織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

68 / 68
067島津を親戚化

大阪城の奥の座敷は、広間の仕置よりよほど息が詰まる。

 

広間では、人が多い。

視線も散る。

声も熱に紛れる。

だが、こういう奥は違う。

要る者だけが残り、要る言葉だけが置かれる。

だからこそ、一つ一つが、そのまま刃になる。

 

つい先ほどまで、この部屋には龍造寺山城守殿、大友佐近衛少将殿、島津三郎左衛門尉殿がいた。

 

龍造寺家、大友家、そして島津家などの九州諸大名の地をどこまで残すか。

兵をどこまで削ぐか。

面目をどこで立て、どこで折るか。

そこまでは、公の顔で話せる。

 

三人が下がり、襖が閉まったあとの話は別だ。

表では決めきれぬが、決めねばならぬ。

そういう話になる。

 

上座に上総介兄上。

その少し下に勘十郎兄上。

俺は、その二人の前へ膝を進めていた。

 

上総介兄上が言う。

 

「で、治部。まだ何かある顔だな」

「ございます」

 

勘十郎兄上が、横で小さく鼻を鳴らした。

 

「こういう時の治部は、たいてい碌でもないものを拾って来る」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めてはいない」

 

そこは流して、俺は最初から本題を出した。

 

「島津中務大輔殿の件にございます」

 

上総介兄上の目が、わずかに細くなる。

 

「何だ」

「那古野織田家の晴姫を、中務大輔殿へ入れたく存じます」

 

勘十郎兄上の視線が、少しだけ上がった。

上総介兄上は何も言わず、先を促す。

 

「理由は」

「二つございます。まず、中務大輔殿の武は惜しゅうございます。刑部家の武辺を厚くするには、あれほど噛み合う方も多くはございません。もう一つは、島津を一本ではなく、二本三本で結ぶためにございます。三郎左衛門尉殿は三郎左衛門尉殿、左衛門督殿は左衛門督殿として扱うべきですが、中務大輔殿は刑部家へ深く寄せる形が最も効きます。晴姫であれば、格も悪くなく、ただの人質婚とは見えませぬ」

 

勘十郎兄上が、静かに言った。

 

「晴姫なら筋は通る。那古野の娘をやるなら、島津も軽んじられたとは思うまい。そのうえ中務大輔を刑部家へ寄せる導線にもなる」

「左様にございます」

 

上総介兄上は、ほんの一拍だけ考える顔をした。

だが、長くは引っ張らなかった。

 

「よい。晴姫は中務大輔へやれ」

 

思ったよりも早く通った。

早すぎるほどだった。

 

「ありがたく存じます」

 

頭を下げかけた、その時だった。

 

「では、お糸を右衛門佐へやれ」

 

頭の中で、何かが止まった。

 

今、何と仰った。

 

たぶん、間は一瞬だった。

だが、こちらの感覚では、その一瞬だけが妙に長かった。

 

「……お待ち下さいませ」

 

ようやく出た言葉は、それだった。

怒鳴りたくはあった。

だが、怒鳴ったところで話が軽くなるだけだ。

だから声は押さえた。

押さえたが、硬くなったのは自分でも分かった。

 

上総介兄上は、平然としている。

 

「何を待つ」

「晴姫の件は、私から上げた話にございます」

「うむ」

「中務大輔殿を刑部家へ引くための筋にございます」

「うむ」

「ですが、何故そこでお糸が出て参るので」

「右衛門佐が余るだろう」

 

あまりにも平然と仰るので、かえって言葉に詰まった。

 

「……その仰いようは、さすがに雑に過ぎます」

「雑ではない。中務大輔だけを取って、右衛門佐を宙へ浮かせる方が雑だ」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに割って入る。

 

「治部。言いたいことは分かる。だが、島津を二本取るなら右衛門佐も押さえるのが筋だ。そのうえ右衛門佐は、ただ遊ばせておくには惜しい。治部家と藤左衛門家の線へ深く結んだ方がよい」

「それは承知しております」

「なら話は早い。お糸が最も強い札だ」

「しかし、お糸は某の妹にございます」

 

勘十郎兄上が、わずかに眉を動かした。

 

「分かっている。だからだ」

「だから、でございますか」

 

「そうだ」

上総介兄上が、そこで少しだけ身を乗り出した。

「治部。お前、自分で今まで何度、人を婚姻で結んで来た。武田、浅井、北畠。最上に伊達に佐竹もだ。相手に最も効く札を見て、切って来たのはお前だろう。今さら自分の番だけ嫌だと言うのか」

 

そこは、刺さった。

 

刺さったが、だからといってそのまま呑み込めるかと言えば別だ。

 

「嫌にございます。理は分かります。筋も分かります。右衛門佐殿を深く結ぶ価値も承知しております。ですが、お糸は別にございます」

 

上総介兄上の口元が、ほんの少しだけ上がる。

 

「溺愛しておるからか」

「しております。悪いことでございましょうか」

 

部屋の空気が、そこでぴたりと止まった。

 

勘十郎兄上が、露骨に嫌な顔をした。

 

「そこは、少しは誤魔化せ」

「誤魔化して何になります。今さら取り繕っても、兄上方には意味がございません。私は糸が可愛い。晴姫の件は頭で出しました。ですが、お糸の件は頭だけでは呑みきれませぬ」

 

そこまで言うと、上総介兄上は笑わなかった。

笑わず、ただこちらを見た。

 

「なら、なおさらだ。右衛門佐昌久は、お前が飼いならせ」

「その仰いようは、いかがなものかと存じます。人を犬猫のように」

「お前も普段、似たようなことは言うだろう」

「申しておりますが、今はそういう話ではございません」

 

勘十郎兄上が、そこで補った。

 

「要するにだ。右衛門佐は、嫁を取らせて島津へ返せばよい相手ではない。治部家と藤左衛門家の線で、婚姻の先まで含めて繋ぐ。そういうことだ。お糸をやるなら、その先も含めてお前が見ろ。兄上の言う『飼いならせ』は、その意味だ」

「面倒を見ること自体は、申すまでもなく致します。しかし、それと今この場で平然と呑めるかどうかは別にございます」

 

勘十郎兄上は、そこでほんの一拍だけ間を置いた。

その一拍で、最後の線を切ったのだと分かった。

 

「決定だ」

 

短かった。

だが、それで十分だった。

 

俺は、その一言で、本当に言葉がなくなった。

 

上総介兄上は平然としている。

勘十郎兄上は、もう次のことを考えている顔だ。

二人とも、分かった上で切った。

 

中務大輔殿は刑部家へ。

右衛門佐殿は治部家と藤左衛門家へ。

二本取る。

理としては、美しいほどに正しい。

 

正しいから、余計に腹が立つ。

 

「……あまりに酷うございます」

 

ようやく絞り出したのは、それだった。

 

上総介兄上が鼻で笑う。

 

「今さらだろう。お前が普段、人にやっておることを、今日はお前へ返しただけだ」

 

勘十郎兄上が、最後に少しだけ声を落とした。

 

「治部。お前が嫌がるのは分かる。だが、嫌でも通すべき婚姻はある。今日はそれだ」

 

そこまで言われると、もう返しようがなかった。

 

理で負けた。

筋で押し切られた。

しかも押して来たのが、よりによって上総介兄上と勘十郎兄上だ。

 

俺は深く息を吐いて、それから頭を下げた。

 

「……承知仕りました」

「よし。晴姫は中務大輔。お糸は右衛門佐。細目は勘十郎が仕切る。治部、お前はそのあと右衛門佐をちゃんと使え」

「承知しております」

 

その返事は、たぶんひどく硬かった。

だが、それ以上はどうしようもなかった。

 

書院を下がる間際、勘十郎兄上が言った。

 

「今日は、ほどほどにしておけよ」

 

俺は振り返らなかった。

 

「……難しいかと存じます」

 

それだけ返して、廊へ出た。

 

夜の大阪城は、妙に静かだった。

だが、腹の中だけは、ひどく騒がしい。

 

晴姫の輿入れは正しい。

お糸の輿入れも正しい。

正しいから、最悪だ。

 

俺はそのまま、自分の部屋ではなく、酒のある方へ足を向けた。

 

どうせ今夜は、素面で眠れるはずがなかった。

 

 

夜の廊は、酒の匂いを隠してくれない。

 

一歩ごとに、自分がどれだけ飲んだかが分かる。

足はちゃんと動いている。

壁にもぶつからない。

だが、腹の中だけが、どうしようもなく駄目だった。

 

真理姫の部屋の前で、一度足が止まる。

 

この時間に来るのは、少し迷った。

迷ったが、他へ行く気にもなれなかった。

お市のところへ行けば、たぶん俺はもっと駄目になる。

真理姫なら、違う。

そう思った。

 

「……真理」

 

呼ぶと、少し間があってから、障子の向こうで衣擦れがした。

 

「治部殿でしょうか。お入り下さいませ」

 

障子を開けると、真理姫は灯りを落とした部屋で座っていた。

もう寝支度に入っていたのだろう。

だが、こちらを見る目はしっかりしている。

酔っている俺を見ても、まず困った顔はしない。

そこが真理姫らしかった。

 

「……随分とお飲みになりましたね」

「分かる?」

「分かります。歩けているのに、目元だけがひどうございます」

「厳しいな」

「武田の姫ですので」

 

少しだけ笑われた。

責めるでもなく、甘やかすでもない。

その笑い方が、今夜はありがたかった。

 

真理姫が、自分の前へ座布団を少し寄せる。

 

「こちらへ」

「いいの?」

「そこまで来ておいて、今さらでございます」

 

その返しに、少しだけ息が漏れた。

貼り詰めていたものが、一枚だけほどける。

 

「真理」

「はい」

「今夜、かなり駄目かもしれない」

「そのようでございますね」

「ばっさり行くな」

「曖昧にしても仕方がございません」

 

そこで、また少し笑ってしまう。

笑えているうちは、まだ大丈夫だと思えた。

 

しばらく黙っていたあと、真理姫が静かに口を開いた。

 

「治部殿」

「うん」

「今夜は、私から申し上げたいことがございます」

「真理から?」

「はい」

「……聞く」

「ありがとうございます」

 

真理姫は、一度だけ膝の上で指を重ねた。

それから、まっすぐこちらを見る。

 

「私は、こちらへ来た時、とても怖かったのです」

「……」

「武田の姫として木曾へ行き、そして戻され、今度は織田へ来る」

「……」

「頭では、家と家の間で動くものだと分かっておりました。ですが、分かっていても、怖いものは怖かった」

 

俺は何も挟まなかった。

真理姫が自分から話し始めた時は、途中で手を入れない方がいい。

それは、もう分かっている。

 

「ここでもまた、私は外交の札として使われるのだろうと思っておりました」

「……」

「武田の姫として扱われることはあっても、真理として見られることはないのではないかと」

「……」

 

胸の奥が少し痛む。

だが、それは当然の痛みだった。

 

「でも、違いました」

真理姫はそう言って、少しだけ微笑んだ。

「治部殿は、私が田代へ着いた時、甲斐の味で迎えて下さいました」

 

「……」

「しのが泣きそうになっておりました」

「そうだったな」

 

「私も、少し」

真理姫は小さく笑う。

「泣きそうでございました」

 

あの時のことは、今でも覚えている。

甲斐から来た姫が、いきなり見知らぬ味ばかりではきつい。

少なくとも、そのくらいのつもりだった。

 

「大したことじゃない」

 

そう言うと、真理姫は静かに首を振った。

 

「大したことでございました。木曾では、甲斐を懐かしむことすら、どこか許されぬような気がしておりました。でも、田代城では違った。甲斐を捨てなくてよいのだと、そう言って頂けた気がしたのです」

 

そこまで言われると、少し困る。

立派なつもりでやったわけじゃない。

だが、受け取った側にとっては、それだけの意味があったのだろう。

 

真理姫は続ける。

 

「それだけではございません。治部殿は、私を急がせませんでした」

「……」

「妻としてここへ入ったのに、すぐに妻として扱おうとはなさらなかった。年が足りないからと、きちんと線を引いて下さった」

「うん」

「木曾では、それは当たり前ではありませんでした。ですから、待って頂けたこと、それだけでなく、待つ間に、私がここにいてよいのだと思わせて下さったこと」

「……」

「それが、ずっと支えになっておりました」

 

部屋の灯りが小さく揺れる。

真理姫の声は静かだった。

だが、その静けさの下に、長く抱えていたものの重みがあった。

 

「お市様が受けて下さって、しのがいて、皆がいて、それでも一番は」

真理姫はそこで少しだけ息を整えた。

「治部殿が、私を外交の道具ではなく、人として扱おうとして下さったことでございます」

 

「……」

「それが、嬉しかった」

「……」

「ありがたかった」

「……」

 

「そして、やがて」

真理姫は視線を逸らさなかった。

「愛することができるようになりました」

 

言葉が、少し遅れて胸へ落ちた。

 

「真理」

「はい」

「今の、かなり重いこと言ったよ」

「承知しております」

「……」

「でも、きちんと申し上げたかったのです」

 

俺は、少しだけ息を吐いた。

うまく言葉が出て来ない。

嬉しい。

それは間違いない。

だが、今の俺には、その嬉しさの中へ、別の痛みも混じっている。

 

真理姫は、そこも見抜いたらしい。

 

「今夜の治部殿は、糸姫様のことで沈んでおられるのでしょう」

「……うん」

「理は分かる。筋も分かる。けれど、割り切れない」

「そう」

「それでも、私は申し上げたかったのです」

「何を」

「政略結婚でこちらへ来た私が、今こうして治部殿を愛していることは、治部殿が私を人として迎えて下さったからだ、と」

 

喉の奥が詰まる。

真理姫は、そこで言葉を止めなかった。

 

「ですから」

「……」

「糸姫様も、きっと全部を失うわけではございません」

「……」

「大事にされて育ち、気にかけられ、送り出されること。それ自体は、女子にとって決して小さなことではない」

「……」

「そして治部殿が今、こうして痛んでおられることも、きっと無意味ではございません」

 

「因果応報かなって思った」

ぽつりとそう言うと、真理姫は少しだけ目を細めた。

 

「少しは、そうなのかもしれませぬ」

「やっぱり?」

「ですが、それだけではございません」

「……」

「治部殿は、人をただ外交のために遣い捨てにして来たのではないでしょう。筋を通し、なるべく人として収まる場所を作ろうとして来た。だからこそ、今、こうして痛む」

「……」

「その痛みまで含めて、私は治部殿をお慕いしております」

 

そこまで言われると、もう駄目だった。

泣くほどではない。

だが、さっきまで胸の中に立っていた角が、少しずつ丸くなる。

 

「真理」

「はい」

「ありがとう」

「何に対してですか」

「甲斐の味のことを、そんなふうに受け取ってくれてたこと。待ったことを、ただ待たされたとは思わなかったこと。あと」

「……」

「俺を愛せるようになったって、今、ちゃんと言ってくれたこと」

 

真理姫は、少しだけ頬を染めた。

でも、逃げなかった。

 

「感謝しております」

「……」

「本当に」

「……」

「政略で参ったことは、変わりません」

「うん」

「でも、今の私は、それだけではございません」

「……」

「治部殿の妻であることが、嬉しいのです」

 

そこで、たぶん初めて、今夜ちゃんと息が吸えた。

 

真理姫が、そっと手を伸ばして、俺の袖に触れる。

昔なら、もっと躊躇っただろう。

今は違う。

その違いが、やけに嬉しい。

 

「治部殿」

「うん」

「こちらへ」

 

促されるまま、少し身を寄せる。

真理姫は驚かず、そのまま受けた。

肩へ額が触れる。

あやすでもなく、子ども扱いするでもなく、ただそこにいてくれる。

その静かな近さが、今夜は何よりありがたかった。

 

「少しだけ、弱くてもよろしいかと」

「……そうする」

「はい」

「真理」

「何でございましょう」

「今、かなり救われた」

「それは、よろしゅうございました」

「でも」

「はい」

「それだけじゃ、もう足りないかもしれない」

 

真理姫の肩が、ほんの少しだけ揺れた。

それは逃げる揺れではなく、受け取った揺れだった。

 

「治部殿」

「うん」

「今夜は、まだお辛いのでしょう」

「辛いよ」

「……」

「でも、お前のことは、ちゃんと好きだ」

「はい」

「いや、好きというだけじゃ足りないな」

「……」

 

「抱きたい」

言ってから、少しだけ息を呑む。

「嫌なら、今すぐ引く」

 

真理姫は、しばらく黙っていた。

その沈黙は長くはない。

だが、短すぎもしない。

ちゃんと、自分の中で受け止めてから返す沈黙だった。

 

やがて、真理姫が小さく言う。

 

「嫌ではございません」

「……」

「怖くも、もうございません」

「……」

「治部殿だから」

「……」

「今夜は、私も、そうして頂きとうございます」

 

胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 

俺は顔を上げる。

真理姫も、逃げずに見返して来る。

その目は、もう札として差し出された姫の目ではなかった。

自分で選んで、ここにいる女の目だった。

 

「真理」

「はい」

「ありがとう」

「そのお言葉は、もう十分に頂きました」

「でも言いたい」

 

「では」

真理姫は少しだけ笑った。

「今夜は、何度でもお聞き致します」

 

その笑みに、こちらも少しだけ笑う。

さっきまでの痛みが消えたわけではない。

けれど、その痛みの上に、別の温度が重なり始めていた。

 

灯りは低い。

夜は静かだった。

 

真理姫の頬へ触れる。

真理姫は目を閉じず、先に少しだけこちらへ寄って来た。

その距離の詰め方が、何より嬉しい。

 

障子の外では、風がひとつ、やわらかく鳴った。

 

今夜はもう、理屈はいらない。

感謝も、後悔も、愛しさも、そのまま抱えて、夫婦として戻ればいい。

 

真理姫の手が、そっとこちらの袖を掴み直す。

俺はその手を取って、静かに寝所の方へ身を寄せた。

 

 

昨夜のことは、ところどころしか覚えていない。

 

覚えているのは、上総介兄上の

「ではお糸を右衛門佐昌久に嫁がせる」

という一言と、俺がそれへ食い下がったこと。

それを勘十郎兄上が、

「決定だ」

と切ったこと。

そこまでだ。

 

その先は、酒だ。

 

どうやって自分の部屋まで戻ったのかも曖昧で、朝になって頭を起こした時には、喉は焼けるようで、胃は空っぽなのに重かった。

 

それでも、婚礼当日に寝ているわけにはいかない。

 

瀬田城の空は、高く晴れていた。

湖から上がる風が、祝いの日にしては妙に冷たい。

いや、冷たいのはたぶん風のせいだけじゃない。俺の腹の底が、まだぐずぐずしているからだ。

 

晴姫が嫁ぐ。

中務大輔家久へ。

 

お糸が嫁ぐ。

右衛門佐昌久へ。

 

頭では分かる。

どちらも筋は良い。

島津を結ぶには、これ以上ないくらいに良い。

家久は刑部家へ引ける。

昌久は治部家と藤左衛門家の線へ、深く、静かに入る。

 

分かっている。

だが、分かっていても、嫌なものは嫌だ。

 

「ひでえ顔だな、治部殿」

 

振り向くと、慶次郎がいた。

 

「うるさい」

「昨夜、どれだけ飲んだ」

「知らない」

「知らないって顔じゃねえぞ。覚えてねえって顔だ」

「……」

「当たりだな」

 

慶次郎は肩を揺らして笑った。

こいつは本当に、こういう時だけ遠慮がない。

 

「まあ、今日はしゃんとしろ。あんたがそんな顔してたら、糸姫様が泣く」

「泣かないだろ、あの子は」

「泣かなくても、見て心配する」

「……」

「だから立て」

 

そこは、返す言葉がなかった。

 

婚礼のために瀬田へ入った島津勢は、予想以上に大きかった。

義久殿、義弘殿、歳久殿、家久、昌久。

そこへ父の貴久殿。

さらに祖父の忠良殿まで来た。

 

城門の前に並んだ時、さすがに少し目を疑った。

 

重い。

並びが重い。

 

義久殿の静かな重さ。

義弘殿の、前へ出る者の圧。

歳久殿の冷えた刃。

家久の火。

昌久の腹の深さ。

そこへ、貴久殿の家長としての厚み。

そして忠良殿。

 

忠良殿は、思っていたよりもずっと小さく、だが妙に目が生きていた。

老いたから枯れた、という感じがない。

むしろ、乾いた薪のまま、火の入り方だけを待っているような顔だ。

 

「治部大輔殿」

と、忠良殿が言った。

 

「は」

俺は一礼した。

 

「此度は、孫どもが世話になる」

「もったいなきお言葉にございます」

 

「いや」

忠良殿は、そこでふっと笑った。

「こちらも、面白き縁を得た」

 

その一言だけで分かった。

この人、まだ全然、隠居の顔で終わるつもりがない。

 

婚礼そのものは、きわめて筋を通して進んだ。

 

晴姫は、朝の光の中にいると、年より少し幼く見えた。

だが、顔を上げた時の目はしっかりしている。

自分がどこへ嫁ぐのか。

何を結ぶのか。

その重さは、ちゃんと分かっていた。

 

家久は、最初のうちこそ少し居心地悪そうだった。

ああいう男は、戦場では躊躇わないくせに、こういう晴れの場では妙に落ち着かなくなる。

だが、晴姫が真正面から頭を下げた時、家久の顔もすっと締まった。

 

「中務大輔殿」

と晴姫が言う。

「不束か者にございますが」

 

家久は、ほんの一拍遅れて答えた。

 

「こっちも不束じゃ。じゃっど」

そこで少しだけ笑う。

「そいでちょうどよか」

 

晴姫の口元も、わずかに動いた。

 

ああ、これは大丈夫だ、と思った。

少なくとも、最初の一歩は。

 

問題は、やはりお糸の方だった。

 

お糸は、昔から俺に懐いていた。

いや、懐いていたどころじゃない。

勝手に膝へ乗って来るし、勝手に袖を引くし、こっちが疲れていると妙に静かに寄って来る。

俺が甘やかした。

それは否定しない。

否定できない。

 

そのお糸が、今日は髪を結い上げ、きちんと化粧をされ、じっと前を向いていた。

 

「糸」

と、思わず小さく呼んでしまった。

 

すると、あいつは一瞬だけこっちを見て、それから困ったように笑った。

子どもの頃と同じ顔で。

 

その顔をされたら、駄目だろうが。

 

「治部」

と、横から勘十郎兄上が低く言った。

 

「何でしょう」

「顔に出すな」

「……出てます?」

「かなり」

「ひでえな」

「お前がな」

 

そこで切られて、ようやく俺は息を吐いた。

 

右衛門佐昌久は、そんなこちらを見ていた。

見ていたが、変に気を遣うでもなく、かといって何も感じていない顔でもない。

あの男は、こういう時が嫌らしい。

ちゃんと分かっていて、黙る。

 

やがて、お糸が前へ出た。

右衛門佐昌久も出る。

 

盃が並ぶ。

祝言の言葉が置かれる。

 

そして、糸姫が頭を下げた。

 

「未熟者にございますが、どうかよろしくお願い致します」

 

昌久も頭を下げる。

 

「右衛門佐昌久、お受け仕る」

「……」

「必ず、粗略には致しませぬ」

 

その一言は、短かった。

だが、余計な飾りがない分だけ重かった。

 

俺は、その時ようやく、こいつで良かったのかもしれないと思った。

 

家格。

政略。

筋。

そういうものだけなら、他にも選びようはあった。

だが、お糸を預ける相手として、少なくとも昌久は、分かっている。

人の重みも、家の重みも、そして今、俺がどんな顔をしているかも。多分、特異点として、俺が大事にして欲しい部分も。

 

全部分かった上で、

「粗略には致しませぬ」

とだけ言った。

 

それが、かえって効いた。

 

婚礼が一段落したあと、宴の空気は少し緩んだ。

義弘殿は酒が入ると、やはり前へ出る。

家久は晴姫の方をちらちら見ては、慶次郎に肘で小突かれていた。

歳久殿は静かだが、目だけはよく動いている。

義久殿は相変わらず重い。

重いが、今日はどこか納まっていた。

 

問題は、そのさらに奥だ。

 

道三が来た。

元就がいた。

そこへ忠良殿が座った。

 

嫌な予感しかしない。

 

三人とも、歳は食っている。

だが、枯れていない。

しかも全員、家を一度以上、本気で立て直した側の男だ。

柔らかく笑っていても、中身が全然柔らかくない。

 

道三が、茶を啜るみたいな顔で酒を見た。

 

「薩摩の御隠居と、安芸の御隠居と、美濃の御隠居か。何やら、名ばかりは立派じゃの」

 

元就が、すぐに返した。

 

「立派なのは名ばかりでなく、厄介さもでござろう」

 

忠良殿が、そこで小さく笑った。

 

「それは、三人とも同じよ」

 

やめろ。

そこで意気投合するな。

 

俺が嫌な顔をしたのが分かったのか、元就がこっちを見た。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「案ずるな」

「何をです」

「まだ国は盗らぬ」

「まだ、って言ったな今」

 

道三が肩を揺らす。

忠良殿まで笑っている。

 

「瀬田にて杯を交わしたのも縁よ」

と忠良殿。

「互い、そう易々とは死にきれぬ身じゃ。ならば、見届けようではないか。この若い連中が、どこまで世を組み替えるかを」

 

元就が、盃を持ち上げた。

 

「よかろう。薩摩、美濃、安芸、流れ着く先は違えど、面白きものを見る目は同じか」

 

道三も盃を上げる。

 

「では、せっかくじゃ。長生き比べといこうかの」

 

忠良殿も、静かに盃を持った。

 

その三つが、同じ高さで止まった時、背筋が少し寒くなった。

 

桃園の誓いならぬ、瀬田の杯だ。

しかも若武者ではない。

若武者よりよほど始末の悪い、老獪三人の。

 

「……やばい三人が揃ったな」

と、思わず漏れた。

 

勘十郎兄上が、すぐ横で頷く。

 

「うむ」

「しかも全員、暇だけは持て余している」

「最悪だな」

「今さら気づいたか」

 

上総介兄上は、そこから少し離れた位置で、その様子を見て笑っていた。

 

「よいではないか」

「治部」

「何が」

「長老が増えた」

「いらねえですよ、こんな濃いの」

「だが、お前向きだろう」

「どこがですか」

「厄介ごとを家へ変えるところが」

 

その一言に、返す言葉がなくなった。

 

忠良殿は、その瞬間のうちに半分決めたような顔をしていた。

薩摩へ戻る隠居の顔ではない。

瀬田へ残り、道三や元就と並んで、好き勝手言う未来がもう見えている顔だ。

 

最悪だ。

だが、悪くない。

 

晴姫は家久の隣で、もう少しだけ落ち着いた顔をしていた。

お糸は、昌久の横で静かに座っている。

昌久も、妙な緊張は解けていた。

義久殿は重く、義弘殿は豪く、歳久殿は鋭く、それぞれのままだ。

 

婚礼は、人を変えない。

だが、人と人の間に、切れない筋を一本通す。

 

その一本が、今夜、瀬田城には二本通った。

そしてその奥で、いらぬ長老三人まで妙な杯を交わした。

 

俺は盃を取り上げて、一息に呷った。

 

「治部」

と勘十郎兄上が言う。

「今さらまた飲むのか」

 

「飲みますよ。今日は理由が多すぎる」

 

「なるほど」

兄上は、少しだけ笑う。

「では潰れるな」

 

「無理かも」

「だろうな」

 

その返しに、俺も苦く笑った。

 

瀬田の夜は長い。

だがたぶん、この夜を境に、島津はもう遠い南の大名家だけではなくなる。

家久は刑部家へ。

昌久は治部家と藤左衛門家の線へ。

忠良殿は、あの三人の輪へ。

 

本当に、面倒は増える一方だ。

けれど、それでも、こうして筋を通して人を結ぶしかないのだと、酔い始めた頭のどこかではちゃんと分かっていた。

 

 

祝いの座は、めでたいくせに、俺には少しだけ堪えた。

 

お糸が嫁いだ。

分かっていた。

決まった時から、何度も頭の中でそう言い聞かせていた。

だが、いざこうして盃が並び、笑い声が立ち、皆が「よう収まった」と晴れやかな顔をすると、胸の奥だけが妙に静かにならない。

 

お糸は、もう右衛門佐殿の側にいる。

装いも、座る位置も、さっきまでとは違う。

俺の目には、ついこの前まで袖を引いて来た小娘のままなのに、周りはきちんと「嫁いだ姫」として見ている。

 

その、こちらの腹の具合など知ったことではない、というような頃合いである。

右衛門佐殿が、盃を置いて、こちらへ向かってきっちり頭を下げた。

 

「義兄上」

 

その一言で、周りが少しだけ静まった。

いや、静まったというより、面白いものを見つけた顔になった。

 

まず反応したのは龍造寺山城守だった。

にやりと、実に嫌な笑い方をする。

 

「お前もようやく気持ちが分かったか!」

 

やめろ。

そこを刺すな。

分かっている。

分かっているから余計に痛い。

 

俺は山城守の方を見た。

 

「山城守、飲むぞ。逃がさんからな!」

「おう、来い来い。今日は負けんぞ」

「負ける負けんの話ではございません。付き合えと申しているのです」

「怖い怖い。花婿より、花婿の義兄の方がよほど怖いわ」

 

周りがどっと笑う。

笑うが、笑いながらも皆、こっちを見ている。

俺がどこで本気になるか、たぶん見物しているのだ。

 

右衛門佐殿は、そこへ妙に落ち着いた顔で座り直した。

こいつ、こういう時に変に狼狽えないから困る。

 

俺はその前へ盃を置いた。

 

「右衛門佐殿」

「はい、義兄上」

「その呼び方は、いちいち俺の心へ来るので、ほどほどにして頂きたい」

「では、義兄上殿に致しましょうか」

「悪化しとるだろうが」

 

また笑いが起きる。

右衛門佐殿は、ようやく少しだけ口元を緩めた。

 

そこで俺は、笑いに乗せたまま、しかし目だけは外さずに言った。

 

「お前、糸を大事にしろよ。泣かせたら、ふんどし一丁で関門海峡を泳がせるからな!」

「いや、女子を泣かせる趣味はありませんから、義兄上」

「趣味の話ではないん。結果の話をしているのだ」

「では結果としても、そのようなことには致しませぬ」

 

即答だった。

それが少し癪で、少しありがたい。

 

横から山城守が、面白がるように口を挟む。

 

「だいたいお主、子は作れるのか!?」

 

座が、今度は別の意味でざわついた。

おい。

そこを聞くか。

いや、聞きたくなる気持ちが分からんでもないが、祝いの席で開口一番に言うことではない。

 

だが、右衛門佐殿は眉一つ動かさなかった。

 

「下半身不随ですが、そちらは大丈夫です」

 

あまりにも平然としているので、今度は笑う間も一拍遅れた。

それから、誰かが吹き出し、山城守が膝を叩き、座が一気に崩れた。

 

「おい右衛門佐、お前そういうのを真顔で返すな!」

「問われましたので」

「そこは少し照れるとか、怒るとか、あるだろうが」

「事実を述べただけにございます」

「可愛げがない!」

「義兄上、今のは山城守への苦情であって、私への苦情ではないように聞こえますが」

「半分はそっちだよ」

「半分もございますか」

 

また笑いが立つ。

お糸も、さすがに顔を伏せて肩を震わせていた。

恥ずかしいのか、可笑しいのか、その両方だろう。

 

俺は、盃をあおってから、もう一度右衛門佐殿を見る。

 

「じゃあ早く甥っ子か姪っ子を見せやがれ!」

「順番が少々荒っぽうございますね」

「うるさい。そこは急げ」

「義兄上」

「何だ」

「それは、糸姫様へ申されるべきではなく、まず私へ酒を注いでから仰る台詞かと存じます」

「注文が多いな、お前は」

「本日は花婿にございますので」

「……糸」

 

呼ぶと、お糸がようやく顔を上げた。

頬が赤い。

酒のせいだけではないだろう。

 

「はい、兄上」

 

その返事に、胸の奥が少し痛む。

もう本当に、嫁いだのだ。

 

だが、ここで曇るのは違う。

違うのは分かっている。

だから、なるべく口元だけは崩さずに言った。

 

「右衛門佐殿は、口は少し足りないが、腹は据わっておる。たぶん大丈夫だ。だが、何かあったら金玉蹴り上げて戻って来い。いや、戻る前にまず言え。俺が飛ぶ」

 

お糸は、一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。

 

「はい。でも、たぶん大丈夫です」

「何で分かる」

「兄上が、あれだけ見たうえで託したので」

 

そこをそんなふうに返されると、少し困る。

こっちはまだ、託したというより、半ば奪われた気分が抜けていない。

 

右衛門佐殿が、そこで静かに頭を下げた。

 

「義兄上」

「今度は何だ」

「お預かり致します、では足りませぬな」

「足りん」

「では、守ります」

 

座の空気が、少しだけ締まる。

さっきまで笑っていた山城守まで、そこで口を挟まなかった。

 

「糸姫様が、この先も、ここへ来てよかったと思えるように致します」

 

飾り気のない言い方だった。

気の利いたことを言おうとしていない。

だからこそ、真っ直ぐ来る。

 

俺は、しばらく黙って、それから盃を取り上げた。

 

「……よし」

「はい」

「その言葉、ゆめ忘れるな」

「忘れませぬ」

「忘れたら」

「ふんどし一丁で関門海峡、でございましょう」

「分かってるならよろしい」

 

そこでようやく、こちらも少しだけ笑えた。

山城守がまた肩を揺らす。

 

「いやあ、めでたい席だ。こんなに物騒な祝言の言葉も珍しか」

「山城守」

「何だ」

「まだ飲み足りません」

「おう、来い。今日はとことん付き合う」

「逃げたら追います」

「だから怖か言うとる!」

 

笑いが、今度はさっきより自然に広がった。

お糸も、右衛門佐殿の横で、もうだいぶ落ち着いた顔をしている。

 

その顔を見て、ようやく少しだけ思う。

ああ、たぶん大丈夫だ、と。

 

寂しい。

それは寂しい。

だが、ただ奪われたわけではない。

ちゃんと、渡す相手を見て、渡したのだ。

 

俺は盃を持ち上げた。

 

「では、改めて」

皆がこちらを見る。

「糸姫と右衛門佐殿に。末永く、仲良くやれ。あと早めに甥か姪を見せろ。以上です」

 

「最後が余計だ!」

と山城守が笑い、

 

「余計ではない」

と俺が返し、

 

「善処致します」

と右衛門佐殿が真顔で言った。

 

その返しに、座はまた大きく崩れた。

 

めでたい夜だった。

少しだけ寂しく、かなり騒がしく、だが間違いなく、めでたい夜だった。

 

 

宴席は、まだ続いていた。

 

さっきまでは、糸姫と右衛門佐殿を祝う座だった。

それは今も変わらない。

だが、酒が二巡三巡と進むうちに、膳の一角だけ、妙な熱を帯び始めていた。

 

送り出した側の男どもの席である。

 

上総介兄上と勘十郎兄上。

山城守。

備前守。

そして俺。

 

皆、立場も家も違う。

だが今夜ばかりは、妙に話が合う。

 

最初に口を開いたのは山城守だった。

 

「治部大輔、貴様の顔は実によく分かるぞ。めでたいくせに、腹の中だけ落ち着かぬ顔だ」

「山城守殿にだけは言われたくございません」

「何故だ」

「ほむら姫を送り出した時、山城守殿もたぶん同じ顔をしておられたからです」

 

山城守は一瞬だけ黙った。

それから、にやりと笑う。

 

「したとも! したに決まっておる! 家のためになる、相手も悪くない、妹も前を向いている。そこまで揃ってなお、何とも言えん気分になるのだ。あれは理屈では片付かん」

「今となっては分かります」

「分かるだろうが!」

 

上総介兄上が、そこで盃を揺らしながら笑った。

 

「山城守だけではない。わしも、お市をやった時は似たようなものだった」

 

勘十郎兄上がすぐに切る。

 

「似たようなもの、では済みません。兄上はもっと面倒でした」

「勘十郎」

「事実です。祝いの膳へ向かっておきながら、顔だけは半分戦の前でした」

 

座がどっと笑う。

上総介兄上は笑いながらも、少しだけ不満そうに盃を取った。

 

「お前たち、昔のことになると遠慮がないな」

「今夜の治部を見ていると、どうしても思い出しますので」

「勘十郎兄上まで、こちらを見本にされるのは不本意です」

「不本意でも何でも、分かりやすいぞ」

 

そこで、備前守が静かに盃を置いた。

 

「いや、治部殿の顔は、本当に分かる」

 

皆の目がそちらへ向く。

備前守は少しだけ笑った。

 

「鶴を送り出した夜、私もよく似た顔をしていたと思う。めでたいのは間違いない。相手も見て託した。家としても悪くない。だが、いざ座る場所が変わると、急に実感が来る」

 

「座る場所」

と山城守が頷く。

「それだ。まことそれだ」

 

「ええ」

と備前守。

「顔は見える。声も聞こえる。何も失ったわけではない。だが、もうこちらの並びではなく、あちらの並びで座っている。それだけで、妙に来るものがある」

 

「……それにございます」

と、思わず口から出た。

「頭では承知しておりました。承知しておりましたが、いざお糸が右衛門佐殿の隣へ座ると、胸のあたりだけ妙に騒がしくなりました」

 

勘十郎兄上が鼻で笑う。

 

「お前、さっき『少し来る』などと控えめに言っていたが、今の方がよほど本音だな」

「控えめにしようとは思っております」

 

「無理だな」

と上総介兄上。

「今夜は、どう繕っても無駄だ」

 

「兄上まで」

「わしと勘十郎は同じ側だぞ。お市もお犬も出した。別腹の妹たちも、結局はみな織田の姫だ。送り出すたび、多少なりとも腹は荒れる」

 

勘十郎兄上が、そこへ短く頷く。

 

「兄上ほど顔には出さぬつもりだが、なくはない」

 

「なくはない、では済まぬでしょう」

とこちらが言うと、

 

「治部、お前にだけは言われたくない」

と返って来た。

 

「今夜のこちらは、ほぼ被害者にございます」

 

「どの口が言う」

と上総介兄上が笑う。

「人の婚姻を散々まとめて来た男が、自分の番だけ被害者面するな」

 

「それは」

一度、盃をあおる。

「それは、まあ、否定しづらいですが」

 

山城守が大きく笑う。

 

「そこだ! 結局、これまで人へ言って来たことが、そっくり返って来るのだ!」

「因果応報というやつでしょうか」

「そうだ!」

 

「少し違いますな」

と備前守が静かに言った。

 

山城守がそちらを見る。

 

「何がだ」

「ただ返って来た、だけではないでしょう。我らは、ただ家のために姫を動かしたのではない。相手を見て、任せられるかどうかを見て、それで決めた。だからこそ、寂しくても、最後は止めきれない」

 

その言い方に、少しだけ座が静かになる。

 

上総介兄上が、盃の縁を指でなぞりながら言う。

 

「備前守の言う通りだな。どうでもよい相手なら、怒るだけで済む。だが、相手が良ければ、今度は怒る先がなくなる。だから余計に厄介だ」

 

「それです」

と俺は言った。

「こちらも、右衛門佐殿が悪い相手だと思っているなら、もっと単純で済んだのです」

 

そこで、右衛門佐殿が静かに頭を下げた。

 

「義兄上、それは褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか」

「半分はそうだ。半分は、こちらが厄介だという愚痴だ」

「では、ありがたく半分だけ頂きます」

「都合の良いところだけ拾うな」

「花婿の特権にございます」

 

お糸がそこで、とうとう笑いを堪えきれなくなった。

顔を伏せて肩を震わせている。

右衛門佐殿はその横で平然としている。

この落ち着きがありがたくもあり、少し腹立たしくもある。

 

山城守が、そんな右衛門佐殿を見て鼻を鳴らした。

 

「だが右衛門佐、お主もそのうち分かるぞ。今は迎える側だから平気な顔をしておるが、いずれ自分のところから出す時になれば、今のわしらの顔になる」

 

「その頃には」

と右衛門佐殿。

「今夜の言葉を思い出しながら飲めばよろしいのでしょうか」

 

「そうだ! 飲め!」

 

「山城守殿は、結局そこへ戻りますね」

と備前守が少し笑う。

 

「戻るとも。黙って抱えるより、飲んでぶちまけた方がまだ健全だ」

 

「健全かどうかは議論の余地があります」

と勘十郎兄上。

 

「あるか?」

「大いにあります」

 

そこで上総介兄上が、気分よさそうに盃を持ち上げた。

 

「だが、今夜に限っては、それでよい。祝いの席で、送り出した側の男どもが少々騒ぐくらい、罰は当たらぬ」

「少々、で済むかは怪しいですが」

「治部、お前も十分その中の一人だ」

「不本意です」

 

「もう何度目だ、その台詞は」

と勘十郎兄上。

 

「だって不本意ですので」

 

「だが誇らしくもあるのでしょう」

と備前守が言った。

 

そこは、すぐには返せなかった。

少し間を置いてから、盃を見たまま答える。

 

「……ございます」

 

山城守が、よしと頷く。

 

「それでよい。寂しいだけなら、送り出した甲斐がない。腹は痛む。だが、きちんと送り出せたなら、どこかで誇らしくもある。そこまで揃って、ようやく酒がうまい」

 

「山城守殿」

と俺は言う。

「今夜は、やけに良いことを申されますね」

 

「飲んでおるからな!」

 

「そこへ戻るのか」

と勘十郎兄上が呆れる。

 

右衛門佐殿が、そこで改めて盃を取り、こちらへ向けた。

 

「義兄上、上総介兄上、勘十郎兄上、山城守殿、備前守殿」

 

「何だ」

と上総介兄上。

 

「今宵こうしてお聞きしておりますと、姫を送り出す側が、ただ厳しく相手を見るだけでなく、最後にはきちんと祝いもするのだと分かります」

 

「祝いもする」

と山城守が笑う。

「しなければおさまらんからな」

 

「そして釘も刺す」

と勘十郎兄上。

 

「それも大事です」

と俺が言う。

「右衛門佐殿、お前にはもう刺したが、何度でも申すぞ。糸を大事にしろ」

 

「承知しております」

「泣かせるな」

「そのつもりはございません」

「子が出来たら、早めに顔を見せろ」

「そこは急ぎ過ぎでは」

「急ぎません」

 

お糸が、そこでようやく顔を上げた。

 

「兄上」

「何だ」

「皆さま、私がいなくなるようなお話ばかりですが、ちゃんと顔は見せに参ります」

「そういう問題ではないのだ」

「では、どういう問題ですか」

「座る場所が変わった」

 

糸姫は一瞬きょとんとして、それから、たまらないという顔で笑った。

 

「兄上、それは少し子供っぽうございます」

「うるさい」

 

「でも」

とお糸は右衛門佐殿を見てから、またこちらを見た。

「そのくらい惜しまれて嫁げるなら、私は幸せです」

 

そこで、皆すぐには口を挟まなかった。

 

上総介兄上が、ゆっくりと盃を持ち上げる。

「めでたいな」

 

「めでたいです」

と勘十郎兄上。

 

「めでたか」

と山城守。

 

「ええ」

と備前守。

 

「……めでとうございます」

と、こちらも言う。

 

寂しい。

それは寂しい。

だが、間違ってはいない。

そして、同じような夜を越えた男が、こうして目の前に何人もいる。

 

それだけで、少し救われる。

 

俺は盃を上げた。

 

「では、送り出した側の男どもに」

 

「括りが雑だ」

と勘十郎兄上。

 

「事実にございます」

 

「それならよい」

と上総介兄上が笑う。

 

「少し面倒になった兄どもに!」

と山城守が続ける。

 

「少しではない者もおりますが」

と備前守。

 

「かなりでもよろしい」

とこちらが返すと、座がまた笑いに崩れた。

 

盃が鳴る。

 

祝いの席は、まだ終わらない。

騒がしく、少し面倒で、それでも確かに、めでたい夜のままだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

科(化)学系チート持ち転生者のお話(作者:金属粘性生命体)(原作:多重クロスオーバー)

▼ 数百世紀先の技術と創作上の技術を持って転生した男の好き勝手生活。▼ ディストピアルート、闇堕ちルート、どちらから先に読んでも問題ないようになってます。作者の個人的には闇堕ちルートの方がおもろいと思う。▼(作者の架空科学なので一切整合性はとりません、雰囲気で読め)▼ オタクルートを外伝にしました。↓がリンクです▼ https://syosetu.org/n…


総合評価:3161/評価:7.56/連載:107話/更新日時:2026年05月06日(水) 10:00 小説情報

最強以外ありえない(作者:てんぞー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

 ―――遺産は最初にSランクマスターに至った俺の血を引く孫のものとする。▼ 馬鹿みたいな遺言を残してかつて最強の座に君臨した事のある男は死んだ。ダンジョンが存在し、それに抵抗する為にモンスターを使役するモンスターマスターが存在する世界で、それがかつて遊んでいたゲームの世界に酷似すると知ってもなお特別何かをする気もなかった鴉羽尊は祖父の遺言を皮切りに強制的に巻…


総合評価:31229/評価:9.16/連載:203話/更新日時:2026年05月22日(金) 17:53 小説情報

百式観音を背負いて。(作者:ルール)(原作:NARUTO)

▼ 憧れた姿を追い求め、▼ ただひたすら繰り返し、▼ オッサンはついにソレに辿り着く。▼ そんな狂気のオッサンが混じった忍者活劇。


総合評価:30199/評価:8.19/連載:73話/更新日時:2026年05月23日(土) 09:50 小説情報

魔法って言うならもっとこう……あるだろう!?(作者:南亭骨帯)(原作:僕のヒーローアカデミア)

▼ この世の中の超常現象の九割以上が『誰かしらの個性だろ』で片付けられてしまう今日この頃。▼ ヒーローを目指す少年、森岸詠士(もりがんえいじ)が発現した個性の名は【魔法】──現代社会に喧嘩を売るような代物だった。▼「炎を操ったり風を吹かせたりもできねぇのに魔法使いなんざ名乗ってたまるかァ!?」▼ ……尚、攻撃魔法は一つもない模様。▼ ※注意!▼ 本作は他作品…


総合評価:12545/評価:8.33/連載:60話/更新日時:2026年05月22日(金) 12:00 小説情報

超人スペックで転生させられた俺はせめて正しい敗北を選びたい(作者:正樹)(原作:ガンダム)

夢の中で『何か』と駄弁っていたら、夢で喋ってた厨設定盛り盛りで幼児転生させられていたので、世話になった人のためにも、せめてジオンにはマシな敗北をしてもらいたいと頑張る話。▼1年戦争編終わりました。▼注:主人公の設定について一点、万人には納得しがたい年齢設定がございます。この話を書くにあたっての大前提となっておりますので、読む際にはそれをご了承いただくか、ある…


総合評価:46430/評価:8.53/連載:73話/更新日時:2026年04月07日(火) 22:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>