【視点:竜宮院聖哉】
異変は、22時40分に始まった。
「南側の資材置き場で物音。誰かが防水シートを剥がした形跡があります」
見張りの報告を受け、俺は即座に頭の中の地図を開いた。南側の資材置き場には、予備の縄と杭、そして雨水濾過用の炭が保管してある。どれも代替の効かないものではない。
(囮だ)
そう判断するまでに、2秒。
資材置き場は、陣地の中で最も「盗まれても困らない」場所だ。本当に打撃を与えたいなら、水か食料か、佐倉のいる隔離室を狙う。そこを外して南を突いたということは、俺の注意をそちらへ引き寄せるための布石でしかない。
「南側には2名だけ向かわせろ。残りは配置を動かすな。特に、黒テント周辺の4名は絶対に持ち場を離れるな」
指示を出した直後、二人目の見張りが息を切らして走ってきた。
「東の見張り台から報告。森の中に、Aクラスの男子生徒が一人。……こっちを見て、手を振ってます」
「手を振っている?」
「はい。隠れる気配もなく、ずっと同じ場所に立っていて」
橋本正義。Aクラスの中でも、坂柳有栖の手足として最も動きの読めない男だ。
隠れずに立ち、こちらへ手を振る。それは侵入ではなく、示威でもない。ただ「私はここにいます」と表明し続ける行為だ。
(監視させることが目的か)
こちらが橋本を無視すれば、その間に別の何かが動く。監視に人員を割けば、その分だけ他所が手薄になる。どちらを選んでも、俺の手札が一枚削られる設計になっている。
二学期に向けた長期演算を、俺は一旦すべて棚上げした。今夜は目の前の処理だけに集中する必要がある。
「東は1名だけ張り付かせろ。橋本が動いたら報告。動かないなら放置しろ」
そこへ、三人目が来た。
「せ、正面ゲートに……Aクラスの坂柳が」
(――三つ目か)
俺はゆっくりと息を吐いた。
南の資材置き場、東の橋本、そして正面の坂柳。3つの事象が、20分以内に立て続けに発生している。
偶然ではない。これは、俺の処理能力そのものを標的にした攻撃だ。
一つ一つは、いずれも軽微だ。どれ単独なら、俺は3秒で最適解を出せる。だが3つが同時に走った時、俺の脳内で並列処理に回されるブドウ糖の消費量は、単純合計ではなく、二乗に近い曲線を描いて跳ね上がる。
(血糖値の低下速度、想定の1.8倍。この状態が40分続けば、判断精度が7%低下する)
俺は栄養ゼリーを2本続けて喉に流し込み、防塵マスクを外した。
焦りはない。この種の飽和攻撃は、俺の想定リスト内に「事象番号23:同時多発型消耗戦」として記載されている。想定していなかったのは、それを仕掛けてきた人間が、俺の内側の事情をここまで正確に読んでいるという一点だけだ。
「ゲートを開けろ。俺が出る」
【視点:坂柳有栖】
正面ゲートの柵が、内側からゆっくりと開きました。
現れた竜宮院くんは、6日目の無人島にいるとは思えないほど清潔で、そして――ほんの少しだけ、いつもと違いました。
呼吸です。
「用件を言え」
「ごきげんよう、聖哉くん。夜分に失礼しますね」
私は杖に体重を預けたまま、微笑んでみせた。
「一つ確認させていただきたいことがありまして。今、南の資材置き場と東の森で、それぞれ何かが起きているかと思いますが」
「知っている」
「ええ。ご存知でしょう。ですから、そちらへ人員を割かれた」
私は一歩、杖を前に出した。乾いた音が夜の森に響く。
「今この瞬間、あなたの意識は三つに分かれています。南へ2割、東へ1割、そして私へ7割といったところでしょうか」
「四つだ」
竜宮院くんは即座に訂正した。
「南に1割、東に5分、お前に6割5分、残り2割は黒テントの警備の維持に固定してある」
「……ふふ。訂正ありがとうございます」
正確に答えてしまうところが、この方の恐ろしさであり、同時に唯一の弱点でもあります。正しさへの執着が強すぎるゆえに、正しく答える機会を与えられると、つい答えてしまう。
「では、その残り2割について伺いましょう」
私は杖の先で、彼の背後にある黒いテントを指し示した。
「なぜあのテントの警備だけは、決して動かさないのですか」
竜宮院くんの表情は、微塵も動きませんでした。
「休息場所だからだ」
「休息場所」
「連日の稼働で、体調を崩した者を隔離している。感染症の拡大は、クラス全体の稼働率を著しく下げる。合理的な処置だ」
「では、その方のお名前を伺っても?」
「答える義務はない」
「ええ、ありませんね」
私は微笑んだまま、彼の目を見つめた。
「一つ、感想を申し上げてよろしいでしょうか。あなたは今、私の質問すべてに答えました。人員の配分比率という、本来なら軍事機密に等しい情報まで。ですが、テントの中にいる方の名前だけは、拒否なさった」
彼の右手が、わずかに動きました。首元へ――そして、寸前で止まる。
「聖哉くん。あなた、そこに何を隠していらっしゃるのですか」
「……坂柳」
「はい」
「お前の目的が俺の処理能力の測定であるなら、今夜の目的はもう達成されている。それ以上、この場に留まる理由はない」
「あら、まだ10分ほどしか経っていませんが」
「12分だ。お前が正面に立ってから、ちょうど12分40秒。そして今、南側の2名から、侵入者が撤退したという報告が入った」
彼は淡々と続けた。
「東の橋本も、3分前に移動を開始している。つまりお前の手駒は既に引き上げ済みだ。残っているのはお前一人。……帰れ、坂柳。夜の森は、お前の足には危険すぎる」
背筋が、ぞわりと震えました。
3方向を同時に処理しながら、彼は私との会話を一秒も途切れさせなかった。しかも、私の駒の撤退時刻まで正確に把握している。
「……本当に、面白い方」
私は杖を反転させ、来た道へ向き直った。
「今夜は失礼します。ですが聖哉くん、覚えておいてくださいね」
肩越しに振り返る。
「私が本当に知りたいのは、あなたがどれだけ強いかではありません。あなたが何を失うと弱くなるのか、です」
返事はありませんでした。
ゲートの閉じる重い音を背中で聞きながら、私はランタンの灯りを頼りに歩き出した。
収穫は十分です。あの方は、名前を言わなかった。それだけで、私の仮説は一つ前進しました。
【視点:龍園翔】
坂柳の陣地から東へ外れた雑木林で、俺は待っていた。
橋本正義。今夜、Dクラスの東側で間抜けみたいに手を振っていた男。それが用済みになって引き上げてくる経路は、地形から見て一本しかない。
案の定、そいつは俺の3メートル手前で足を止めた。
「うわ。……キング、こんなとこで何してんすか」
「てめえこそな」
「俺は仕事っすよ。姫の命令で、あそこに立って手ぇ振ってただけ。世界一楽な仕事っしょ」
橋本は肩をすくめて笑った。相変わらず、腹の底が読めねえ面だ。
「この前落とした紙、返してほしいんじゃねえのか」
俺がそう言った瞬間、橋本の笑みが半分だけ固まった。
「……ああ、やっぱりキングが拾ってたんすね」
「ここ二晩、あの西側は俺が見張ってる。てめえらが書いた弱点は、もう弱点じゃねえ」
「へえ。竜宮院には報告して?」
「……」
俺は答えなかった。
橋本の目が、すっと細くなる。こいつは軽薄そうな面をして、人間の間の取り方だけは異常に鋭い。
「報告してないんすね。なるほどなあ」
「何がだ」
「いや。キング、まだ生きてんだなって思っただけっすよ」
橋本は両手をポケットに突っ込み、一歩踏み出した。
「正直に言うと、俺、姫の下にいるのちょっと飽きてるんすよね。あの人、面白いものが見つかると他が全部どうでもよくなるでしょ。今なら竜宮院に夢中で、こっちは駒扱いっす」
「だから何だ」
「だから、そろそろ別の船に乗り換えようかなって」
こいつは、俺に取引を持ちかけている。
竜宮院の首輪をつけたままの俺に、だ。
「てめえ、俺が誰の犬か知ってて言ってんのか」
「知ってるっすよ。だから面白いんじゃないっすか」
橋本は笑った。心底楽しそうな笑い方だった。
「首輪つけられてんのに、拾った紙を主人に渡さない犬。それってもう、犬じゃないっしょ」
俺は数秒、黙っていた。
こいつの言葉は正しい。だからこそ、危険だ。今この瞬間、俺の中で何かが動きかけている。竜宮院の掌の外側で、俺自身の手札を作れという囁きが。
「……クククッ」
久しぶりに、腹の底から笑いが漏れた。
「いいぜ、橋本。話だけは聞いてやる」
「お、話が早くて助かるっす」
「ただし、こっちにも条件がある。今夜のこの会話――一言でも竜宮院の耳に入ったら、俺は真っ先にてめえの喉を潰す。分かったか」
「怖ぇなあ。了解っす、キング」
森の奥で、夜鳥が一度だけ鳴いた。
【視点:綾小路清隆】
深夜0時17分。
オレは陣地の内側から、東の森の方角をじっと見ていた。
(橋本が戻っていない)
坂柳の3方向同時攻撃は、およそ40分で終息した。南の資材置き場は撤退、正面の坂柳も撤退。だが東の橋本正義だけが、来た経路とは違う方向へ消えた。
竜宮院は「3分前に移動を開始した」と把握していた。だが、その後の追跡はしていない。できなかった、が正確だろう。3方向を同時処理した直後の奴に、4つ目を追う余力は残っていなかった。
そして龍園翔も、今夜、陣地にいない。
(重なった)
坂柳の狙いは竜宮院の処理能力の測定。それは達成された。だがその副産物として、竜宮院の視界から2人の人間が同時に消える40分が生まれた。
坂柳がそこまで設計していたなら、大したものだ。設計していなかったなら――偶然が、竜宮院にとって最悪の形で噛み合ったことになる。
オレはテントの布をめくり、中へ戻った。
6日目の夜が明ければ、無人島試験は最終日を迎える。
その前に、竜宮院聖哉の足元では、二つの綻びが静かに繋がろうとしていた。
【視点:竜宮院聖哉】
深夜1時2分。すべての事象が終息した後、俺は当直表を広げていた。
3方向の飽和攻撃は、想定した40分より短い38分で終わった。消費した栄養ゼリーは4本。想定の2本を超過している。明日以降の摂取計画を、4%下方修正する必要がある。
だが、俺の指が止まったのは、その計算のせいではなかった。
当直表の、22時から0時の欄。
――龍園翔。所在確認、なし。
(……いない)
坂柳が正面に立っていた12分40秒。あの間、俺の意識の6割5分は坂柳へ、2割は黒テントへ固定されていた。残り1割5分で南と東を捌いていた。
その配分の中に、龍園翔を追跡する余地は、一秒も存在しなかった。
俺はしばらく、当直表を見つめていた。
坂柳有栖が今夜仕掛けてきた攻撃は、俺の処理能力の測定だった。彼女自身、そう明言している。だが結果として生まれたのは、測定値だけではない。
俺の視界から、龍園翔が完全に消える40分間。
(偶然か。あるいは)
坂柳が、龍園の変化に既に気づいていて、その上でこの40分を作ったのか。
どちらであるかを、今の情報量で断定することはできない。だが、断定できないという状態そのものが、俺にとっては許容できない。
俺は当直表を閉じ、テントの隅に置いた予備の記録帳を開いた。
これまで、龍園翔の管理には首輪という物理的な手段を用いてきた。恐怖による支配は、コストが最も低く、効率が最も高い。これまで、その原則が破られたことは一度もなかった。
だが、破られた。
ならば、次に取るべき手段は二つに一つだ。恐怖の強度を上げるか――あるいは、恐怖以外の何かで繋ぎ直すか。
前者は簡単だ。俺の手元には、龍園を再び屈服させる材料が十分に残っている。
だが、それは今夜と同じことをもう一度繰り返すだけになる。恐怖で押さえた人間は、押さえ続けなければ必ず戻る。そして押さえ続けるには、俺のリソースを永続的に消費し続けなければならない。
(……非効率だ)
俺は記録帳に、一行だけ書き込んだ。
『事象番号41:龍園翔の再定義。手段未定。優先度A』
ペンを置き、ランプの火を落とす。
6日目の夜が終わる。残るは、最終日ただ1日。
その前に確かめておくべきことが、一つ増えた。