織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
大阪城の奥の座敷は、広間の仕置よりよほど息が詰まる。
広間では、人が多い。
視線も散る。
声も熱に紛れる。
だが、こういう奥は違う。
要る者だけが残り、要る言葉だけが置かれる。
だからこそ、一つ一つが、そのまま刃になる。
つい先ほどまで、この部屋には龍造寺山城守殿、大友佐近衛少将殿、島津三郎左衛門尉殿がいた。
龍造寺家、大友家、そして島津家などの九州諸大名の地をどこまで残すか。
兵をどこまで削ぐか。
面目をどこで立て、どこで折るか。
そこまでは、公の顔で話せる。
三人が下がり、襖が閉まったあとの話は別だ。
表では決めきれぬが、決めねばならぬ。
そういう話になる。
上座に上総介兄上。
その少し下に勘十郎兄上。
俺は、その二人の前へ膝を進めていた。
上総介兄上が言う。
「で、治部。まだ何かある顔だな」
「ございます」
勘十郎兄上が、横で小さく鼻を鳴らした。
「こういう時の治部は、たいてい碌でもないものを拾って来る」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてはいない」
そこは流して、俺は最初から本題を出した。
「島津中務大輔殿の件にございます」
上総介兄上の目が、わずかに細くなる。
「何だ」
「那古野織田家の晴姫を、中務大輔殿へ入れたく存じます」
勘十郎兄上の視線が、少しだけ上がった。
上総介兄上は何も言わず、先を促す。
「理由は」
「二つございます。まず、中務大輔殿の武は惜しゅうございます。刑部家の武辺を厚くするには、あれほど噛み合う方も多くはございません。もう一つは、島津を一本ではなく、二本三本で結ぶためにございます。三郎左衛門尉殿は三郎左衛門尉殿、左衛門督殿は左衛門督殿として扱うべきですが、中務大輔殿は刑部家へ深く寄せる形が最も効きます。晴姫であれば、格も悪くなく、ただの人質婚とは見えませぬ」
勘十郎兄上が、静かに言った。
「晴姫なら筋は通る。那古野の娘をやるなら、島津も軽んじられたとは思うまい。そのうえ中務大輔を刑部家へ寄せる導線にもなる」
「左様にございます」
上総介兄上は、ほんの一拍だけ考える顔をした。
だが、長くは引っ張らなかった。
「よい。晴姫は中務大輔へやれ」
思ったよりも早く通った。
早すぎるほどだった。
「ありがたく存じます」
頭を下げかけた、その時だった。
「では、お糸を右衛門佐へやれ」
頭の中で、何かが止まった。
今、何と仰った。
たぶん、間は一瞬だった。
だが、こちらの感覚では、その一瞬だけが妙に長かった。
「……お待ち下さいませ」
ようやく出た言葉は、それだった。
怒鳴りたくはあった。
だが、怒鳴ったところで話が軽くなるだけだ。
だから声は押さえた。
押さえたが、硬くなったのは自分でも分かった。
上総介兄上は、平然としている。
「何を待つ」
「晴姫の件は、私から上げた話にございます」
「うむ」
「中務大輔殿を刑部家へ引くための筋にございます」
「うむ」
「ですが、何故そこでお糸が出て参るので」
「右衛門佐が余るだろう」
あまりにも平然と仰るので、かえって言葉に詰まった。
「……その仰いようは、さすがに雑に過ぎます」
「雑ではない。中務大輔だけを取って、右衛門佐を宙へ浮かせる方が雑だ」
勘十郎兄上が、そこで静かに割って入る。
「治部。言いたいことは分かる。だが、島津を二本取るなら右衛門佐も押さえるのが筋だ。そのうえ右衛門佐は、ただ遊ばせておくには惜しい。治部家と藤左衛門家の線へ深く結んだ方がよい」
「それは承知しております」
「なら話は早い。お糸が最も強い札だ」
「しかし、お糸は某の妹にございます」
勘十郎兄上が、わずかに眉を動かした。
「分かっている。だからだ」
「だから、でございますか」
「そうだ」
上総介兄上が、そこで少しだけ身を乗り出した。
「治部。お前、自分で今まで何度、人を婚姻で結んで来た。武田、浅井、北畠。最上に伊達に佐竹もだ。相手に最も効く札を見て、切って来たのはお前だろう。今さら自分の番だけ嫌だと言うのか」
そこは、刺さった。
刺さったが、だからといってそのまま呑み込めるかと言えば別だ。
「嫌にございます。理は分かります。筋も分かります。右衛門佐殿を深く結ぶ価値も承知しております。ですが、お糸は別にございます」
上総介兄上の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「溺愛しておるからか」
「しております。悪いことでございましょうか」
部屋の空気が、そこでぴたりと止まった。
勘十郎兄上が、露骨に嫌な顔をした。
「そこは、少しは誤魔化せ」
「誤魔化して何になります。今さら取り繕っても、兄上方には意味がございません。私は糸が可愛い。晴姫の件は頭で出しました。ですが、お糸の件は頭だけでは呑みきれませぬ」
そこまで言うと、上総介兄上は笑わなかった。
笑わず、ただこちらを見た。
「なら、なおさらだ。右衛門佐昌久は、お前が飼いならせ」
「その仰いようは、いかがなものかと存じます。人を犬猫のように」
「お前も普段、似たようなことは言うだろう」
「申しておりますが、今はそういう話ではございません」
勘十郎兄上が、そこで補った。
「要するにだ。右衛門佐は、嫁を取らせて島津へ返せばよい相手ではない。治部家と藤左衛門家の線で、婚姻の先まで含めて繋ぐ。そういうことだ。お糸をやるなら、その先も含めてお前が見ろ。兄上の言う『飼いならせ』は、その意味だ」
「面倒を見ること自体は、申すまでもなく致します。しかし、それと今この場で平然と呑めるかどうかは別にございます」
勘十郎兄上は、そこでほんの一拍だけ間を置いた。
その一拍で、最後の線を切ったのだと分かった。
「決定だ」
短かった。
だが、それで十分だった。
俺は、その一言で、本当に言葉がなくなった。
上総介兄上は平然としている。
勘十郎兄上は、もう次のことを考えている顔だ。
二人とも、分かった上で切った。
中務大輔殿は刑部家へ。
右衛門佐殿は治部家と藤左衛門家へ。
二本取る。
理としては、美しいほどに正しい。
正しいから、余計に腹が立つ。
「……あまりに酷うございます」
ようやく絞り出したのは、それだった。
上総介兄上が鼻で笑う。
「今さらだろう。お前が普段、人にやっておることを、今日はお前へ返しただけだ」
勘十郎兄上が、最後に少しだけ声を落とした。
「治部。お前が嫌がるのは分かる。だが、嫌でも通すべき婚姻はある。今日はそれだ」
そこまで言われると、もう返しようがなかった。
理で負けた。
筋で押し切られた。
しかも押して来たのが、よりによって上総介兄上と勘十郎兄上だ。
俺は深く息を吐いて、それから頭を下げた。
「……承知仕りました」
「よし。晴姫は中務大輔。お糸は右衛門佐。細目は勘十郎が仕切る。治部、お前はそのあと右衛門佐をちゃんと使え」
「承知しております」
その返事は、たぶんひどく硬かった。
だが、それ以上はどうしようもなかった。
書院を下がる間際、勘十郎兄上が言った。
「今日は、ほどほどにしておけよ」
俺は振り返らなかった。
「……難しいかと存じます」
それだけ返して、廊へ出た。
夜の大阪城は、妙に静かだった。
だが、腹の中だけは、ひどく騒がしい。
晴姫の輿入れは正しい。
お糸の輿入れも正しい。
正しいから、最悪だ。
俺はそのまま、自分の部屋ではなく、酒のある方へ足を向けた。
どうせ今夜は、素面で眠れるはずがなかった。
♢
夜の廊は、酒の匂いを隠してくれない。
一歩ごとに、自分がどれだけ飲んだかが分かる。
足はちゃんと動いている。
壁にもぶつからない。
だが、腹の中だけが、どうしようもなく駄目だった。
真理姫の部屋の前で、一度足が止まる。
この時間に来るのは、少し迷った。
迷ったが、他へ行く気にもなれなかった。
お市のところへ行けば、たぶん俺はもっと駄目になる。
真理姫なら、違う。
そう思った。
「……真理」
呼ぶと、少し間があってから、障子の向こうで衣擦れがした。
「治部殿でしょうか。お入り下さいませ」
障子を開けると、真理姫は灯りを落とした部屋で座っていた。
もう寝支度に入っていたのだろう。
だが、こちらを見る目はしっかりしている。
酔っている俺を見ても、まず困った顔はしない。
そこが真理姫らしかった。
「……随分とお飲みになりましたね」
「分かる?」
「分かります。歩けているのに、目元だけがひどうございます」
「厳しいな」
「武田の姫ですので」
少しだけ笑われた。
責めるでもなく、甘やかすでもない。
その笑い方が、今夜はありがたかった。
真理姫が、自分の前へ座布団を少し寄せる。
「こちらへ」
「いいの?」
「そこまで来ておいて、今さらでございます」
その返しに、少しだけ息が漏れた。
貼り詰めていたものが、一枚だけほどける。
「真理」
「はい」
「今夜、かなり駄目かもしれない」
「そのようでございますね」
「ばっさり行くな」
「曖昧にしても仕方がございません」
そこで、また少し笑ってしまう。
笑えているうちは、まだ大丈夫だと思えた。
しばらく黙っていたあと、真理姫が静かに口を開いた。
「治部殿」
「うん」
「今夜は、私から申し上げたいことがございます」
「真理から?」
「はい」
「……聞く」
「ありがとうございます」
真理姫は、一度だけ膝の上で指を重ねた。
それから、まっすぐこちらを見る。
「私は、こちらへ来た時、とても怖かったのです」
「……」
「武田の姫として木曾へ行き、そして戻され、今度は織田へ来る」
「……」
「頭では、家と家の間で動くものだと分かっておりました。ですが、分かっていても、怖いものは怖かった」
俺は何も挟まなかった。
真理姫が自分から話し始めた時は、途中で手を入れない方がいい。
それは、もう分かっている。
「ここでもまた、私は外交の札として使われるのだろうと思っておりました」
「……」
「武田の姫として扱われることはあっても、真理として見られることはないのではないかと」
「……」
胸の奥が少し痛む。
だが、それは当然の痛みだった。
「でも、違いました」
真理姫はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「治部殿は、私が田代へ着いた時、甲斐の味で迎えて下さいました」
「……」
「しのが泣きそうになっておりました」
「そうだったな」
「私も、少し」
真理姫は小さく笑う。
「泣きそうでございました」
あの時のことは、今でも覚えている。
甲斐から来た姫が、いきなり見知らぬ味ばかりではきつい。
少なくとも、そのくらいのつもりだった。
「大したことじゃない」
そう言うと、真理姫は静かに首を振った。
「大したことでございました。木曾では、甲斐を懐かしむことすら、どこか許されぬような気がしておりました。でも、田代城では違った。甲斐を捨てなくてよいのだと、そう言って頂けた気がしたのです」
そこまで言われると、少し困る。
立派なつもりでやったわけじゃない。
だが、受け取った側にとっては、それだけの意味があったのだろう。
真理姫は続ける。
「それだけではございません。治部殿は、私を急がせませんでした」
「……」
「妻としてここへ入ったのに、すぐに妻として扱おうとはなさらなかった。年が足りないからと、きちんと線を引いて下さった」
「うん」
「木曾では、それは当たり前ではありませんでした。ですから、待って頂けたこと、それだけでなく、待つ間に、私がここにいてよいのだと思わせて下さったこと」
「……」
「それが、ずっと支えになっておりました」
部屋の灯りが小さく揺れる。
真理姫の声は静かだった。
だが、その静けさの下に、長く抱えていたものの重みがあった。
「お市様が受けて下さって、しのがいて、皆がいて、それでも一番は」
真理姫はそこで少しだけ息を整えた。
「治部殿が、私を外交の道具ではなく、人として扱おうとして下さったことでございます」
「……」
「それが、嬉しかった」
「……」
「ありがたかった」
「……」
「そして、やがて」
真理姫は視線を逸らさなかった。
「愛することができるようになりました」
言葉が、少し遅れて胸へ落ちた。
「真理」
「はい」
「今の、かなり重いこと言ったよ」
「承知しております」
「……」
「でも、きちんと申し上げたかったのです」
俺は、少しだけ息を吐いた。
うまく言葉が出て来ない。
嬉しい。
それは間違いない。
だが、今の俺には、その嬉しさの中へ、別の痛みも混じっている。
真理姫は、そこも見抜いたらしい。
「今夜の治部殿は、糸姫様のことで沈んでおられるのでしょう」
「……うん」
「理は分かる。筋も分かる。けれど、割り切れない」
「そう」
「それでも、私は申し上げたかったのです」
「何を」
「政略結婚でこちらへ来た私が、今こうして治部殿を愛していることは、治部殿が私を人として迎えて下さったからだ、と」
喉の奥が詰まる。
真理姫は、そこで言葉を止めなかった。
「ですから」
「……」
「糸姫様も、きっと全部を失うわけではございません」
「……」
「大事にされて育ち、気にかけられ、送り出されること。それ自体は、女子にとって決して小さなことではない」
「……」
「そして治部殿が今、こうして痛んでおられることも、きっと無意味ではございません」
「因果応報かなって思った」
ぽつりとそう言うと、真理姫は少しだけ目を細めた。
「少しは、そうなのかもしれませぬ」
「やっぱり?」
「ですが、それだけではございません」
「……」
「治部殿は、人をただ外交のために遣い捨てにして来たのではないでしょう。筋を通し、なるべく人として収まる場所を作ろうとして来た。だからこそ、今、こうして痛む」
「……」
「その痛みまで含めて、私は治部殿をお慕いしております」
そこまで言われると、もう駄目だった。
泣くほどではない。
だが、さっきまで胸の中に立っていた角が、少しずつ丸くなる。
「真理」
「はい」
「ありがとう」
「何に対してですか」
「甲斐の味のことを、そんなふうに受け取ってくれてたこと。待ったことを、ただ待たされたとは思わなかったこと。あと」
「……」
「俺を愛せるようになったって、今、ちゃんと言ってくれたこと」
真理姫は、少しだけ頬を染めた。
でも、逃げなかった。
「感謝しております」
「……」
「本当に」
「……」
「政略で参ったことは、変わりません」
「うん」
「でも、今の私は、それだけではございません」
「……」
「治部殿の妻であることが、嬉しいのです」
そこで、たぶん初めて、今夜ちゃんと息が吸えた。
真理姫が、そっと手を伸ばして、俺の袖に触れる。
昔なら、もっと躊躇っただろう。
今は違う。
その違いが、やけに嬉しい。
「治部殿」
「うん」
「こちらへ」
促されるまま、少し身を寄せる。
真理姫は驚かず、そのまま受けた。
肩へ額が触れる。
あやすでもなく、子ども扱いするでもなく、ただそこにいてくれる。
その静かな近さが、今夜は何よりありがたかった。
「少しだけ、弱くてもよろしいかと」
「……そうする」
「はい」
「真理」
「何でございましょう」
「今、かなり救われた」
「それは、よろしゅうございました」
「でも」
「はい」
「それだけじゃ、もう足りないかもしれない」
真理姫の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
それは逃げる揺れではなく、受け取った揺れだった。
「治部殿」
「うん」
「今夜は、まだお辛いのでしょう」
「辛いよ」
「……」
「でも、お前のことは、ちゃんと好きだ」
「はい」
「いや、好きというだけじゃ足りないな」
「……」
「抱きたい」
言ってから、少しだけ息を呑む。
「嫌なら、今すぐ引く」
真理姫は、しばらく黙っていた。
その沈黙は長くはない。
だが、短すぎもしない。
ちゃんと、自分の中で受け止めてから返す沈黙だった。
やがて、真理姫が小さく言う。
「嫌ではございません」
「……」
「怖くも、もうございません」
「……」
「治部殿だから」
「……」
「今夜は、私も、そうして頂きとうございます」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
俺は顔を上げる。
真理姫も、逃げずに見返して来る。
その目は、もう札として差し出された姫の目ではなかった。
自分で選んで、ここにいる女の目だった。
「真理」
「はい」
「ありがとう」
「そのお言葉は、もう十分に頂きました」
「でも言いたい」
「では」
真理姫は少しだけ笑った。
「今夜は、何度でもお聞き致します」
その笑みに、こちらも少しだけ笑う。
さっきまでの痛みが消えたわけではない。
けれど、その痛みの上に、別の温度が重なり始めていた。
灯りは低い。
夜は静かだった。
真理姫の頬へ触れる。
真理姫は目を閉じず、先に少しだけこちらへ寄って来た。
その距離の詰め方が、何より嬉しい。
障子の外では、風がひとつ、やわらかく鳴った。
今夜はもう、理屈はいらない。
感謝も、後悔も、愛しさも、そのまま抱えて、夫婦として戻ればいい。
真理姫の手が、そっとこちらの袖を掴み直す。
俺はその手を取って、静かに寝所の方へ身を寄せた。
♢
昨夜のことは、ところどころしか覚えていない。
覚えているのは、上総介兄上の
「ではお糸を右衛門佐昌久に嫁がせる」
という一言と、俺がそれへ食い下がったこと。
それを勘十郎兄上が、
「決定だ」
と切ったこと。
そこまでだ。
その先は、酒だ。
どうやって自分の部屋まで戻ったのかも曖昧で、朝になって頭を起こした時には、喉は焼けるようで、胃は空っぽなのに重かった。
それでも、婚礼当日に寝ているわけにはいかない。
瀬田城の空は、高く晴れていた。
湖から上がる風が、祝いの日にしては妙に冷たい。
いや、冷たいのはたぶん風のせいだけじゃない。俺の腹の底が、まだぐずぐずしているからだ。
晴姫が嫁ぐ。
中務大輔家久へ。
お糸が嫁ぐ。
右衛門佐昌久へ。
頭では分かる。
どちらも筋は良い。
島津を結ぶには、これ以上ないくらいに良い。
家久は刑部家へ引ける。
昌久は治部家と藤左衛門家の線へ、深く、静かに入る。
分かっている。
だが、分かっていても、嫌なものは嫌だ。
「ひでえ顔だな、治部殿」
振り向くと、慶次郎がいた。
「うるさい」
「昨夜、どれだけ飲んだ」
「知らない」
「知らないって顔じゃねえぞ。覚えてねえって顔だ」
「……」
「当たりだな」
慶次郎は肩を揺らして笑った。
こいつは本当に、こういう時だけ遠慮がない。
「まあ、今日はしゃんとしろ。あんたがそんな顔してたら、糸姫様が泣く」
「泣かないだろ、あの子は」
「泣かなくても、見て心配する」
「……」
「だから立て」
そこは、返す言葉がなかった。
婚礼のために瀬田へ入った島津勢は、予想以上に大きかった。
義久殿、義弘殿、歳久殿、家久、昌久。
そこへ父の貴久殿。
さらに祖父の忠良殿まで来た。
城門の前に並んだ時、さすがに少し目を疑った。
重い。
並びが重い。
義久殿の静かな重さ。
義弘殿の、前へ出る者の圧。
歳久殿の冷えた刃。
家久の火。
昌久の腹の深さ。
そこへ、貴久殿の家長としての厚み。
そして忠良殿。
忠良殿は、思っていたよりもずっと小さく、だが妙に目が生きていた。
老いたから枯れた、という感じがない。
むしろ、乾いた薪のまま、火の入り方だけを待っているような顔だ。
「治部大輔殿」
と、忠良殿が言った。
「は」
俺は一礼した。
「此度は、孫どもが世話になる」
「もったいなきお言葉にございます」
「いや」
忠良殿は、そこでふっと笑った。
「こちらも、面白き縁を得た」
その一言だけで分かった。
この人、まだ全然、隠居の顔で終わるつもりがない。
婚礼そのものは、きわめて筋を通して進んだ。
晴姫は、朝の光の中にいると、年より少し幼く見えた。
だが、顔を上げた時の目はしっかりしている。
自分がどこへ嫁ぐのか。
何を結ぶのか。
その重さは、ちゃんと分かっていた。
家久は、最初のうちこそ少し居心地悪そうだった。
ああいう男は、戦場では躊躇わないくせに、こういう晴れの場では妙に落ち着かなくなる。
だが、晴姫が真正面から頭を下げた時、家久の顔もすっと締まった。
「中務大輔殿」
と晴姫が言う。
「不束か者にございますが」
家久は、ほんの一拍遅れて答えた。
「こっちも不束じゃ。じゃっど」
そこで少しだけ笑う。
「そいでちょうどよか」
晴姫の口元も、わずかに動いた。
ああ、これは大丈夫だ、と思った。
少なくとも、最初の一歩は。
問題は、やはりお糸の方だった。
お糸は、昔から俺に懐いていた。
いや、懐いていたどころじゃない。
勝手に膝へ乗って来るし、勝手に袖を引くし、こっちが疲れていると妙に静かに寄って来る。
俺が甘やかした。
それは否定しない。
否定できない。
そのお糸が、今日は髪を結い上げ、きちんと化粧をされ、じっと前を向いていた。
「糸」
と、思わず小さく呼んでしまった。
すると、あいつは一瞬だけこっちを見て、それから困ったように笑った。
子どもの頃と同じ顔で。
その顔をされたら、駄目だろうが。
「治部」
と、横から勘十郎兄上が低く言った。
「何でしょう」
「顔に出すな」
「……出てます?」
「かなり」
「ひでえな」
「お前がな」
そこで切られて、ようやく俺は息を吐いた。
右衛門佐昌久は、そんなこちらを見ていた。
見ていたが、変に気を遣うでもなく、かといって何も感じていない顔でもない。
あの男は、こういう時が嫌らしい。
ちゃんと分かっていて、黙る。
やがて、お糸が前へ出た。
右衛門佐昌久も出る。
盃が並ぶ。
祝言の言葉が置かれる。
そして、糸姫が頭を下げた。
「未熟者にございますが、どうかよろしくお願い致します」
昌久も頭を下げる。
「右衛門佐昌久、お受け仕る」
「……」
「必ず、粗略には致しませぬ」
その一言は、短かった。
だが、余計な飾りがない分だけ重かった。
俺は、その時ようやく、こいつで良かったのかもしれないと思った。
家格。
政略。
筋。
そういうものだけなら、他にも選びようはあった。
だが、お糸を預ける相手として、少なくとも昌久は、分かっている。
人の重みも、家の重みも、そして今、俺がどんな顔をしているかも。多分、特異点として、俺が大事にして欲しい部分も。
全部分かった上で、
「粗略には致しませぬ」
とだけ言った。
それが、かえって効いた。
婚礼が一段落したあと、宴の空気は少し緩んだ。
義弘殿は酒が入ると、やはり前へ出る。
家久は晴姫の方をちらちら見ては、慶次郎に肘で小突かれていた。
歳久殿は静かだが、目だけはよく動いている。
義久殿は相変わらず重い。
重いが、今日はどこか納まっていた。
問題は、そのさらに奥だ。
道三が来た。
元就がいた。
そこへ忠良殿が座った。
嫌な予感しかしない。
三人とも、歳は食っている。
だが、枯れていない。
しかも全員、家を一度以上、本気で立て直した側の男だ。
柔らかく笑っていても、中身が全然柔らかくない。
道三が、茶を啜るみたいな顔で酒を見た。
「薩摩の御隠居と、安芸の御隠居と、美濃の御隠居か。何やら、名ばかりは立派じゃの」
元就が、すぐに返した。
「立派なのは名ばかりでなく、厄介さもでござろう」
忠良殿が、そこで小さく笑った。
「それは、三人とも同じよ」
やめろ。
そこで意気投合するな。
俺が嫌な顔をしたのが分かったのか、元就がこっちを見た。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「案ずるな」
「何をです」
「まだ国は盗らぬ」
「まだ、って言ったな今」
道三が肩を揺らす。
忠良殿まで笑っている。
「瀬田にて杯を交わしたのも縁よ」
と忠良殿。
「互い、そう易々とは死にきれぬ身じゃ。ならば、見届けようではないか。この若い連中が、どこまで世を組み替えるかを」
元就が、盃を持ち上げた。
「よかろう。薩摩、美濃、安芸、流れ着く先は違えど、面白きものを見る目は同じか」
道三も盃を上げる。
「では、せっかくじゃ。長生き比べといこうかの」
忠良殿も、静かに盃を持った。
その三つが、同じ高さで止まった時、背筋が少し寒くなった。
桃園の誓いならぬ、瀬田の杯だ。
しかも若武者ではない。
若武者よりよほど始末の悪い、老獪三人の。
「……やばい三人が揃ったな」
と、思わず漏れた。
勘十郎兄上が、すぐ横で頷く。
「うむ」
「しかも全員、暇だけは持て余している」
「最悪だな」
「今さら気づいたか」
上総介兄上は、そこから少し離れた位置で、その様子を見て笑っていた。
「よいではないか」
「治部」
「何が」
「長老が増えた」
「いらねえですよ、こんな濃いの」
「だが、お前向きだろう」
「どこがですか」
「厄介ごとを家へ変えるところが」
その一言に、返す言葉がなくなった。
忠良殿は、その瞬間のうちに半分決めたような顔をしていた。
薩摩へ戻る隠居の顔ではない。
瀬田へ残り、道三や元就と並んで、好き勝手言う未来がもう見えている顔だ。
最悪だ。
だが、悪くない。
晴姫は家久の隣で、もう少しだけ落ち着いた顔をしていた。
お糸は、昌久の横で静かに座っている。
昌久も、妙な緊張は解けていた。
義久殿は重く、義弘殿は豪く、歳久殿は鋭く、それぞれのままだ。
婚礼は、人を変えない。
だが、人と人の間に、切れない筋を一本通す。
その一本が、今夜、瀬田城には二本通った。
そしてその奥で、いらぬ長老三人まで妙な杯を交わした。
俺は盃を取り上げて、一息に呷った。
「治部」
と勘十郎兄上が言う。
「今さらまた飲むのか」
「飲みますよ。今日は理由が多すぎる」
「なるほど」
兄上は、少しだけ笑う。
「では潰れるな」
「無理かも」
「だろうな」
その返しに、俺も苦く笑った。
瀬田の夜は長い。
だがたぶん、この夜を境に、島津はもう遠い南の大名家だけではなくなる。
家久は刑部家へ。
昌久は治部家と藤左衛門家の線へ。
忠良殿は、あの三人の輪へ。
本当に、面倒は増える一方だ。
けれど、それでも、こうして筋を通して人を結ぶしかないのだと、酔い始めた頭のどこかではちゃんと分かっていた。
♢
祝いの座は、めでたいくせに、俺には少しだけ堪えた。
お糸が嫁いだ。
分かっていた。
決まった時から、何度も頭の中でそう言い聞かせていた。
だが、いざこうして盃が並び、笑い声が立ち、皆が「よう収まった」と晴れやかな顔をすると、胸の奥だけが妙に静かにならない。
お糸は、もう右衛門佐殿の側にいる。
装いも、座る位置も、さっきまでとは違う。
俺の目には、ついこの前まで袖を引いて来た小娘のままなのに、周りはきちんと「嫁いだ姫」として見ている。
その、こちらの腹の具合など知ったことではない、というような頃合いである。
右衛門佐殿が、盃を置いて、こちらへ向かってきっちり頭を下げた。
「義兄上」
その一言で、周りが少しだけ静まった。
いや、静まったというより、面白いものを見つけた顔になった。
まず反応したのは龍造寺山城守だった。
にやりと、実に嫌な笑い方をする。
「お前もようやく気持ちが分かったか!」
やめろ。
そこを刺すな。
分かっている。
分かっているから余計に痛い。
俺は山城守の方を見た。
「山城守、飲むぞ。逃がさんからな!」
「おう、来い来い。今日は負けんぞ」
「負ける負けんの話ではございません。付き合えと申しているのです」
「怖い怖い。花婿より、花婿の義兄の方がよほど怖いわ」
周りがどっと笑う。
笑うが、笑いながらも皆、こっちを見ている。
俺がどこで本気になるか、たぶん見物しているのだ。
右衛門佐殿は、そこへ妙に落ち着いた顔で座り直した。
こいつ、こういう時に変に狼狽えないから困る。
俺はその前へ盃を置いた。
「右衛門佐殿」
「はい、義兄上」
「その呼び方は、いちいち俺の心へ来るので、ほどほどにして頂きたい」
「では、義兄上殿に致しましょうか」
「悪化しとるだろうが」
また笑いが起きる。
右衛門佐殿は、ようやく少しだけ口元を緩めた。
そこで俺は、笑いに乗せたまま、しかし目だけは外さずに言った。
「お前、糸を大事にしろよ。泣かせたら、ふんどし一丁で関門海峡を泳がせるからな!」
「いや、女子を泣かせる趣味はありませんから、義兄上」
「趣味の話ではないん。結果の話をしているのだ」
「では結果としても、そのようなことには致しませぬ」
即答だった。
それが少し癪で、少しありがたい。
横から山城守が、面白がるように口を挟む。
「だいたいお主、子は作れるのか!?」
座が、今度は別の意味でざわついた。
おい。
そこを聞くか。
いや、聞きたくなる気持ちが分からんでもないが、祝いの席で開口一番に言うことではない。
だが、右衛門佐殿は眉一つ動かさなかった。
「下半身不随ですが、そちらは大丈夫です」
あまりにも平然としているので、今度は笑う間も一拍遅れた。
それから、誰かが吹き出し、山城守が膝を叩き、座が一気に崩れた。
「おい右衛門佐、お前そういうのを真顔で返すな!」
「問われましたので」
「そこは少し照れるとか、怒るとか、あるだろうが」
「事実を述べただけにございます」
「可愛げがない!」
「義兄上、今のは山城守への苦情であって、私への苦情ではないように聞こえますが」
「半分はそっちだよ」
「半分もございますか」
また笑いが立つ。
お糸も、さすがに顔を伏せて肩を震わせていた。
恥ずかしいのか、可笑しいのか、その両方だろう。
俺は、盃をあおってから、もう一度右衛門佐殿を見る。
「じゃあ早く甥っ子か姪っ子を見せやがれ!」
「順番が少々荒っぽうございますね」
「うるさい。そこは急げ」
「義兄上」
「何だ」
「それは、糸姫様へ申されるべきではなく、まず私へ酒を注いでから仰る台詞かと存じます」
「注文が多いな、お前は」
「本日は花婿にございますので」
「……糸」
呼ぶと、お糸がようやく顔を上げた。
頬が赤い。
酒のせいだけではないだろう。
「はい、兄上」
その返事に、胸の奥が少し痛む。
もう本当に、嫁いだのだ。
だが、ここで曇るのは違う。
違うのは分かっている。
だから、なるべく口元だけは崩さずに言った。
「右衛門佐殿は、口は少し足りないが、腹は据わっておる。たぶん大丈夫だ。だが、何かあったら金玉蹴り上げて戻って来い。いや、戻る前にまず言え。俺が飛ぶ」
お糸は、一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「はい。でも、たぶん大丈夫です」
「何で分かる」
「兄上が、あれだけ見たうえで託したので」
そこをそんなふうに返されると、少し困る。
こっちはまだ、託したというより、半ば奪われた気分が抜けていない。
右衛門佐殿が、そこで静かに頭を下げた。
「義兄上」
「今度は何だ」
「お預かり致します、では足りませぬな」
「足りん」
「では、守ります」
座の空気が、少しだけ締まる。
さっきまで笑っていた山城守まで、そこで口を挟まなかった。
「糸姫様が、この先も、ここへ来てよかったと思えるように致します」
飾り気のない言い方だった。
気の利いたことを言おうとしていない。
だからこそ、真っ直ぐ来る。
俺は、しばらく黙って、それから盃を取り上げた。
「……よし」
「はい」
「その言葉、ゆめ忘れるな」
「忘れませぬ」
「忘れたら」
「ふんどし一丁で関門海峡、でございましょう」
「分かってるならよろしい」
そこでようやく、こちらも少しだけ笑えた。
山城守がまた肩を揺らす。
「いやあ、めでたい席だ。こんなに物騒な祝言の言葉も珍しか」
「山城守」
「何だ」
「まだ飲み足りません」
「おう、来い。今日はとことん付き合う」
「逃げたら追います」
「だから怖か言うとる!」
笑いが、今度はさっきより自然に広がった。
お糸も、右衛門佐殿の横で、もうだいぶ落ち着いた顔をしている。
その顔を見て、ようやく少しだけ思う。
ああ、たぶん大丈夫だ、と。
寂しい。
それは寂しい。
だが、ただ奪われたわけではない。
ちゃんと、渡す相手を見て、渡したのだ。
俺は盃を持ち上げた。
「では、改めて」
皆がこちらを見る。
「糸姫と右衛門佐殿に。末永く、仲良くやれ。あと早めに甥か姪を見せろ。以上です」
「最後が余計だ!」
と山城守が笑い、
「余計ではない」
と俺が返し、
「善処致します」
と右衛門佐殿が真顔で言った。
その返しに、座はまた大きく崩れた。
めでたい夜だった。
少しだけ寂しく、かなり騒がしく、だが間違いなく、めでたい夜だった。
♢
宴席は、まだ続いていた。
さっきまでは、糸姫と右衛門佐殿を祝う座だった。
それは今も変わらない。
だが、酒が二巡三巡と進むうちに、膳の一角だけ、妙な熱を帯び始めていた。
送り出した側の男どもの席である。
上総介兄上と勘十郎兄上。
山城守。
備前守。
そして俺。
皆、立場も家も違う。
だが今夜ばかりは、妙に話が合う。
最初に口を開いたのは山城守だった。
「治部大輔、貴様の顔は実によく分かるぞ。めでたいくせに、腹の中だけ落ち着かぬ顔だ」
「山城守殿にだけは言われたくございません」
「何故だ」
「ほむら姫を送り出した時、山城守殿もたぶん同じ顔をしておられたからです」
山城守は一瞬だけ黙った。
それから、にやりと笑う。
「したとも! したに決まっておる! 家のためになる、相手も悪くない、妹も前を向いている。そこまで揃ってなお、何とも言えん気分になるのだ。あれは理屈では片付かん」
「今となっては分かります」
「分かるだろうが!」
上総介兄上が、そこで盃を揺らしながら笑った。
「山城守だけではない。わしも、お市をやった時は似たようなものだった」
勘十郎兄上がすぐに切る。
「似たようなもの、では済みません。兄上はもっと面倒でした」
「勘十郎」
「事実です。祝いの膳へ向かっておきながら、顔だけは半分戦の前でした」
座がどっと笑う。
上総介兄上は笑いながらも、少しだけ不満そうに盃を取った。
「お前たち、昔のことになると遠慮がないな」
「今夜の治部を見ていると、どうしても思い出しますので」
「勘十郎兄上まで、こちらを見本にされるのは不本意です」
「不本意でも何でも、分かりやすいぞ」
そこで、備前守が静かに盃を置いた。
「いや、治部殿の顔は、本当に分かる」
皆の目がそちらへ向く。
備前守は少しだけ笑った。
「鶴を送り出した夜、私もよく似た顔をしていたと思う。めでたいのは間違いない。相手も見て託した。家としても悪くない。だが、いざ座る場所が変わると、急に実感が来る」
「座る場所」
と山城守が頷く。
「それだ。まことそれだ」
「ええ」
と備前守。
「顔は見える。声も聞こえる。何も失ったわけではない。だが、もうこちらの並びではなく、あちらの並びで座っている。それだけで、妙に来るものがある」
「……それにございます」
と、思わず口から出た。
「頭では承知しておりました。承知しておりましたが、いざお糸が右衛門佐殿の隣へ座ると、胸のあたりだけ妙に騒がしくなりました」
勘十郎兄上が鼻で笑う。
「お前、さっき『少し来る』などと控えめに言っていたが、今の方がよほど本音だな」
「控えめにしようとは思っております」
「無理だな」
と上総介兄上。
「今夜は、どう繕っても無駄だ」
「兄上まで」
「わしと勘十郎は同じ側だぞ。お市もお犬も出した。別腹の妹たちも、結局はみな織田の姫だ。送り出すたび、多少なりとも腹は荒れる」
勘十郎兄上が、そこへ短く頷く。
「兄上ほど顔には出さぬつもりだが、なくはない」
「なくはない、では済まぬでしょう」
とこちらが言うと、
「治部、お前にだけは言われたくない」
と返って来た。
「今夜のこちらは、ほぼ被害者にございます」
「どの口が言う」
と上総介兄上が笑う。
「人の婚姻を散々まとめて来た男が、自分の番だけ被害者面するな」
「それは」
一度、盃をあおる。
「それは、まあ、否定しづらいですが」
山城守が大きく笑う。
「そこだ! 結局、これまで人へ言って来たことが、そっくり返って来るのだ!」
「因果応報というやつでしょうか」
「そうだ!」
「少し違いますな」
と備前守が静かに言った。
山城守がそちらを見る。
「何がだ」
「ただ返って来た、だけではないでしょう。我らは、ただ家のために姫を動かしたのではない。相手を見て、任せられるかどうかを見て、それで決めた。だからこそ、寂しくても、最後は止めきれない」
その言い方に、少しだけ座が静かになる。
上総介兄上が、盃の縁を指でなぞりながら言う。
「備前守の言う通りだな。どうでもよい相手なら、怒るだけで済む。だが、相手が良ければ、今度は怒る先がなくなる。だから余計に厄介だ」
「それです」
と俺は言った。
「こちらも、右衛門佐殿が悪い相手だと思っているなら、もっと単純で済んだのです」
そこで、右衛門佐殿が静かに頭を下げた。
「義兄上、それは褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか」
「半分はそうだ。半分は、こちらが厄介だという愚痴だ」
「では、ありがたく半分だけ頂きます」
「都合の良いところだけ拾うな」
「花婿の特権にございます」
お糸がそこで、とうとう笑いを堪えきれなくなった。
顔を伏せて肩を震わせている。
右衛門佐殿はその横で平然としている。
この落ち着きがありがたくもあり、少し腹立たしくもある。
山城守が、そんな右衛門佐殿を見て鼻を鳴らした。
「だが右衛門佐、お主もそのうち分かるぞ。今は迎える側だから平気な顔をしておるが、いずれ自分のところから出す時になれば、今のわしらの顔になる」
「その頃には」
と右衛門佐殿。
「今夜の言葉を思い出しながら飲めばよろしいのでしょうか」
「そうだ! 飲め!」
「山城守殿は、結局そこへ戻りますね」
と備前守が少し笑う。
「戻るとも。黙って抱えるより、飲んでぶちまけた方がまだ健全だ」
「健全かどうかは議論の余地があります」
と勘十郎兄上。
「あるか?」
「大いにあります」
そこで上総介兄上が、気分よさそうに盃を持ち上げた。
「だが、今夜に限っては、それでよい。祝いの席で、送り出した側の男どもが少々騒ぐくらい、罰は当たらぬ」
「少々、で済むかは怪しいですが」
「治部、お前も十分その中の一人だ」
「不本意です」
「もう何度目だ、その台詞は」
と勘十郎兄上。
「だって不本意ですので」
「だが誇らしくもあるのでしょう」
と備前守が言った。
そこは、すぐには返せなかった。
少し間を置いてから、盃を見たまま答える。
「……ございます」
山城守が、よしと頷く。
「それでよい。寂しいだけなら、送り出した甲斐がない。腹は痛む。だが、きちんと送り出せたなら、どこかで誇らしくもある。そこまで揃って、ようやく酒がうまい」
「山城守殿」
と俺は言う。
「今夜は、やけに良いことを申されますね」
「飲んでおるからな!」
「そこへ戻るのか」
と勘十郎兄上が呆れる。
右衛門佐殿が、そこで改めて盃を取り、こちらへ向けた。
「義兄上、上総介兄上、勘十郎兄上、山城守殿、備前守殿」
「何だ」
と上総介兄上。
「今宵こうしてお聞きしておりますと、姫を送り出す側が、ただ厳しく相手を見るだけでなく、最後にはきちんと祝いもするのだと分かります」
「祝いもする」
と山城守が笑う。
「しなければおさまらんからな」
「そして釘も刺す」
と勘十郎兄上。
「それも大事です」
と俺が言う。
「右衛門佐殿、お前にはもう刺したが、何度でも申すぞ。糸を大事にしろ」
「承知しております」
「泣かせるな」
「そのつもりはございません」
「子が出来たら、早めに顔を見せろ」
「そこは急ぎ過ぎでは」
「急ぎません」
お糸が、そこでようやく顔を上げた。
「兄上」
「何だ」
「皆さま、私がいなくなるようなお話ばかりですが、ちゃんと顔は見せに参ります」
「そういう問題ではないのだ」
「では、どういう問題ですか」
「座る場所が変わった」
糸姫は一瞬きょとんとして、それから、たまらないという顔で笑った。
「兄上、それは少し子供っぽうございます」
「うるさい」
「でも」
とお糸は右衛門佐殿を見てから、またこちらを見た。
「そのくらい惜しまれて嫁げるなら、私は幸せです」
そこで、皆すぐには口を挟まなかった。
上総介兄上が、ゆっくりと盃を持ち上げる。
「めでたいな」
「めでたいです」
と勘十郎兄上。
「めでたか」
と山城守。
「ええ」
と備前守。
「……めでとうございます」
と、こちらも言う。
寂しい。
それは寂しい。
だが、間違ってはいない。
そして、同じような夜を越えた男が、こうして目の前に何人もいる。
それだけで、少し救われる。
俺は盃を上げた。
「では、送り出した側の男どもに」
「括りが雑だ」
と勘十郎兄上。
「事実にございます」
「それならよい」
と上総介兄上が笑う。
「少し面倒になった兄どもに!」
と山城守が続ける。
「少しではない者もおりますが」
と備前守。
「かなりでもよろしい」
とこちらが返すと、座がまた笑いに崩れた。
盃が鳴る。
祝いの席は、まだ終わらない。
騒がしく、少し面倒で、それでも確かに、めでたい夜のままだった。