ジャン=ポール・サルトル
実存主義とは何か
【視点:綾小路清隆】
分厚い黒色防草シートを何重にも重ねて構築された、光を一切通さない巨大なテント。
入り口のフラップを潜った瞬間、オレの鼻腔を突いたのは、無人島特有の湿った土の匂いではなく、無機質で圧倒的なまでに純度の高い次亜塩素酸ナトリウムの匂いだった。
床には泥一つなく、敷き詰められた防湿シートの上には均等な間隔で乾燥剤が配置されている。虫一匹、カビの胞子一つすら許さないという異常なまでの執念。ここはもはやキャンプのテントなどではない。外界のあらゆる不確定要素から完全に隔離された、一人の男の脳髄の中そのものだ。
「……座れ」
テントの中央、折りたたみ式のパイプ椅子に腰掛けた竜宮院聖哉が、暗闇の中からオレを見据えていた。
彼の手元には、数枚の紙の束と、ストップウォッチ、そして分厚い絶対生存マニュアルが置かれている。
オレは指示通り、彼からちょうど三メートル――一般的な人間の踏み込みや、刃物のリーチが届かないよう計算されたであろう距離――離れた丸椅子に腰を下ろした。
「薪割りの進捗状況はマニュアル通りか」
「ああ。指定された通りのサイズと乾燥度で、第三貯蔵庫に保管しておいた。……それで、オレを呼んだ用件は何だ?」
オレは極めて平坦な声で尋ねた。心拍数も、呼吸の深さも、瞬きの回数も、すべて少しだけ緊張している平均的な男子高校生の数値を意図的にトレースしている。
竜宮院は、オレの全身を無遠慮な視線で舐め回すように観察した。その瞳の奥には、感情の揺らぎが一切ない。
彼が直前に物理的な情報の抜き取りに気づいたことは、監視用のマイク越しに確認している。普通であれば、焦燥や怒り、あるいは犯人を見つけ出そうとする露骨な尋問が始まるはずだ。
だが、竜宮院の態度は、氷のように冷たく、そして静かだった。
「単なる定期的なヒアリングだ。伊吹澪という他クラスの人間を陣地内に引き入れたことで、予期せぬ物理的接触や、Sシステムの盲点を突いた情報漏洩のリスクが高まっている。お前の視点から見て、伊吹や他の生徒に不審な動きはなかったか、念のための確認だ」
(……なるほど)
オレは、内心でわずかに目を細めた。
竜宮院はオレを疑っている。だが、彼は「お前がやったのか」とは決して聞かない。
彼はすでに、情報が抜き取られたという事実を最悪の想定内の一つ」して完全に処理し、即座に予備のプランへと移行しているのだ。
彼にとって、誰がやったかという犯人探しは二の次であり、今最も重要なのは漏洩した情報を利用して、敵が次にどう動くかを誘導し、制圧すること。
その時、オレは竜宮院の額に、微かに滲む冷や汗を見た。
彼の指先が、僅かに、だが確かに震えている。
(恐怖……? いや、違う)
オレは、その微細な肉体の反応から、竜宮院聖哉という人間の根底に潜む異常性の正体を正確にプロファイリングした。
彼は、オレという未知の敵を恐れているのではない。
彼の汗の理由は、もっと次元の違う、極めて内罰的で病的な強迫観念に起因している。
それがなんなのか、それこそがこの男の根源なのだろう。
「……何か問題でもあったのか?」
オレがあえて問いかけると、竜宮院は深く息を吐き出した。
「問題などない、念の為の、保険の保険だ。ただし、念には念を入れる」
「……」
「その結果、俺の貴重なカロリーと身体的リソースが、想定より0.005%も余分に削られた。これは致命的な消耗だ。このまま不確定要素が積み重なれば、あと一万回同じことが起きた場合、俺は疲労困憊で死に至る可能性がある。……最悪だ。やはり、事前の準備が全く足りていなかった」
竜宮院は、本気で顔を青ざめさせながら、手元のストップウォッチを神経質にクリックした。
(……狂っているな)
それが、オレの率直な感想だった。
竜宮院が構築したこの防衛陣地と、恐怖による完全管理体制。それは、100%の安全を担保する代わりに、生徒の行動、消費、果ては心理状態のすべてをマニュアルと論理で縛り付け、自由を完全に剥奪するシステムだ。
オレにとって、このリスクゼロの完全管理された箱庭は、ホワイトルームの再現に他ならない。
だが、ホワイトルームの指導者たちと竜宮院は決定的に違う。
竜宮院の底には、指導者たちすら持っていなかった得体の知れない強迫観念がある。0.005%のリソース消費を本気で死の直前と錯覚するほどの、異常なまでの慎重さ。
完璧なシステムが、たった一人の人間の執念と、オレという異物の衝突によって瓦解する瞬間。それをこの手で引き起こし、特等席で観察したい。
底知れない知的好奇心が、オレの中で静かに鎌首をもたげた。
この男のシステムを、徹底的に破壊する。
それが、オレがこいつに牙を剥くことにした、極めて個人的な理由だ。
「綾小路。俺はお前に一つ、新しい役割を与える」
竜宮院は冷や汗を拭い、絶対的な冷徹さを取り戻して言った。
「現在、リーダーである佐倉愛里は体調不良により完全隔離中だ。だが、万が一の事態に備え、俺は茶柱先生を通じて『リーダーの権限移譲』を事前申請しておくことにした。お前には、その申請書の証人としてサインをしてもらう」
(……見事なカウンターだ)
オレは、差し出された紙片を見て感心した。
彼は、佐倉がリーダーであるという情報が漏れたことを逆手に取り、「佐倉がリーダーである」と敵に確信させたまま、合法的にルールの隙間を突いて別のダミーを用意しようとしている。
だが、そのダミーすらも罠なのだろう。
「わかった。オレで役に立つなら構わない」
オレはペンを受け取り、素直にサインを書き込んだ。
盤面は、静かに、だが確実に次のフェーズへと移行した。
お前の用意した完璧な予備プランのその先。オレは、そこへ向けて次の楔を打ち込む。
*
【視点:神室真澄】
「はぁ……なんで私が、こんな泥だらけの森の中を歩かされてるわけ?」
私は忌々しい気分で、スニーカーにこびりついた湿った土を蹴り飛ばした。
蒸し暑い空気。まとわりつくような虫の羽音。無人島でのサバイバルなんて、ただでさえ最悪の環境なのに、坂柳の気まぐれな命令のせいでさらに最悪の状況に陥っている。
『簡単なことです。Dクラスの陣地の外周に、この赤いリボンを置いてきてほしいのです』
思い出すだけで腹が立つ、あの得意げな笑顔。
闘牛士のムレータだか何だか知らないけど、要するにあの異常に警戒心の強い竜宮院を意図的に挑発して、どう動くか観察したいっていう、タチの悪い遊びに付き合わされているのだ。
「……見えた。あれがDクラスの陣地ね」
私は木陰に身を隠しながら、前方を見据えた。
思わず、息を呑む。
そこにあるのは、高校生のキャンプなんていう生ぬるいものではなかった。
深く掘り下げられた塹壕。周囲の木々を利用して幾重にも張り巡らされた、視界を遮るための偽装網。そして、等間隔に配置された見張りの生徒たち(みんな、なぜか怯えたような死んだ目をしている)。
「……ちょっと、やりすぎじゃないの、あれ」
私は背筋に薄ら寒いものを感じながら、見張りの死角を慎重に縫って接近した。
万引きの常習犯として培った私の隠密行動のスキルは、こういう時に嫌でも役立ってしまう。足音を殺し、呼吸を制御し、陣地の外周にある目立つ大木にたどり着いた。
「さっさと結んで帰ろ」
私はポケットから赤いリボンを取り出し、木の枝に結びつけようとした。
その時。
――カチッ。
私の足元で、何かが踏み込まれる微かな音がした。
枯れ葉の下に隠されていた、手動の物理的な圧感知式トリガー。
「え……?」
次の瞬間、頭上の枝に仕掛けられていた罠が作動した。
バサァッ!!という音と共に、大量の粉末が私に向かって降り注いできた。
「きゃあっ!?」
とっさに腕で顔を庇って後ろに飛び退いたが、間に合わなかった。ジャージの肩から背中にかけて、強烈な蛍光ピンクの粉末がべっとりと付着した。
(なにこれ……塗料!? しかも、暗闇で光るタイプの……!)
パニックになりかけた頭で、私は即座に状況を理解した。
これは、侵入者を捕獲するための罠ではない。侵入者に目印をつけ、どこへ逃げたか、誰が接触してきたかを物理的に追跡するためのマーキングトラップだ。
「あいつ、頭おかしいんじゃないの!?」
私は悪態をつきながら、急いでその場から離脱した。
見張りの生徒たちが物音に気づいて動き出す気配がする。
こんな蛍光塗料をつけられたままAクラスの陣地に戻れば、私がやったと一発でバレるし、坂柳の関与まで疑われる。
「最悪……! 川で洗わないと……!」
私は森の奥へ向かって駆け出した。
竜宮院聖哉。あの男の防衛網は、高校生の知恵の範疇を完全に超えている。
坂柳の言う通り、あれはただの優秀な生徒なんかじゃない。得体の知れない、本物のバケモノだ。
*
【視点:龍園翔】
「よう、Aクラスの優等生殿。こんな森の奥で、迷子のお散歩か?」
俺は、薄暗い獣道のど真ん中で、Aクラスの橋本正義の行く手を塞いだ。
背後にはアルベルトと石崎を従えている。
橋本は一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐにいつものニヤニヤとした薄ら笑いを浮かべた。
「おや、龍園じゃないか。奇遇だねえ。俺はただ、周辺のスポットの状況を軽く下見していただけさ。そっちこそ、ずいぶんと物騒な顔ぶれでお出ましじゃないか」
橋本が、値踏みするようにこちらを観察してくる。
俺はポケットに手を突っ込み、ゆっくりと橋本に近づいた。
(こいつをここで叩き潰す。そうすれば、盤面に亀裂が走る)
竜宮院聖哉という絶対的な恐怖に支配された俺の行動は、すべてあいつの台本通りに縛られている。だが、あいつの論理の枠外で、Aクラスの主要メンバーと物理的な衝突を起こせば、必ずシステムに狂いが生じるはずだ。
竜宮院はイレギュラーを何よりも嫌う。俺が暴走すれば、あいつは必ず修正に動く。その隙を突いて、俺はあの化け物の首を掻き切る。
「下見ねえ。まあ、何でもいい。俺は今、ひどく機嫌が悪いんだよ。てめえのそのスカした面を見てると、無性に殴りたくなってくる」
俺は殺気を解放し、橋本の胸倉を掴みかかろうと踏み込んだ。
――その瞬間。
ジーーーーーッ。
俺の首元で、微かな、しかし骨の髄まで響くような不快な高周波の振動が走った。
「ッ……!」
俺は思わず足を止め、顔をしかめた。
俺の首に巻かれたチョーカー。防犯ブザーを改造して作られた、竜宮院の首輪。
その内部に仕込まれた小型の受信機から、鼓膜に直接響くような、くぐもった声が聞こえてきた。
『――三歩、下がれ。龍園』
背筋が、総毛立った。
竜宮院の声だ。
(馬鹿な……。あいつはDクラスの陣地から一歩も動いていないはずだ。どうやってここを……!?)
『周囲に監視用のマイクを配置してある。お前の歩幅と草を踏む音の反響で、お前が現在第4セクターの獣道でAクラスの橋本と対峙していることは計算済みだ』
声は、感情を一切交えない機械のような冷たさで告げる。
『暴力でイレギュラーを起こし、俺の管理から逃れようとする。短絡的だが、お前の程度の知能ならそう考えるだろうと、パターンの14番目で想定していた。無駄だ。俺はお前の細胞レベルでの思考の偏りまで完全に把握している。そのまま三歩下がり、右斜め後方の木の根を見ろ』
俺は、ギリッと奥歯を噛み締めながら、逆らうことができずに三歩下がった。
そして視線を向けると、そこには枯れ葉にカモフラージュされた、鋭く尖った太い木の根が露出していた。
もし俺がさっきの勢いで踏み込んでいれば、確実につまづき、体勢を崩して橋本に反撃の隙を与えていただろう。
『橋本は足元の地形を把握している。お前を挑発して踏み込ませ、そこに誘導するつもりだったのだろう。……お前は、Aクラスの部品一つすら単独で処理できないのか。本当に使えない駒だ。俺のカロリーを無駄に消費させるな』
受信機からの声が、俺の自尊心を容赦なく切り刻んでいく。
『指示を出す。橋本に向かってこう言え。「お前のポケットに入っている、Bクラスの陣地周辺のメモは高く売れるか?」とな』
俺は、屈辱で胃液が込み上げてくるのを感じながら、首輪の震えによる恐怖に抗えず、口を開いた。
「……おい、橋本。てめえのポケットに入ってる、Bクラスの陣地周辺のメモは、高く売れるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、橋本の余裕の笑みが、ピシリと凍りついた。
「な……。お前、なんでそれを……」
橋本が、無意識に自分のポケットを庇うように手を動かす。
図星だった。竜宮院は、この場に居合わせずとも、橋本の行動経路と目的を完全に推理し、圧倒的な情報的優位を俺の口を使って突きつけたのだ。
『見逃してやるから、さっさと尻尾を巻いて帰れと言え』
「……見逃してやる。さっさと尻尾を巻いて帰りな」
俺が竜宮院の言葉をそのままトレースすると、橋本は舌打ちをし、警戒したまま後ずさりして森の奥へと消えていった。
静寂が戻った獣道で、俺は立ち尽くしていた。
アルベルトと石崎が、怯えた目で俺を見ている。
いや、俺を見ているんじゃない。俺の背後にいる、目に見えない巨大な怪物に怯えているのだ。
(……)
俺の心の中に、またも暗く冷たい絶望が滴り落ちた。
物理的な暴力も、心理的な揺さぶりも、イレギュラーな行動すらも、すべてがあいつの用意した無数の引き出しの一つに過ぎない。
俺は、竜宮院聖哉という男の手のひらの上で、滑稽に踊らされているだけのピエロだ。
『次はないぞ、龍園。俺の命令から一文字でも外れれば、即座にお前の不正データを学校に送信し、お前の人生を社会的に終了させる。……さあ、次のポイントへ移動し、Cクラスの防衛ラインを構築しろ』
通信が切れた。
俺は、ギリギリと拳から血が滲むほど握りしめ、泥の地面を思い切り蹴り上げた。
*
【視点:竜宮院聖哉】
「……ふぅ。危ないところだった。最悪の事態は免れた」
情報拠点であるテントの奥深く。
俺は、自作の集音マイクから送られてくるCクラス周辺の環境音の解析を終え、パイプ椅子に深く背中を預けた。
額からとめどなく流れる汗を、清潔なタオルで拭い去る。
心拍数は平常を装っていたが、俺の内心は極度の疲労と焦燥感に苛まれていた。
(龍園の奴め……俺の計算式から逸脱し、物理的な接触を図ろうとするとは。あのまま橋本と乱闘になっていれば、怪我人が出て学校側の医療介入を招き、俺の陣地の秘匿性が脅かされる可能性が0.01%ほど存在していた。そうなれば、俺のAクラス卒業計画が根本から崩壊するところだった……)
俺は、無意識のうちにペンダント――リスタルテの遺髪が入ったロケット――を強く握りしめていた。
遠隔で龍園を心理的に誘導し、橋本を退けることには成功した。
だが、そのために俺は、過去48時間分の全クラスの移動経路データを頭の中で再計算し、最適なセリフを導き出すという高度な並列処理を行わなければならなかった。
(この思考リソースの消費は痛い。脳のブドウ糖消費量が跳ね上がった。このままでは、あと連続で30回同じ規模のトラブルが起きれば、俺は餓死してしまうかもしれない……)
俺は急いで第二ストレージから回収しておいた栄養ゼリーを三本連続で喉に流し込み、深呼吸をしてカロリーを補給した。
周囲から見れば、俺は余裕綽々でクラスを支配しているように見えるかもしれない。だが、現実は綱渡りだ。いつリソースが枯渇し、致命的なミスを犯すか分からない恐怖と常に戦っている。
「……それに、あの赤いリボンだ」
俺は、陣地の外周に仕掛けたマーキングトラップにかかった何者か、おそらくはAクラスの刺客が残していった赤いリボンを、分厚いゴム手袋越しにピンセットでつまみ上げた。
闘牛を挑発するような意図的な配置。
だが、俺はそんな安い挑発には乗らない。このリボンの繊維に、遅効性の生物兵器や、未知の痒み成分が仕込まれている可能性を考慮し、すでに次亜塩素酸ナトリウムの溶液に三十分漬け込んで無毒化を完了させている。
(坂柳か、あるいは綾小路か……。俺を油断させようという魂胆だろうが、甘い。俺は敵がただの布切れだと思っている物すら、核弾頭と同等の脅威レベルとして処理する)
俺は、リボンをジップロックに三重に封印し、土中深くに埋めた。
先ほどの綾小路清隆との面会。
彼にリーダー変更の偽装申請書にサインさせたことで、オレの『プロトコル・オメガ』は第二段階へと移行した。
綾小路は、俺が佐倉から別のリーダーに権限を移譲したと思い込んでいるはずだ。
だが、それは罠だ。
俺は、実際にはリーダーの変更など行っていない。
佐倉愛里は引き続きリーダーのままであり、彼女を収容している隔離室こそが真の絶対防衛線だ。
綾小路が、俺の偽装の偽装に気づくかどうか。
「……来るなら来い、綾小路清隆。お前が俺の箱庭を壊そうとするなら、俺はお前ごと、この島を物理的かつ論理的な要塞で埋め尽くすまでだ」
俺は立ち上がり、チタン製のシャベルを手に取った。
「まずは、第5セクターの塹壕をさらに十センチ深く掘り下げ、落とし穴の底に泥を敷き詰める作業からだ。カロリー消費を抑えるため、呼吸法はシステマを応用する。……絶対に、負けるわけにはいかんのだ」
俺は、迫り来る未知の脅威(と、自分の勝手な被害妄想)に備えるため、狂気的なまでの集中力で防衛陣地のさらなる補強作業へと戻っていった。