ある死神の未来改変日記   作:夢日記

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第6話

 

 瀞霊廷は、朝になっても静かにはならなかった。

 夜明けの光は白い壁を照らしていたが、その白さはいつもよりくすんで見えた。崩れた壁。割れた石畳。焼け焦げた柱。運び込まれる負傷者。走り回る伝令。低い声で話し合う隊士たち。

 

 旅禍侵入は終わった。

 処刑騒ぎも終わった。

 藍染惣右介は、瀞霊廷を去った。

 だが、終わったからといって、元通りになるわけではない。

 

 むしろ、四番隊の仕事はここからが本番だった。

 

 織原シュシュは、救護詰所の床に膝をつき、使い終わった包帯の山を分類していた。再利用できるもの。廃棄するもの。

 地味な作業だった。

 だが、地味な作業を怠ると、次の処置で困る。

 

 混乱が過ぎた後こそ、整理がいる。何が残っていて、何が足りず、何が壊れ、どこに補充が必要なのか。把握しなければ、次の負傷者に対応できない。

 それは、物資だけの話ではなかった。

 情報も同じだ。

 

 今回、何が起きたのか。

 どこで負傷者が増えたのか。

 どの搬送路が詰まったのか。

 どの指示が遅れたのか。

 どの情報が四番隊まで届かなかったのか。

 

 どれも、放置すればただの混乱として流れていく。

 だが、記録すれば材料になる。

 材料になれば、次に使える。

 

 シュシュは、血のついた布を一枚ずつ分けながら、頭の中で昨夜の記録を整理していた。

 

「織原」

 

 上席の隊士が声をかけてきた。

 

「はい」

 

「この後、仮眠を取れ。お前、ほとんど寝ていないだろう」

 

「まだ片づけが残っています」

 

「残っているから交代で休むんだ。倒れたら余計に手がかかる」

 

「……承知しました」

 

 反論はできなかった。

 合理的に考えて、上席の言う通りだった。

 

 疲労したまま作業を続ければ、効率は落ちる。判断も鈍る。記録の精度も下がる。自分が倒れれば、他の隊士の手を奪う。

 休息も作業の一部。

 そう考えれば、従うしかない。

 

 シュシュは布をまとめ、指定された箱へ入れた。

 立ち上がった瞬間、少しだけ視界が揺れる。

 思った以上に身体が重い。

 それを悟られないように姿勢を正したが、近くにいた相沢ミツルには見られていた。

 

「ほら見ろ。倒れる寸前じゃねえか」

 

「倒れていません」

 

「屁理屈」

 

「事実です」

 

「そういうところだぞ」

 

 ミツルは呆れたように言いながら、壁際に置かれた水を差し出した。

 シュシュはそれを受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

「素直に礼は言えるんだな」

 

「礼を言うべき場面なので」

 

「本当にお前、何か基準表でも頭に入ってるのか?」

 

「あります」

 

「あるのかよ」

 

 ミツルが苦笑する。

 その顔には、濃い疲労が残っていた。目の下に隈があり、頬にも小さな傷がある。昨夜、彼も何度も搬送に出た。軽口を叩いているが、身体は相当きついはずだった。

 

「相沢も休んでください」

 

「俺はこの後」

 

「傷の洗浄は?」

 

「……まだ」

 

「先に洗ってください。化膿したら面倒です」

 

「はいはい」

 

「返事は一回でいいです」

 

「はい」

 

 ミツルは肩をすくめた。

 その何でもないやり取りが、妙に現実味を持っていた。

 

 ◇

 

 昨夜、藍染惣右介が生きていると聞いた瞬間、世界は足元から崩れたように感じた。夢日記が現実に対応していると認めた瞬間、自分の生活が別のものになった気がした。

 だが、朝になれば、包帯を分ける。

 水を飲む。

 同僚の傷を確認する。

 眠れと言われる。

 

 世界が変わっても、雑務は消えない。

 そのことに、シュシュは少し救われた。

 

 仮眠室に向かう途中、彼女は懐の紙片を押さえた。

 昨夜書いた文字が、そこにある。

 

『夢日記は、現実に対応している』

 

 その一文を思い出すだけで、胃の奥が重くなる。

 だが、もう消せない。

 消したところで、なかったことにはならない。

 

 仮眠室には、数人の隊士が倒れるように眠っていた。空いている場所を見つけ、シュシュは腰を下ろした。

 寝るべきだった。

 だが、眠る前に少しだけ確認したい。

 

 そう考えた時点で、自分が上席の指示に半分背いていることはわかっていた。

 しかし、記憶は時間とともに薄れる。

 特に混乱時の情報は、後から都合よく補正される。誰が何を言ったのか。どの順番で伝令が来たのか。自分がどこで何を見たのか。疲労の中では曖昧になりやすい。

 

 だから、今書く。

 少しだけ。

 

 シュシュは紙片を取り出し、小さな文字で書き始めた。

 

『確認済み事項。朽木家関係者の現世任務、未帰還、力の譲渡、連行、処刑決定、旅禍侵入、双殛停止、藍染惣右介の死亡偽装および離反。夢日記との大筋一致を確認』

 

 筆先が止まる。

 大筋一致。

 完全一致ではない。

 夢で見たものは断片だった。現実のすべてを網羅しているわけではない。むしろ、見えていない部分の方が多い。

 

 そこを間違えてはいけない。

 夢日記は万能ではない。

 未来のすべてが書かれているわけでもない。

 夢で見たから必ず起きるのか、夢で見なかったから起きないのか、それもまだわからない。

 

 使える情報ではある。

 だが、絶対視すれば死ぬ。

 

 シュシュは続けて書いた。

 

『注意。夢は断片的。順序・場所・周辺被害は曖昧。夢で見えない負傷者多数。夢の記録のみで判断しない。現実確認を必ず挟む』

 

 書いて、少しだけ息を吐いた。

 これは大事だ。

 

 夢を信じると決めた瞬間、夢に依存する危険が生まれる。知っていると思い込む。先回りできると過信する。見えていないものを軽視する。

 それは、シュシュが嫌う「情報不足による判断ミス」と同じものだった。

 

 夢日記は情報だ。

 だが、情報は検証して初めて使える。

 自分に言い聞かせるように、彼女は紙面の端に小さく書いた。

 

『夢を信じるな。夢を検証しろ』

 

 その一文を見た時、少しだけ頭が落ち着いた。

 信じる、信じないの問題ではない。

 検証する。

 照合する。

 使える形にする。

 それなら、できる。

 

 シュシュは紙片を畳み、横になった。

 今度こそ眠ろうと目を閉じる。

 だが、眠りに落ちる前に、また夢を見た。

 

 いや、夢というより、記憶の残響に近かった。

 白い砂。

 黒い空。

 仮面を持つ者たち。

 虚圏。

 藍染惣右介が、その中心にいる。

 

 そして、別の景色。

 空座町。

 巨大な力の衝突。

 崩れる建物。

 戦う隊長たち。

 

 さらに、その先。

 白い外套。

 見えない矢。

 崩れる瀞霊廷。

 踏みにじられる白い壁。

 

 シュシュは、息を呑んで目を開けた。

 仮眠室の天井。

 周囲で眠る隊士たち。

 自分の手の中に、握りしめた紙片。

 

 ほんのわずかな時間しか眠っていない。

 だが、心臓は速く打っていた。

 

「……まだ、ある」

 

 小さく呟く。

 まだ続きがある。

 今回の混乱で終わりではない。

 

 むしろ、今回の事件は始まりに近い。藍染が離反し、虚圏へ向かったことで、この先の戦いが形を持つ。

 夢で見た景色が、本当に来るなら。

 瀞霊廷は、また戦場になる。

 現世も、虚圏も、巻き込まれる。

 そしていつか、白い外套の者たちが来る。

 シュシュの生活圏を、今度こそ根こそぎ踏みにじるような未来が。

 

 寝ている場合ではない。

 そう思った瞬間、彼女は自分の頬を軽く叩いた。

 

 違う。

 寝るのも対策だ。

 疲労した頭で考えるな。

 今の自分は、重要な判断をしていい状態ではない。

 

 その程度の自己管理もできない者が、未来への対策などできるはずがない。

 シュシュは無理やり目を閉じた。

 

 今は寝る。

 起きてから整理する。

 順番を守る。

 それが合理的だ。

 

 今度こそ、意識が沈んだ。

 

 ◇

 

 次に目を覚ました時、詰所の騒がしさは少しだけ落ち着いていた。

 完全に静かになったわけではない。負傷者はまだいる。片づけも終わっていない。報告書も山ほど残っている。

 だが、昨夜のような切迫した混乱は薄れていた。

 

 シュシュは起き上がり、身体の状態を確認した。頭痛はある。肩も重い。だが、思考は少し戻っている。

 詰所に戻ると、上席の隊士が書類をまとめていた。

 

「織原、起きたか」

 

「はい。何か手伝うことはありますか」

 

「ある。だが、その前に飯を食え」

 

「作業を先に」

 

「飯だ」

 

「……承知しました」

 

 有無を言わせない口調だった。

 シュシュは素直に従った。

 

 食事といっても、簡単なものだった。握り飯と水。だが、口に入れると、自分が空腹だったことに気づく。昨日からまともに食べていなかった。

 食べながら、周囲を見る。

 

 隊士たちは疲れ切っている。だが、動いている。物資を運ぶ者、負傷者の容態を確認する者、報告書を書く者、床を拭く者。

 四番隊は、戦いの後の瀞霊廷を支えていた。

 派手さはない。

 称賛されることも少ない。

 だが、この機能が止まれば、被害は一気に広がる。

 

 今回、それを痛感した。

 そして、同時に弱さも見えた。

 

 情報が遅い。

 搬送路の確保が後手になる。

 戦闘区域の変化が救護側に届くまで時間がかかる。

 負傷者数の見積もりが甘い。

 大規模霊圧衝突の周辺被害が想定されていない。

 強者同士の戦闘を、遠くから見ている者が巻き込まれることへの備えが薄い。

 

 夢で見た違和感が、現実の経験として裏づけられていく。

 

 シュシュは食事を終えると、報告書の整理に入った。

 四番隊として提出する正式な報告書に、夢の話は書けない。

 当然だ。

 だが、現実に確認した事実は書ける。

 

 東側搬送路、瓦礫により担架通行困難。

 双殛方面の霊圧衝撃により、警戒隊士に二次負傷発生。

 伝令遅延により、救護班配置変更の反映に時間差あり。

 軽傷者を自力移動させる際、誘導役不足により詰所前で滞留発生。

 

 どれも小さなことだ。

 だが、小さなことこそ記録しなければ消える。

 

 上席の隊士が、シュシュの書いたメモを見た。

 

「また細かいな」

 

「不要でしたか」

 

「いや、助かる。こういうのは後で思い出そうとしても抜ける」

 

「次に同じことがあった時、搬送路が詰まるのは避けたいので」

 

「次、か」

 

 上席の隊士は少しだけ苦い顔をした。

 

「もう二度とない方がいいがな」

 

「はい」

 

 シュシュは頷いた。

 それは本心だった。

 

 だが、彼女は知っている。

 二度とない、では済まない。

 次がある。

 形を変えて、規模を変えて、敵を変えて、また来る。

 だから、備える。

 

 そう言いたかったが、もちろん言わなかった。

 代わりに、淡々と書類を整えた。

 

 ◇

 

 昼過ぎ、ミツルが戻ってきた。

 腕の傷にはきちんと処置がされていた。言われた通り、誰かに診てもらったらしい。

 

「満足か?」

 

「はい。化膿の可能性が下がりました」

 

「言い方が事務的すぎる」

 

「実際、事務的な確認です」

 

「少しは心配した感じを出せよ」

 

「心配したから確認しました」

 

 ミツルは一瞬黙り、それから困ったように笑った。

 

「そういうこと、さらっと言うなよな」

 

「何がですか」

 

「いや、いい」

 

 彼は隣に座り、同じように書類の整理を始めた。

 しばらく、紙の音だけが続く。

 やがてミツルが、低い声で言った。

 

「昨日のことだけどさ」

 

 シュシュの手が止まりかけた。

 

「どの件ですか」

 

「いっぱいありすぎるな」

 

「そうですね」

 

「藍染隊長のことを聞いた時のお前、やっぱり変だった」

 

 来た。

 シュシュは、紙から視線を上げなかった。

 

「そう見えたなら、疲れていたのでしょう」

 

「それで押し通す気か」

 

「事実、疲れていました」

 

「また完全な嘘じゃない言い方してる」

 

 思ったより鋭い。

 シュシュは内心で評価を修正した。

 

 相沢ミツルは、軽いが鈍くはない。むしろ、感情の揺れに関してはかなり敏い。秘密を共有する相手としては危険だが、現場で人の不調を拾う能力はある。

 それも記録しておくべきかもしれない。

 そう考えてから、自分が同僚まで情報として分類し始めていることに気づき、少し嫌になった。

 

「相沢」

 

「何だよ」

 

「今は、話せることがありません」

 

 ミツルが顔を上げた。

 シュシュは続けた。

 

「隠していることがある、という意味ではありません」

 

「いや、その言い方は完全にあるだろ」

 

「あります」

 

「認めるのかよ」

 

「話せないことがあるのは事実です。ただ、それを話すことで状況が良くなるとは思えません」

 

 ミツルは眉を寄せた。

 

「危ないことか?」

 

「判断中です」

 

「判断中って何だよ」

 

「言葉通りです」

 

「お前、本当に面倒くさいな」

 

「自覚はあります」

 

 会話はそこで止まった。

 ミツルは不満そうだったが、無理に踏み込んではこなかった。

 

 ありがたい。

 だが、同時に申し訳なさもあった。

 

 話せば、少し楽になるかもしれない。ひとりで抱えなくても済むかもしれない。

 けれど、話した瞬間、ミツルは当事者になる。

 夢日記という危険物に触れることになる。

 それはまだ早い。

 

 今の段階では、誰にも話さない。

 そう決めた。

 

 ◇

 

 夕方、シュシュはようやく自室に戻ることを許された。

 隊舎の廊下は、昨日とは別の意味で重かった。混乱の熱は引き、代わりに疲労と不信が残っている。

 

 隊長が裏切った。

 中央四十六室の件も、いずれ明らかになるだろう。

 護廷十三隊は、外敵に攻められただけではない。内部から欺かれていた。その事実は、しばらく尾を引くはずだった。

 

 自室に入ると、シュシュは襖を閉めた。

 鍵を確認する。

 気配を探る。

 誰もいない。

 それでも安心できず、しばらく耳を澄ませた。

 問題ない。

 

 そう判断してから、衣装箱の底を開けた。

 古い訓練記録をどかす。

 布に包んだ紙束を取り出す。

 

 夢日記。

 

 最初は、気味の悪い夢を頭の外に出すためのものだった。

 次に、現実との一致を確認するためのものになった。

 そして今、別の役割を持ち始めている。

 

 シュシュは文机に紙束を置いた。

 改めて見ると、量が多い。雑然としている。日付順には並んでいるが、内容は場面ごとの断片で、整理されているとは言い難い。

 

 このままでは使えない。

 使うなら、分類が必要だ。

 

 彼女は新しい紙を用意し、見出しを書いた。

 

『分類案』

 

 一、確定済み事項。

 二、未確認事項。

 三、時期不明事項。

 四、危険人物。

 五、危険能力。

 六、被害発生要因。

 七、四番隊として可能な対策。

 八、自身の能力強化項目。

 

 書きながら、シュシュは少しずつ冷静になっていくのを感じた。

 分類する。

 名前をつける。

 曖昧な不安を、扱える項目に分ける。

 それだけで、恐怖は少し薄まる。

 

 消えるわけではない。

 だが、形があれば対処できる。

 

 まず、確定済み事項。

 朽木家関係者の処刑騒ぎ。

 旅禍侵入。

 双殛停止。

 藍染惣右介の死亡偽装と離反。

 市丸ギン、東仙要の同行。

 ここまでは確認できた。

 

 次に、未確認事項。

 虚圏。

 破面。

 崩玉の詳細。

 空座町決戦。

 見えざる帝国。

 白い外套。

 瀞霊廷壊滅的被害。

 

 書くたびに、胸が重くなる。

 特に最後の項目は、筆圧が強くなった。

 

 瀞霊廷壊滅的被害。

 夢の中で見た、最も見たくない景色。

 白い壁が崩れ、隊舎が瓦礫になり、見慣れた場所が踏みにじられる。救護詰所が機能しなくなり、負傷者が溢れ、誰がどこで倒れたのかもわからない。

 

 それだけは避けたい。

 完全に防げなくても、被害を減らしたい。

 そのためには、自分が今のままでは足りない。

 

 シュシュは次の紙に移った。

 

『自身の能力強化項目』

 

 一、回道精度向上。

 二、止血・搬送判断の高速化。

 三、縛道習熟。負傷者保護、敵足止め、搬送補助に使用。

 四、瞬歩強化。救護地点への移動、撤退、伝令補助。

 五、霊圧感知。戦闘区域・危険区域の早期把握。

 六、白打基礎。近距離で最低限生き残るため。

 七、斬術基礎。戦うためではなく、死なないため。

 八、情報整理能力。現場情報を短く、使える形で上げる訓練。

 

 書いてから、シュシュは少し考えた。

 四番隊なのだから、治療を極めればいい。

 以前ならそう思っていたかもしれない。

 

 だが、今回でわかった。

 治療だけでは足りない。

 負傷者のもとへ辿り着けなければ治せない。

 敵に足止めされれば運べない。

 搬送路が危険なら逃げられない。

 自分が倒れれば、誰も助けられない。

 

 四番隊員であっても、生存能力は必要だ。

 むしろ、戦場で最後まで機能し続けるために必要だった。

 

 シュシュはさらに書いた。

 

『方針。治すために、生き残る。生き残るために、逃げる・縛る・避ける・読む力を伸ばす』

 

 悪くない。

 少なくとも、自分の性格には合っている。

 

 次に、四番隊として可能な対策。

 

『搬送路の事前確認』

『大規模霊圧衝突時の周辺退避基準』

『軽傷者の自力移動誘導手順』

『救護班への戦闘区域情報共有』

『担架・止血布の予備配置』

『混乱時の簡易報告様式』

『負傷者分類基準の徹底』

 

 ここまでは、比較的現実的だった。

 夢の話をしなくても提案できる。

 今回の実体験を根拠にすればよい。

 

 下級死神がいきなり全隊の運用を変えることはできない。だが、四番隊内の小さな改善なら可能性がある。

 まずはそこから。

 大きな未来を変えるには、小さな不備を潰す。

 シュシュはそう考えた。

 

 その時、廊下で足音がした。

 筆を止める。

 紙を伏せる。

 息を潜める。

 

 足音は部屋の前を通り過ぎていった。

 ただの隊士だ。

 それでも、背中に汗が滲んだ。

 

 夢日記は危険物になった。

 誰かに見られれば終わる。

 少なくとも、説明に困る。

 今後は保管方法も考えなければならない。

 

 シュシュは新しい項目を書き足した。

 

『夢日記の秘匿。保管場所の分散。写しの作成可否検討。暗号化、略号化の導入』

 

 書いてから、少しだけ嫌な気分になった。

 自分は何をしているのだろう。

 下級死神の部屋で、未来に関わるかもしれない夢を暗号化しようとしている。

 どう考えても普通ではない。

 

 だが、普通でない状況に、普通の対応をしても仕方がない。

 

 シュシュは筆を置き、目元を押さえた。

 疲れている。

 それでも、頭は止まらない。

 

 夢日記を分類し、対策候補を書き、能力強化方針を立てる。

 恐怖を情報に変える。

 情報を行動に変える。

 行動を積み重ねて、未来の被害を減らす。

 それが、自分のやることだ。

 

 大きなことを言っているようで、実際には小さい。

 今日できることは、紙に書くことくらい。

 明日できることは、訓練を少し増やすことくらい。

 次の任務で、搬送路を少し丁寧に見ることくらい。

 

 けれど、それでいい。

 いきなり瀞霊廷を変えようとすれば潰れる。

 いきなり隊長格に近づけば怪しまれる。

 いきなり藍染の未来を語れば終わる。

 

 だから、下から積む。

 見えにくい場所から変える。

 四番隊の下級死神として、不自然でない範囲で。

 

 シュシュは、最後にもう一枚紙を出した。

 そこに大きく書く。

 

『当面の目標』

 

 一、夢日記の整理。

 二、今回の事件に関する現実記録の完成。

 三、四番隊内で通せる小改善案の作成。

 四、自身の基礎能力強化計画。

 五、夢に出た未確認事項の危険度分類。

 六、誰にも話さない。

 

 最後の項目で、筆が止まった。

 誰にも話さない。

 それは合理的だ。

 しかし、ずっとひとりで抱え続けられるのか。

 

 ミツルの顔が浮かぶ。

 上席の隊士の顔も浮かぶ。

 信頼できそうな相手はいる。だが、信頼できることと、巻き込んでよいことは別だ。

 

 今はまだ、話さない。

 もっと情報を整理してから。

 もっと自分が強くなってから。

 話すことで状況が良くなると判断できるまでは。

 

 シュシュは、その下に小さく書き足した。

 

『共有は、必要性と安全性が確認できるまで保留』

 

 判断保留。

 また同じ言葉だ。

 だが、今度の保留は逃避ではない。

 条件を定めた上での保留だ。

 そう考えると、少しだけ納得できた。

 

 夜が深くなっていた。

 外の騒ぎは、少しずつ遠のいている。

 瀞霊廷は傷ついたが、動いている。

 四番隊も、まだ動いている。

 シュシュも、まだ動ける。

 

 それなら、始められる。

 

 彼女は夢日記の束を、分類ごとに分け始めた。

 悪夢の記録だった紙束が、少しずつ別の形を取っていく。

 

 確認済み事項。

 未確認事項。

 危険人物。

 被害要因。

 対策候補。

 能力強化。

 

 それはまだ粗い。穴だらけで、推測も多く、実行できるかどうかもわからない。

 だが、何もしないよりはましだった。

 

 織原シュシュは、筆を握る手に力を込めた。

 夢を見た。

 現実になった。

 怖かった。

 なら、次は対策する。

 ただそれだけの話だ。

 

 彼女は、最後に小さく一文を書いた。

 

『私は英雄ではない。だが、ここが壊れると困る。だから、準備する』

 

 書き終えた時、胸の奥の重さが少しだけ形を変えた。

 恐怖は消えない。

 不安も消えない。

 だが、行き先はできた。

 

 織原シュシュは、夜明けまで紙束を整理し続けた。

 瀞霊廷のどこかで、壊れた壁を直す音がしている。

 

 その音を聞きながら、彼女は思った。

 直せるうちは、まだいい。

 壊れた後に直すのではなく、壊れ方を減らす。

 そのために、全部使う。

 

 夢も、記録も、恐怖も、自分自身も。

 

 こうして、織原シュシュの夢日記は、悪夢の記録から、被害を減らすための対策記録へと変わり始めた。

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