ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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第28話「杖の音」

【視点:竜宮院聖哉】

 

異変は、22時40分に始まった。

 

「南側の資材置き場で物音。誰かが防水シートを剥がした形跡があります」

 

見張りの報告を受け、俺は即座に頭の中の地図を開いた。南側の資材置き場には、予備の縄と杭、そして雨水濾過用の炭が保管してある。どれも代替の効かないものではない。

 

(囮だ)

 

そう判断するまでに、2秒。

 

資材置き場は、陣地の中で最も「盗まれても困らない」場所だ。本当に打撃を与えたいなら、水か食料か、佐倉のいる隔離室を狙う。そこを外して南を突いたということは、俺の注意をそちらへ引き寄せるための布石でしかない。

 

「南側には2名だけ向かわせろ。残りは配置を動かすな。特に、黒テント周辺の4名は絶対に持ち場を離れるな」

 

指示を出した直後、二人目の見張りが息を切らして走ってきた。

 

「東の見張り台から報告。森の中に、Aクラスの男子生徒が一人。……こっちを見て、手を振ってます」

 

「手を振っている?」

 

「はい。隠れる気配もなく、ずっと同じ場所に立っていて」

 

橋本正義。Aクラスの中でも、坂柳有栖の手足として最も動きの読めない男だ。

 

隠れずに立ち、こちらへ手を振る。それは侵入ではなく、示威でもない。ただ「私はここにいます」と表明し続ける行為だ。

 

(監視させることが目的か)

 

こちらが橋本を無視すれば、その間に別の何かが動く。監視に人員を割けば、その分だけ他所が手薄になる。どちらを選んでも、俺の手札が一枚削られる設計になっている。

 

二学期に向けた長期演算を、俺は一旦すべて棚上げした。今夜は目の前の処理だけに集中する必要がある。

 

「東は1名だけ張り付かせろ。橋本が動いたら報告。動かないなら放置しろ」

 

そこへ、三人目が来た。

 

「せ、正面ゲートに……Aクラスの坂柳が」

 

(――三つ目か)

 

俺はゆっくりと息を吐いた。

 

南の資材置き場、東の橋本、そして正面の坂柳。3つの事象が、20分以内に立て続けに発生している。

 

偶然ではない。これは、俺の処理能力そのものを標的にした攻撃だ。

 

一つ一つは、いずれも軽微だ。どれ単独なら、俺は3秒で最適解を出せる。だが3つが同時に走った時、俺の脳内で並列処理に回されるブドウ糖の消費量は、単純合計ではなく、二乗に近い曲線を描いて跳ね上がる。

 

(血糖値の低下速度、想定の1.8倍。この状態が40分続けば、判断精度が7%低下する)

 

俺は栄養ゼリーを2本続けて喉に流し込み、防塵マスクを外した。

 

焦りはない。この種の飽和攻撃は、俺の想定リスト内に「事象番号23:同時多発型消耗戦」として記載されている。想定していなかったのは、それを仕掛けてきた人間が、俺の内側の事情をここまで正確に読んでいるという一点だけだ。

 

「ゲートを開けろ。俺が出る」

 

 

 

 

【視点:坂柳有栖】

 

正面ゲートの柵が、内側からゆっくりと開きました。

 

現れた竜宮院くんは、6日目の無人島にいるとは思えないほど清潔で、そして――ほんの少しだけ、いつもと違いました。

 

呼吸です。

 

「用件を言え」

 

「ごきげんよう、聖哉くん。夜分に失礼しますね」

 

私は杖に体重を預けたまま、微笑んでみせた。

 

「一つ確認させていただきたいことがありまして。今、南の資材置き場と東の森で、それぞれ何かが起きているかと思いますが」

 

「知っている」

 

「ええ。ご存知でしょう。ですから、そちらへ人員を割かれた」

 

私は一歩、杖を前に出した。乾いた音が夜の森に響く。

 

「今この瞬間、あなたの意識は三つに分かれています。南へ2割、東へ1割、そして私へ7割といったところでしょうか」

 

「四つだ」

 

竜宮院くんは即座に訂正した。

 

「南に1割、東に5分、お前に6割5分、残り2割は黒テントの警備の維持に固定してある」

 

「……ふふ。訂正ありがとうございます」

 

正確に答えてしまうところが、この方の恐ろしさであり、同時に唯一の弱点でもあります。正しさへの執着が強すぎるゆえに、正しく答える機会を与えられると、つい答えてしまう。

 

「では、その残り2割について伺いましょう」

 

私は杖の先で、彼の背後にある黒いテントを指し示した。

 

「なぜあのテントの警備だけは、決して動かさないのですか」

 

竜宮院くんの表情は、微塵も動きませんでした。

 

「休息場所だからだ」

 

「休息場所」

 

「連日の稼働で、体調を崩した者を隔離している。感染症の拡大は、クラス全体の稼働率を著しく下げる。合理的な処置だ」

 

「では、その方のお名前を伺っても?」

 

「答える義務はない」

 

「ええ、ありませんね」

 

私は微笑んだまま、彼の目を見つめた。

 

「一つ、感想を申し上げてよろしいでしょうか。あなたは今、私の質問すべてに答えました。人員の配分比率という、本来なら軍事機密に等しい情報まで。ですが、テントの中にいる方の名前だけは、拒否なさった」

 

彼の右手が、わずかに動きました。首元へ――そして、寸前で止まる。

 

「聖哉くん。あなた、そこに何を隠していらっしゃるのですか」

 

「……坂柳」

 

「はい」

 

「お前の目的が俺の処理能力の測定であるなら、今夜の目的はもう達成されている。それ以上、この場に留まる理由はない」

 

「あら、まだ10分ほどしか経っていませんが」

 

「12分だ。お前が正面に立ってから、ちょうど12分40秒。そして今、南側の2名から、侵入者が撤退したという報告が入った」

 

彼は淡々と続けた。

 

「東の橋本も、3分前に移動を開始している。つまりお前の手駒は既に引き上げ済みだ。残っているのはお前一人。……帰れ、坂柳。夜の森は、お前の足には危険すぎる」

 

背筋が、ぞわりと震えました。

 

3方向を同時に処理しながら、彼は私との会話を一秒も途切れさせなかった。しかも、私の駒の撤退時刻まで正確に把握している。

 

「……本当に、面白い方」

 

私は杖を反転させ、来た道へ向き直った。

 

「今夜は失礼します。ですが聖哉くん、覚えておいてくださいね」

 

肩越しに振り返る。

 

「私が本当に知りたいのは、あなたがどれだけ強いかではありません。あなたが何を失うと弱くなるのか、です」

 

返事はありませんでした。

 

ゲートの閉じる重い音を背中で聞きながら、私はランタンの灯りを頼りに歩き出した。

 

収穫は十分です。あの方は、名前を言わなかった。それだけで、私の仮説は一つ前進しました。

 

 

 

 

【視点:龍園翔】

 

坂柳の陣地から東へ外れた雑木林で、俺は待っていた。

 

橋本正義。今夜、Dクラスの東側で間抜けみたいに手を振っていた男。それが用済みになって引き上げてくる経路は、地形から見て一本しかない。

 

案の定、そいつは俺の3メートル手前で足を止めた。

 

「うわ。……キング、こんなとこで何してんすか」

 

「てめえこそな」

 

「俺は仕事っすよ。姫の命令で、あそこに立って手ぇ振ってただけ。世界一楽な仕事っしょ」

 

橋本は肩をすくめて笑った。相変わらず、腹の底が読めねえ面だ。

 

「この前落とした紙、返してほしいんじゃねえのか」

 

俺がそう言った瞬間、橋本の笑みが半分だけ固まった。

 

「……ああ、やっぱりキングが拾ってたんすね」

 

「ここ二晩、あの西側は俺が見張ってる。てめえらが書いた弱点は、もう弱点じゃねえ」

 

「へえ。竜宮院には報告して?」

 

「……」

 

俺は答えなかった。

 

橋本の目が、すっと細くなる。こいつは軽薄そうな面をして、人間の間の取り方だけは異常に鋭い。

 

「報告してないんすね。なるほどなあ」

 

「何がだ」

 

「いや。キング、まだ生きてんだなって思っただけっすよ」

 

橋本は両手をポケットに突っ込み、一歩踏み出した。

 

「正直に言うと、俺、姫の下にいるのちょっと飽きてるんすよね。あの人、面白いものが見つかると他が全部どうでもよくなるでしょ。今なら竜宮院に夢中で、こっちは駒扱いっす」

 

「だから何だ」

 

「だから、そろそろ別の船に乗り換えようかなって」

 

こいつは、俺に取引を持ちかけている。

 

竜宮院の首輪をつけたままの俺に、だ。

 

「てめえ、俺が誰の犬か知ってて言ってんのか」

 

「知ってるっすよ。だから面白いんじゃないっすか」

 

橋本は笑った。心底楽しそうな笑い方だった。

 

「首輪つけられてんのに、拾った紙を主人に渡さない犬。それってもう、犬じゃないっしょ」

 

俺は数秒、黙っていた。

 

こいつの言葉は正しい。だからこそ、危険だ。今この瞬間、俺の中で何かが動きかけている。竜宮院の掌の外側で、俺自身の手札を作れという囁きが。

 

「……クククッ」

 

久しぶりに、腹の底から笑いが漏れた。

 

「いいぜ、橋本。話だけは聞いてやる」

 

「お、話が早くて助かるっす」

 

「ただし、こっちにも条件がある。今夜のこの会話――一言でも竜宮院の耳に入ったら、俺は真っ先にてめえの喉を潰す。分かったか」

 

「怖ぇなあ。了解っす、キング」

 

森の奥で、夜鳥が一度だけ鳴いた。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

深夜0時17分。

 

オレは陣地の内側から、東の森の方角をじっと見ていた。

 

(橋本が戻っていない)

 

坂柳の3方向同時攻撃は、およそ40分で終息した。南の資材置き場は撤退、正面の坂柳も撤退。だが東の橋本正義だけが、来た経路とは違う方向へ消えた。

 

竜宮院は「3分前に移動を開始した」と把握していた。だが、その後の追跡はしていない。できなかった、が正確だろう。3方向を同時処理した直後の奴に、4つ目を追う余力は残っていなかった。

 

そして龍園翔も、今夜、陣地にいない。

 

(重なった)

 

坂柳の狙いは竜宮院の処理能力の測定。それは達成された。だがその副産物として、竜宮院の視界から2人の人間が同時に消える40分が生まれた。

 

坂柳がそこまで設計していたなら、大したものだ。設計していなかったなら――偶然が、竜宮院にとって最悪の形で噛み合ったことになる。

 

オレはテントの布をめくり、中へ戻った。

 

6日目の夜が明ければ、無人島試験は最終日を迎える。

 

その前に、竜宮院聖哉の足元では、二つの綻びが静かに繋がろうとしていた。

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

深夜1時2分。すべての事象が終息した後、俺は当直表を広げていた。

 

3方向の飽和攻撃は、想定した40分より短い38分で終わった。消費した栄養ゼリーは4本。想定の2本を超過している。明日以降の摂取計画を、4%下方修正する必要がある。

 

だが、俺の指が止まったのは、その計算のせいではなかった。

 

当直表の、22時から0時の欄。

 

――龍園翔。所在確認、なし。

 

(……いない)

 

坂柳が正面に立っていた12分40秒。あの間、俺の意識の6割5分は坂柳へ、2割は黒テントへ固定されていた。残り1割5分で南と東を捌いていた。

 

その配分の中に、龍園翔を追跡する余地は、一秒も存在しなかった。

 

俺はしばらく、当直表を見つめていた。

 

坂柳有栖が今夜仕掛けてきた攻撃は、俺の処理能力の測定だった。彼女自身、そう明言している。だが結果として生まれたのは、測定値だけではない。

 

俺の視界から、龍園翔が完全に消える40分間。

 

(偶然か。あるいは)

 

坂柳が、龍園の変化に既に気づいていて、その上でこの40分を作ったのか。

 

どちらであるかを、今の情報量で断定することはできない。だが、断定できないという状態そのものが、俺にとっては許容できない。

 

俺は当直表を閉じ、テントの隅に置いた予備の記録帳を開いた。

 

これまで、龍園翔の管理には首輪という物理的な手段を用いてきた。恐怖による支配は、コストが最も低く、効率が最も高い。これまで、その原則が破られたことは一度もなかった。

 

だが、破られた。

 

ならば、次に取るべき手段は二つに一つだ。恐怖の強度を上げるか――あるいは、恐怖以外の何かで繋ぎ直すか。

 

前者は簡単だ。俺の手元には、龍園を再び屈服させる材料が十分に残っている。

 

だが、それは今夜と同じことをもう一度繰り返すだけになる。恐怖で押さえた人間は、押さえ続けなければ必ず戻る。そして押さえ続けるには、俺のリソースを永続的に消費し続けなければならない。

 

(……非効率だ)

 

俺は記録帳に、一行だけ書き込んだ。

 

『事象番号41:龍園翔の再定義。手段未定。優先度A』

 

ペンを置き、ランプの火を落とす。

 

6日目の夜が終わる。残るは、最終日ただ1日。

 

その前に確かめておくべきことが、一つ増えた。

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