンの事、僕に真っ先に伝えたの?」

 

俺の心臓が、止まった。

 

「……え?」

 

「普通大事そうなものを見つけたら、刑事さんとかに教えるでしょ?」

 

「……」

 

「あれって、なんで?」

 

コナン君の目は、疑うような、疑惑がこもった目をしていた。

 

「………たまたま…だよ、たまたま。」

 

「お兄さん、お名前、聞いてもいい?」

 

「あ、く、黒瀬、玲、です」

 

「黒瀬、玲、お兄さん、ね。ボク、江戸川コナン。よろしくね」

 

「よろしく、ね、コナン、君」

 

「またポアロで会えたら、嬉しいな」

 

「ポアロ…ね、行けたら…行くかも…ね」

 

俺は会釈してその場を離れた。

 

正面玄関を出て、石段を降りて、レンタカーに機材を積み込んだ。

 

機材を積み終えて、運転席のドアを閉めた瞬間。

 

俺の意識が、追いついた。

 

 

あんな咄嗟の言い訳にもなっていない戯言、コナン君は、信じていない。

 

コナン君の目が、信じていない目だった。

 

俺は両手で顔を覆った。

 

ハンドルの上に額をぶつけた。

 

クラクションがびっと鳴った。

 

館の正面玄関の方向で、何人かが振り返った気がした。

 

俺は慌ててエンジンをかけて、駐車場から出した。

 

 

──

米花美術館、正面玄関の石段の上。

江戸川コナンは一人で立っていた。

駐車場を出ていくレンタカーのテールランプが、夕暮れの石畳に細く赤い線を引いていた。

「コナンくーん、何してるの?」

蘭の声が、扉の内側から聞こえた。

「うん、今行く」

コナンは振り返らなかった。

赤いテールランプが、角を曲がって、消えた。

 

 

第二話 了

 

 




完全に見切り発車なので何処か矛盾点、気になる所等あれば修正していきます。
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